3 / 9
2
しおりを挟む
この辺りは山国ながら都にもほど近く、古くから戦の絶えぬ土地柄である。
この地で頭角を現した雨宮氏はよく時勢を読み、小さなおのが領国を守っていたが、特にこの頃この家にはひとりの姫があり、これがよく先を視たので、この国は戦禍や厄災にも遭わずにいた。
しかしこの姫については、いささかの噂があった。曰く、手足を持たぬ異形だと。村人達はこの姫をみづち様と呼び慣わしていたのである。
さてこの姫が月のものをみたとき、姫の父、すなわち雨宮の当主は姫の世話役としてひとりの少年を召した。顔を持たぬこれもまた、異形であった。
家臣はこれの異様な風体を見、また氏素性もわからぬこと、そして何より男であることを懸念したが、当主はただ「姫ももう一人前(ひとりまえ)や、男の情に触れるのも良かろう」とのみ言い、取りあわなかった。
最初に月夜に引きあわされたとき、姫は不満は唱えなかったが、その表情や態度には内心がありありと表れていた。
姫がそれをあらわにしたのは、月夜が下がった後である。
「嫌や嫌や……!」
姫は泣き声混じりに父に訴えた。仕立ての良い着物に身を包んだ、十二、三と思しき少女である。背凭(もた)れのある脇息に身を凭せかけ、色白くたいそう美しく優しい顔だちだが、着物の袖や裾の辺りが何やら常とは違って見える。
「姫様のお世話を男に任せるなど、とんでもないことにございます。ましてやどこの者とも知れん、怪しげな子供を……それでのうても、姫様は……」
脇に控えた侍女と思しき女がおろおろと、しかし抗議するかのような声を上げた。髪には白いものが目立ち、長らく姫に仕えてきたことが伺える。どうやら姫の乳母と見えた。
「もう決めたことや」
当主は乳母の言葉を、にべもなく退けた。
「おまえはこれまでようやってくれた、礼を言う。そやけどおまえももう歳や。みづちの世話はそろそろきつかろう」
「わたくしはまだまだお役に立てます。どうかお願いいたします、わたくしからお役目を取り上げるなど、なさらないで下さいまし……!」
「みづち」
今度は当主は、姫に向かって呼びかけた。
「そなたはどう思う。今はまだ体も小さいが、これからどんどんおとなになるのや。もう髪も白うなってきたこれに、これからも世話をして貰うのがよいのか」
そう言われ、姫は押し黙った。
「月夜を」
当主が呼ばわった。使用人頭が月夜を伴い現れた。
当主はこれを見やるでもなく、では頼んだぞ、と言い置くと、去りがたい気持ちを隠そうともしない乳母をうながし部屋を出て行った。
あとには姫と月夜のみが残った。
長い沈黙があり、ようやく姫が口を開いた。
「父上のお考えがわたくしにはわからない……。男のおまえがこのわたくしの手足となるのか」
「わしは男でも女でもございませぬ」
月夜が応えた。それから頭を上げると言った。
「先ほど姫様が仰いました。わしは姫様の手足です。姫様のお心のままに動きましょう。お望みなら、この場で両目をくりぬいてもかまいませぬ」
「そないなことが──」
こわばった笑みを浮かべて言いかけた姫の眼前で、月夜の右手が動いた。その手の中に鈍い鋼色の光を見た姫の顔色が変わった。
「やめえ! そないなことを、このわたくしが望むと思うのか」
月夜の手が止まった。姫の表情はもとより、声にも怒気が表れている。月夜はしかし、両手をつき頭を下げると、
「この手足は、全て姫様の意のままに」とのみ応えた。その表情は頭巾に隠されて伺うべくもない。
この地で頭角を現した雨宮氏はよく時勢を読み、小さなおのが領国を守っていたが、特にこの頃この家にはひとりの姫があり、これがよく先を視たので、この国は戦禍や厄災にも遭わずにいた。
しかしこの姫については、いささかの噂があった。曰く、手足を持たぬ異形だと。村人達はこの姫をみづち様と呼び慣わしていたのである。
さてこの姫が月のものをみたとき、姫の父、すなわち雨宮の当主は姫の世話役としてひとりの少年を召した。顔を持たぬこれもまた、異形であった。
家臣はこれの異様な風体を見、また氏素性もわからぬこと、そして何より男であることを懸念したが、当主はただ「姫ももう一人前(ひとりまえ)や、男の情に触れるのも良かろう」とのみ言い、取りあわなかった。
最初に月夜に引きあわされたとき、姫は不満は唱えなかったが、その表情や態度には内心がありありと表れていた。
姫がそれをあらわにしたのは、月夜が下がった後である。
「嫌や嫌や……!」
姫は泣き声混じりに父に訴えた。仕立ての良い着物に身を包んだ、十二、三と思しき少女である。背凭(もた)れのある脇息に身を凭せかけ、色白くたいそう美しく優しい顔だちだが、着物の袖や裾の辺りが何やら常とは違って見える。
「姫様のお世話を男に任せるなど、とんでもないことにございます。ましてやどこの者とも知れん、怪しげな子供を……それでのうても、姫様は……」
脇に控えた侍女と思しき女がおろおろと、しかし抗議するかのような声を上げた。髪には白いものが目立ち、長らく姫に仕えてきたことが伺える。どうやら姫の乳母と見えた。
「もう決めたことや」
当主は乳母の言葉を、にべもなく退けた。
「おまえはこれまでようやってくれた、礼を言う。そやけどおまえももう歳や。みづちの世話はそろそろきつかろう」
「わたくしはまだまだお役に立てます。どうかお願いいたします、わたくしからお役目を取り上げるなど、なさらないで下さいまし……!」
「みづち」
今度は当主は、姫に向かって呼びかけた。
「そなたはどう思う。今はまだ体も小さいが、これからどんどんおとなになるのや。もう髪も白うなってきたこれに、これからも世話をして貰うのがよいのか」
そう言われ、姫は押し黙った。
「月夜を」
当主が呼ばわった。使用人頭が月夜を伴い現れた。
当主はこれを見やるでもなく、では頼んだぞ、と言い置くと、去りがたい気持ちを隠そうともしない乳母をうながし部屋を出て行った。
あとには姫と月夜のみが残った。
長い沈黙があり、ようやく姫が口を開いた。
「父上のお考えがわたくしにはわからない……。男のおまえがこのわたくしの手足となるのか」
「わしは男でも女でもございませぬ」
月夜が応えた。それから頭を上げると言った。
「先ほど姫様が仰いました。わしは姫様の手足です。姫様のお心のままに動きましょう。お望みなら、この場で両目をくりぬいてもかまいませぬ」
「そないなことが──」
こわばった笑みを浮かべて言いかけた姫の眼前で、月夜の右手が動いた。その手の中に鈍い鋼色の光を見た姫の顔色が変わった。
「やめえ! そないなことを、このわたくしが望むと思うのか」
月夜の手が止まった。姫の表情はもとより、声にも怒気が表れている。月夜はしかし、両手をつき頭を下げると、
「この手足は、全て姫様の意のままに」とのみ応えた。その表情は頭巾に隠されて伺うべくもない。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
新選組の漢達
宵月葵
歴史・時代
オトコマエな新選組の漢たちでお魅せしましょう。
新選組好きさんに贈る、一話完結の短篇集。
別途連載中のジャンル混合型長編小説『碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。』から、
歴史小説の要素のみを幾つか抽出したスピンオフ的短篇小説です。もちろん、本編をお読みいただいている必要はありません。
恋愛等の他要素は無くていいから新選組の歴史小説が読みたい、そんな方向けに書き直した短篇集です。
(ちなみに、一話完結ですが流れは作ってあります)
楽しんでいただけますように。
★ 本小説では…のかわりに・を好んで使用しております ―もその場に応じ個数を変えて並べてます
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】長屋番
かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ三作目。
綾ノ部藩の藩士、松木時頼は三年前のお家騒動の折、許嫁との別れを余儀なくされた。許嫁の家は、藩主の側室を毒殺した家の縁戚で、企みに加担していたとして取り潰しとなったからである。縁切りをして妻と娘を実家へ戻したと風のうわさで聞いたが、そのまま元許嫁は行方知れず。
お家騒動の折り、その手で守ることのできなかった藩主の次男。生きていることを知った時、せめて終生お傍でお守りしようと心に決めた。商人の養子となった子息、作次郎の暮らす長屋に居座り続ける松木。
しかし、領地のある実家からはそろそろ見合いをして家督を継ぐ準備をしろ、と矢のような催促が来はじめて……。
【完結】天下人が愛した名宝
つくも茄子
歴史・時代
知っているだろうか?
歴代の天下人に愛された名宝の存在を。
足利義満、松永秀久、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
彼らを魅了し続けたのは一つ茶入れ。
本能寺の変で生き残り、大阪城の落城の後に壊れて粉々になりながらも、時の天下人に望まれた茶入。
粉々に割れても修復を望まれた一品。
持った者が天下人の証と謳われた茄子茶入。
伝説の茶入は『九十九髪茄子』といわれた。
歴代の天下人達に愛された『九十九髪茄子』。
長い年月を経た道具には霊魂が宿るといい、人を誑かすとされている。
他サイトにも公開中。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる