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無題④

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 しんしんと雪が降っている。



 走って走って走って。



 僕の体を芯から冷やしていく、雪、風、空気。



 真っ黒な煙は、雪の中に重たく居座っているみたいだ。



 彼女のアパートが燃えているのだそうだ。半ば信じられない。さきほどまで僕はあの部屋にいたのだ。



 つい先程まで、僕はあの部屋で、二人が裸で抱き合っているのを見ていたのだ……



 だから、想像ができない。どうして燃えた。どうして数時間の間に燃えるような原因が生じてしまった?



 ……



 ……



 ……





「あのゴミの山に火が燃え移ってしまったと考えたほうが、納得がいくかもしれない」



 火災の発生リスクを下げる方法として、当たり前のことであるが、部屋のなかを清潔にきれいな状態にしておくことが挙げられる。



 リスクにも様々な形態があると思う、コンセントの接触不良だったり、ガスコンロだったり、揚げ物の調理だったり。。。しかし、それはそれらは総じて火の元関係のリスクだ。



 今回の火災はもしかすると、その部屋の乱れが大きな原因になっているのかもしれない。火があっても、何もモノがないのであれば、燃え移ることはない。



 僕の彼女の部屋は……



 すなわち、火災発生リスクMAXだったというわけだ。たくさんのモノで溢れかえっていたわけだから。。。



 火がそこに燃え移ってしまえば、もう手遅れだ。。。





「まあ、でもこれは、僕の憶測であるわけだから。今は……走るしかない。走るしかない?」





 しかし、どうして僕は走っているのだろう。



 火災を見物しにいくためか?



 それとも彼女のことを心配しているから?



 ……



 ……



 ……



 いや、どれも違う気がしている。



 なんなら、僕は早く帰ってお風呂に入りたい。お風呂に入って、この冷え切ってしまった体を、心の奥底まで温あたためるように、温ぬくまりたい。



 この寒い雪のなかを子供のように馬鹿みたいにはしゃぐ気力なんて、僕にはない。とうの昔にそんなものは捨ててきてしまった。



 彼女の顔なんてできれば見たくない。どうして自分以外の男と寝ている姿を見た直後に、面と向かって話をしたいと思えるのだろうか。



 僕は……



 ぼくは……



 どうして今、こんなにも必死で走っているのだろう。





★★★★★★★★★★★★★★



 

『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』





 僕が彼女のアパートに着いたころ。



 アパートは盛大に燃えていた。



 その赤い炎はどこまでも高く、大きく、広がっている。





「はいはい~。そこからは入っちゃだめ!!!駄目だっていってるでしょおお!!!おじさん!!!!だめ!!!!!駄目だって!!!!!!!!!」

「なんや、えらいようけ燃えてるなぁ」

「あれぇ。すごいことになってるなぁ」

「雪の日やのになぁ。すごい勢いで燃えてる。このアパートの人たちは災難なことや」

「燃え移らないといいけど」

「大丈夫。ここのアパートはほら、あれやから。周りにあんまり接近するように家たってないやろう」

「でも、風とかで飛び火が……」

「まぁ。雪も降ってるし、大丈夫なんじゃないの、そこは」

「はぁ……」





 野次馬が群がっている。そして各々に、好きなことを言いたい放題している。



 僕はそんな群衆のなかから一歩離れたところで、その非現実的な光景を眺めていた。



 そんなとき。ふと、視界に僕の彼女が入った。



 そうだ。僕は一応は彼女の連絡を受けて、ここまで走ってきたのだった。



 彼女もどうやら、僕のことに気がついたようで、僕のほうにとことこ、と近づいてきた。



 0度にも近いだろう、この外気温のなか、彼女は薄っぺらい部屋着のままの姿だった。





「やぁ。久しぶりだね。っていうのも、なんか違うよね。彼から聞いたよ」





 僕の彼女は、そうやって言って、僕の隣に立った。寒いのか、足を常に動かして、体を上下させている。



 その口ぶりからして、もうなにもかも、開き直っている感じがした。



 それに対して僕は特段何も感じることはなく、不思議と怒りを感じずにいることができた。



 どうしてだろう。どうして僕はこんなにも感受性が鈍くなってしまっているのだろう。わからない。もう何も考えたくない。



 ……



 ……



 もうなにもかも頭が思考することをやめている雰囲気だ。ただ、今は、このありえないこと続きの奇怪な現実に、身を任せるままに、生きていくだけ。



 ただ、それだけが、僕を支えている感じがした。





「……なにか言ってよ。私だけ弁解してるみたいにしゃべって、バカみたいじゃん。まぁ、実際にそうなんだけど」

「いいよ。もう、怒ってないから。君のことも含めて、もう何もどうでもよくなってしまった」

「…………」

「…………」

「ああ、今日は差し入れとか持ってきてくれてた感じ?ごめんねぇ。まさか来てくれるとは思ってなかったから」

「タイミングはとても悪かったと思ってる」

「ああ、まあ、ね。いろいろとごめんね。隠し事が多い人生でして。だからなんだろうね。こうしてバチが当たったのかな。何もかも、燃えてしまった」





『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』





「これは君が?」

「ああ、まぁ。そんな感じかな。お腹が空いたからご飯を作ろうと思って。でも運悪く、火が燃え移っちゃって」

「汚かったもんね、部屋。いつの日から?」

「うーん。彼が来てからかな。彼、とっても私を堕落させるの。でもそこが好きだった」

「彼氏の前で他の男の話、こんなに堂々とできるものなんだね」

「あー、ほら。私って結構オープンでしょ。好きなものは好きなの。でも嫌いなものはとことん嫌い。あなたのことは、今も好きよ。大好き」

「うん、わかった」

「…………」

「彼はどうしたの?」

「多分死んだ」





『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』





 アパートが燃えている。



 そのすさまじい熱量が、周囲を少しづつではあるが、温めていく。



 そんな一瞬の情景がスローモーションで僕の頭のなかを流れていった。





「えっ?」

「逃げ遅れて、たぶん死んだ。彼、デロデロに酔ってて。とてもじゃないけど、私の力では運ぶことができなかった」

「…………」

「仕方なかったのよ」

「でも、君はどうして涙の一つも流さないの?僕が言うのもなんだけど、一緒にああして暮らしていた仲なんだろ?」

「…………どうしてでしょうね。私もわからないわ。そういえば、私はいつから泣いてないんだろう」





『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』





 どんどんと火は勢いを増していく。



 それにつられて、彼女の顔にはどんどんと、どす黒い闇のようなものがまとわりついていく……



 ように見える。





「私ね、小さい頃から大切なひとばかりを失っていくの」

「えっ?」





『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』





「おじいちゃんは小1の夏に死んだ。みかちゃんは小1の秋に車に轢かれて死んだ。大好きだった明知先生はストーカー被害にあって私が小2のときに死んだ……」

「…………」

「それから……」





 僕の彼女は思い出すことをためらわずに、そんな、死亡日記のようなものを、すらすらと口にしていく。



 その間の彼女の顔は無だった。何も感じていないようにも見えた。少なくとも僕の知っている彼女ではない。



 その間にも、火はどんどんと燃え広がっていく。大きく、高く。雪の空を突き抜けようとしているかのように。。。





「わたしね。もう今までの半生で、こんなにもたくさんのを失ってきたの。その度に泣いたわ。でもね。ある日ね。ぷつりと涙が出なくなったの」

「…………」

「そうだわ。涙が出なくなったのよ。どうしてなんだろう。どうしてなのかな?」





 僕の彼女は放心状態であるかのような、顔でこちらを見つめてくる。とても正気ではない顔。





「これっておかしいことなのかな?ごめんね、何言っているんだろうね。浮気していたことがバレてるのに、なに呑気に自分語りなんかしてるんだろうね。家、燃えてるのにね!!彼が死んだっていうのにね!!!」







『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』 





 彼女はまた、その燃えているアパートを見つめ直す。情緒が不安定になっているようだった。それもそうだろう。



 自分の家が燃えているのだから。大切な人をまたしても失ってしまったのだから。





「ねぇ」

「どうした?」

「こんなに面倒くさいことを背負ってしまった私のこと、いや、違うか。それも含めて、こんな私をあなたはまだ好きでいてくれるのかしら?」

「そんなの、決まってるじゃないか」

「……そうよね」

「今どんな気持ちだ?何もかも消えてしまった気持ちは?」

「……わからない。でもね、意外と清々しいなと思ってる」

「きよきよしいじゃなくて、清々《すがすが》しい、だろ」

「ネタ」

「こんなところでネタぶっ込んでくるやつは、普通じゃないな」

「そう、私。普通じゃないの。どんなに悲しくても、もうそれが私が悲しんでいるという実感ではなくなってしまったの。どこまでも、自分を客観視して、その悲しみをも客観視してしまう。まるで、それが私のものではないかのように、ね」

「…………」

「まるで自分の人生なのに、他人がそこで生きているようなの」





『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』





 まだまだ燃えている。



 もう二度と消えてくれないのではないだろうか。



 ……



 ……



 この膨れ上がる気持ちはなんだ。



 どうして僕はいま、こんなにも心動かされているんだ。



 浮気をしていた彼女の気持ちに共鳴してしまっている自分の心は、その気持ちは、なんだ。







「ごめんね。私の話ばかりで。最後くらい、あなたの話をもっとたくさん聞いてあげればよかった」

「いいよ。別に。もうどうでもいいんだ」

「そう……。それはよかった」

「でも、ありがとう。なにか思いっきり吹っ切れたような気がしている」

「そう、それはよかったわ。最後に役に立てたようで」

「…………」

「私はこれからどうすればいいのかな」

「……そんなこと、もう僕に聞くなよ」

「そうね」





 雪が強まってきた。



 消防隊の人が必死の形相で消火活動に当たっている。本当に寒いなか、大変だろう。



 それにしても、すごい雪だ。



 もう、視界がほとんどないといってもいい。



 それでも、炎はその存在を大きく主張している。



 どこまでも、どこまでも……



 高く燃え盛っていく。





「僕は酷い思い違いをしていたのかもしれないな」

「えっ?」

「いや、なんでもない」

「いやいや、なんでもなくはなくない?」

「……自分だけが不幸だ、なんて思ってはいけないなと、そう感じただけさ」

「ほら、なんでもなくないじゃん。結構いいこと言ってるじゃん」

「君は僕のことがいま、自分よりも不幸に見えるかい?」





『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』







「うーん、正直にいうと、見えない、かな」







『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』

 





「不幸ってことは、要は、そういうことなんだね」

「え?」

「いや、なんでもない。それじゃあ。僕はもう行くね。火、早く収まるといいね」

「最後まで見ていかないの?」

「僕は野次馬をするために見に来たんじゃない。ましてや君になんて会いたくもなかったんだ」

「あっそ……。ふーん。最後に悲しいこと言ってくれるね」

「最後くらい、それくらいのことは言わせてくれ」

「ふふ、それもそうだね」

「じゃあね」

「うん、楽しかったよ」

「さようなら」

「………さよなら」







『ゴォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』







 結局、僕は何をしに、ここまで戻ってきたのだろう。

 

 体はすっかり冷え切ってしまったのに、心はなぜかぽかぽかと温かい。



 どうして。人が死んでいるということを間接的にではあるが知ったというのに。どうして僕はこんなにも呑気でいられる?



 彼女にも会いたくはなかったのに、実際には会った途端に溢れ出すように話してしまった。たぶん、僕は今後もしばらくは彼女のことを引きずりながら生きていくのだろう。



 そうだ。僕たちは決して過去を完全に忘れることなんてできない。忘却はしていくのに、それは完全ではないんだ。





 彼女は僕のことを、自分よりも不幸ではないと言った。所詮、不幸なんて概念は比較でしかないんだろう。自分が一番不幸なんだと思い込むことにしか、その負の価値を見いだせない概念なのだろう。



 僕はそれに気がつくことができた、と思っている。不幸だなんて、思わないほうがいい。ただ、悲しいことがあった。



 ただ、それだけでいいんだ。僕は卑屈になんて、なっていられない。



 僕の彼女もあれだけのことを、抱えて生きていくことになるんだ。決して僕だけに世の中が厳しいのではないんだ。みんながみんな、その唯一の心を悩ませながら生きているのが、この世界なんだ。



 いや、もう君は彼女ではないのか。不思議な感覚だ。まだ、ずっと、僕のそばにいるような気がしてならない。



 ………

 

 ………



 ………





「寒い。指先にはもう力が入らない。電車が動かなくなるまえに帰らないと」





 道行く人が、珍しい雪にそれぞれの反応を示している。



 厳しい顔をしながら、改札を抜けていくサラリーマン。



 子供の手を引きながら、子供さながらに雪を楽しんでいるママさん。



 ぼんやりとただ、何も感じることなく、その雪のなかを歩いているように見える耳を真っ赤にした一人の中学生男子。



 全員が全員の人生をそれぞれに歩んでいる。そこを僕たち、都会に住む人たちは、あまりにも無意識に通り過ぎていく。



 全体の中の個として、個人をまるで見ていないかのように、自分の殻に閉じこもっていくように。



 そうして、自分だけが不幸なのだと、自分を追い詰めて、さらに不幸になっていく。



 もちろん、みんながみんな、そうはならない。



 だがしかし、そうなってしまう人もいることは確かだ。僕もまた、その都会の不思議な魔力にだんだんと引きずり込まれていくのを感じる。ちょっとした不幸をきっかけに、僕は一気にそこへ吸い込まれていくのを感じる。



 僕はこれからも、まだまだ先の長い人生を生きていかなければならない。



 どんなに辛いことがあっても、どれだけ理不尽なことがあっても。どれだけ悲しいことがあっても。



 自分だけが不幸だなんて、思わないで。



 大切な人を見つけて。それが誰であっても構わないから。



 一緒に生き抜いていかないといけない。







『ピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピ』





 改札が近づいてきた。



 いろいろと失ってしまった僕は……



 また何かを求めることが、本当にできるのだろうか。



 いまは……



 はっきりとはわからない。



 でも……





「不思議なことに今はとてもやる気に満ち満ちているんだ」





 僕はそうして、改札のなかを通過していった。



 多くの人生の濁流のなかへと……



 

「まだ僕の心は燃えているか」





 入っていった。





【完】
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