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#3 御先2
しおりを挟むその男──オサキ──は、午後を少しまわった頃に現れた。
五十がらみの、押し出しの強そうな恰幅のいい男だった。身につけたものは衣服も装飾品もいかにも高級そうだったが、「高級そうだ」という以外に通じるものがなく、むしろ下卑た印象を与えている。オサキは何人かの男を従え、力車でやって来た。
「やあミオさん、今日もお美しいですな」
扉を開けた男を一瞥すると、オサキは猫なで声でミオに話しかけた。
「どうぞ、奥へ」
ミオは短く応えた。熱のこもらない声を聞けば、ミオはどうやらこの中年男に好感を持っていないことが知れる。だがオサキは機嫌良く笑いながら無遠慮にミオの庵に入ってきた。
ミオは先刻までの常衣を装束に着替え、水盤の中央に座している。オサキがミオのしとどに濡れた装束に驚かないのは、これが祈祷の際の常であるからだろう。周囲の燭台には蝋燭が灯り、これが蝋に何か香料でも練り込んであるらしく、もともとあった薬草や潮の匂いと混ざり合い、室内には不思議な混然とした匂いが漂っていた。
歯の浮くような世辞を言いながら、オサキはミオの対面にしつらえられた座にどっかりと腰をおろすと、
「そういえば」
と、今思いついたかのような口ぶりで言った。
「そこな御仁、わざわざ招いた音曲師だそうで。ぜひとも囃子を聞かせてもらいたいものですな」
「────」
ミオが何かを言いかける間もなく、男が応えた。
「ようございます。不束ながら、務めさせていただきます」
言いながら男は手探りで三弦と弓を引き寄せた。それを持って下座に侍り弦軸を握り弦を調整し、しっかりと抱えなおすと弾き始めた。
古びた三弦をバカにしたように見ていたオサキにも、その音色の良さがわかった。男は三弦を奏でながら低く誦じはじめた。
ミオもまた、誦じはじめた。
哀切な三弦の音色、低くうねるような男の祝詞と澄んだミオのそれが重なり、絡みあう。
室内に不思議な気が満ち、ミオが立ちあがった。
途切れぬ男の囃子の中、ミオが舞いはじめる。りんりんと鈴の音が響き、ときおりしぶきも飛んでくるのはミオの手足に嵌められた装飾と翻る裾や袖のせいだが、男にはわからぬ。男はただ、ミオの気配とおのが音曲に集中していた。
やがて鈴の音が終わり、男も弓を置いた。
「いやあ……、これはなかなか、思ってたよりもだいぶんに良いものを」
と、オサキは直截に言った。
「で、どんな具合で」
「大丈夫、新しい坑道はすばらしい益を上げてくれるでしょう。あとは厄災にくれぐれも気をつけるようにすれば」
すばらしい益、と聞いたところでオサキの表情はあからさまにゆるみ、とってつけたように
「むろんです。山開きの際は盛大に祝い事をし祈祷も行いますから、よろしく頼みますよ」
などと言った。
ひとしきり調子のよい言葉を並べたてたあと、オサキは帰っていった。車輪の音が遠ざかり、水盤の上でミオはほうっ……、とため息をついた。
「お疲れ様でした……」
と、男が労うと、
「おじさんこそ。今までに聞いたどの音曲よりも素晴らしかったわ」
と応え、それから続けて訊ねた。
「おじさん、どうして禊祝詞を知っているの?」
「お恥ずかしい……、あちこちで聞きかじった寄せ集めでございます」
とてもそうは思えなかった。しかるべき場でしっかりと身につけたわざに思えたが、ミオもそれ以上は何も訊かず、ただ、
「私も心の入った舞ができた……。おじさん、これからもよろしくね」
とのみ応えた。
「一所懸命に務めさせていただきます」
男もかすかに頬を緩めて言った。
「ところでおまえさまは……、おみ足が悪いと思っとりましたが」
と、男が続けた。
「わっしの勘違いだったようで……」
「いいえ、そうではないの」
ミオが静かに遮った。
「私のこの足は萎えていてよく動かないの。でもこの水盤の上でなら踊れる。海の水が私に力をくれる──」
「海の水が私をひたしている間は、この身は軽く、自由になるの」
不思議な話だった。だが男は納得した。
今朝、ミオは男に「おじさんには不思議な力がある。月の光を浴びて狂わずにいたのだから」と言った。月の光が人を狂わせるというミオの言葉が本当なら、その光の下で男を助けたミオもまた、「不思議な力」を持っているはずだった。
「ひとつ、お願いが」
男の言葉に、水盤から降り、濡れた装束を脱いで身体を拭いていたミオは振り返った。
「さっきの男……、申し訳ないがわっしはどうにも虫が好かない……」
「…………」
「あんな男の世話になるのはおよしなさい。わっしに、おまえさまの身の回りのお世話をさせてください」
ミオは驚いたように男を見つめた。
「おじさん、……でも」
目が見えないのでは、と言いかけたミオに、男が続けて言った。
「先ほどは、祝詞は旅の空で覚えたもの、と申しましたが、やはり本当のことを話します。わっしはその、……もとは郷里の巫女さまの下人でしたんで」
「…………」
それで、と、ミオも思い当たった。
私に、巫女かと訊ねたときの、あの声──。先の囃子を聞けば、男がでたらめを並べているとも思えなかった。
「目は見えずとも、おまえさまのお役にきっとたてます」
「わかりました」
笑みを浮かべ、ミオが答えた。
「申し訳ない気もするけれど、色々と手伝ってもらえるのはありがたいわ。よろしくね」
「よろしくお願い申し上げます」
男も穏やかに応えた。
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