ガルデニアの残り香

板久咲絢芽

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閑話 Gardenia sub rosa――薔薇の下の梔子

色褪せ

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愛する事を知らぬ者は明日に愛すとよいCras amet, qui numquam amavitと歌ったのは誰だったか。
愛とは障害だとうたったのは仏教だったか。

そうだ、仏教における愛の認識――渇愛かつあいこそ、誠実で的確だ。
愛とはすなわち、世界で多く見られる蛇によって表象される事の多い執着しゅうちゃくでしかない。

例えれが、友愛フィリアだろうと、家族愛ストルゲーだろうと、恋愛エロースだろうと。
れがどんな間柄に横たわるとしても、渇望かつぼうした時点で、極論きょくろん執着しゅうちゃくでしかない。

執着しゅうちゃくでしかない上に、始末しまつに悪いのは傲慢ごうまんでもあることだ。
時として対象のとらえ方をブレさせ、傲慢ごうまん増長ぞうちょうするのだから。

たとえば、その対象をあなどり、自身の庇護ひご下に置こうとする、とか。
たとえば、その対象を崇敬すうけいし、その庇護ひご下に入ろうとする、とか。

結局、それは現状を正確に認識できていない事さえ自覚していない個人が出した、傲慢ごうまんひとがりの結論で、簡単に依存いぞんへと転換する。
あるいは、愛もの依存いぞんであるとも言えよう。

そういう意味で言えば、が彼女にとらわれたのは、そういう事だと言えるのかもしれない。
そして、意固地いこじまで拘泥こうでいしたのも、きっと、結局はれの所為せいでしか無い。

「だって、おにいちゃんは私のおにいちゃんでしょ?」

だから、彼女がそう言った時。
れがではなく、だけを指した言葉だと、みぃちゃんがを知るはずもないのに、無性むしょうかなしくて、苦しくて、結局には何も無いのだと、ただの事実だけが深く深く、最早もはや動いていない心の臓に沈み、食い込み、何時いつぶりに感じたかも忘れたほどの、強いかわきを覚えたのだ。

れでも、にみぃちゃんを襲うという選択肢はなかった。
れで気が付けば良かったのに、というのは単なる後悔に過ぎないし、たとれが何時いつだったとしても、屹度きっと遅すぎると同時に早すぎたのだろう。

――そう、何時いつの時が訪れたって、死には遅すぎ、別れには早過ぎた。
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