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6-2 竜馬と松浦の姫 side B
9 表と裏が向き合う事はない
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◆
ソファベッドの上ですよすよと穏やかな寝息を立てていた紀美の目が、なんの脈絡もなく、唐突にぱちりと開いた。
その顔には、寝起きだというのに一欠片も眠気がなく、酷く冷静でありながら、敵意にも緊張にも満たない、僅かな棘があった。
「……そう、逆恨むなよ」
そう言って、そのまま紀美は起き上がる。
色素の薄い、明るい色の長い髪がさらりとその肩から滑り落ちた。
「時代遅れなんだ。もうこの世は人の子の築き上げた理で満ちている。私はそれと比較的相性がいいだけさ」
灯りもなく、ただ一人の中、特に夜闇の黒く暗く蟠った方へ向けて、寝起きという感じは一欠片も出さずに、諭すように紀美の言葉が響く。
その蟠る闇の中、というよりは、その濃い闇そのものが、蜷局を巻いたナニかだった。
「まして、君のようなものは既に相当篩い落とされてるじゃないか。大口の真神の裔共は、既に今は儚く、日枝を除いた猿、春日を除いた鹿も、疾うの昔に侘びぬれば……まあ、君は比較的例外ではあるが……いや考え方によっては、いの一番に落とされたのは君と言ってもいいんじゃないかな、山にして水なる蛇」
淡々と紀美の口から述べられる対等の言葉には、普段の紀美の柔らかさと穏やかさではなく、麻を断つ如き鋭い理知の冴え渡る冷たさが乗っている。
ぞろりと、夜闇が蠢いた。
「当たり前だろう?」
その這いずるような蠢きから意味を読み取った榛色の目が、闇の中でほんの少し、呆れたように細められた。
「お前たちの言葉は疾うに言葉とならない。私は既に人の子の心を種として生じる葉と共にあるもの、禍事も善事も、万象は並べて私の舌の上」
観測者となるものが誰もいない閉じた部屋の暗闇の中で、紀美の口角が吊り上がる。
「梟は君も苦手だろう? あれは夜の禽だもの。異郷とはいえ、あの子はそれも範疇にしているし、まして鳥の名の子も一緒だ。君はどう足掻こうと手出しはできない。私が言い切るということは確定事項だ」
そこで、ああ、失礼、と紀美の身体で、それは皮肉げな笑みを口元にだけ浮かべて続ける。
「蛇の身には手も足もなかったね。つまりこれはすべて蛇足ということだ……私だってわかってはいるのだよ、最早神代には非ず、と。それを君も弁え給え、という話さ……暴かれるままに隠世は狭まり、何事もかつてのようには運ばぬ。実際、我らにはかつて程の力はない」
闇の中でまた蠢く気配がする。
今度のそれは長く、暫くして紀美は軽く立てた膝に頬杖を突いて、は、と呆れと嗤いの混じったため息を一つついた。
「惟神の世ではないと言っただろうが。弟日媛子を望む蛇よ。それは神の道理であって、人の世の道理ではない。疾く去ぬか、人の世の道理に合わせるか。言うなれば、郷に入りて郷に従うか、郷を去るか、だ」
闇がのったりと鎌首をもたげる。
紀美は頬杖をついた体勢のまま、目を細めた。
「……私自身は間違ったとは思わないよ。想定外はあったけどね。こうして、いと惜しき身の力となり、その身を守れるのだし」
細めた目、その口角は上がったまま。
凡そ笑顔と呼べる要素を持つ表情であるのに、それは笑顔ではなかった。
楉結う山の主は挑発とも、威嚇とも思えるような表情を紀美の顔に浮かべて、闇に向け、言い放つ。
「遥々と来たことには敬意を表すが、それだけだよ。御前は、私の領分を、人の理を、侵すに能わぬ。その由は、御身は疾うに此岸に在りてはただの蛇、長虫の身に過ぎぬ故」
完全にそう言い切った声は決して大きくはないが、小さいというには、鉛のように重すぎた。
「どんなに異を唱えようと、私の言葉に抗えはしないだろ? もう君が夢の直路を敷くだけしかないのは明らかであり、それも結局、こうして泡沫夢幻、槐夢に他ならず……ああ、もう、託言がましい繰り言は聞き飽きたから、さっさと帰りなよ。こうして私が相手してやっただけでもいいだろ? それとも、追い払われたかった?」
紀美が到底浮かべることがない、うんざりとした顰め面で、身をくねらせる闇に向けて投げやりに言葉が放たれた。
「繰り返す 倭文の苧環 みか潮の 針間通らで 由もなければ……これで満足だろ?」
ぼそりと低い声で呟かれた言葉に、闇がぴたりと動きを止めた。
その一際濃い闇は最初に現れた時より、二回り以上小さくなっている。
その有様にため息を一つついて、紀美は頬杖をついたのとは反対の手をひらりと振るう。
「はいはい、じゃあね。もう領分を取り違えるなよ」
しゅるりと解けるように蜷局を巻いていた濃い闇が失せる。
暫しの沈黙の中、アナログ時計の秒針の音がかち、かち、と声高に存在を主張する。
「……やれやれ、まったく。こんな世で、気位が高いだけでしかないから困るし、かといって危ない橋をみんなで渡れば怖くないみたいなことするこの子を褒められないし……なーんて言っても、この子は寝てるんだけど」
再びため息混じりにそう言って、彼は闇の中、一度髪を掻き上げてから、闇の中、太陽に透かすようにその手を虚空に伸ばして見上げる。
「……私は、きみを、人の言うように、理子が望んだように、愛せてる、かな?」
――かつて、聞こえないと知っていても、ずっと共にいることを宣言した。
それを伝えてくれたロビンも、それ以降、紀美が背負うことを決めたものも、総じていと惜しきとは思えども、その領分が人に近ければこそ、近いだけの彼に、境を見定めることは難しい。
暗闇の中で眩しいものを見るように目を細めて、手を下ろすと、そのまま、ぱたりとソファベッドに身を伏せる。
「おやすみ、紀美」
そんな囁きが空気を震わせるかどうかの内に、紀美は再び安らかな寝息を立てていた。
ソファベッドの上ですよすよと穏やかな寝息を立てていた紀美の目が、なんの脈絡もなく、唐突にぱちりと開いた。
その顔には、寝起きだというのに一欠片も眠気がなく、酷く冷静でありながら、敵意にも緊張にも満たない、僅かな棘があった。
「……そう、逆恨むなよ」
そう言って、そのまま紀美は起き上がる。
色素の薄い、明るい色の長い髪がさらりとその肩から滑り落ちた。
「時代遅れなんだ。もうこの世は人の子の築き上げた理で満ちている。私はそれと比較的相性がいいだけさ」
灯りもなく、ただ一人の中、特に夜闇の黒く暗く蟠った方へ向けて、寝起きという感じは一欠片も出さずに、諭すように紀美の言葉が響く。
その蟠る闇の中、というよりは、その濃い闇そのものが、蜷局を巻いたナニかだった。
「まして、君のようなものは既に相当篩い落とされてるじゃないか。大口の真神の裔共は、既に今は儚く、日枝を除いた猿、春日を除いた鹿も、疾うの昔に侘びぬれば……まあ、君は比較的例外ではあるが……いや考え方によっては、いの一番に落とされたのは君と言ってもいいんじゃないかな、山にして水なる蛇」
淡々と紀美の口から述べられる対等の言葉には、普段の紀美の柔らかさと穏やかさではなく、麻を断つ如き鋭い理知の冴え渡る冷たさが乗っている。
ぞろりと、夜闇が蠢いた。
「当たり前だろう?」
その這いずるような蠢きから意味を読み取った榛色の目が、闇の中でほんの少し、呆れたように細められた。
「お前たちの言葉は疾うに言葉とならない。私は既に人の子の心を種として生じる葉と共にあるもの、禍事も善事も、万象は並べて私の舌の上」
観測者となるものが誰もいない閉じた部屋の暗闇の中で、紀美の口角が吊り上がる。
「梟は君も苦手だろう? あれは夜の禽だもの。異郷とはいえ、あの子はそれも範疇にしているし、まして鳥の名の子も一緒だ。君はどう足掻こうと手出しはできない。私が言い切るということは確定事項だ」
そこで、ああ、失礼、と紀美の身体で、それは皮肉げな笑みを口元にだけ浮かべて続ける。
「蛇の身には手も足もなかったね。つまりこれはすべて蛇足ということだ……私だってわかってはいるのだよ、最早神代には非ず、と。それを君も弁え給え、という話さ……暴かれるままに隠世は狭まり、何事もかつてのようには運ばぬ。実際、我らにはかつて程の力はない」
闇の中でまた蠢く気配がする。
今度のそれは長く、暫くして紀美は軽く立てた膝に頬杖を突いて、は、と呆れと嗤いの混じったため息を一つついた。
「惟神の世ではないと言っただろうが。弟日媛子を望む蛇よ。それは神の道理であって、人の世の道理ではない。疾く去ぬか、人の世の道理に合わせるか。言うなれば、郷に入りて郷に従うか、郷を去るか、だ」
闇がのったりと鎌首をもたげる。
紀美は頬杖をついた体勢のまま、目を細めた。
「……私自身は間違ったとは思わないよ。想定外はあったけどね。こうして、いと惜しき身の力となり、その身を守れるのだし」
細めた目、その口角は上がったまま。
凡そ笑顔と呼べる要素を持つ表情であるのに、それは笑顔ではなかった。
楉結う山の主は挑発とも、威嚇とも思えるような表情を紀美の顔に浮かべて、闇に向け、言い放つ。
「遥々と来たことには敬意を表すが、それだけだよ。御前は、私の領分を、人の理を、侵すに能わぬ。その由は、御身は疾うに此岸に在りてはただの蛇、長虫の身に過ぎぬ故」
完全にそう言い切った声は決して大きくはないが、小さいというには、鉛のように重すぎた。
「どんなに異を唱えようと、私の言葉に抗えはしないだろ? もう君が夢の直路を敷くだけしかないのは明らかであり、それも結局、こうして泡沫夢幻、槐夢に他ならず……ああ、もう、託言がましい繰り言は聞き飽きたから、さっさと帰りなよ。こうして私が相手してやっただけでもいいだろ? それとも、追い払われたかった?」
紀美が到底浮かべることがない、うんざりとした顰め面で、身をくねらせる闇に向けて投げやりに言葉が放たれた。
「繰り返す 倭文の苧環 みか潮の 針間通らで 由もなければ……これで満足だろ?」
ぼそりと低い声で呟かれた言葉に、闇がぴたりと動きを止めた。
その一際濃い闇は最初に現れた時より、二回り以上小さくなっている。
その有様にため息を一つついて、紀美は頬杖をついたのとは反対の手をひらりと振るう。
「はいはい、じゃあね。もう領分を取り違えるなよ」
しゅるりと解けるように蜷局を巻いていた濃い闇が失せる。
暫しの沈黙の中、アナログ時計の秒針の音がかち、かち、と声高に存在を主張する。
「……やれやれ、まったく。こんな世で、気位が高いだけでしかないから困るし、かといって危ない橋をみんなで渡れば怖くないみたいなことするこの子を褒められないし……なーんて言っても、この子は寝てるんだけど」
再びため息混じりにそう言って、彼は闇の中、一度髪を掻き上げてから、闇の中、太陽に透かすようにその手を虚空に伸ばして見上げる。
「……私は、きみを、人の言うように、理子が望んだように、愛せてる、かな?」
――かつて、聞こえないと知っていても、ずっと共にいることを宣言した。
それを伝えてくれたロビンも、それ以降、紀美が背負うことを決めたものも、総じていと惜しきとは思えども、その領分が人に近ければこそ、近いだけの彼に、境を見定めることは難しい。
暗闇の中で眩しいものを見るように目を細めて、手を下ろすと、そのまま、ぱたりとソファベッドに身を伏せる。
「おやすみ、紀美」
そんな囁きが空気を震わせるかどうかの内に、紀美は再び安らかな寝息を立てていた。
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