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この辺りは山国ながら都にもほど近く、古くから戦の絶えぬ土地柄である。
この地で頭角を現した雨宮氏はよく時勢を読み、小さなおのが領国を守っていたが、特にこの頃この家にはひとりの姫があり、これがよく先を視たので、この国は戦禍や厄災にも遭わずにいた。
しかしこの姫については、いささかの噂があった。曰く、手足を持たぬ異形だと。村人達はこの姫をみづち様と呼び慣わしていたのである。
さてこの姫が月のものをみたとき、姫の父、すなわち雨宮の当主は姫の世話役としてひとりの少年を召した。顔を持たぬこれもまた、異形であった。
家臣はこれの異様な風体を見、また氏素性もわからぬこと、そして何より男であることを懸念したが、当主はただ「姫ももう一人前(ひとりまえ)や、男の情に触れるのも良かろう」とのみ言い、取りあわなかった。
最初に月夜に引きあわされたとき、姫は不満は唱えなかったが、その表情や態度には内心がありありと表れていた。
姫がそれをあらわにしたのは、月夜が下がった後である。
「嫌や嫌や……!」
姫は泣き声混じりに父に訴えた。仕立ての良い着物に身を包んだ、十二、三と思しき少女である。背凭(もた)れのある脇息に身を凭せかけ、色白くたいそう美しく優しい顔だちだが、着物の袖や裾の辺りが何やら常とは違って見える。
「姫様のお世話を男に任せるなど、とんでもないことにございます。ましてやどこの者とも知れん、怪しげな子供を……それでのうても、姫様は……」
脇に控えた侍女と思しき女がおろおろと、しかし抗議するかのような声を上げた。髪には白いものが目立ち、長らく姫に仕えてきたことが伺える。どうやら姫の乳母と見えた。
「もう決めたことや」
当主は乳母の言葉を、にべもなく退けた。
「おまえはこれまでようやってくれた、礼を言う。そやけどおまえももう歳や。みづちの世話はそろそろきつかろう」
「わたくしはまだまだお役に立てます。どうかお願いいたします、わたくしからお役目を取り上げるなど、なさらないで下さいまし……!」
「みづち」
今度は当主は、姫に向かって呼びかけた。
「そなたはどう思う。今はまだ体も小さいが、これからどんどんおとなになるのや。もう髪も白うなってきたこれに、これからも世話をして貰うのがよいのか」
そう言われ、姫は押し黙った。
「月夜を」
当主が呼ばわった。使用人頭が月夜を伴い現れた。
当主はこれを見やるでもなく、では頼んだぞ、と言い置くと、去りがたい気持ちを隠そうともしない乳母をうながし部屋を出て行った。
あとには姫と月夜のみが残った。
長い沈黙があり、ようやく姫が口を開いた。
「父上のお考えがわたくしにはわからない……。男のおまえがこのわたくしの手足となるのか」
「わしは男でも女でもございませぬ」
月夜が応えた。それから頭を上げると言った。
「先ほど姫様が仰いました。わしは姫様の手足です。姫様のお心のままに動きましょう。お望みなら、この場で両目をくりぬいてもかまいませぬ」
「そないなことが──」
こわばった笑みを浮かべて言いかけた姫の眼前で、月夜の右手が動いた。その手の中に鈍い鋼色の光を見た姫の顔色が変わった。
「やめえ! そないなことを、このわたくしが望むと思うのか」
月夜の手が止まった。姫の表情はもとより、声にも怒気が表れている。月夜はしかし、両手をつき頭を下げると、
「この手足は、全て姫様の意のままに」とのみ応えた。その表情は頭巾に隠されて伺うべくもない。
この地で頭角を現した雨宮氏はよく時勢を読み、小さなおのが領国を守っていたが、特にこの頃この家にはひとりの姫があり、これがよく先を視たので、この国は戦禍や厄災にも遭わずにいた。
しかしこの姫については、いささかの噂があった。曰く、手足を持たぬ異形だと。村人達はこの姫をみづち様と呼び慣わしていたのである。
さてこの姫が月のものをみたとき、姫の父、すなわち雨宮の当主は姫の世話役としてひとりの少年を召した。顔を持たぬこれもまた、異形であった。
家臣はこれの異様な風体を見、また氏素性もわからぬこと、そして何より男であることを懸念したが、当主はただ「姫ももう一人前(ひとりまえ)や、男の情に触れるのも良かろう」とのみ言い、取りあわなかった。
最初に月夜に引きあわされたとき、姫は不満は唱えなかったが、その表情や態度には内心がありありと表れていた。
姫がそれをあらわにしたのは、月夜が下がった後である。
「嫌や嫌や……!」
姫は泣き声混じりに父に訴えた。仕立ての良い着物に身を包んだ、十二、三と思しき少女である。背凭(もた)れのある脇息に身を凭せかけ、色白くたいそう美しく優しい顔だちだが、着物の袖や裾の辺りが何やら常とは違って見える。
「姫様のお世話を男に任せるなど、とんでもないことにございます。ましてやどこの者とも知れん、怪しげな子供を……それでのうても、姫様は……」
脇に控えた侍女と思しき女がおろおろと、しかし抗議するかのような声を上げた。髪には白いものが目立ち、長らく姫に仕えてきたことが伺える。どうやら姫の乳母と見えた。
「もう決めたことや」
当主は乳母の言葉を、にべもなく退けた。
「おまえはこれまでようやってくれた、礼を言う。そやけどおまえももう歳や。みづちの世話はそろそろきつかろう」
「わたくしはまだまだお役に立てます。どうかお願いいたします、わたくしからお役目を取り上げるなど、なさらないで下さいまし……!」
「みづち」
今度は当主は、姫に向かって呼びかけた。
「そなたはどう思う。今はまだ体も小さいが、これからどんどんおとなになるのや。もう髪も白うなってきたこれに、これからも世話をして貰うのがよいのか」
そう言われ、姫は押し黙った。
「月夜を」
当主が呼ばわった。使用人頭が月夜を伴い現れた。
当主はこれを見やるでもなく、では頼んだぞ、と言い置くと、去りがたい気持ちを隠そうともしない乳母をうながし部屋を出て行った。
あとには姫と月夜のみが残った。
長い沈黙があり、ようやく姫が口を開いた。
「父上のお考えがわたくしにはわからない……。男のおまえがこのわたくしの手足となるのか」
「わしは男でも女でもございませぬ」
月夜が応えた。それから頭を上げると言った。
「先ほど姫様が仰いました。わしは姫様の手足です。姫様のお心のままに動きましょう。お望みなら、この場で両目をくりぬいてもかまいませぬ」
「そないなことが──」
こわばった笑みを浮かべて言いかけた姫の眼前で、月夜の右手が動いた。その手の中に鈍い鋼色の光を見た姫の顔色が変わった。
「やめえ! そないなことを、このわたくしが望むと思うのか」
月夜の手が止まった。姫の表情はもとより、声にも怒気が表れている。月夜はしかし、両手をつき頭を下げると、
「この手足は、全て姫様の意のままに」とのみ応えた。その表情は頭巾に隠されて伺うべくもない。
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