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第三章 大型新人
三日月の夜に
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片手で引き寄せられた体は、濃紺の着物に包まれて。普段見ることのない頭頂部が、佐和子の顎の下にある。
まだ手を繋ぎ、ぎゅっと抱きしめられるくらいのふれあいだったのに。
突然腰を抱かれ、甘えるような態度を取られて、佐和子は狼狽える。
––––鈴華さんの件で話を聞こうと思って残っただけだったのに。これは。
みるみるうちに上がる体温を抑えようとすればするほど、体が赤みを増していく気がする。佐和子だって二十代半ばに差し掛かろうというところで、お付き合いをした経験だってある。だが永徳とのことは、他のどの恋とも違う。それゆえ、一つ一つの触れ合いに毎度動揺し、胸の奥が狭くなるような心地になる。
そっと、目の前にある癖っ毛に手を置いてみる。初めて触った永徳の髪の毛は、見た目通り柔らかかった。途端に見た目二十代後半、実年齢五十代の男が子どものように見えて、慰めるように両手で髪を撫でてみる。
「……幸せすぎる」
されるがままになっていた永徳が呟くように言った。
「大袈裟です。髪を撫でているだけじゃないですか」
「好きな人の温もりを感じながら、こうしてもらえることなんて、俺の人生では遠い昔の記憶しかない」
「そうですか。では存分に撫でられてください」
「撫でるだけ?」
顔をあげ、佐和子に視線を合わせた永徳の頬は、ほんのり上気していて。
そうかと思えば今度は佐和子が子どものように抱き上げられ、膝の上に乗せられる。
「……やめてくださいって、言わないのかい」
「以前だったら、引っ掻いて逃げていたかもしれません」
ベネチアングラスのような青い瞳から、目が離せない。
嫌だとは思わなかった。
「今は、こんなふうにしていることが幸せで。……続けて欲しいと思ってしまいます」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、唇を塞がれた。長いまつ毛が目の前にある。恍惚とした表情で、唇を吸われれば、観念したように力を抜き、佐和子も目を閉じた。
一人の人が自分を女性として求めてくれるということが、こんなにも満たされるものなのだろうか。
甘い時間を味わっていれば、唇を離した永徳が、とろんとした瞳で佐和子の顔を覗き込む。
「佐和子さん、今日って……」
永徳がそう言いかけた直後、けたたましい音を立てて襖が開かれる。
「家の鍵忘れちゃった! やだもうアタシったら! ってあれ」
飛び込んできたのは刹那だった。
膝の上に乗せられ、結い髪が解けた佐和子と、抱き抱える永徳。その姿に焦点があった刹那は、時間が止まったかのようにその場に固まった。
「え、やだ、ちょっと。もーそういうこと? やっとくっついたわけ? っていうか、そういうことは奥の和室とかでやりなさいよ! まったく、編集長ったら破廉恥ね! じゃ、良い夜を~」
忘れ物をさっと拳に握り、勢いよく飛び出していく刹那の姿を見て、先ほどまで熱っていた佐和子の体が一気に冷える。
見られた、見られてしまった。とんでもないところを。
「ごめん、佐和子さん……。君から恋人って言葉が出たことで、舞い上がってしまって。調子に乗りました……」
「いえいえ、私も断りませんでしたし」
永徳の膝から降り、乱れた髪と服装を整える。手近のデスクの椅子を持ってきて、永徳と向かい合うように座った。
「あの、今夜だけど……もしよかったら」
「今日は帰ります。だって笹野屋さん、疲れていそうですから」
「ええー!! 疲れてない! 疲れてないよ! っていうか、俺、特質的に疲れないから!」
慌てて立ち上がり、そう抗議する永徳を見て、佐和子は苦笑する。
「体はそうかもしれませんが。メンタルは疲れていると思いますよ」
「ああ、鈴華のことか。あやかしを新しく雇うと、こういうことはよくあるからねえ、覚悟してたけど。鈴華の場合はちょっと程度がね……まあ酷いけど。いや、でも!」
「鈴華さんの行動なんですけど。なんというか、私、自分と共通したものを感じるんです」
思っても見なかった言葉だったのか、永徳は不思議そうな顔をする。
「佐和子さんと? ええ、そうかなあ」
「なんていうか、自分を認めてもらおうと焦っているような。実力を示そうと空回りしている感じがして……。だからあの」
「一緒に仕事をさせてくれって? それは危険じゃないかなあ。鈴華、佐和子さんを敵視している感じがするし」
「彼女、他のあやかし編集部員にはヘラヘラしてますけど、私には感情むき出しにする瞬間があります。それって、本気でぶつかりあえる隙があるってことだと思うので。やらせてもらえませんでしょうか」
永徳は顎に手を当て、眉間に皺を寄せる。しばしの逡巡ののち、彼はため息をついた。
「強くなったねえ、佐和子さんは。いいだろう。ただ彼女と仕事をさせるときは、眷属を付けさせてもらうよ。根付けは編集部員には反応しないようにできているからね」
「はい、ありがとうございます!」
「さて、俺の悩み事も解決に向かいそうなことだし? やっぱり今夜は……」
「いえ! とにかく永徳さんは、しっかり体を休めてください。お疲れ様でした」
「えええ、ちょっと……」
自席に戻り、カバンを肩にかけた佐和子は早足で玄関に向かっていく。逃げるように門の外へ出ると、ホッと息をついた。
––––やっぱり、まだ心の準備が……!
今宵は三日月。まるで猫の爪のようなその姿を見上げ、佐和子は決意を新たにする。
「記事ではまだまだ貢献できないけど。少しでも編集部の力になれればいいな」
◇◇◇
永徳は編集室から出ると縁側に腰掛け、ぬるくなった茶を飲みながら、月を見上げた。
「メンタルの疲れなんて、佐和子さんが一緒に寝てくれれば一発で回復するんだけどねえ」
ひとり苦笑いしながら、一気に茶を煽る。行き場のなくなってしまった熱を冷ますため、永徳はそのまま縁側に横になった。
まだ手を繋ぎ、ぎゅっと抱きしめられるくらいのふれあいだったのに。
突然腰を抱かれ、甘えるような態度を取られて、佐和子は狼狽える。
––––鈴華さんの件で話を聞こうと思って残っただけだったのに。これは。
みるみるうちに上がる体温を抑えようとすればするほど、体が赤みを増していく気がする。佐和子だって二十代半ばに差し掛かろうというところで、お付き合いをした経験だってある。だが永徳とのことは、他のどの恋とも違う。それゆえ、一つ一つの触れ合いに毎度動揺し、胸の奥が狭くなるような心地になる。
そっと、目の前にある癖っ毛に手を置いてみる。初めて触った永徳の髪の毛は、見た目通り柔らかかった。途端に見た目二十代後半、実年齢五十代の男が子どものように見えて、慰めるように両手で髪を撫でてみる。
「……幸せすぎる」
されるがままになっていた永徳が呟くように言った。
「大袈裟です。髪を撫でているだけじゃないですか」
「好きな人の温もりを感じながら、こうしてもらえることなんて、俺の人生では遠い昔の記憶しかない」
「そうですか。では存分に撫でられてください」
「撫でるだけ?」
顔をあげ、佐和子に視線を合わせた永徳の頬は、ほんのり上気していて。
そうかと思えば今度は佐和子が子どものように抱き上げられ、膝の上に乗せられる。
「……やめてくださいって、言わないのかい」
「以前だったら、引っ掻いて逃げていたかもしれません」
ベネチアングラスのような青い瞳から、目が離せない。
嫌だとは思わなかった。
「今は、こんなふうにしていることが幸せで。……続けて欲しいと思ってしまいます」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、唇を塞がれた。長いまつ毛が目の前にある。恍惚とした表情で、唇を吸われれば、観念したように力を抜き、佐和子も目を閉じた。
一人の人が自分を女性として求めてくれるということが、こんなにも満たされるものなのだろうか。
甘い時間を味わっていれば、唇を離した永徳が、とろんとした瞳で佐和子の顔を覗き込む。
「佐和子さん、今日って……」
永徳がそう言いかけた直後、けたたましい音を立てて襖が開かれる。
「家の鍵忘れちゃった! やだもうアタシったら! ってあれ」
飛び込んできたのは刹那だった。
膝の上に乗せられ、結い髪が解けた佐和子と、抱き抱える永徳。その姿に焦点があった刹那は、時間が止まったかのようにその場に固まった。
「え、やだ、ちょっと。もーそういうこと? やっとくっついたわけ? っていうか、そういうことは奥の和室とかでやりなさいよ! まったく、編集長ったら破廉恥ね! じゃ、良い夜を~」
忘れ物をさっと拳に握り、勢いよく飛び出していく刹那の姿を見て、先ほどまで熱っていた佐和子の体が一気に冷える。
見られた、見られてしまった。とんでもないところを。
「ごめん、佐和子さん……。君から恋人って言葉が出たことで、舞い上がってしまって。調子に乗りました……」
「いえいえ、私も断りませんでしたし」
永徳の膝から降り、乱れた髪と服装を整える。手近のデスクの椅子を持ってきて、永徳と向かい合うように座った。
「あの、今夜だけど……もしよかったら」
「今日は帰ります。だって笹野屋さん、疲れていそうですから」
「ええー!! 疲れてない! 疲れてないよ! っていうか、俺、特質的に疲れないから!」
慌てて立ち上がり、そう抗議する永徳を見て、佐和子は苦笑する。
「体はそうかもしれませんが。メンタルは疲れていると思いますよ」
「ああ、鈴華のことか。あやかしを新しく雇うと、こういうことはよくあるからねえ、覚悟してたけど。鈴華の場合はちょっと程度がね……まあ酷いけど。いや、でも!」
「鈴華さんの行動なんですけど。なんというか、私、自分と共通したものを感じるんです」
思っても見なかった言葉だったのか、永徳は不思議そうな顔をする。
「佐和子さんと? ええ、そうかなあ」
「なんていうか、自分を認めてもらおうと焦っているような。実力を示そうと空回りしている感じがして……。だからあの」
「一緒に仕事をさせてくれって? それは危険じゃないかなあ。鈴華、佐和子さんを敵視している感じがするし」
「彼女、他のあやかし編集部員にはヘラヘラしてますけど、私には感情むき出しにする瞬間があります。それって、本気でぶつかりあえる隙があるってことだと思うので。やらせてもらえませんでしょうか」
永徳は顎に手を当て、眉間に皺を寄せる。しばしの逡巡ののち、彼はため息をついた。
「強くなったねえ、佐和子さんは。いいだろう。ただ彼女と仕事をさせるときは、眷属を付けさせてもらうよ。根付けは編集部員には反応しないようにできているからね」
「はい、ありがとうございます!」
「さて、俺の悩み事も解決に向かいそうなことだし? やっぱり今夜は……」
「いえ! とにかく永徳さんは、しっかり体を休めてください。お疲れ様でした」
「えええ、ちょっと……」
自席に戻り、カバンを肩にかけた佐和子は早足で玄関に向かっていく。逃げるように門の外へ出ると、ホッと息をついた。
––––やっぱり、まだ心の準備が……!
今宵は三日月。まるで猫の爪のようなその姿を見上げ、佐和子は決意を新たにする。
「記事ではまだまだ貢献できないけど。少しでも編集部の力になれればいいな」
◇◇◇
永徳は編集室から出ると縁側に腰掛け、ぬるくなった茶を飲みながら、月を見上げた。
「メンタルの疲れなんて、佐和子さんが一緒に寝てくれれば一発で回復するんだけどねえ」
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