40 / 266
2-2 山と神隠し side B
5 壺中異界
しおりを挟む
◆
弘はぼーっと過ぎゆくのどかな車窓の外を見ていた。
ボックスタイプの座席の向かい側で、ロビンは抱えたリュックによりかかって、うつらうつらと船を漕いでいる。
あの後少ししてから、蓬のスマートフォンに武が気がついたという旨の連絡が来たのを機に、解散とあいなったのだ。
平日の午後も早めの時間なので、少なくとも車両単位で貸し切り状態である。
「あ」
「んぐ……う?」
不意に思い出して声をあげれば、ロビンが寝ぼけ眼で、それでも何があったのかという意を含んだ声をあげた。
「ああ、いや、大したことじゃないんです」
「…………人を起こしといて、それはなくない?」
至極ごもっともな意見である。
「いえ、あの、ハーバリウムと壺中之天の件で」
「ん……ああ、三壺のこと?」
「ええ、まあ……ロビンが知ってて自分が知らないのは癪ですけど」
素直に言えば、ロビンは確かに、と言いながら、くすくすと笑った。
「まあ、それだけ知ろうとしなきゃわからないものが転がってるってことだよね。『三壺に雲浮ぶ 七万里の程に浪を分かつ』は都良香の神仙策だっけ」
そんなんでわかるか、と思う。
そしてこの兄弟子は、それもちゃんとわかっている。
「でも、流石にヒロだって蓬莱ぐらいわかるだろ?」
「そりゃまあ、そんな有名どころ、知ってるに決まってるじゃないですか。神仙思想における異界の一つ。中国東方にあるとされる島の一つですよね」
浦島太郎の原型、丹後国風土記逸文の浦嶋子伝説の「蓬山」と書いて、「とこよのくに」と読ませるものは、この蓬莱から来ているのではないか、というところまでは履修済みである。そこは腐ってもそういう家系なので。
ロビンはがさごそと抱えたリュックからメモとペンを取り出して、眉間にしわを寄せ、何度かぐしゃぐしゃと塗り潰しながら書いたページを切り取って弘に差し出す。
「その蓬莱に、瀛洲と方丈を加えたのが三壺。それぞれを蓬壺、瀛壺、方壺とも呼ぶ……この場合、日本語だと蓬莱と方丈が同音になるんだけどね」
案の定というか、瀛洲、瀛壺だけやたら書き損じの痕跡が多く、また一文字もやたらデカい。
とはいえ、たぶん弘も書いてみたら、同じ風なことにはなるだろうという自信がある。そんな事に自信など持ちたくなかったが。
「壺なんですねえ……」
「壺のような山、らしいからね」
それを聞いて、なるほど、と弘の中で合点がいく。
「仙境は壺の中に……そのイメージの行き着いた果てが壺中之天と」
壺中之天。壺中天。壺中の天地。
中国は後漢における一介の役人が仙道を志すきっかけとなった、薬売りの老人の持つ壺の中の素晴らしき別天地のエピソードから生まれた言葉だ。
「まあ、考えられるレベルだけど……さらに突き詰めれば王昌齢の『一片の氷心 玉壷に在り』も壺の外と中で俗と聖をわけたとも思えるね」
何故そこまで知っているんだ、この兄弟子は。
そう脳裏を過ぎるが、いつもの事なので弘はそれだけに留める。
なんなら、ロビンにはその思いは既にバレてるし、たぶんイヤなら勉強しろぐらいには思っている気配がする。
「西洋だと壺や瓶は生命の水の器というイメージが強い。マルセイユ版タロットの節制とか、正に壺から壺への移し替えだし……まあ生命の水が後世、ウイスキーやスピリットみたいに、強いアルコールを指すようになったことを考えれば、酒神ディオニュソスの酒甕とかの影響もあるのかもね……あ、いやエジプトのカノプス壺とかもあるのかな」
「ロビン、ロビン」
弘はそのまま自身の思考の淵に沈んでいきそうなロビンに呼びかける。
弘はぼーっと過ぎゆくのどかな車窓の外を見ていた。
ボックスタイプの座席の向かい側で、ロビンは抱えたリュックによりかかって、うつらうつらと船を漕いでいる。
あの後少ししてから、蓬のスマートフォンに武が気がついたという旨の連絡が来たのを機に、解散とあいなったのだ。
平日の午後も早めの時間なので、少なくとも車両単位で貸し切り状態である。
「あ」
「んぐ……う?」
不意に思い出して声をあげれば、ロビンが寝ぼけ眼で、それでも何があったのかという意を含んだ声をあげた。
「ああ、いや、大したことじゃないんです」
「…………人を起こしといて、それはなくない?」
至極ごもっともな意見である。
「いえ、あの、ハーバリウムと壺中之天の件で」
「ん……ああ、三壺のこと?」
「ええ、まあ……ロビンが知ってて自分が知らないのは癪ですけど」
素直に言えば、ロビンは確かに、と言いながら、くすくすと笑った。
「まあ、それだけ知ろうとしなきゃわからないものが転がってるってことだよね。『三壺に雲浮ぶ 七万里の程に浪を分かつ』は都良香の神仙策だっけ」
そんなんでわかるか、と思う。
そしてこの兄弟子は、それもちゃんとわかっている。
「でも、流石にヒロだって蓬莱ぐらいわかるだろ?」
「そりゃまあ、そんな有名どころ、知ってるに決まってるじゃないですか。神仙思想における異界の一つ。中国東方にあるとされる島の一つですよね」
浦島太郎の原型、丹後国風土記逸文の浦嶋子伝説の「蓬山」と書いて、「とこよのくに」と読ませるものは、この蓬莱から来ているのではないか、というところまでは履修済みである。そこは腐ってもそういう家系なので。
ロビンはがさごそと抱えたリュックからメモとペンを取り出して、眉間にしわを寄せ、何度かぐしゃぐしゃと塗り潰しながら書いたページを切り取って弘に差し出す。
「その蓬莱に、瀛洲と方丈を加えたのが三壺。それぞれを蓬壺、瀛壺、方壺とも呼ぶ……この場合、日本語だと蓬莱と方丈が同音になるんだけどね」
案の定というか、瀛洲、瀛壺だけやたら書き損じの痕跡が多く、また一文字もやたらデカい。
とはいえ、たぶん弘も書いてみたら、同じ風なことにはなるだろうという自信がある。そんな事に自信など持ちたくなかったが。
「壺なんですねえ……」
「壺のような山、らしいからね」
それを聞いて、なるほど、と弘の中で合点がいく。
「仙境は壺の中に……そのイメージの行き着いた果てが壺中之天と」
壺中之天。壺中天。壺中の天地。
中国は後漢における一介の役人が仙道を志すきっかけとなった、薬売りの老人の持つ壺の中の素晴らしき別天地のエピソードから生まれた言葉だ。
「まあ、考えられるレベルだけど……さらに突き詰めれば王昌齢の『一片の氷心 玉壷に在り』も壺の外と中で俗と聖をわけたとも思えるね」
何故そこまで知っているんだ、この兄弟子は。
そう脳裏を過ぎるが、いつもの事なので弘はそれだけに留める。
なんなら、ロビンにはその思いは既にバレてるし、たぶんイヤなら勉強しろぐらいには思っている気配がする。
「西洋だと壺や瓶は生命の水の器というイメージが強い。マルセイユ版タロットの節制とか、正に壺から壺への移し替えだし……まあ生命の水が後世、ウイスキーやスピリットみたいに、強いアルコールを指すようになったことを考えれば、酒神ディオニュソスの酒甕とかの影響もあるのかもね……あ、いやエジプトのカノプス壺とかもあるのかな」
「ロビン、ロビン」
弘はそのまま自身の思考の淵に沈んでいきそうなロビンに呼びかける。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ill〜怪異特務課事件簿〜
錦木
ホラー
現実の常識が通用しない『怪異』絡みの事件を扱う「怪異特務課」。
ミステリアスで冷徹な捜査官・名護、真面目である事情により怪異と深くつながる体質となってしまった捜査官・戸草。
とある秘密を共有する二人は協力して怪奇事件の捜査を行う。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
焔鬼
はじめアキラ@テンセイゲーム発売中
ホラー
「昨日の夜、行方不明になった子もそうだったのかなあ。どっかの防空壕とか、そういう場所に入って出られなくなった、とかだったら笑えないよね」
焔ヶ町。そこは、焔鬼様、という鬼の神様が守るとされる小さな町だった。
ある夏、その町で一人の女子中学生・古鷹未散が失踪する。夜中にこっそり家の窓から抜け出していなくなったというのだ。
家出か何かだろう、と同じ中学校に通っていた衣笠梨華は、友人の五十鈴マイとともにタカをくくっていた。たとえ、その失踪の状況に不自然な点が数多くあったとしても。
しかし、その古鷹未散は、黒焦げの死体となって発見されることになる。
幼い頃から焔ヶ町に住んでいるマイは、「焔鬼様の仕業では」と怯え始めた。友人を安心させるために、梨華は独自に調査を開始するが。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる