みづち姫

あんのーん

文字の大きさ
上 下
8 / 9

7

しおりを挟む
 遠雷が不穏な湿った空気を運んできたと思う間もなく、強風に民家の屋根が吹き飛び、横殴りの雨が頭を垂れはじめた稲穂をなぎ倒した。
 家中も総出で村人達の加勢に回ったが、嵐の中での刈り入れは困難で、あちこちの堤が切れ、濁流が村を呑み込みはじめた。
 当主は村人達を山城に集めるよう命を下した。人さえ生き残れば村もまた建て直せる。作物もまた作れるのだ。
 騒然とした館の奥、姫は青白い頬を固く引き締めて身じろぎもせずにいたが、月夜にさあ、姫様も、と促され、頭(かぶり)を振った。
「いいえ、わたくしが行くべきは山城ではない」
 月夜の動きが止まった。
「月夜、わたくしを、川へ連れて行って」
「え……」
「聞こえなんだか。わたくしを川へ連れて行くのです」
「……そんな、いくら姫様のお言葉でも、……そんなこと、わしにはできません……!」
 月夜が姫に逆らったのははじめてのことである。何かを予見したか、その声は悲痛であった。
「殿様にお約束しました。必ず姫様をお守りすると──」
 姫の表情も一瞬悲哀にゆがんだ。だが姫は言った。
「おまえの忠義は誰のものや、父上か、このわたくしか。答えてみよ…!」

「きさま、どこへゆく!」
 警護の者が気づき、気色ばんだ声を上げた。近くにいた他の者どもも集まってきた。
 月夜は走りつつ山刀を抜いた。
「我らの行く手を遮るな! 前に立つ者は殺す!」
 音声(おんじょう)が凜と響いた。声は月夜のものである。だがその場にいた者は、姫の怒りに触れたかのように、一瞬怯んだ。
 月夜は姫を抱き、嵐に消えた。
 追っ手がすぐにかかったが、彼らが再びふたりを見ることはなかった。
 しかしようやくたどり着いた堤では、荒れ狂う川へ自分を投げ込めと言われ、月夜も躊躇していた。
「何をためらうのや、ここまでわたくしを抱いてきたのは何のためや」
「いいえ、わしにはできません──」
 乱れた月夜の声を風の音がかき消す。
「月夜、よう聞いて」
と、姫は月夜を励ますように語気を強めた。
「おまえも知っておろう、わたくしは水龍(みづち)の巫女、わたくしなら天へ昇ってこの嵐を収めることができるのや」
 吹きすさぶ嵐の中、姫を抱きしめたまま動かぬ月夜に、姫はなおも語りかける。
「おまえはいつかわたくしに、わたくしにしかできぬことがあると申したな。それがわたくしの生まれた意味やと。今こそわたくしが、それを証すときや」
「では、わしも一緒に──」
 とうとう月夜が言った。
 だが姫は、いいえ、と強く拒んだ。折からの強風に月夜の頭巾が飛ぶ。
「天へ昇れるのは私だけ、おまえは生きるのです。おまえは心も美しく腕も確かや。きっとこの国の役に立ちます。嵐が収まれば、これまでの事は隠して父上に会いなさい。父上はきっとおまえを雇い入れるはずや。おまえの顔を見れば──」
「わしの、顔……?」

 風に打たれ、雨に打たれても美しいその顔。それは姫と同じものだった──。

 さあ、早く、と促され、月夜は再び頭を振った。そして言った。
「どこまでもお仕えすると誓いました。わしも、一緒に……」
 答を聞く間もなく、月夜は姫を抱き、川へと身を投げた。
 国中の者が見た。濁流から天へと迸った、巨大な閃光を──。

しおりを挟む

処理中です...