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1章
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女子寮から風紀委員寮に戻っていく麓は空を見上げた。
夏休みが始まったばかりの時はこの時間帯はまだまだ明るかったが、今ではもう太陽がずっと向こう側に沈んでいくのが見えた。
これから少しずつ日没が早くなっていくのだろうと実感する。
半袖のカッターシャツで外を歩くとまだ汗ばむが、真夏ほどではない。
ほんの少しずつ秋に近づいている。だが学園を囲む桜の木の葉はまだ紅くなる気配がない。
────しかし、突然別の気配を感じた。
森の方に目をやると、見覚えのある男が立っていた。
長い黒髪に白く透き通ってしまいそうな肌、黒を基調とした和服、その手に持っているのは見覚えのある折りたたみ傘。
彼は夏休み前の梅雨に会い、雨に濡れている所を麓が傘を貸した相手だ。
名前を教えてもらおうとしたのだが、とある事情によって名乗れないと断られた。
麓が会釈すると男は小さくほほえんで手招きをした。あの時と同じくこちらに来い、ということらしい。
露出した肌が少しずつ冷たくなっていき、手足の先がかじかむ。さっきまでわずかに汗ばんでいた体は、すっかり暑さを忘れて冷えていく。急激に体温が奪われていくような、氷水をぶっかけられた気分だ。
(寒い…なんで…)
麓は指先に息をかけて少しでも温かくしようとした。効果はなかったが歩を進め、男の元へ。
彼はなんともないのか、これと言って寒そうか仕草を見せなかった。この気温で和服なんてキッチリ着て、普通だったら暑いはずなのに彼の白い肌には汗など浮かんでいない。
「久しぶりだな、麓殿」
「お久しぶり、です」
寒さのためか口がうまく回らず、笑顔もぎこちなくなってしまった。しかし男はそんなことを気にせず、麓に傘を差し出した。
「あの時はありがとう」
「いえ、とんでもないです」
「フッ。傘よりも、これを貸してくれたそなたの心がありがたかった。きっと傘など無くとも、麓殿の気持ちだけで私は温まることができる」
男は薄い唇に笑みを浮かべた。なかなかすごいことを言われた気がして、麓の心はキュッとつかまれる。
しかしそれに構っていられない。少しでも早く寮へ帰って寮長の夕飯を食べて温まりたかった。
「私はこれで…失礼しますね」
またうまく笑えなかったが、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。
しかしそれは、男の手によって阻まれた。
「もう…行ってしまうのか?」
「え…」
男は麓の腕をつかんで引き止めた。
あの時と同じく、彼にふれられている部分からさらに冷たくなっていく。
しかしそれ以上に男の表情が気になる。どこか寂しそうで切なさそうで。こちらの心まで苦しくなってきそうだ。
手を振り払うこともできず、麓は控えめに上目遣いで男の瞳を見つめ返した。
やがて彼はフッと笑ってゆっくりと手を離した。
「…すまない。女々しかったな、今の私は。忘れてくれ。さぁ、戻られよ。引き止めて面目ない。今日会ったことはこの前と同じく内密で…な?」
「はい」
男は人差し指を唇に当てて片目をとじた。麓はその理由を知りたかったがうなずいた。帰りたい気持ちは探究心を無くさせる。
彼の名前は知らない。教えてくれることもない。
いつも通り学園へ登校した麓は、昇降口の靴箱を開けて首をかしげた。
1人1ヶ所の4段になっている、何の変哲もない靴箱。だが中身が無いとなると話が変わる。
(おかしいな…? 昨日はあったのに)
上段にある上靴だけが消えていた。グランドシューズと体育館シューズはそのままだ。
なのになぜ────。
「おはよー、麓」
「あ…おはよう」
嵐だ。ガコン、と靴箱を開けながら麓の浮かない顔に怪訝な表情をした。
「どうしたの?」
「うん…。上靴が無くなっていて。昨日ちゃんと入れたんだけど…」
「上靴が?」
嵐は麓の靴箱を覗き込み、顔をしかめた。
「…一緒に探すよ」
「ありがとう」
麓が礼を言ってからの嵐の行動は素早かった。使われていない靴箱の中、掃除用具入れ、はたまたプランターの後ろ側。麓が"そこも?"と考える所まで探した。2人の行動を不思議に思ったクラスメイトも協力してくれたが、虚しくも見つかることはなく。
数人で教室へ向かうと、扇はすでに教卓の前にスタンバイしていた。
事情を説明したら彼は嵐と同じ表情で片眉を上げ、職員室に常備してあるスリッパを借りた。ホームルームの後で嵐を呼び出してじっくり話込んでいた。
自分の足のサイズにしっくりこないスリッパ。
どこか同情的な視線を向けるクラスメイト。
心の中で生まれたもやっとしたわだかまり。
それらを全て合わせ、賢い麓はすぐに悟った。気付いてしまった。
自分の上靴は何者かによって隠されたのだと。
夏休みが始まったばかりの時はこの時間帯はまだまだ明るかったが、今ではもう太陽がずっと向こう側に沈んでいくのが見えた。
これから少しずつ日没が早くなっていくのだろうと実感する。
半袖のカッターシャツで外を歩くとまだ汗ばむが、真夏ほどではない。
ほんの少しずつ秋に近づいている。だが学園を囲む桜の木の葉はまだ紅くなる気配がない。
────しかし、突然別の気配を感じた。
森の方に目をやると、見覚えのある男が立っていた。
長い黒髪に白く透き通ってしまいそうな肌、黒を基調とした和服、その手に持っているのは見覚えのある折りたたみ傘。
彼は夏休み前の梅雨に会い、雨に濡れている所を麓が傘を貸した相手だ。
名前を教えてもらおうとしたのだが、とある事情によって名乗れないと断られた。
麓が会釈すると男は小さくほほえんで手招きをした。あの時と同じくこちらに来い、ということらしい。
露出した肌が少しずつ冷たくなっていき、手足の先がかじかむ。さっきまでわずかに汗ばんでいた体は、すっかり暑さを忘れて冷えていく。急激に体温が奪われていくような、氷水をぶっかけられた気分だ。
(寒い…なんで…)
麓は指先に息をかけて少しでも温かくしようとした。効果はなかったが歩を進め、男の元へ。
彼はなんともないのか、これと言って寒そうか仕草を見せなかった。この気温で和服なんてキッチリ着て、普通だったら暑いはずなのに彼の白い肌には汗など浮かんでいない。
「久しぶりだな、麓殿」
「お久しぶり、です」
寒さのためか口がうまく回らず、笑顔もぎこちなくなってしまった。しかし男はそんなことを気にせず、麓に傘を差し出した。
「あの時はありがとう」
「いえ、とんでもないです」
「フッ。傘よりも、これを貸してくれたそなたの心がありがたかった。きっと傘など無くとも、麓殿の気持ちだけで私は温まることができる」
男は薄い唇に笑みを浮かべた。なかなかすごいことを言われた気がして、麓の心はキュッとつかまれる。
しかしそれに構っていられない。少しでも早く寮へ帰って寮長の夕飯を食べて温まりたかった。
「私はこれで…失礼しますね」
またうまく笑えなかったが、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。
しかしそれは、男の手によって阻まれた。
「もう…行ってしまうのか?」
「え…」
男は麓の腕をつかんで引き止めた。
あの時と同じく、彼にふれられている部分からさらに冷たくなっていく。
しかしそれ以上に男の表情が気になる。どこか寂しそうで切なさそうで。こちらの心まで苦しくなってきそうだ。
手を振り払うこともできず、麓は控えめに上目遣いで男の瞳を見つめ返した。
やがて彼はフッと笑ってゆっくりと手を離した。
「…すまない。女々しかったな、今の私は。忘れてくれ。さぁ、戻られよ。引き止めて面目ない。今日会ったことはこの前と同じく内密で…な?」
「はい」
男は人差し指を唇に当てて片目をとじた。麓はその理由を知りたかったがうなずいた。帰りたい気持ちは探究心を無くさせる。
彼の名前は知らない。教えてくれることもない。
いつも通り学園へ登校した麓は、昇降口の靴箱を開けて首をかしげた。
1人1ヶ所の4段になっている、何の変哲もない靴箱。だが中身が無いとなると話が変わる。
(おかしいな…? 昨日はあったのに)
上段にある上靴だけが消えていた。グランドシューズと体育館シューズはそのままだ。
なのになぜ────。
「おはよー、麓」
「あ…おはよう」
嵐だ。ガコン、と靴箱を開けながら麓の浮かない顔に怪訝な表情をした。
「どうしたの?」
「うん…。上靴が無くなっていて。昨日ちゃんと入れたんだけど…」
「上靴が?」
嵐は麓の靴箱を覗き込み、顔をしかめた。
「…一緒に探すよ」
「ありがとう」
麓が礼を言ってからの嵐の行動は素早かった。使われていない靴箱の中、掃除用具入れ、はたまたプランターの後ろ側。麓が"そこも?"と考える所まで探した。2人の行動を不思議に思ったクラスメイトも協力してくれたが、虚しくも見つかることはなく。
数人で教室へ向かうと、扇はすでに教卓の前にスタンバイしていた。
事情を説明したら彼は嵐と同じ表情で片眉を上げ、職員室に常備してあるスリッパを借りた。ホームルームの後で嵐を呼び出してじっくり話込んでいた。
自分の足のサイズにしっくりこないスリッパ。
どこか同情的な視線を向けるクラスメイト。
心の中で生まれたもやっとしたわだかまり。
それらを全て合わせ、賢い麓はすぐに悟った。気付いてしまった。
自分の上靴は何者かによって隠されたのだと。
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