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回想 3 行く末と目的
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「タルタロスにおいて、タンタロスは沼のそばの木に繋がれている。
沼の水はタンタロスのすぐ喉元まで満ちるが、タンタロスが乾きを癒そうとすると引いてしまう。
繋がれている木には実がなっているが、タンタロスが飢えを満たそうと手を伸ばすと、手の届かない位置に吹き上げられてしまう。
不死身となったタンタロスは目の前にそれを満たせるものがありながら、永遠に飢えて渇き続ける」
「んぐ……なんか、それは彷徨えるユダヤ人よりエグくない?」
「みぃちゃんもやっぱりそう思う?」
彷徨えるユダヤ人もなかなかにエグい、と思ったが、目の前に水も果実もあるのに、それを手に取れないタンタロスの方がたぶん上を行く。
そして、それと同時になんとなく、私はおにいちゃんの目的が理解できたような気がしたのだ。
「うん。だって、苦しいのが、ずっと、何をしても終わらないんだよね」
「……」
私の言葉を聞いて、おにいちゃんは黙ってしまった。
私にはおにいちゃんがどれだけ長く生きてきたとか、その間に何があったかとか、そんな事は全然わからなかったけれど、ただその一欠を言葉の上ではなんとなく理解できたのだ。
今となっては、おにいちゃんが黙った理由なんて確認すらできないけれど、もしかすると、私のそれが声に出ていたのかもしれない。
「…………人間にとっては」
私の口に突っ込んだカップケーキのもう一欠を弄びながら、おにいちゃんはそう口を開いた。
おにいちゃんにしては珍しく、考え考え言葉を継いでいた。
「死は確実にして、平等に不意に訪うもので、そして何より逃れられないものだ。
死を定める運命の女神を、曲げられぬ不可避の者、即ちアトロポスと呼ぶ程には」
アトロポスは私も知っていた。
ギリシャ神話の最高神ゼウスすら抗えぬという、三柱の運命の女神たち、モイライの一柱。
糸を紡ぐクロートー、それを測るラケシス、そしてその糸を断ち切るアトロポス。
彼女たちがそうして成す糸一本が、その人の人生を表すという。
でも、おにいちゃんはもう糸が切れているはずなのに、まだ続いているのだ。
「……おにいちゃんはさ、ほんとにもう覚えてないの?」
「こうなる前のこと?」
「うん」
おにいちゃんは、ずっと手にしていたままだったカップケーキの半分を、自分の口に放り込んだ。
「……」
「いや、たぶん、もう何度も何度も思い出そうとしてるのはわかるけ、ど……」
おにいちゃんの横顔を見て、私は黙るしかなかった。
おにいちゃんは、それまで一度も見たことが無いような顔をしていた。
私の視線に気がついたおにいちゃんは、反射的にそのままこっちを見て、そしていつものように穏やかな苦笑を浮かべた。
けれども、こっちを見たその一瞬。そこに見えた表情は、凪いでいるというにはあまりに何もなく、虚ろなその奥に内側から赤々と光と熱が漏れ出づるような、熾火がぽつりと灯っているように見えた。
沼の水はタンタロスのすぐ喉元まで満ちるが、タンタロスが乾きを癒そうとすると引いてしまう。
繋がれている木には実がなっているが、タンタロスが飢えを満たそうと手を伸ばすと、手の届かない位置に吹き上げられてしまう。
不死身となったタンタロスは目の前にそれを満たせるものがありながら、永遠に飢えて渇き続ける」
「んぐ……なんか、それは彷徨えるユダヤ人よりエグくない?」
「みぃちゃんもやっぱりそう思う?」
彷徨えるユダヤ人もなかなかにエグい、と思ったが、目の前に水も果実もあるのに、それを手に取れないタンタロスの方がたぶん上を行く。
そして、それと同時になんとなく、私はおにいちゃんの目的が理解できたような気がしたのだ。
「うん。だって、苦しいのが、ずっと、何をしても終わらないんだよね」
「……」
私の言葉を聞いて、おにいちゃんは黙ってしまった。
私にはおにいちゃんがどれだけ長く生きてきたとか、その間に何があったかとか、そんな事は全然わからなかったけれど、ただその一欠を言葉の上ではなんとなく理解できたのだ。
今となっては、おにいちゃんが黙った理由なんて確認すらできないけれど、もしかすると、私のそれが声に出ていたのかもしれない。
「…………人間にとっては」
私の口に突っ込んだカップケーキのもう一欠を弄びながら、おにいちゃんはそう口を開いた。
おにいちゃんにしては珍しく、考え考え言葉を継いでいた。
「死は確実にして、平等に不意に訪うもので、そして何より逃れられないものだ。
死を定める運命の女神を、曲げられぬ不可避の者、即ちアトロポスと呼ぶ程には」
アトロポスは私も知っていた。
ギリシャ神話の最高神ゼウスすら抗えぬという、三柱の運命の女神たち、モイライの一柱。
糸を紡ぐクロートー、それを測るラケシス、そしてその糸を断ち切るアトロポス。
彼女たちがそうして成す糸一本が、その人の人生を表すという。
でも、おにいちゃんはもう糸が切れているはずなのに、まだ続いているのだ。
「……おにいちゃんはさ、ほんとにもう覚えてないの?」
「こうなる前のこと?」
「うん」
おにいちゃんは、ずっと手にしていたままだったカップケーキの半分を、自分の口に放り込んだ。
「……」
「いや、たぶん、もう何度も何度も思い出そうとしてるのはわかるけ、ど……」
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おにいちゃんは、それまで一度も見たことが無いような顔をしていた。
私の視線に気がついたおにいちゃんは、反射的にそのままこっちを見て、そしていつものように穏やかな苦笑を浮かべた。
けれども、こっちを見たその一瞬。そこに見えた表情は、凪いでいるというにはあまりに何もなく、虚ろなその奥に内側から赤々と光と熱が漏れ出づるような、熾火がぽつりと灯っているように見えた。
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