ガルデニアの残り香

板久咲絢芽

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閑話 Gardenia sub rosa――薔薇の下の梔子

蕾はいまだかたく

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れは、偶々たまたまだった。
偶々たまたま乗った電車の向かいの席に、の家族は座って居た。

何処どこにでも居そうな、父親と母親と、れから幼稚園か保育園に通っているだろう小さな女の子と。
彼等かれらの会話から、よくある共働きの家族で、久し振りの一家そろった外出である事が分かった。

は何の気無しに彼等かれらながめて居た。
女の子はにこにこと、とても楽しそうに笑って居た。
れがまぶしくて、少しだけ腹立たしかった。
けれども、れは自分の持って無い物を他人が持っている時に生じるたぐいの物でしか無かったから、八つ当たりなのは自明のことわりだった。

不意に女の子と目が合った。
彼女は少しまばたきをして、れでも物怖ものおじや人見知りをし無いタイプだったのか、にこっと笑った。

心の内に寒さがいた。
嗚呼ああ、良く無い。実に良く無い兆候だ。
喉が渇く。渇いてしまう。

れが心理的な影響を大きく受ける事は、長年の経験で分かり切っていた。
だから、は次の駅で降りたのだが、其処そこの家族の目的地でもあったらしい。
れでも、一緒だったのは改札までで、彼らは人波に消えていった。
で、あらががたい喉の渇きに辟易へきえきとしながら、人波を彷徨さまよって獲物になりそうな人間を探した。
適当に見繕みつくろった人間で喉をうるおし、の温もりに一息ついて、また無い放浪に出るため、人波に戻った。
仮説の実証が如何どうすれば出来るのか。
れを考えながら、またりのつかないままに、流離さすら心算つもりだった。

だったのだ。
つい先程、視線を交わした女の子が、べそをいて居るのを見つけなければ。

人混みの中ではぐれてしまったのだろう事は、容易にわかった。
喉をうるおしたばかりで、皮肉にも人心地ひとごこちついて居たは、気紛きまぐれに彼女に話しかけた。

「お父さんやお母さんと、はぐれたのかい?」
「ん……」

れがみぃちゃんとの初めての会話だった。
泣き出すのをこらえる様に、呼吸に合わせて鼻を鳴らす様に答えた彼女はを見上げた。
ていの表現で言うなら、捨てられた子犬のようなうるんだ、くりくりとした瞳でを見上げて、そして、ぐしぐしとの目元を手でぬぐった。

「……でんしゃでいっしょだった、おにいちゃん?」
「……そうだよ」

彼女がそう言ってきたのは意外だった。
基本的に印象に残ら無い様に暗示(便宜上)を使って居たから、の時はうっかりして居たのだろうかと思った。
今思えば、の脇が甘かったわけでは無く、彼女のそういった物に対しての感覚が鋭敏だっただけだ。

「よく、覚えているね」
「あのね、きれいだなっておもったの。すっごいきれいなくろ」

そう彼女は言って、目元が赤い目を細めて笑った。
今泣いたからすがもう笑う、とはこういう事かという様で、その無邪気さに車内で苛立いらだちを覚えた自身にあきれるしか無く、まぶしさに思わず目を細めた。

「……おにいちゃんと、おまわりさんのとこに行こうか」

自然と、の気になって居た。
優しいフリで彼女に手を差し伸べれば、彼女はうたがう事無く、の小さな手でつかんできた。
化物ばけものくせにと、内心で自身を嘲笑あざわらう思いもあった。
けれど、掴まれた手に伝わる子供特有の高めの体温は少し心地良かった。

何か、他愛たあいも無い話をいくつかした様に思う。
二百メートルも離れていない交番までのつかの間で、れでも名残惜なごりおしく感じるには十分過ぎた。

「おとうさん、おかあさん!」

の手をはなして駆けていく彼女はとても嬉しそうで、彼女に気が付いた両親もまた、駆け寄る彼女を大きく両手を広げて抱きめた。

「ごめんね、みぃちゃん」

そう言いながら、彼女の頭をでて、れから、なんとお礼をすれば、と両親は何度も何度も、に感謝の念を表した。
一言二言ひとことふたこと他愛たあいも無い会話をわし、嬉しそうな彼女を連れて、安堵あんどの表情で感謝を繰り返しながら、両親は立ち去った。

の去り行く家族の背をながめて、そしての中でなら証明出来るのではなかろうかと、は思いついてしまったのだ。
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