上 下
1 / 1

性病と人類の行く先

しおりを挟む
 新宿にある保健所が運営する無料性病検査サービスを利用するため、平日の水曜日に40代くらいの女性が小さなビルを訪れていた。



 彼女は独身であって、現在は複数の男性と肉体関係をもっているようだった。数週間前から手足に現れた赤い発疹と体の倦怠感から、自己診断で梅毒(※梅毒トレポネーマという細菌が原因で起こる性感染症。)ではないかと不安になり、信頼できる友人に相談したところ、ここを紹介されたという経緯いきさつだった。



 血液検査を終えて、一週間後にふたたび某所に訪れると、結果は陽性だった。インターネットから仕入れた情報では、すでに完治可能な病気とされていることは知っていたが、性病というものの世間的なイメージがあるせいか、彼女は凄まじい自己嫌悪感と将来に対する閉塞感を覚え始めていた。



「私の血は穢れてしまった。せっかくこの世に生まれてきたのに……。どうして今までの私はこうも無責任で遠慮のない性行為ばかりを繰り返してきても平気だったのだろう。どうして私は梅毒を引いてしまったのだろう……」



 考えてみればすぐに答えは出た。しかし、その導き出された正しい性行為の在り方(性病を蔓延させないという意味における、正しい性行為の在り方)を想像して、私はどうしてもある一つの真実めいた結論を導いてしまうのだった。





 ※※性病は人類に与えられた根源的な罪のうちの一つである※※





 この考えは時間が経つにつれて、彼女のこころをほとんど支配するほどに大きな思想となっていった。



 一人だけを愛しぬくこと、そしてなにより性器は純潔であること、それが美徳だという思想が元からあったのではない。それはあくまで道具的な道徳としての表れでしかない。



 初めにあったのは、性病に対する人類の恐怖だ。それこそが人類の思想を作り、社会制度を作り、そして今日こんにちの日常にまで及ぶ常識的なルールを制定した。



 今まではそれに守られていた。その古典的な恋愛観やしきたりというものが、乱れた男女関係というものをある程度抑制できていた。



 しかし、そこに自由の時流がやってきた。古典的で封建的な思想には、無条件で時代遅れのレッテルが張られ、あらゆるものに現代的な価値観が付与されていった。



 古典的で封建的な思想はすでにそれができた原因を失い、結果としてその形骸化された外郭だけが映し出されていたともいえる。だからこそ、そこには新たな原因(のようなもの)が見いだされ、それが正しいものであれ、間違っているものであれ、そこには絶大なエネルギーをもって時代を推し進める力が生み出されていったのだ。



 彼女は現代的で正しい価値観の本質的な部分を見つめることなく、封建的で古典的な制度が守り閉ざしてくれていた、触れてはならない暗部へとずかずかと不用意に踏み入ってしまった。その結果として、梅毒になった。



 彼女の思考回路はついに、ここまで複雑化して、彼女自身の独特な価値観を生み出すにいたった。



 それが良いものであれ、悪いものであれ。



 彼女はその強く確信めいた考えを持ち続けるのだろう。そして決してもう二度と間違いは侵さないと決意を新たにするのだろう。



 それが思想というものの、個人的な本質なのだろう。




「神様、神様どうかお救いください。私たち人類の愚かな行為をどうかお許しください。お見逃しください。私は心を新たにすることであなた様の期待にお応えしたいのです。しかしながら、多くの人間は私のようにはならないでしょう。私利私欲にまみれて一生を終えてしまうのでしょう。だから、だから。どうかどうか、そのような人たちをもお救いください。愚かな人類に対しても最大限の恩寵をお与えください」




 彼女は性病になったことで、宗教に対して信心深くなっていた。もとは無宗教の彼女であったから、特定の神様というものは今も存在していないようだったが。ひたすらに、個人的な信仰のもとに祈り続けていた。



 そして、ふとした瞬間に彼女は天命を授かった。




「よかろう。それではそなたの命と引き換えに、性病を見事、人類のなかから消してみようぞ」




 彼女はその声を聞き届けた、一瞬のうちに息が荒々しくなり、呼吸困難に陥った。その際に……。




(ああ、私はやはり許されなかったのですね。これが性病という根源的な罪を背負ってしまった私の結末なのですね。ああ、もう受け入れる準備はできておりました。ああ……最後ってこんなにも苦しいものなのですね)




 その苦しさを思わせないほどに落ち着いた脳内の言葉が、彼女の存在を埋め尽くした。



 そして彼女は人類の犠牲となった。




 一般的に解釈すればそれは彼女の幻想となった……。






☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆







 大学の研究室にて。



 素粒子物理学を専攻とする教授と助教授は、なにやら怪しげな会話をしている。




助教:「ええ、だから。そうですよ。まもなく私たちの局所的器官空間転移理論が現行の物理法則に上書きされるのです。だから上書きする際のエネルギーを投入するだけで、あとは何もしなくてもいいんです。エネルギーいらないんです」



教授:「しかし、君。そうなれば、秩序的な今までの物理法則が崩壊してしまわないのかね」



助教:「それは天文学的な情報量をわずかな時間で処理できる量子コンピューターを用いたシュミレーションで安全を確認済みです。この未来予測プロジェクトが国家予算で実施されて出来上がった、この予測モデルには欠陥などありませんよ。今までに予測を外したことは一度もないのですから」



教授「いや、もう一つ懸念点があるのだよ。それは人類の感情的な作用は到底予測できまい、そうだろう。いまから実施することが秘密裏に作用した場合に、最悪の結末というものはどう予測するのだ」



助教「それはこのプロジェクトの範疇外ですよ。しかしですね、教授。いまだかつて、科学者が人類を滅ぼしたことはあるでしょうか? 文明が再興しなかった例はあるでしょうか? いえ、ありません。私たち科学者は技術を、ときに隠しながら世の中を変えていく必要があるのですよ」



教授「しかしだな……。性病を根絶するために、利己的な人類の行動をそのままにしながら、性病に感染していない性器同士を性交をさせるなど……。そもそも可能になるとは思えないのだが」



助教「それは私が天命を受けたからこそです。ある日ふっと頭のなかに情報が入り込んできたのです。それはまるで、私個人にむけて地球外生命体がピンポイントで語り掛けてきているような心地でした。理論的な裏付けから、実用可能性まで、ありとあらゆる解決法が、なんの脈絡もなく頭に湧いてきたのです」



教授「私もそれを見させてもらったが、とんでもない飛躍的な理論であった。現在の基礎研究の基盤からは少しもたどり着けない、突然変異を何百回も起こしたような理論であった」



助教「これには私も驚きましたね。もう昨日までの自分との同一性をこれぽっちも感じないのですから。私はおそらく、もうすでに私ではなくなってしまったのでしょう」



教授「……これは極秘だぞ。他言無用だ。絶対に外部に漏らすな。そもそも研究室でやっていいような実験ではない。これは全人類を敵に回すようなものなのだぞ」



助教「物事を変えるには、何かしらの秘密が必要です。それは仕方のないことでしょう。性病がなくなって嬉しくない人間などどこにもいないでしょう」



教授「はぁ……」



助教「教授、これでもう誰も罪悪感なくセックスできるんですよ。誰とでも好きなときに。これほど人類にとって嬉しい瞬間はないんじゃないですか?」



教授「……すでに性病になってしまっている人はどうするのだ?」



助教「それは性病になった性器同士で性交をしてもらうのです。今では多くの性病が完治可能ですし、症状の抑制も可能になってきています。大事なのは、性病になっていない人となっている人を巡り合わせないことなのです。もちろん、常識的な感染予防に関して全くの無知というのもあれですから、そのあたりの宣伝はこれからも行っていくのが妥当でしょうけれど」



教授「……君がどうしてそこまで、性病を嫌っているのかね」



助教「昔に関係をもっていた人が性病で気を病んでしまい、亡くなったのです。それは私にとって、とてもショックなニュースでした。だから私はどんなに非難されようとも、これを遂行する。彼女と僕の正義のために」



教授「セカイ系のSFみたいな展開が本当に現実になるなんてね」



助教「教授、一緒に世界を変えましょうよ」




 ……



 ……



 ……



 こうして二人は多くの葛藤と期待を胸に、物理法則を書き換えるにいたった。上書きするために必要なエネルギーは核融合発電から電磁波として取り出し、11次元の時空間においてそれを局所的に作用させた。上書きするための手順は、ひどくシステマティックなものであり、だからこそ実施することが可能となっていた。もはや原理的なものの理解は伴わない、原因と結果だけがそこにはあった。



 性病の有無は性交したときに感染する確率が天文学的な数値で【きわめて低い】ときを閾値にして設定した。このモデルの多くは確率的な事象から構成されていて、確実に性病を抑える効果があり、現実世界でほころびが生じないように、巧妙にそれは設計されていた。ペアのどちらの性器(性行為が行われる、ありとあらゆる器官がその対象となる)が交換されるかは、需要と供給の関係(情事を行っているペア市場が元になる)から逐次的に決定される。そしてそれは非常にスムーズに行われて、元の性器の形状的な類似性も考慮されている。その誤差はごくわずかであり、その差異にはまずペア同士、気づきようがない。



 性器が空間を隔てて条件付き(性病の有無)で交換されたあとにも、血液的な連続性は空間を隔てて保たれている。すなわち、性器は交換されてもその境界面における血液の流れは繋がっていない。要するに交換された異質な性器は完全に独立しており、確実にその行為によって性病が感染することはない。



 助教はこうして、日常のなかにとてつもない改変を行った。しかし今のところ世界はいつも通りに動いていた。



 助教は試しに、自ら実験を実施することになった。これにはかなりの人道的問題が含まれているのは承知であったが、もとからそのようなものは捨て去っている彼としては、なんのためらいもなく、それを実施できた。




「君は何も考えなくてもいい。私のことをただ気持ちよくしてくれれば、それでいい」

「でも私は何回もいうけど、性病をもっているのよ。抑制はできても、完治はできない性病なのよ。それでもいいの? しかもこんなにお金をもらってしまって」

「いいんだ。何も君は気にしなくても。そして実際に私は君とセックスをするわけではない」

「え? どういうこと?」

「しかし、君の顔はそこにあるわけだから……。私はとどのつまり、誰とセックスをすることになるのだろうか。交換される彼女は子供ができるかもしれないことを承知でやっているわけなのだから……。しかし、そもそも交換の法則からみても、私の性器が交換される場合だって考えられるわけだし。って今になってそんな道徳的な問題をあれこれ考えても意味はないか」

「あの、大丈夫ですか……?」

「ああ、何も問題はない。性行為は久しぶりだから、なんだか色々と考えてしまってね。ようやく彼女にお祈りができるよ」

「はぁ……」




 こうして助教は、彼女の血液成分から算出された感染確率をもとにして、本来であればほとんど確実に感染するであろう試行回数のセックスを実施した。



 半年後。彼は性病に感染していなかった。ほとんど変化していないと思われるその、変革後の世界で、彼は彼女のことを思い、そして祈った。



 やっと性病をなくせるかもしれないよ。



 ……



 ……



 ……



 数年後。保健所が実施している調査報告書には顕著な成果が見られていた。しかし、その成果は明らかに助教の彼にしか実感のないものであって、性病の専門家はその不可解な現象に首をかしげていた。



 相変わらず性風俗利用者は一定数存在しており、最近顕著に数が増えてきているパパ活の勢いもとどまることをしらない。性病が増えていないとオカシイような状況が昨今はずっと続いている。



 なのにだ。



 性病は確実に減り続けている。その減少の具合は、まるである日を境に性病の感染がなくなってしまい、検査に来ていなかった潜在的な性病患者のみが陽性になっているとでもいうような曲線を描いていた。



 そしてほどなくして、奇妙な現象が世界各地で報告され始めた。それは、不可解な子供の出産についてだ。日本人同士の夫婦間で生まれた欧米系の金髪の子供。その他の地域、夫婦間でも同様にして、遺伝的にあり得ない容姿、特徴をもった子供が世界各地から生まれてきていた。



 その影響で世界からは紛争が絶えなくなった。要するに人種的な問題から、差別的な思想が強く形成され、そしてそれは自らの子供に対してであっても、強く作用した。平等と平和が強く主張されているような国家であってさえも、その理想主義的な思想は一瞬にして灰と化した。



 今まで築いてきた現代的な価値観に基づく国家像は、もうすでにどこにもなかった。あるのは、ただ荒廃した国と、人のこころ。



 助教はそのような世界を、荒廃した都市、東京のなかで見つめている。




「ああ……。性病は確かになくなりました。しかし……。しかし、これでは……」




 助教がそういったとき。



 彼に再び、直接脳内に語り掛けてくるような声が響いた。




【どうだ。性病がなくなった世界は。理想的かね】



 

 その懐かしい響きの声は少しも変化することなく、彼に威圧的に語り掛けている。




「いいえ、まったく。しかし、どうしてこうなってしまったのでしょう。性病がなくなれば、世界はさらによりよくなると信じていたのに。私はこんなに簡単な人間の本質的な部分を見失っていたなんて」




 彼はすでに自らの過ちを嘆いているようだった。




【何かが増えれば、何かが減る。何かを得れば、何かは失われる。それは天文学的な時間のなかで見れば、ほとんど真理となる約束事だ。これをお前たちの世界ではトレードオフの法則というそうだな】




 その声は、淡々とした口調で平然と言葉を繋げる。そこには、何の意思も目的もない、ただの原理的な法則に従っているかのような平坦さがあった。




「ええ、ええ。そうですとも。しかし、まさか。それがそんな形で現れることになるなんて……」




【性病は根源的な罪だったということだ。それがなくなれば、人類は死ぬ。根源的な罪であるとは、そういうことだ。決して救われることはない。救済の余地はないということだよ】




「ははっ。すみません、なんだか。もう、私はおしまいみたいです。前方からミサイルのようなものが飛んできています。あ、そしていま、海上に落ちたみたいです」





【そうかね、それは残念だ】



 



「ああ、そうだ。最後に一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」




【なにかね】




「私は物理法則を上書きしました。それに対するトレードオフというものはあるのでしょうか?」




 彼はまもなく襲うであろう衝撃波と押し寄せる海、ビル群の巨大な欠片を見つめながら答えを待った。




【ある。簡単に言えば、物理法則は宇宙の根源的な罪の一つだ。しかし、それはなくてはならないもの。なければ、人類が存在できなくなってしまった性病のように。物理法則もまた、そのような宇宙の罪のひとつだ。それに縛られ、その隙間を縫うようにして、注意深くなって宇宙は発展し成長していく。まるで人類の歴史とそっくりだとは思わないか?】




 助教の彼は息を呑む。そして今まさに目の前に迫ってきている終末をただ、呆然と視界に収める。





【だからこそ、性病などとは比べ物にならないほどの揺り戻しがくる。お前たち人類の短い観測範囲のなかで作成された予測モデルなど何も役に立たない。それは何も真実に近づいていない。真実を知るには、天文学的にマクロかつミクロな時間と空間を俯瞰できないことには、まず不可能だ。いいかい。だから、お前たちはそれを知る、その罰の揺り返しを見るまえに、死ぬんだ】




 3, 2, 1, ……




「」




 ……



 ……



 ……





【死んだか】





 地球にいる人類は滅亡した。



 文明レベルは再びゼロへと帰した。



 しかし、なおも物理法則は宇宙に作用し続け、宇宙は成長を続ける。



 そのときまで。



 そのときがくるまで。





【さて、次はどこの恒星系に行こうか……】





 大いなる声は次なる標的へと動き始めた。




【完】
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...