怪異から論理の糸を縒る

板久咲絢芽

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6-2 竜馬と松浦の姫 side B

9 表と裏が向き合う事はない

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ソファベッドの上ですよすよと穏やかな寝息を立てていた紀美きみの目が、なんの脈絡もなく、唐突にぱちりと開いた。
その顔には、寝起きだというのに一欠片ひとかけらも眠気がなく、酷く冷静でありながら、敵意にも緊張にも満たない、わずかなとげがあった。

「……そう、逆恨さかうらむなよ」

そう言って、そのまま紀美きみは起き上がる。
色素の薄い、明るい色の長い髪がさらりとその肩からすべり落ちた。

「時代遅れなんだ。もうこの世は人の子のきずき上げたことわりで満ちている。はそれと比較的相性がいいだけさ」

あかりもなく、ただ一人の中、特に夜闇の黒く暗くわだかまった方へ向けて、寝起きという感じは一欠片ひとかけらも出さずに、さとすように紀美きみの言葉が響く。
そのわだかまる闇の中、というよりは、その濃い闇そのものが、蜷局とぐろを巻いたナニかだった。

「まして、君のようなものはすでに相当ふるい落とされてるじゃないか。大口おおくち真神まかみ裔共すえどもは、すでに今ははかなく、日枝ひえのぞいたましら春日かすがのぞいた鹿かせぎも、うの昔にびぬれば……まあ、君は比較的例外ではあるが……いや考え方によっては、いの一番に落とされたのは君と言ってもいいんじゃないかな、山にして水なるかがち

淡々と紀美きみの口からべられる対等の言葉には、普段の紀美きみの柔らかさと穏やかさではなく、麻を断つごとき鋭い理知のえ渡る冷たさが乗っている。
ぞろりと、夜闇がうごめいた。

「当たり前だろう?」

そのいずるようなうごめきから意味を読み取ったはしばみ色の目が、闇の中でほんの少し、あきれたように細められた。

「お前たちの言葉はうに言葉とならない。すでに人の子の心を種としてしょうじる葉と共にあるもの、禍事まがこと善事よごとも、万象はべての舌の上」

観測者となるものが誰もいない閉じた部屋の暗闇の中で、紀美きみの口角が吊り上がる。

いひとよは君も苦手だろう? あれは夜のとりだもの。異郷とはいえ、あの子はそれも範疇にしているし、まして鳥の名の子も一緒だ。君はどう足掻あがこうと手出しはできない。が言い切るということは確定事項だ」

そこで、ああ、失礼、と紀美きみの身体で、それは皮肉げな笑みを口元にだけ浮かべて続ける。

くちなわの身には手も足もなかったね。つまりこれはすべて蛇足だそくということだ……だってわかってはいるのだよ、最早神代かみよにはあらず、と。それを君もわきまたまえ、という話さ……あばかれるままに隠世かくりよせばまり、何事もかつてのようには運ばぬ。実際、にはかつて程の力はない」

闇の中でまたうごめく気配がする。
今度のそれは長く、しばらくして紀美きみは軽く立てた膝に頬杖ほおづえを突いて、は、とあきれとわらいの混じったため息を一つついた。

惟神かんながらの世ではないと言っただろうが。弟日媛子おとひひめこを望むかがちよ。それは神の道理であって、人の世の道理ではない。ぬか、人の世の道理に合わせるか。言うなれば、ごうに入りてごうに従うか、ごうを去るか、だ」

闇がのったりと鎌首をもたげる。
紀美きみ頬杖ほおづえをついた体勢のまま、目を細めた。

「……自身は間違ったとは思わないよ。想定外はあったけどね。こうして、いとしき身の力となり、その身を守れるのだし」

細めた目、その口角は上がったまま。
およそ笑顔と呼べる要素を持つ表情であるのに、それは笑顔ではなかった。
しもとう山の主は挑発とも、威嚇いかくとも思えるような表情を紀美きみの顔に浮かべて、闇に向け、言い放つ。

遥々はるばると来たことには敬意を表すが、それだけだよ。御前おんまえは、の領分を、人のことわりを、おかすにあたわぬ。そのよしは、御身おんみうに此岸しがんりてはただのくちなわ長虫ながむしの身に過ぎぬゆえ

完全にそう言い切った声は決して大きくはないが、小さいというには、なまりのように重すぎた。

「どんなに異を唱えようと、の言葉にあらがえはしないだろ? もう君が夢の直路ただじを敷くだけしかないのは明らかであり、それも結局、こうして泡沫夢幻ほうまつむげん槐夢かいむに他ならず……ああ、もう、託言かごとがましいごとは聞き飽きたから、さっさと帰りなよ。こうしてが相手してやっただけでもいいだろ? それとも、追い払われたかった?」

紀美きみが到底浮かべることがない、うんざりとしたしかつらで、身をくねらせる闇に向けて投げやりに言葉が放たれた。

「繰り返す 倭文しづ苧環をだまき みかしほの 針間はりま通らで よしもなければ……これで満足だろ?」

ぼそりと低い声でつぶやかれた言葉に、闇がぴたりと動きを止めた。
その一際ひときわ濃い闇は最初に現れた時より、二回り以上小さくなっている。
その有様にため息を一つついて、紀美きみ頬杖ほおづえをついたのとは反対の手をひらりと振るう。

「はいはい、じゃあね。もう領分を取り違えるなよ」

しゅるりとほどけるように蜷局とぐろを巻いていた濃い闇が失せる。
しばしの沈黙の中、アナログ時計の秒針の音がかち、かち、と声高こわだかに存在を主張する。

「……やれやれ、まったく。こんな世で、気位きぐらいが高いだけでしかないから困るし、かといって危ない橋をみんなで渡れば怖くないみたいなことするめられないし……なーんて言っても、は寝てるんだけど」

再びため息混じりにそう言って、彼は闇の中、一度髪をき上げてから、闇の中、太陽にかすようにその手を虚空に伸ばして見上げる。

「……は、きみを、人の言うように、理子りこが望んだように、愛せてる、かな?」

――かつて、聞こえないと知っていても、ずっと共にいることを宣言した。
それを伝えてくれたロビンも、それ以降、紀美きみが背負うことを決めたものも、総じていとしきとは思えども、その領分が人に近ければこそ、近いだけのに、境を見定めることは難しい。
暗闇の中でまぶしいものを見るように目を細めて、手を下ろすと、そのまま、ぱたりとソファベッドに身を伏せる。

「おやすみ、紀美きみ

そんなささやきが空気を震わせるかどうかの内に、紀美きみは再び安らかな寝息を立てていた。
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