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閑話2 蛍招き
8 山路は黄泉路
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◆
どれほど歩いた頃だろう。
絶対こんなに時間はかからないが、それでももう少しで戻れる、という確信ができたぐらいだ。
「日本神話における冥界を指すと言われる黄泉、という言葉の語源には幾つか説があってね」
そんな風に、青年が口を開いた。
「黄泉に黄色い泉と字を当てるのは、大陸の影響下である証拠ではあるんだけど、そうした字義は置いといて、よみという大和言葉の音の語源、といったところだね」
蛍を肩にくっつけたまま、奈月ははあ、とだけ答えた。
「一つの有力な説として、よみの古形は『古事記』で出てくる黄泉神や黄泉大神で見られるように、よもであって、この語自体がやまの母音変換で作られた語なのではないか、というのがある」
「やまって普通にその辺の山のやまですか?」
そうだよ、と呑気な声が返ってくる。
「というのも、古代日本の葬送地は山であったと考えられるからだ。古墳だって山を造成するようなものだしね。そうした山への意識が垣間見えるのは『万葉集』にある柿本人麻呂の長歌における『嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易の山に わが恋ふる 妹は座ますと 人の言へば 石根さくみて なづみ来し 吉けくもそなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば』の節や、この長歌の後に収録されてる『衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし』かな。どちらも亡くなった妻を題材として、前者は嘆いてもどうしようもない中、羽易の山に妻がいると人に言われてやって来たが、ほんの僅かにも見えやしない、後者は引手の山に妻の遺体を葬って山道を行くのは生きた心地がしないという歌だ」
少しだけ、髪の毛が後ろに引かれた気がしたが振り向かずに青年を見上げる。
「死んだはずのお前の妻がどこそこの山にいる、なんて他人が言う時点でおかしいのさ。なら、考えられるのは、その根底に死者は山にいてしかるべきという考えがあるということ。山は人から見たら身近な他の世界だったんだ」
さあっと前の方から少し強く、先程の生温い風とは全く違う涼しく爽やかな風が吹き抜けた。
同時に肩から蛍がひらりと飛び上がって、風に乗るように今来た方に飛んで行ってしまう。
「あ、待って」
思わず振り返ってしまったが、止められる事はない。
そして、今まで歩いてきたほど長くはない道の上を待つことなく、蛍の光がひらりと遠ざかる。
「……」
「もう少し先で大きな道路に出るでしょ? そこまで送るね」
呆然と佇む奈月の横に立ち、去っていく蛍を見送った青年がそう告げてくる。
それでも、名残惜しくて動けない奈月に苦笑すると青年は口を開いた。
「時間も事象も本質的には不可逆。過ぎた事をなかった事にはできないように、失ったものを戻す事はできないよ。たとえ神代であっても、冥界下りは何らかの犠牲なしに実ることはないし、生者が死者を冥界から連れて出るのも同じことだ。でも」
そこで目を細めて、少し悪戯っぽく青年は笑った。
「招くのは別。それに応じるかどうか、は死者の側に、許すかどうかは冥界の側に権利がある。そして、キミはもうやり方、わかっただろ?」
「……そう、ですね」
そう答えて、笑おうとして、うまく笑えた気はしなかった。
そして、そんな少ししんみりした空気を
「いたー!」
大きな女性の声が切り裂いた。
目の前の青年がやけにびくっとして、奈月が声のした方に目を向ければ、ウルフヘアのおねえさんが一人、こちらに猛ダッシュで駆けて来る。
「何してんですか、先生!」
なかなかのスピードでここまで駆けて来たおねえさんは、息を切らすこともなく、青年を先生と呼びつつも、完全に叱り飛ばすトーンでそう言った。
青年の方は肩身が狭そうに身を竦めている。
「いや、その、ちょっと、案内、みたいな?」
視線を逸らしながら答える青年をじっとりとした目でたっぷり睨めつけてから、彼女は気を取り直したように奈月の方を見た。
「まー、起きた事は仕方ないので、後回しにするとして」
空気からして、お説教するのは確定なんだ、と奈月は確信した。
「こんな不審者でしかない上に、頼りなく見える先生だけじゃアレでしょう。わたしも一緒に送りますよ」
「頼りなく見えるは余計じゃない?」
先生と呼んでる割に扱いが雑な気がするし、青年側も不審者扱いに慣れ過ぎている。
「それは五点接地法できるようになってから言ってください」
「いや、それはできる人の方が少ないからね?」
ハードルが高いのか低いのかわからない二人に挟まれて、奈月は今度こそ、声を上げて笑ったのだった。
どれほど歩いた頃だろう。
絶対こんなに時間はかからないが、それでももう少しで戻れる、という確信ができたぐらいだ。
「日本神話における冥界を指すと言われる黄泉、という言葉の語源には幾つか説があってね」
そんな風に、青年が口を開いた。
「黄泉に黄色い泉と字を当てるのは、大陸の影響下である証拠ではあるんだけど、そうした字義は置いといて、よみという大和言葉の音の語源、といったところだね」
蛍を肩にくっつけたまま、奈月ははあ、とだけ答えた。
「一つの有力な説として、よみの古形は『古事記』で出てくる黄泉神や黄泉大神で見られるように、よもであって、この語自体がやまの母音変換で作られた語なのではないか、というのがある」
「やまって普通にその辺の山のやまですか?」
そうだよ、と呑気な声が返ってくる。
「というのも、古代日本の葬送地は山であったと考えられるからだ。古墳だって山を造成するようなものだしね。そうした山への意識が垣間見えるのは『万葉集』にある柿本人麻呂の長歌における『嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易の山に わが恋ふる 妹は座ますと 人の言へば 石根さくみて なづみ来し 吉けくもそなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば』の節や、この長歌の後に収録されてる『衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし』かな。どちらも亡くなった妻を題材として、前者は嘆いてもどうしようもない中、羽易の山に妻がいると人に言われてやって来たが、ほんの僅かにも見えやしない、後者は引手の山に妻の遺体を葬って山道を行くのは生きた心地がしないという歌だ」
少しだけ、髪の毛が後ろに引かれた気がしたが振り向かずに青年を見上げる。
「死んだはずのお前の妻がどこそこの山にいる、なんて他人が言う時点でおかしいのさ。なら、考えられるのは、その根底に死者は山にいてしかるべきという考えがあるということ。山は人から見たら身近な他の世界だったんだ」
さあっと前の方から少し強く、先程の生温い風とは全く違う涼しく爽やかな風が吹き抜けた。
同時に肩から蛍がひらりと飛び上がって、風に乗るように今来た方に飛んで行ってしまう。
「あ、待って」
思わず振り返ってしまったが、止められる事はない。
そして、今まで歩いてきたほど長くはない道の上を待つことなく、蛍の光がひらりと遠ざかる。
「……」
「もう少し先で大きな道路に出るでしょ? そこまで送るね」
呆然と佇む奈月の横に立ち、去っていく蛍を見送った青年がそう告げてくる。
それでも、名残惜しくて動けない奈月に苦笑すると青年は口を開いた。
「時間も事象も本質的には不可逆。過ぎた事をなかった事にはできないように、失ったものを戻す事はできないよ。たとえ神代であっても、冥界下りは何らかの犠牲なしに実ることはないし、生者が死者を冥界から連れて出るのも同じことだ。でも」
そこで目を細めて、少し悪戯っぽく青年は笑った。
「招くのは別。それに応じるかどうか、は死者の側に、許すかどうかは冥界の側に権利がある。そして、キミはもうやり方、わかっただろ?」
「……そう、ですね」
そう答えて、笑おうとして、うまく笑えた気はしなかった。
そして、そんな少ししんみりした空気を
「いたー!」
大きな女性の声が切り裂いた。
目の前の青年がやけにびくっとして、奈月が声のした方に目を向ければ、ウルフヘアのおねえさんが一人、こちらに猛ダッシュで駆けて来る。
「何してんですか、先生!」
なかなかのスピードでここまで駆けて来たおねえさんは、息を切らすこともなく、青年を先生と呼びつつも、完全に叱り飛ばすトーンでそう言った。
青年の方は肩身が狭そうに身を竦めている。
「いや、その、ちょっと、案内、みたいな?」
視線を逸らしながら答える青年をじっとりとした目でたっぷり睨めつけてから、彼女は気を取り直したように奈月の方を見た。
「まー、起きた事は仕方ないので、後回しにするとして」
空気からして、お説教するのは確定なんだ、と奈月は確信した。
「こんな不審者でしかない上に、頼りなく見える先生だけじゃアレでしょう。わたしも一緒に送りますよ」
「頼りなく見えるは余計じゃない?」
先生と呼んでる割に扱いが雑な気がするし、青年側も不審者扱いに慣れ過ぎている。
「それは五点接地法できるようになってから言ってください」
「いや、それはできる人の方が少ないからね?」
ハードルが高いのか低いのかわからない二人に挟まれて、奈月は今度こそ、声を上げて笑ったのだった。
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