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シュミエールの雑記
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ちょっとした思いつきで書く日課的な文章。これはシュミエールが日頃の生活のなかで感じてきたことを、言語化して、その考えのいくらかを正確に記述しようと試みた軌跡ともいえる。
言語化できないという言葉がある。それは言葉にできないという状況において用いられることが多く、そのときは少しも言葉を用いようとしないことが多いのではないか。
その延長で、では実際に私たちは常に言語化できているのかと考えてみる。言語化するという行為を、対象Aから対象B(すなわち言語)への写像(主にデータの圧縮であると言語化作業は仮定できる)であると考えたときに、情報量はまず間違いなく減少しているといえるのではないか。
これは感覚的にも正しいと思っていて、たとえば風景描写を試みたときに、その心に浮かぶ様々な情景を言葉を用いて言い表すとき、人間は限定的に何かを切り取ってそれを言葉に置き換えようとする。その限定的選択からすでに情報の圧縮は行われているわけであるし、限定的に選択した何かを言語へと置き換えるときにおいても、媒体の変化による情報量の削減が生じていると考えるのが自然である。
しかし、そのようなことを考えると、【感じている】の時点ですでに人間はこの世界の本質をどこか取りこぼしてしまっているのではないかとも考えられる。
切り取って限定的に選択して、それをコミュニケーション可能な媒体で表現することで確かに情報量やその情報の質は変化してしまうかもしれないが、人間は歴史的にみて、そこを拠り所にしてやっと文化的な展開を可能にしてきたともいえる。
全てをとらえきれないことに嘆く感受性の豊かな人は確かに多いかもしれない。それは特に芸術の世界で多く見てきたことでもある。シュミエール自身がかつてそうだったことからも、実感としてそれは存在する。
ただ、ここまで述べてきたことはあくまで言語的領域における考察に留まっている。それが正しいものであるのか、正しくないものであるのかは言語的には何も証明できないだろう。そもそも言語的に証明するという言葉の真偽すら定かではない。
だからこそ人間は科学的根拠というものを最近になってから拠り所にしてきたわけだ。しかしそれの効力も非常に限定的であるということは、心理学やより人間を対象にした質的ともいえる研究をみれば一目瞭然だろう。再現性の危機などという言葉が有名になってから、ようやっとこれは公然の了解となった。科学も万能ではないと。
身近な物理現象を見るまではよかった。しかし、それがミクロになったり、マクロになったりした途端に、今までの理論体系では説明が付かなくなってしまう。経験的に導かれた理論や定説が、実は近似的なものであったということが見えてきた場合もある。
人間に扱えない範囲というところへ果敢に挑戦していくこと。これに科学の本質的な面白さがあるのかもしれないが、現実的には社会の実際的な興味と切実な願いはそこにはなくなりつつある。科学研究費が日々削減されていく国家や機関も多くなってきている。だから大資本を持っていることがより有意義な科学研究を行うための必要最低条件になりつつあるのではないだろうか。
言語と科学。それはよく対立的に対話を行うことが多い。哲学でしか救えない何かがある。科学でしか救えない何かがある。その二項対立的な位置関係という構図は、世の中の至るところに広がっていることが把握できる。
その対立は要するに、方法的な見地からの対立である場合があったり、概念的な正負の対立であったり、思想的な正負の対立、利益追求的な意志の対立であったりする場合など、複数の状況が考えられる。
思えばどうして世の中は二項対立に収束していくのだろうか。三項対立という構図が散見されてもいいではないか。もちろん複数の勢力というものは存在しているが、大きくみてそれは二つの括りに入れられていることが多い。戦争であっても、流行りの思想であっても、同様である。
グラデーションのなかで生きる人がいないわけでもない。しかし、それは自覚的にそうしているだけであることが多く、本質的に人間はそのグラデーションのなかで、積極的に偏ることで世の中を限定的に生きているともいえる。そうしないと考えることは非常に難しくなるといっていい。シュミエールもそれは実感として体験している。あらゆる物事に常に漂うだけではうまく思考が前に進んでいかないのだ。
つまり、最初のほうで書いてきた【情報量の削減】的に生きている人類という存在に、今こうして紆余曲折的な文章を書きながら到達したわけだ。別に偏った思想を持つことを肯定しているわけでも、否定しているわけでもない。ただ、ここまでのことを踏まえて言えることとしては、その偏りのなかでしかうまく考えることのできない人間という生命の在り方について、自覚的になって生きるということが大切だということだ。
そうすれば、何も意味もなく人に暴言を吐く人はいなくなるし、匿名になって好き放題わる愚痴を言う人も少なくなる。自らがどのような根源的束縛をうけながら生きているかを考えるだけで、生き方の態度も言動も、存在すらまでも、何もかもが変化してくるとシュミエールは感じている。実際にシュミエールが変われているかなど、自信をもっていう事などとてもできないが。
シュミエールは最近になってSF小説やSF映画を好んでみるようになった。コンテンツとしての創造の幅が比較的かなり広大であるのがSFの魅力だと感じているようだった。
古典的名作を読んでいると、シュミエールはしばしば当時の未来であった現実を通りこして生きている自らを自覚することがある。そしてその名作のなかとは乖離した現実的世界を見出して、その差異について考えることがある。
想像した未来であるから差異が生じてくるのは自明なことだ。しかし、その差異はどうして差異のままになったのだろうか。当時の作家があまりにも具体的に未来を描写しすぎたから、少しも的を得ないまま現実はそれを掠めていったとでもいうのだろうか。それとも現実がその差異を意識して作り出したとでもいうのだろうか。もしくはそのどちらもなのだろうか。
SFはまだ見ぬ・想像できぬ未来の可能性を提示する役割がある、と主張している人を見かけたことがある。その創造された未来は、主に科学のなかに落とし込まれて実証的な過程をへて、ついには社会を変えるに至る。その原動力としてSFは機能することがある、と。
これは言葉が未来を変えるということの具体的な例であるといえる。人は自らが望まないものには、ならない生き物であるし、それは大人になって夢を諦めたひとが決して夢を実現できないところを見ていると確かなように思える。
なりたい姿を言葉にする、創造する。だからこそ、それが未来において実現される可能性が生じてくる。可能性とはそういうものだろう。サイコロを適当にふって6の目がでたから、ラッキーと思うことには何も確率的な意味が込められていない。そこには可能性の領域外の世界が広がっているだけだ。そこに可能性が生まれる、確率が生まれるためには、サイコロの6の目が出て欲しいの願いながらサイコロを振ることが必要だ。そうでなければ、何も人生の醍醐味など生まれることはないだろう。
全ては何かを望むことだ。そしてそれに対して愚直に考えながら突き進むことだ。それこそが可能性を初めて自らのうちに取り込むことを可能にして、実現するという言葉を生みだすに至るのだ。
それが人類の歴史であり、これからの未来でもある。そしてそこにSFは大きな意味をもちつつある。世の中は最近になって思想的な停滞を見せ始めていると感じている人は多いと思う。自らは文明の先端に立っていると思っている傲慢な人間だという人は、自覚的に手をあげて欲しい。さすれば、彼らは少しも世の中を理解していないと大勢のひとがこぞって指を差し向けることだろう。
人類にとって停滞とは何か。そしてそれが部分的に停滞している状況、要するに周りを見渡すと何も停滞などしていない国や地域がある状況を見て思うことは何か。
停滞のなかで人はおおよその場合、無意識のうちに堕落していくものだ。哀しいかな。それは歴史的な視点からみると明らかである可能性が高い。平和的停滞のなかであれば、それはさらに大きな影響力をもつのかもしれない。
堕落していく。それは思想的なものであることがほとんどではないだろうか。そもそも堕落している思想とは一体どういったものだろう。英雄的気質がすっかり失われてしまった、向上心のない集団にある精神だろうか。それとも幸せになりたいと盲目になっている現代人の途方もない欲求不満の表れだろうか。
恋愛的な価値観も凄まじいスピードで変遷している。ポリアモリーという言葉が世間をざわつかせたことも記憶に新しい。多様性をみとめる、という言葉に対してそれは多数派が少数派を認めてあげる、といったような上から目線の態度で気に食わないなどといった、そのような考え方も出てきている。
多様性を大切にする。もちろん、それは恋愛的なことであっても、それ以外のことであっても大切なことであるに違いない。それは正しいことだとシュミエールは思っている。しかしその主張の本質的でないところで、多様性は便利な道具であるかのように、その概念を歪にゆがめてしまっていることも確かなことであるように思える。
概念はしばしば道具にされる。それが利益追求のために用いられることもある。詐欺的な行為に悪用されることもある。新しく出てきた概念に馴染みがない場合は特にそのような現象が顕著に生じてくるのは人の世の定めとでもいうべきものだろう。
良質なSFはそこまでを記述しようとする。羨望的な技術の明るい面から暗部にいたるまで、予測的に書こうとする。そして社会に余力があれば、それを参考にして、時に脱線して差異を生み出していこうとする。
古典SFに見られる現実的差異とは、偶然的なものではなく、社会が選択的に生み出した結果であると想像すれば、SFはとても魅力的なものに映ってくるとシュミエールは考えている。
そしてシュミエールはそうしたSFを読んでいきたいし、書いていきたいと強く願っている。
シュミエールは本を閉じた。そして目を閉じる。
脳裏には歴代のSF作家がいつ死んだかという西暦年が浮かび上がる。そして次第に薄れていく存在感を思う。埋もれていく偉大なる人たちに思いを馳せる。
シュミエールは生きることの意味を追求し始めている。
いまはまだ、恐ろしく思うことがたくさんあるが、いつか。
いつか……
なにか大切なことに思い至ることを願って。
今日も何を感じながら……
繊細に、敏感に……
強く世界に存在を認めながら……
【完】
言語化できないという言葉がある。それは言葉にできないという状況において用いられることが多く、そのときは少しも言葉を用いようとしないことが多いのではないか。
その延長で、では実際に私たちは常に言語化できているのかと考えてみる。言語化するという行為を、対象Aから対象B(すなわち言語)への写像(主にデータの圧縮であると言語化作業は仮定できる)であると考えたときに、情報量はまず間違いなく減少しているといえるのではないか。
これは感覚的にも正しいと思っていて、たとえば風景描写を試みたときに、その心に浮かぶ様々な情景を言葉を用いて言い表すとき、人間は限定的に何かを切り取ってそれを言葉に置き換えようとする。その限定的選択からすでに情報の圧縮は行われているわけであるし、限定的に選択した何かを言語へと置き換えるときにおいても、媒体の変化による情報量の削減が生じていると考えるのが自然である。
しかし、そのようなことを考えると、【感じている】の時点ですでに人間はこの世界の本質をどこか取りこぼしてしまっているのではないかとも考えられる。
切り取って限定的に選択して、それをコミュニケーション可能な媒体で表現することで確かに情報量やその情報の質は変化してしまうかもしれないが、人間は歴史的にみて、そこを拠り所にしてやっと文化的な展開を可能にしてきたともいえる。
全てをとらえきれないことに嘆く感受性の豊かな人は確かに多いかもしれない。それは特に芸術の世界で多く見てきたことでもある。シュミエール自身がかつてそうだったことからも、実感としてそれは存在する。
ただ、ここまで述べてきたことはあくまで言語的領域における考察に留まっている。それが正しいものであるのか、正しくないものであるのかは言語的には何も証明できないだろう。そもそも言語的に証明するという言葉の真偽すら定かではない。
だからこそ人間は科学的根拠というものを最近になってから拠り所にしてきたわけだ。しかしそれの効力も非常に限定的であるということは、心理学やより人間を対象にした質的ともいえる研究をみれば一目瞭然だろう。再現性の危機などという言葉が有名になってから、ようやっとこれは公然の了解となった。科学も万能ではないと。
身近な物理現象を見るまではよかった。しかし、それがミクロになったり、マクロになったりした途端に、今までの理論体系では説明が付かなくなってしまう。経験的に導かれた理論や定説が、実は近似的なものであったということが見えてきた場合もある。
人間に扱えない範囲というところへ果敢に挑戦していくこと。これに科学の本質的な面白さがあるのかもしれないが、現実的には社会の実際的な興味と切実な願いはそこにはなくなりつつある。科学研究費が日々削減されていく国家や機関も多くなってきている。だから大資本を持っていることがより有意義な科学研究を行うための必要最低条件になりつつあるのではないだろうか。
言語と科学。それはよく対立的に対話を行うことが多い。哲学でしか救えない何かがある。科学でしか救えない何かがある。その二項対立的な位置関係という構図は、世の中の至るところに広がっていることが把握できる。
その対立は要するに、方法的な見地からの対立である場合があったり、概念的な正負の対立であったり、思想的な正負の対立、利益追求的な意志の対立であったりする場合など、複数の状況が考えられる。
思えばどうして世の中は二項対立に収束していくのだろうか。三項対立という構図が散見されてもいいではないか。もちろん複数の勢力というものは存在しているが、大きくみてそれは二つの括りに入れられていることが多い。戦争であっても、流行りの思想であっても、同様である。
グラデーションのなかで生きる人がいないわけでもない。しかし、それは自覚的にそうしているだけであることが多く、本質的に人間はそのグラデーションのなかで、積極的に偏ることで世の中を限定的に生きているともいえる。そうしないと考えることは非常に難しくなるといっていい。シュミエールもそれは実感として体験している。あらゆる物事に常に漂うだけではうまく思考が前に進んでいかないのだ。
つまり、最初のほうで書いてきた【情報量の削減】的に生きている人類という存在に、今こうして紆余曲折的な文章を書きながら到達したわけだ。別に偏った思想を持つことを肯定しているわけでも、否定しているわけでもない。ただ、ここまでのことを踏まえて言えることとしては、その偏りのなかでしかうまく考えることのできない人間という生命の在り方について、自覚的になって生きるということが大切だということだ。
そうすれば、何も意味もなく人に暴言を吐く人はいなくなるし、匿名になって好き放題わる愚痴を言う人も少なくなる。自らがどのような根源的束縛をうけながら生きているかを考えるだけで、生き方の態度も言動も、存在すらまでも、何もかもが変化してくるとシュミエールは感じている。実際にシュミエールが変われているかなど、自信をもっていう事などとてもできないが。
シュミエールは最近になってSF小説やSF映画を好んでみるようになった。コンテンツとしての創造の幅が比較的かなり広大であるのがSFの魅力だと感じているようだった。
古典的名作を読んでいると、シュミエールはしばしば当時の未来であった現実を通りこして生きている自らを自覚することがある。そしてその名作のなかとは乖離した現実的世界を見出して、その差異について考えることがある。
想像した未来であるから差異が生じてくるのは自明なことだ。しかし、その差異はどうして差異のままになったのだろうか。当時の作家があまりにも具体的に未来を描写しすぎたから、少しも的を得ないまま現実はそれを掠めていったとでもいうのだろうか。それとも現実がその差異を意識して作り出したとでもいうのだろうか。もしくはそのどちらもなのだろうか。
SFはまだ見ぬ・想像できぬ未来の可能性を提示する役割がある、と主張している人を見かけたことがある。その創造された未来は、主に科学のなかに落とし込まれて実証的な過程をへて、ついには社会を変えるに至る。その原動力としてSFは機能することがある、と。
これは言葉が未来を変えるということの具体的な例であるといえる。人は自らが望まないものには、ならない生き物であるし、それは大人になって夢を諦めたひとが決して夢を実現できないところを見ていると確かなように思える。
なりたい姿を言葉にする、創造する。だからこそ、それが未来において実現される可能性が生じてくる。可能性とはそういうものだろう。サイコロを適当にふって6の目がでたから、ラッキーと思うことには何も確率的な意味が込められていない。そこには可能性の領域外の世界が広がっているだけだ。そこに可能性が生まれる、確率が生まれるためには、サイコロの6の目が出て欲しいの願いながらサイコロを振ることが必要だ。そうでなければ、何も人生の醍醐味など生まれることはないだろう。
全ては何かを望むことだ。そしてそれに対して愚直に考えながら突き進むことだ。それこそが可能性を初めて自らのうちに取り込むことを可能にして、実現するという言葉を生みだすに至るのだ。
それが人類の歴史であり、これからの未来でもある。そしてそこにSFは大きな意味をもちつつある。世の中は最近になって思想的な停滞を見せ始めていると感じている人は多いと思う。自らは文明の先端に立っていると思っている傲慢な人間だという人は、自覚的に手をあげて欲しい。さすれば、彼らは少しも世の中を理解していないと大勢のひとがこぞって指を差し向けることだろう。
人類にとって停滞とは何か。そしてそれが部分的に停滞している状況、要するに周りを見渡すと何も停滞などしていない国や地域がある状況を見て思うことは何か。
停滞のなかで人はおおよその場合、無意識のうちに堕落していくものだ。哀しいかな。それは歴史的な視点からみると明らかである可能性が高い。平和的停滞のなかであれば、それはさらに大きな影響力をもつのかもしれない。
堕落していく。それは思想的なものであることがほとんどではないだろうか。そもそも堕落している思想とは一体どういったものだろう。英雄的気質がすっかり失われてしまった、向上心のない集団にある精神だろうか。それとも幸せになりたいと盲目になっている現代人の途方もない欲求不満の表れだろうか。
恋愛的な価値観も凄まじいスピードで変遷している。ポリアモリーという言葉が世間をざわつかせたことも記憶に新しい。多様性をみとめる、という言葉に対してそれは多数派が少数派を認めてあげる、といったような上から目線の態度で気に食わないなどといった、そのような考え方も出てきている。
多様性を大切にする。もちろん、それは恋愛的なことであっても、それ以外のことであっても大切なことであるに違いない。それは正しいことだとシュミエールは思っている。しかしその主張の本質的でないところで、多様性は便利な道具であるかのように、その概念を歪にゆがめてしまっていることも確かなことであるように思える。
概念はしばしば道具にされる。それが利益追求のために用いられることもある。詐欺的な行為に悪用されることもある。新しく出てきた概念に馴染みがない場合は特にそのような現象が顕著に生じてくるのは人の世の定めとでもいうべきものだろう。
良質なSFはそこまでを記述しようとする。羨望的な技術の明るい面から暗部にいたるまで、予測的に書こうとする。そして社会に余力があれば、それを参考にして、時に脱線して差異を生み出していこうとする。
古典SFに見られる現実的差異とは、偶然的なものではなく、社会が選択的に生み出した結果であると想像すれば、SFはとても魅力的なものに映ってくるとシュミエールは考えている。
そしてシュミエールはそうしたSFを読んでいきたいし、書いていきたいと強く願っている。
シュミエールは本を閉じた。そして目を閉じる。
脳裏には歴代のSF作家がいつ死んだかという西暦年が浮かび上がる。そして次第に薄れていく存在感を思う。埋もれていく偉大なる人たちに思いを馳せる。
シュミエールは生きることの意味を追求し始めている。
いまはまだ、恐ろしく思うことがたくさんあるが、いつか。
いつか……
なにか大切なことに思い至ることを願って。
今日も何を感じながら……
繊細に、敏感に……
強く世界に存在を認めながら……
【完】
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