水晶の夜物語

あんのーん

文字の大きさ
上 下
18 / 18

#18 終章/岬にて

しおりを挟む
 夏のはずが、岬を吹く風はひどく冷たかった。
 崖の上にはみっつの人影があった。そこから少し奥まったところには防風林に囲まれた小さな家が建っている。他に家は見当たらず、人影もない。空は重く低く、遠く波涛の砕ける音が聞こえるが、厚い霧に阻まれて海は見えない。
 人影はヨウとスアン、そして不思議な白い髪をした中年の女だった。
 ヨウはふたりと向き合い、少し離れて立っていた。女はうつむいたスアンの後ろに立ち、その小さな肩に手を置いている。
「それじゃあ」
 と、ヨウがスアンに声をかけた。
「そのおひとを頼って、安心して幸せに暮らすんですよ」
「大丈夫だよ、この子のことは私がしっかり引き受けたからね」
 白い髪の女が鷹揚に笑って言った。だがスアンは今にも泣きださんばかりだ。
「……おじさん……、私も行く……置いていかないで……」
 ようやくそう言ったが、
「スアン嬢ちゃん」
 と、ヨウはスアンに近づき膝をついて応えた。
「ここには嬢ちゃんひとりきりだ。谷のことも親父さまのことも忘れて生まれ変わってもいいし、カナルの誇りを大事に守って生きてもいい。ここには嬢ちゃんを知る者は誰もいない。もう嬢ちゃんを繋ぎとめる軛も絆もない。自由に生きるんです。嬢ちゃんにはそれができる」
「そんな……そんなこと急に言われても……」
 今にも消え入りそうな声だ。うつむいた頬を伝って涙がぽつりと落ちる。
 ヨウは諭すように続けた。
「嬢ちゃんには時間がある。ゆっくりと考えるといい。そしておとなになったら遠い故郷の海を目指してもいいし、誰か大切なひとを見つけて一緒に暮らしてもいい。思うままに強く生きなさい。ハクぼっちゃんのぶんまで……親父さまもきっとそれを望んでいますよ」
それから立ち上がると言った。
「さあお別れです。──これを」
 と、スアンの手を取り、その掌に小さな巾着を載せた。
「これは嬢ちゃんが持っているべきだ。きっと嬢ちゃんを守ってくれますよ」
 それはあの血と炎の中で汚されもせず、奇跡のようにそこにあった。
 薄布の繊細な美しさに燭台の灯にゆらめいた夏越しの夜がよみがえる。
「──おじさん!」
 スアンが顔を上げ、叫んだ。
「また会える? ねえ、また来てくれるよね──」
 ヨウは一瞬立ち止まった。だが振り返ることもせず、再び歩きはじめた。
 霧に呑まれおぼろに消えていくその後ろ姿に、異界に去った幼い弟の姿が重なる。スアンにも、ヨウが並みの人間ではないことがもうわかっていた。
「さあもう帰ろう。すっかり冷えてしまった。温かいお茶でも淹れようね」
 女がスアンをうながした。このひとも、きっと私たちとは違う世界を生きているのだ……、とスアンは思った。それはきっと、私たちは見ても触れてもいけない世界だ──あの、神隠しの道のように。
 自由に生きろ、というヨウの言葉を深く心に沈め、スアンは頷いた。
 ふたりも踵を返した。岬には風だけが残った。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

初めてなら、本気で喘がせてあげる

ヘロディア
恋愛
美しい彼女の初めてを奪うことになった主人公。 初めての体験に喘いでいく彼女をみて興奮が抑えられず…

RUBBER LADY 屈辱の性奴隷調教

RUBBER LADY
ファンタジー
RUBBER LADYが活躍するストーリーの続編です

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

処理中です...