157 / 241
5-1 夢の浮橋 side A
7 現実と知覚は不可分にして非同一
しおりを挟む
「と、直くんのせいで脱線はしたけども」
二つ目の唐揚げを齧りつつ紀美が言う。
そういえば、頼む時にやたら唐揚げを推してたのは彼だった気がする。好物なのだろうか。
「つまり、キミはリャナン・シーに憑かれている、と言える状態だと思うんだ」
ちょっと含みのある言い方である。
はあ、という純也の受け答えを気にせず、油の付いた唇をぺろりと舐めて紀美は続ける。
「ただ、十分かというと、不十分ではあるよね」
「不十分、ですか」
「うん。まあ、そもそもリャナン・シーの現在一般の認識の成立には、イェイツの影響もあるんだけど……それからすると、まず彼女は対象者の現実に現れるはずなんだ」
こつこつ、と紀美は、よく見れば男性らしい太さの人差し指の指先でテーブルを叩く。
「俺の、現実?」
「高橋くん、キミ、頭悪くない方だろ? 僕らにとっての現実ってつまり、世界からの働きかけを感覚器が受けた刺激がパルスという電気信号に変換されて、神経を流れた先の脳で受容されて再構築されたもの、翻訳されたもの、だぜ? 本当に現実という再構築された書き割りが誰にとっても同じか、そもそも本当に現実そのままを僕らが見てるのかなんて、誰にもわかんないよ。翻訳過程で類像現象やパレイドリアのような、本来的にランダムで無意味な図形や音に対して、既存の意味あるシンボルの紐づけが誤って行われる事もあるわけだし。なべて人は、信じたいものを見るわけだ」
妙に実感のこもった口調で、紀美はイヤミはないにやっとした笑みを浮かべる。
『不思議の国のアリス』で言うなら、彼はチェシャ猫だろうか。それとも、イカれ帽子屋? いや、そもそもアリスは純也のようなアラサーの男などではないのだが。
類像現象については知っている。多く心霊写真の原因とも言われるそれは、紀美が言った通りで、具体的には三つの点がそれらしく並んでいたら、人はそれを人の顔として認知してしまう、というものである。
パレイドリアもそれに類する、というか逆に類像現象がパレイドリアの一種、というような包括関係だったような。
「……クオリアの話、ということで?」
「そうそう。なんなら、ジャン=ジャック・ラカンの精神分析における現実界と想像界でもいいけど、知ってるかな」
面白そうにそう言ってのけた紀美を嗜めるように、その横のロビンがポテトをつまみつつ渋面で、センセイ、と声をかける。
最早弟子というよりお目付け役というところだろう。
「流石にそこまでは……なんか、難しいとは聞いたことがあるやつですね」
純也が所属していた五割が幽霊の人数はやたらいる文芸サークルにいた心理学科の先輩かなんかが、サークル棟で頭から湯気を出しそうになりながらレポート用に本を読んでいた気がする。
その人の本自体も、大量の草稿だかメモ書きだかを本人の死後にまとめて出版したとかいうもので、わからん、投げたいとその先輩は泣いていた。
「高橋くん、抽斗多いねえ……それもまたあの記事に繋がったんかな」
「ナオも少ないわけじゃないでしょ」
「いや、ロビンくんのが変に専門性が高い抽斗多いとは思うけど?」
隣は茄子の揚げ浸しをつつきながら、何やら不穏で無責任な会話をしているような気もしなくはないが。
「まあ、クオリアの話で伝わるなら、それで構わないよ。で、高橋くん、キミの現実にリャナン・シー、ないし理想の美女は現れたかい?」
その目にまた緑色を揺らめかせて、紀美は薄く笑ったまま首を傾げた。
理想かどうかとその胡散臭さと性別を置いとけば、むしろ絶世の美人は貴方ではとツッコミたい気持ちを心の押入れに押し込めて、純也は首を横に振った。
「だよね。だって、それならキミは今頃ストーカー被害を訴えて狂言とはき捨てられてるか、既にリャナン・シーの虜であることを受け入れてるか、どちらかだもの」
そう語る様子はどこか愉快そうに見えるが、語る内容が愉快に語られてはたまらない代物である。
二つ目の唐揚げを齧りつつ紀美が言う。
そういえば、頼む時にやたら唐揚げを推してたのは彼だった気がする。好物なのだろうか。
「つまり、キミはリャナン・シーに憑かれている、と言える状態だと思うんだ」
ちょっと含みのある言い方である。
はあ、という純也の受け答えを気にせず、油の付いた唇をぺろりと舐めて紀美は続ける。
「ただ、十分かというと、不十分ではあるよね」
「不十分、ですか」
「うん。まあ、そもそもリャナン・シーの現在一般の認識の成立には、イェイツの影響もあるんだけど……それからすると、まず彼女は対象者の現実に現れるはずなんだ」
こつこつ、と紀美は、よく見れば男性らしい太さの人差し指の指先でテーブルを叩く。
「俺の、現実?」
「高橋くん、キミ、頭悪くない方だろ? 僕らにとっての現実ってつまり、世界からの働きかけを感覚器が受けた刺激がパルスという電気信号に変換されて、神経を流れた先の脳で受容されて再構築されたもの、翻訳されたもの、だぜ? 本当に現実という再構築された書き割りが誰にとっても同じか、そもそも本当に現実そのままを僕らが見てるのかなんて、誰にもわかんないよ。翻訳過程で類像現象やパレイドリアのような、本来的にランダムで無意味な図形や音に対して、既存の意味あるシンボルの紐づけが誤って行われる事もあるわけだし。なべて人は、信じたいものを見るわけだ」
妙に実感のこもった口調で、紀美はイヤミはないにやっとした笑みを浮かべる。
『不思議の国のアリス』で言うなら、彼はチェシャ猫だろうか。それとも、イカれ帽子屋? いや、そもそもアリスは純也のようなアラサーの男などではないのだが。
類像現象については知っている。多く心霊写真の原因とも言われるそれは、紀美が言った通りで、具体的には三つの点がそれらしく並んでいたら、人はそれを人の顔として認知してしまう、というものである。
パレイドリアもそれに類する、というか逆に類像現象がパレイドリアの一種、というような包括関係だったような。
「……クオリアの話、ということで?」
「そうそう。なんなら、ジャン=ジャック・ラカンの精神分析における現実界と想像界でもいいけど、知ってるかな」
面白そうにそう言ってのけた紀美を嗜めるように、その横のロビンがポテトをつまみつつ渋面で、センセイ、と声をかける。
最早弟子というよりお目付け役というところだろう。
「流石にそこまでは……なんか、難しいとは聞いたことがあるやつですね」
純也が所属していた五割が幽霊の人数はやたらいる文芸サークルにいた心理学科の先輩かなんかが、サークル棟で頭から湯気を出しそうになりながらレポート用に本を読んでいた気がする。
その人の本自体も、大量の草稿だかメモ書きだかを本人の死後にまとめて出版したとかいうもので、わからん、投げたいとその先輩は泣いていた。
「高橋くん、抽斗多いねえ……それもまたあの記事に繋がったんかな」
「ナオも少ないわけじゃないでしょ」
「いや、ロビンくんのが変に専門性が高い抽斗多いとは思うけど?」
隣は茄子の揚げ浸しをつつきながら、何やら不穏で無責任な会話をしているような気もしなくはないが。
「まあ、クオリアの話で伝わるなら、それで構わないよ。で、高橋くん、キミの現実にリャナン・シー、ないし理想の美女は現れたかい?」
その目にまた緑色を揺らめかせて、紀美は薄く笑ったまま首を傾げた。
理想かどうかとその胡散臭さと性別を置いとけば、むしろ絶世の美人は貴方ではとツッコミたい気持ちを心の押入れに押し込めて、純也は首を横に振った。
「だよね。だって、それならキミは今頃ストーカー被害を訴えて狂言とはき捨てられてるか、既にリャナン・シーの虜であることを受け入れてるか、どちらかだもの」
そう語る様子はどこか愉快そうに見えるが、語る内容が愉快に語られてはたまらない代物である。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる