穏やかな田舎町。僕は親友に裏切られて幼馴染(彼女)を寝取られた。僕たちは自然豊かな場所で何をそんなに飢えているのだろうか。

ねんごろ

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第9話 死と血と拳と涙と友情と激情と無機質に転がる椅子

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 まさに紫はその瞬間を迎えようとしていた。



 椅子に座るのではなく、凸凹した地面に椅子のある不安定な力学的状態で、そこに両足で立って、いまにも、その死の首輪に身を委ねようとしているところだった。



 大きな大きなクスノキのその太いしっかりとした幹のような枝に、自らの重力の全てをその1か所にゆだねてしまおうとしているところだった。



 まさに最悪の瞬間であり、そして、まさに奇跡のようなタイミングでもあった。



 久彦を漆黒が飲み尽くした。それは足を竦めてしまうような漆黒ではない。暗く、心の奥深くから沸き起こって、めらめらと、ゆらゆらと、その激情の兆しを与えるものであった。激しく燃えさかる、漆黒だった。




「お前、なにやってんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」



 

 久彦は紫が首をくくるその、まさに、その瞬間とでもいうときに、紫のところにたどり着く。そして、すさまじく早い手つきで、首輪から紫の首を抜き取って、だらんとしたその、悪魔のようにも思える縄を思いっきり振り払った。



 その死の縄は脱力を伴って、宙ぶらりんになって無意味な運動を続けている。無意味、無目的となった縄の存在が、まだ尋常ではないほどの死の気配を漂わせている。



 久彦はすぐさま、拳を握った。紫のおびえた顔。しかし、それが実際には何に怯えているのか、なにも本当のことはわからない。死の恐怖に対してなのか。それとも憤怒の情に満たされている久彦を前にしてなのか。はたまた、死ねなかったことに対するある種どうしようもない絶望なのだろうか。



 今は少しも分からない。だから、久彦はひるまない。分からないからこそ、久彦はその目の前にいる『親友』のことを、今までにない憤怒でもって、睨みつけた。拳で。顔で。体全体で。心で。存在の全てをもってして。全力で睨みつけた。




「ほんとに、お前。なにやってんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!」




 久彦の拳が、紫の頬にぶち当たった。凄まじい音が鳴り響いた。久彦の存在の全ての重みが伸し掛かった拳による衝撃。とてつもない衝撃。



 紫は吹っ飛んだ。文字通り、吹っ飛んでいった。それはもう、華麗なカーブを描いて、紫の重心が、きれいな放物線を描いて運動しているのが、ゆっくりとはっきりとわかるような、そのような軌跡、ダイナミックさを伴って……



 紫はあまりにも濃厚な死の雰囲気から、唐突に遠ざかっていった。そこには少しの滑稽さと、切なさと、やるせなさと、悲しさと、みっともなさと、惨めさと……



 とにかくありとあらゆる、紫の心に直接的に響く情念とその湧き上がる刹那的感情が雰囲気のなかに溶け込んでいた。




「久彦!!!!!!!!」




 緑の悲痛な声が後ろから聞こえてくる。そこには、そこまでやる必要はないのではないかといったふうな思いが込められていた。



 だがしかし。そんなことなど、久彦にとってはどうでもいいことだった。むしろ、そこまでやる必要性に駆られていた。これは久彦の極めて個人的な激情だった。親友に対するどこまでも果てしのない、抑えきれないほどの憤怒であった。



 なぜかは分からない。それがどこから湧き上がってどこに着地するのか何も判然としない。これは理屈ではないような気がする。今、こうして全力で何かしらの形で紫と向き合うことがないのであれば、もう二度と紫とは心から向き合うことがないという気が、精神のどこかにあったから。存在していたから……



 だから、久彦はその激情に従った。心の奥底からふつふつと際限なく沸き起こってくる『友情』という名を借りた激情、憤怒を全て、紫にぶつけた。




「お前は!!!!!!!!!!!!!!!!」



 

 久彦の拳が紫の顔面にめり込む。




「ほんとに!!!!!!!!!!!!!!!」



 

 何度も何度も、それが交互に、交互に、果てしなく……




「なんで何も言わずに逃げたんだよ!!!!!!」



 

 紫の顔面から血が噴き出る。口の端からたらたらと、真っ赤な血潮があふれ出る。零れ落ちる。



 紫の目に涙がたまり、そしてすぐさまに、永遠と流れ続けるようになった。




「なんで何も言わずに死のうとしてるんだよ!!!あああああああああああああああああああああああああ?????」




 殴るための適当な場所がなくなったようで、久彦は次第に全身へとくまなく、その拳を全力でぶつけていく。



 そして今度は、足を両腕で縛って、ぐるぐるとした激しい回転の末に、紫を放り投げる。受け身を取らなかった紫は派手にその腐葉土のじめじめとした地面に、顔から突っ込む。



 呻いて起き上がった紫の口には、たくさんの腐葉土。



 目には果てしない涙。



 鼻には、深紅のこぼれ出す血流。



 口の端から漏れ出る大量の鮮血。



 見るに堪えない姿に変わり果てた紫が、ゆるゆると立ち上がる。



 そして……




「俺だって!!!!!!!!俺だって!!!!!!苦しかったんだよおぉおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

「だから、何言ってんだよお前えええええええええええええええええええ!!!!!!」




 ふらふらになった紫の渾身のタックルは、意味をなさずに空振りし、そこへ久彦の果てしなのない、みぞおちを狙う膝蹴りがさく裂する。



 何度も何度も……



 回数を重ねるごとに……



 二人の間で何かが弾けていくような、何かが失われていくような、それでいて、何かが形成されているような、そのような愚劣ともいえる光景が広がっていた。



 それを緑はただただ、見つめている。



 繰り返される血みどろの決闘。それは一方的な暴力。しかし、そこには思いがこもっていた。ただの暴力ではなかった。久彦と紫にしか理解できないような、果てしのない感情のぶつかり合いがあった。暴力はそのおまけであるように思えてしまう。



 親友と対したときの、意味のある暴力がそこにはあった。



 意味があると思わなければ、ならない暴力があった。



 

「おい!!!緑!!!お前も一緒に殴れ!!!!」

「えっ???私!?」



 

 緑は不意を突かれたといったような声を上げた。まるで自分とは縁のない行為のように、それは思えたからだろう。



 しかし、緑は緑で拳を握る決意ができたようだった。



 なぜ?



 それは緑にしてもなにも分からない感情に起因しているのかもしれない。しかし、緑は紫に対して何かしらの感情を抱いている。それには多分の罪悪感が含まれているものかもしれない。そしてまたそこには、この世から消え去ろうとした親友に対しての純粋な怒りが含まれているのかもしれない。久彦と共有できるような感情がそこには含まれているのかもしれない。だから、久彦は緑をそこへ呼んだのかもしれない。



 柔らかで華奢な細い指が、ぎゅっとその拳を形作り、そこに何からの意志のようなものを滾らせている。



 そして……



 やっとの思いで、紫のところまで緑がやってくると。




「やっぱり、お前も一発な」

「えっ……?」



 そして一瞬のうちに、



 快音が鳴り響いた。




『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』



 

 それはあまりにもスムーズな平手打ちだった。緑の顔が驚きの表情を保ったまま固まり、痛みに歪んでいる。激しい痛みが緑を襲っている。



 それはただの物理的な痛みだけではなかった。その痛みが様々なる断片的な緑の罪を次々に想起させているようにも見えた。それは緑に対して果てしのない罪と罰の循環を強いさせているように見えた。



 たったの一発で。



 久彦の腕の一振りだけで。



 それは十分に、十全に、そしてとてつもない様々な感情を、種類と大きさをもってして、緑に与えうるものだった。



 そして、再び。




「んー。やっぱり足りないな。緑、いいか?」




 久彦はそういって、絶望の角度で傾いた緑の顔へ……



 逆方向から、これまた盛大な平手打ちを繰り出した。



 絶望の角度はシンメトリーを保持して反対へとフィールドを変えた。



 緑から涙の零れ落ちるおとがした。




『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』




 そしてそれは交互に繰り返された。



 あまりにも無慈悲に、そして強烈に。



 平手打ちが緑に対して繰り返された。




『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』

『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』

『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』

『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』

『ぱああああああああああああああああああああんん!!!!!』




 ……



 ……



 ……



 絶望の角度は循環する。何度も何度も。



 何度も何度も……



 ……



 ……



 ……



 久彦は何かしらの意志をもって、決して不純ではない、そのように信じたい意志をもって、言葉では語りえないことを、手のひらで緑に伝えた。



 言葉にしてしまうと、途端に色あせてしまう感情を伝えた。



 そして、それは紫に対しても同様のことだ。



 暴力では決して解決しない物事が多いのは確かだ。それは公的な場であればなおさらであるかもしれない。しかし、緑と紫と、そして久彦と。このどこまでも青い青春を一緒にずっと過ごしてきた、果てしない親しみを持ってきたこの3人の間においては。



 この拳の交わり、頬から生じる快音、痛み。その感情の全てを乗っけた言葉にならない体同士での会話は、何かしらの大切な意味が含まれているようであった。



 そう信じなくてはならなかった。激情に任されるままに。そして後悔と痛みに任されるままに。



 親友との青春を取り戻さなくてはならなかった。いや、また新しく始めなくてはならなかった。



 久彦は何としてでもそれを実現しなくてはならなかった。それがあのときに心に決めたことだったから。



 海で川で、森で、高台で……



 このどこまでの壮大な自然が広がるこの田舎町で……



 果てしない時間のなかをたゆたってきた、本を、人を、読みながらにして決意したことであったから。



 ……



 ……



 幻のように儚くて、そして尊い。私たち人間の作り出した、青春。それはどこまでも大切な虚構なのだから。



 青春は本物なのだから。



 なにものにも代えがたいものなのだから。



 守っていかないといけない。



 ……



 ……



 豪雨のおと。



 雷鳴の弾けるおと。



 凄まじい悪天候の雰囲気のなかで。



 3人は子供時代にするような取っ組み合いをした。そのせいで、体の至る所から赤い鮮血が吹きあがった。それでいて、少しも容赦はなかったし、それが緩まることは決してなかった。



 また振り出しに戻ったかのような、純粋な関係性が、何を根拠にしているのかもわからないのに、ただただそこに存在していくように思えた。



 ここが作られていくような気がした。



 素晴らしいと信じたくなる、凄まじい他人の振りをした依存が作り上げられていった。




 ……



 ……



 ……



 腐葉土のもったりとした匂い。



 森に閉ざされた境内のどこか厳かな雰囲気。



 何か大切なものが弾けてはまたくっつこうとしているような精神的殴り合い。



 再構築。



 暴力。



 鮮血。



 涙。



 感情。



 希望。



 絶望。



 友情。



 青春。



 ……

 

 ……



 ……



 言葉が、拳が、複雑に交錯しあった。



 そのほとんどの拳は久彦のものであったし、言葉はそれぞれが思い思いのことを心から話すことによって交わされた。そこには何の飾り気のない純粋なありのままの言葉が転がっていた。



 ただただ、そのままに紡がれていた。




 ……



 ……



 ……



「はぁはぁはぁ……」

「うっううううううううっううううううっ……」

「うぐっうううううぐううっうううううっ……」





 久彦と紫と緑。



 3人は純粋な子供に戻ったかのように、腐葉土のうえに大の字に仰向けになって、それぞれの痛みに溺れた。



 その必要性に駆られて、溺れた。




「なぁ……お前ら」




 久彦が声を出す。血の味が口いっぱいに広がる。それはどこか懐かしい味だった。子供のときの、喧嘩が絶えなかった時代の味がした。それはどこか不思議な優しさの含まれている味だった。




「もう絶対にいなくならないでくれよ。お願いだから。絶対にさ。心も体も、なにもかも……いなくならないでくれ。僕たちの青春をさ……。3人でまた大切にしていこうって。そう思ってるんだよ。紫、これだけが伝えたことだったんだ。たったの、これだけなんだよ。緑、もう2度とあんなこと見せないでくれ。それだけでいいんだ。たったの、それだけでいいんだよ……。この僕たちの青春だけがあれば、それを大切に思う心だけがあれば、もうなにも、なにも心配はいらないんだ」



 ……



 ……



 ……



 沈黙が流れる。



 しかし、それはどこまでも安心のできる沈黙だった。



 全てやり切ったあとにおとずれる、疲労感伴う大切な沈黙だった。



 



 久彦にとっての、大切な充足感だった。




「本当にごめんよ、ごめんよぅ……」

「久彦、わたし……ごめんね。でもなんだか、生まれ変わったみたいよ」




 二人の、そのような言葉は久彦にとっては十分なものだった。それがどんなにうわべだけの、言葉としての何かしらの表出であったとしても。



 今の久彦には、それが本物だと……



 本物だと思えるほどの、充足感が満ち満ちていた。



 虚構のなかで、本物を信じ切れるこころが生まれていた。



 ……



 ……



 ……



 クスノキのいまだ死の雰囲気がかすかに漂うその下の……



 腐葉土のもったりとした凹みを残して、無機質な椅子が何も語らずに転がっていた。
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