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閑話 Gardenia sub rosa――薔薇の下の梔子
凋(しぼ)み
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みぃちゃんの、本人としては何気ないだろう一言。
其れに起因する此処十年ばかり感じた事の無い渇きに気を取られ、唯早く夜が更ける事を願って、気も漫ろとなっていたのは確かだった。
「おにいちゃん」
何時もの様に、そっと家を抜け出して数歩進んだ時に後ろから、一番聞きたく無い声で呼び止められた。
振り返れば、久しく眼鏡越しにしか見ていなかった彼女が其処に立っていた。
渇いた喉がごくりと音を立てた。
「半年ぐらい、かな、おにいちゃん」
戻るように。
そう言おうとした僕を遮って、彼女は言った。
確かに、此の前に渇きを覚えたのは、半年ばかり前の事だった。
態々、其れを口にするというのは、私がこうして夜更けに抜け出している事を前から知っていたという事を明かしていた。
記録でも取っていたのかと問えば、其処迄はしていないと、彼女は首を横に振る。
今更止める気かと問えば、そういう訳では無いと、彼女は苦笑した。
「おにいちゃんの様子が変だったから」
其れは。
其れはお前の所為だという私の感情的な言葉を、僕の理性が押さえ込んで、自嘲した。
今更、彼女に見せてきた姿を維持しようとして如何すると言うのか。
「……みぃちゃん、僕がこうして抜け出す意味、わかってるでしょう?」
梃子でも動きそうに無い彼女に、静かにそう問えば、言葉少なな肯定が返って来た。
嗚呼、ならば、如何して、態々、飢えた狼の前に現れるような愚を犯すのか。
「それなら、僕をそんなに信頼してるのかい?
それとも、高を括っているのかい?」
望みを絶たれても化物として煮え切らない私に、私自身が酷く腹立たしかった。
だから、此れは矢張り、八つ当たりだった。
そんな私に近付く彼女を止めようと、其の肩を掴んだ。
けれど、彼女は私とは反対に冷静な態度を崩さずに、まるで満足かと問うような目で私を見乍ら口を開いた。
「……おにいちゃん」
「何?」
彼女の求める物が分からない以上、彼女を去らせる術は無い。
梃子でも動かず、冷静に、彼女は何を求めていると言うのだろう。
「なんで、拗ねてるの?」
彼女の其の問い掛けは、私の虚を衝くと同時に、神経を逆撫でた。
そんな簡単な言葉で、此の積年の望みが絶たれた今を、表されて堪る物か。
「……拗ねてる? 僕が?」
「うん」
小娘に、私の気の遠くなる様な千秋万古の旅路の何が分かるというのだろう。
高々十年許り、一緒に暮らしただけでしか無いのに。
「……みぃちゃんには、そう見えるの?」
「うん」
私が赫焉とした炎の様な灼熱の感情を腹に抱えて、焼石に水を掛ける様に僕の理性が其れを留め様としているのに対し、彼女は秋の月の様な、凪いだ湖面の様な平静を失う事は無かった。
其の何時も通りの顔が、私の内の渇きを更に刺激した。
――喰らいたい。
初めて、渇きを凌駕した衝動を抱いた。
彼女の、其の四肢を捩じ切り、柔らかな腹を裂き、頭蓋を砕き、其処から零れる温かな血も臓物も脂肪も肉も骨も脳髄も、彼女の爪先から頭の天辺に至るまで、余す所なく啜り貪り、其の甘美に酔い乍ら、此の虚ろな内腑に納めたい。
そうすれば、屹度此の寒さは埋まる筈だ。
渇きは潤される筈だ。
虚は満たされる筈だ。
何故だか、そんな確信すらあった。
同時に、今度こそ取り返しが付か無く為ると思った。
今度こそ、人間らしく死ね無く為るだろうと。
或いは、此の地上が放浪の煉獄から、更なる重荷を負った地獄へと変貌するだろうと。
事は簡単だ。
今掴んでいる細い肩を引き寄せて、其の儘喰らい付いてしまえば良い。
其の喉笛に喰らい付いて、牙を立て血を啜り、肉を食めば、其れは簡単に叶う筈だ。
常識と言う箍等、良識という柵等、簡単に壊れる筈だ。
――嗚呼、そうだ。私はずっと昔から、化物じゃないか。
此の子の前でだけ人の皮を、僕を被っているだけの、煉獄を彷徨う化物。其れが私。
其れが私で、誰よりも人としての死を欲してるのも、確かに私なんだ。
鍵を掴んだかもしれないと、そう思いはしたが、結局その鍵は、僕の手に乗せられた物でしか無い。
――みいちゃんの兄を演じる僕の為であって、放浪する化物としての素の私の為の物では無い。
みぃちゃんの言葉で、其れを思い知った。
結局、みぃちゃんが懐いているのは僕であって私では無い。
であれば、化物である私が彼女を食らったっていいじゃないか。
此れ以上、彼女が傷つく事もなく、私が掻き乱される事も無い。
永久の静謐の地獄で彷徨うという代償さえ払えば、私は此の檻から開放される。
辛うじて、僕としての理性が、獣染みた私を留めていた。
彼女だって、みぃちゃんだって、そんな僕の異変になど、疾うに気づいている筈なのに。
其れに起因する此処十年ばかり感じた事の無い渇きに気を取られ、唯早く夜が更ける事を願って、気も漫ろとなっていたのは確かだった。
「おにいちゃん」
何時もの様に、そっと家を抜け出して数歩進んだ時に後ろから、一番聞きたく無い声で呼び止められた。
振り返れば、久しく眼鏡越しにしか見ていなかった彼女が其処に立っていた。
渇いた喉がごくりと音を立てた。
「半年ぐらい、かな、おにいちゃん」
戻るように。
そう言おうとした僕を遮って、彼女は言った。
確かに、此の前に渇きを覚えたのは、半年ばかり前の事だった。
態々、其れを口にするというのは、私がこうして夜更けに抜け出している事を前から知っていたという事を明かしていた。
記録でも取っていたのかと問えば、其処迄はしていないと、彼女は首を横に振る。
今更止める気かと問えば、そういう訳では無いと、彼女は苦笑した。
「おにいちゃんの様子が変だったから」
其れは。
其れはお前の所為だという私の感情的な言葉を、僕の理性が押さえ込んで、自嘲した。
今更、彼女に見せてきた姿を維持しようとして如何すると言うのか。
「……みぃちゃん、僕がこうして抜け出す意味、わかってるでしょう?」
梃子でも動きそうに無い彼女に、静かにそう問えば、言葉少なな肯定が返って来た。
嗚呼、ならば、如何して、態々、飢えた狼の前に現れるような愚を犯すのか。
「それなら、僕をそんなに信頼してるのかい?
それとも、高を括っているのかい?」
望みを絶たれても化物として煮え切らない私に、私自身が酷く腹立たしかった。
だから、此れは矢張り、八つ当たりだった。
そんな私に近付く彼女を止めようと、其の肩を掴んだ。
けれど、彼女は私とは反対に冷静な態度を崩さずに、まるで満足かと問うような目で私を見乍ら口を開いた。
「……おにいちゃん」
「何?」
彼女の求める物が分からない以上、彼女を去らせる術は無い。
梃子でも動かず、冷静に、彼女は何を求めていると言うのだろう。
「なんで、拗ねてるの?」
彼女の其の問い掛けは、私の虚を衝くと同時に、神経を逆撫でた。
そんな簡単な言葉で、此の積年の望みが絶たれた今を、表されて堪る物か。
「……拗ねてる? 僕が?」
「うん」
小娘に、私の気の遠くなる様な千秋万古の旅路の何が分かるというのだろう。
高々十年許り、一緒に暮らしただけでしか無いのに。
「……みぃちゃんには、そう見えるの?」
「うん」
私が赫焉とした炎の様な灼熱の感情を腹に抱えて、焼石に水を掛ける様に僕の理性が其れを留め様としているのに対し、彼女は秋の月の様な、凪いだ湖面の様な平静を失う事は無かった。
其の何時も通りの顔が、私の内の渇きを更に刺激した。
――喰らいたい。
初めて、渇きを凌駕した衝動を抱いた。
彼女の、其の四肢を捩じ切り、柔らかな腹を裂き、頭蓋を砕き、其処から零れる温かな血も臓物も脂肪も肉も骨も脳髄も、彼女の爪先から頭の天辺に至るまで、余す所なく啜り貪り、其の甘美に酔い乍ら、此の虚ろな内腑に納めたい。
そうすれば、屹度此の寒さは埋まる筈だ。
渇きは潤される筈だ。
虚は満たされる筈だ。
何故だか、そんな確信すらあった。
同時に、今度こそ取り返しが付か無く為ると思った。
今度こそ、人間らしく死ね無く為るだろうと。
或いは、此の地上が放浪の煉獄から、更なる重荷を負った地獄へと変貌するだろうと。
事は簡単だ。
今掴んでいる細い肩を引き寄せて、其の儘喰らい付いてしまえば良い。
其の喉笛に喰らい付いて、牙を立て血を啜り、肉を食めば、其れは簡単に叶う筈だ。
常識と言う箍等、良識という柵等、簡単に壊れる筈だ。
――嗚呼、そうだ。私はずっと昔から、化物じゃないか。
此の子の前でだけ人の皮を、僕を被っているだけの、煉獄を彷徨う化物。其れが私。
其れが私で、誰よりも人としての死を欲してるのも、確かに私なんだ。
鍵を掴んだかもしれないと、そう思いはしたが、結局その鍵は、僕の手に乗せられた物でしか無い。
――みいちゃんの兄を演じる僕の為であって、放浪する化物としての素の私の為の物では無い。
みぃちゃんの言葉で、其れを思い知った。
結局、みぃちゃんが懐いているのは僕であって私では無い。
であれば、化物である私が彼女を食らったっていいじゃないか。
此れ以上、彼女が傷つく事もなく、私が掻き乱される事も無い。
永久の静謐の地獄で彷徨うという代償さえ払えば、私は此の檻から開放される。
辛うじて、僕としての理性が、獣染みた私を留めていた。
彼女だって、みぃちゃんだって、そんな僕の異変になど、疾うに気づいている筈なのに。
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