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16.同僚
しおりを挟む深いキスにこそはならないが、何度も唇を重ねられて、菜摘の意識が熱くぼーっとしてくる。
こんなキスをされて、平常心で色という方が無理だ。何度も何度も啄むように唇を吸われて、クラクラする。
慌てて彼のシャツを握り締めて、少しだけ力を込めて肩を押すと、漸く、悠一の唇が離れた。
「ゆ、ゆうちゃ、ちょっと…っ!」
「なんだよ」
「な、なんだよじゃなくて…っ! こんなキスしないでよ…!」
あぁもう、顔が熱い。キスなんて、もう何度も、それこそそろそろ数えるのがめんどくさくなるほどされているというのに、唇を重ねた後の照れくささが抜けない。
そんな菜摘を前に、悠一は微かに笑ってから、彼女の身体を抱きしめた。
「お前、本当照れ屋だな。初めて知った」
「あのね! 照れもなくこんなことできる悠一の方が変だから! 今まで幼馴染みだったのに、いきなりこんな風に変われる悠一の方がおかしいんだから!」
「そうかぁ? だって菜摘が可愛い女の子に見えるようになったんだから、仕方なくね?」
「なっ…! っ早く帰れバカあ!」
これ以上この人と一緒にいたら、私の心臓が持たない。
菜摘の本能的なその訴えに、悠一は気が付いているのかいないのか。彼は本当に楽しそうに笑って、じゃあなと、いつもどおりの注意を口にしてから家から帰っていった。
菜摘はリビングに入ってソファに沈み込む。
なんだってこんなに心臓をうるさく打ち鳴らさねばならないのだろう。元々、悠一と付き合うことにしたのだって、今までの恋愛と違う、相手の顔色ばかりを伺わないで付き合っていけるようにって、そういう訓練をしようって、そういう提案からだったはずだ。
なのになんで、こんなふうに、自分は悠一相手にあたふたしてしまっているんだろう。
考えても、菜摘にその答えは見いだせず、結局、いきなり男の顔になった悠一のせいだと、菜摘は幼馴染みのせいにした。
◇◇◇◇◇
「―――ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそわざわざ足を運んでいただいて、また是非、よろしくお願いいたします」
取引先の担当者に笑みを向けて、「はい」と答えてから菜摘は自社の車に戻る。
外回りは営業職の常だが、体力勝負なところも大きい。少しだけ疲労を感じて、菜摘は車を少し走らせてから、コインパーキングに停めた。
少しくらいの休憩なら問題ないだろう。背もたれに身体を預けて、ふうと小さく息を吐く。
ふと頭を掠めたのは幼馴染みの顔だ。こんな風に疲れたと漏らせば、「だらしない」と言いながらもぶっきらぼうにいたわってくれるんだろう。
悠一の言葉は、暖かいのだ。基本的に口は悪いし、どこかぶっきらぼうだけれど、幼馴染みであった頃も、今も、変わらず自分を労わるように、言葉にはその優しさを込めてくれている。
だからだろうか、言い返したいと思って言い返せることはないけれど、言いたいことを我慢したことは内容に思う。
付き合い初めて戸惑うことがあるとすれば、彼のあの手の速さと甘さだけだ、日常の付き合いに苦痛を感じたことは、ない。今も昔も。
これが普通の恋人同士のやりとりなんだと言われれば、そうなのかとも思う。だがしかし、その根底にあるはずの「好き」の気持ちはなくて、今の自分に、「悠一が好きだ」という自覚と想いが生まれてしまったら、こんなふうに自分の気持ちを押し殺すことがなくなるんだろうかと考えれば、それは即座に否定されてしまう。
悠一を男として、ただひとりの男性として好きになる可能性を考えて、菜摘の思考は「否」という。
そして反対に、もし万が一悠一を好きになったとしたら、いつもどおり、彼の顔色を伺って、我慢してしまうだろう自分がいることも、想像ができた。
今の関係は心地いいが、今の関係をずっと続けられる訳でもない。
いつかくる終わりを考えなければならないことはわかっているが、それを考えるとどうしても心がチクリと小さな痛みを伴っている。
なんとなく始めただけの関係のはずなのになぁ、と溢れる自嘲は思っても見なかった思考に悩んでいる自分に向けてだ。
やめようと言われたらうん、と素直に頷けると思ったのに、悠一の甘くて優しいあの空気を知ってしまったら、手放すには少々惜しい気がしてしまう。
それが自分のわがままだとわかっているから、きっと「やめよう」と言われてしまえば素直に「うん、わかった」と頷かざるを得ないのだろうけれど。
自分の感情が変わったとは思わない。変わったのは環境だけだと思う。
それが、こんなにも居心地のいいものだったとは、思っても見なかっただけだ。
ちらりと、助手席においたカバンを見る。その中には今朝も渡された悠一お手製のお弁当が入ってる。
今日は一日中外回りだとこぼしたら、「力が出るもの入れといた」と笑っていっていた。
悠一の歴代の彼女は、いつもこんなふうに大事に大事にしてもらっていたのだろうか。そう考えると、なんだか面白くない。
何故面白くないのかは考えていない。考えるのが怖いからだ。
出してはいけない答えがそこにあるような気がして、自分の真理を読み解くことをしたくない。今は。
菜摘はもう一度ため息をついて、「よし」と声を出して姿勢を正した。
休憩はもう終わりだ、まだまだ回らなければいけない取引先はごまんとある。
もう少し頑張れば悠一の作ってくれたお弁当が食べれるのだし、今は仕事に集中しよう。
そう考えて、再び車のエンジンをかけた。
◇◇◇◇◇
会社に戻るともうすでに時計は16時半を過ぎている。
定時は17時だが、やることがある菜摘はまだ帰れない。
だがそれほど作業が残っているわけでもなく、30分程度残業をすれば、今日はすぐに帰れるだろう。
「お疲れ様です」とフロアを出て行く同僚を見送りながらパソコンを立ち上げて、進めなければいけない作業を処理していく。
読み通り、それほど時間はかからずに本日の業務を終えて、まだ残っている社員に声をかけてからタイムカードを押した。
直帰で来てたらまだ楽だったんだけどなぁと思うが、今日中に処理しなければいけない案件だったのだから仕方ない。
これから乗らなければいけない満員電車を想像するとため息がこぼれそうになるが、それは噛み殺した。
会社の玄関をくぐるとたんに吹き付けてくる冷たい風に身を縮こまらせて歩き始めようとすると、後ろから呼び止められた。
振り向けばそこにいたのは先日お昼にかち合った同僚の姿で、彼はエレベーターを降りてから菜摘に駆け寄ってきた。
「お疲れ、今帰り?」
「そうです。ちょっと決済書類残しちゃってて」
「あぁ、そっか。お疲れ様。俺も今帰りなんだ。一緒に帰ってもいい?」
「大丈夫ですよ。金沢さん、駅どこでしたっけ?」
同僚相手に断るのもおかしいだろうと深く考えずに頷いた。
金沢と並んで歩きながらたわいない話を投げかければ、彼が答えたのは菜摘が降りる駅より三つ先の駅名で、こんな偶然もあるんだと思った。
それならば、帰り道はほとんど一緒になるのだろう。会社から誰かと一緒にそんな長い時間帰るのは初めてだが、そこまで気まずい間柄でもない。
会社の最寄駅について、ほどなく走り込んできて停車した電車に乗り込む。
案の定車内は込んでいたが、それほど辛い混み具合ではない。
ドアの近くに二人で立ったまま、世間話を続けていた。
「そういえばさ」
「はい?」
「倉本さんの彼氏って、何してる人なの? スーツ着てたってことはサラリーマン?」
「あぁ、いえ、違いますよ。普段は料理人です。すごく美味しいの」
「へえ、そうなんだ」
菜摘の答えに金沢は少し驚いた顔をしてから、笑った。
有名な人? と問われて首を振る。
元々畑違いの職種だ、仕事がら色々なところにアンテナを伸ばしておかないといけない仕事ではあるが、悠一がその世界で名の知れた大御所的な存在みたいな話は聞いたことがない。
本人は知る人ぞ知るなんて言うけれど、そこまで深い事情を菜摘はしらない。
「でも本当に料理は美味しいんですよ。ちょっとむっとすることあるけど、優しいし」
「へぇ。俺も食べてみたいなぁ」
「あ、今日はお店にたってると思うし、よければ行ってみますか?」
「え、いいのかな」
「大丈夫だと思いますよ。いつも混んでるけど、お客さんとしていけば座れると思うし」
「じゃあ…一緒にいってもいいかな? できれば俺、あの人にキチンと挨拶しておきたいし」
「え?」
「倉本さんと一緒に働いてますーって」
金沢はそんな風に笑って言ったが、菜摘は少しだけ気になった。
同僚だからといって彼氏に挨拶する意味ってなんだろう。いやでも、連れて行くならそれは当たり前のことなんだろうか。
自分が何に気になったのか、明確な答えを出せず、菜摘は結局その問を深く掘り下げることはしなかった。
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