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第七章 働く上での「幸せ」
百鬼夜行
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「ああ……もう朝か……」
白んだ空を見て、佐和子は絶望を感じた。
ここのところ毎日、日付を跨いで家に帰り、家には風呂と寝に帰るだけの生活が続いている。
あれだけ「自分の限界を超えない範囲で仕事をすること」と口酸っぱく永徳に言われていたが。
相手が有無を言わさず無茶を要求する上、それが会社の文化になってしまっているなら、自分だけがそうすることも叶わない。少なくとも佐和子には、そんな環境でうまく立ち回れるほどの器用さはなかった。
ビルの自動扉を通過し、エレベーターで四階へ登る。階数を示すランプが一階登るたび、まるで重力がましていくかのように徐々に体が重くなっていく。
デスクに着く頃には、やっとやっとで体勢を保っていられるくらいになっていた。
今日は朝から、社長による挨拶があるらしい。席についてすぐ、秘書を伴って上機嫌の社長がやってきた。
「よし、みんな揃っているな。今日は重大発表があってな! きっとみんな驚くぞ。やっぱり私は天才だ」
不穏な空気を感じ、社員はその場で皆凍りついた。社長がこういう話の始め方をする時、ろくなことがないというのを知っているのだ。
「なんと! 我が地元のサッカーチーム『ソラリス』の大株主になれることになったんだ。すごいだろう? チームと連携してのマーケティング活動も今後行なっていく予定だ。葵くん、これに関してはね、君に任せようと思っている、やってくれるね?」
––––……え? そんな話、聞いてない。
慌てて立ち上がり、佐和子は社長に向かって抗議の表情をあらわにする。
「あの、社長。お話は大変嬉しいのですが。すでに抱えている業務が大量にあり、毎日夜中まで残業をしている状態です。どう考えても、さらに新しい活動をやるのは……」
ここで「大丈夫」なんて言ったら、過労で死んでしまう。
佐和子は永徳が自分に向けて言ってくれた言葉を反芻していた。
「大丈夫、という言葉に『自分が無理をすれば』という枕詞をつけてはいけないよ。大丈夫と言っていいのは、自分が元気な状態で、余裕を持ってやり切れるときだけなんだ」
社歴の浅い新人に、まさか正面切って反抗されるとは思っていなかったのだろう。鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべたあと、額に青筋を立てて社長は怒り始めた。
「なんだと? やらないって言うのか。素晴らしいチャンスなんだぞ。だいたい、君は仕事が遅いんだよ。もっと効率良くやれば新規事業の一つや二つ、十分対応できる余裕があるはずだ。努力が足りないんだよ、努力が」
周りにいる社員は、皆、目を伏せていた。
巻き込まれたくない、という表情が見てとれる。動画施策を「私に任せればいいのに」と言っていた山田でさえ、目を逸らしていた。
それだけこの仕事が、先の見えない、社内の誰にも知見がない仕事であることを示している。
「ほら、大丈夫って言え。やれるだろ、え? せっかく私がとってきてやった仕事だぞ?」
「……大丈夫じゃありません」
「ああ? 声が小さくて聞こえなかったな、もうちょっとはっきり言いなさい」
昔の佐和子なら、ここで恫喝に負けて「大丈夫です」と言っていただろう。でも今の自分は違う。佐和子はまっすぐと社長を見つめ、思い切り叫んだ。
「大丈夫じゃありません!」
「よく言った。葵さん」
風鈴のような涼やかな声が、佐和子の背後から聞こえた。
聞き慣れたその声の方を振り返ると––––紺色の羽織に黒地の着物を着た、あやかし瓦版オンラインの編集長、笹野屋永徳が立っていた。
ヴェネチアングラスを埋め込んだかのような青い双眸が、まっすぐに社長を見つめている。
突如社内に現れた和服の美丈夫を前に、社長はなにが起きたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしていた。
「俺も経営者の端くれなものでね。ひとつ言わせてもらうよ。経営者というものはね、従業員の健康を第一に考えなければならないと思っている。従業員が健康でなければ、いい仕事はできないからだ。だから貴殿のやり方はどうも理解できん。自分のやりたいことを押し切って部下の命を削る行為は、非常に愚かだと俺は思う」
永徳が吐いたド正論に、その場の空気が凍る。動揺しつつも、誰も永徳を止めるそぶりは見せず、社員たちは話の行方を見守っていた。
「そんなのは理想論だろう! そんなことで会社が上手くいくなら、誰だってそうしているさ。部下は常に怠けようとするものだ。だから私が発破をかけてやっているんだよ。何処の馬の骨かもわからんあんたに口出しされる覚えはない。第一不法侵入だ! 警察を呼ぶぞ」
怒り心頭の様子の社長に対し、相変わらず涼しい顔で永徳は笑っている。
「まぁ、うちは土地転がしで実質食っているようなものだからなぁ。そういう意味では本職で利益が上がっているかというと微妙なところだし、理想論というのは否定できないが……。だがしかし」
突然、ヒヤリとした冷気があたりを包んだ。
いつもの掴みどころのないヘラヘラした態度は鳴りを顰め、身の毛のよだつような氷の眼差しが、社長を射抜く。
「大魔王山本五郎左衛門が息子、笹野屋永徳の嫁候補への仕打ち、実に許すまじ。人ならざるものの怒り、思い知るがいい」
地の底から這うような声で永徳がそう言い放った瞬間。執務室のドアが勢いよく開け放たれた。紫や青、金色の煙が、まるで曲技飛行の如く、入り乱れて雪崩れ込んでくる。
派手な赤い着物に身を包み、長い首を縦横無尽に伸ばしながら入ってくる刹那。鋭い牙を見せつけるように口を開けながら、その場にいる人間を威嚇するマイケル。赤いふんどしでシコを踏みながら入場してきたかと思えば、張り手でオフィスの壁に穴を開けていく宗太郎。小鬼の蒼司と赤司は、黄色い雲に乗って部屋中を飛び回って雄叫びを上げている。
目の前でいきなり始まった百鬼夜行のような光景に、社長は腰を抜かし、口を開けたまま動けずにいる。
その場にいる社員たちはあやかしの一大パフォーマンスを捉えようと、次々とスマートフォンのカメラを構えるが、永徳が片手を上げれば、すべての電子機器の電源がプツリと落ち、撮影は失敗に終わった。
赤司と蒼司が乗った雲は、煙幕のように部屋中を煙で満たし、視界を遮っていく。するとその中から部屋全体を包み込むように巨大な髑髏が現れ、社長の喉元目掛けて大きな口を開いて飛び込んできた。
「うわああああ!」
巨大髑髏は、恐ろしげにガチャガチャとアゴを鳴らしながら社長の体を通り抜けたかと思うと、霧のように掻き消えた。
あまりの恐怖に床に崩れ落ちた社長は、どうやら失神してしまったようだ。
その様子を冷ややかな目で見ていた永徳だったが。佐和子の方に向き直ると、いつもの穏やかな顔に戻り、彼女の両肩に手を置いた。
「葵さん、ごめんね。突然お邪魔して。でもひとつだけ聞かせて欲しい」
「……はい」
「君は、本当はどこで働きたい? どんな仕事がしたい?」
「私……」
永徳の優しい眼差しを受けて。佐和子の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
–––––今なら言える。自分の言葉で。
–––––きちんと自分のやりたいことを、自分の意思で選び取れる。
「私、あやかし瓦版編集部で……あやかしの皆さんのための記事を、もっとたくさん書きたいです。皆さんと悩みながら、記事を作るのが好きなんです」
佐和子の返答を聞いた永徳は、今まで見せたことのないような幸せそうな笑顔を浮かべる。
我慢していた涙が、ポロポロと溢れた。
「そうかい」
「戻っても、いいんでしょうか」
「編集部は君がいなくなって、火が消えたようだよ。あれだけ快活だった刹那はすっかり元気がなくなってしまったし、君の人間としての意見を求めていたあやかしたちは、相談相手を失って非常に困っていてね。葵さんの連載記事を楽しみにしているという読者からのコメントも届いている。俺としてはなんとか、君に戻ってきてもらえないかなあ、と思っていてね」
困ったような笑みを浮かべ、永徳は佐和子の前に手を差し出した。
「俺と来てくれるかい?」
なんとか目に留まっていた涙が、ポロポロと溢れ出し頬を伝っていく。
初めて自分を必要としてくれた職場に、上司の温かい微笑みに。
心が満たされて、たまらなくなった。
「はい、喜んで」
「じゃあ、決まりだ」
永徳がパチン、と指を鳴らすと、時代劇で見るような籠が現れた。籠を担いでいるのは、小鬼の蒼司と赤司。永徳に促されるまま中に乗ると、外から見た籠の大きさとはずいぶん異なり、籠の中は観覧車のゴンドラくらいの広さがあった。
「さあ、少し揺れるからね。しっかり俺に捕まっていなさい」
「え、そんなに揺れるんですか……? う、うわああ」
腕を掴むのに躊躇しているうちに、激しい揺れに振られて、永徳の胸に飛び込む形になってしまった。
「おや、葵さん。やっぱり俺のところに嫁に来る気になったのかな? 君がそう決めたのなら、ありがたい限りだが」
「これは、不可抗力です……!」
威勢の良い掛け声と共に駆け出した籠は、小鬼たちのテンションの高さに呼応するように、上下に揺れに揺れて。
耐えきれなくなった佐和子は永徳に懇願して、つるさわ川のほとりになんとか降ろしてもらえることになった。
火車といい、なぜ、あやかしの乗り物はこうも揺れるのだろうか。
「き、気持ち悪い……よく長い間乗っていられますね。あの籠に……、いや、本当に、あの会社から連れ出していただいたのは、とってもありがたかったんですが……」
吐き気に耐えかねて、川辺に座り込む佐和子の背を撫でながら、永徳は答える。
「いやあ、あれはね。慣れだよ、慣れ」
「……そういえば、どうしてあのタイミングで会社にいらっしゃったんですか。私はもう、あやかし瓦版の編集部員じゃないのに」
「うーん……もしかしたら、ちょっと気持ち悪いと思われてしまうかもしれないんだけど」
永徳は、顎に手を当てながら、少し気まずそうにしている。
「俺はね、一度雇い入れたものは皆、自分の家族のように思っているんだよ。だから、新しい仕事が軌道に乗るまで、葵さんのことも見守ろうと思っていたんだ」
「見られてたんですね……」
佐和子の反応を見て、ごめんね、と眉尻を下げながら、永徳は続ける。
「だがしかし、どんどん良くない方に転がっていくのを見てね。このまま放っておいていいのか迷い始めて……本当は、もうちょっと早く手を出したかったんだが」
「……もしかして、私の意思を尊重してくれようとしていたんですか?」
「葵さんはやはり人間だから。あやかしが君の決めたことに横槍を入れて良いのか迷ったんだ。だけど君が『大丈夫じゃない』と言ったのを聞いたから、やはりもうここは出ていくべきかな、と思ってね。迷惑ではなかったかい」
「とんでもない。私も本当は……ずっとずっと、戻りたかったんです。でも、世間体とか、人間としてどうするべきなのかとか、ぐるぐる考えてて。……でも、もう覚悟は決まりました」
佐和子は立ち上がり、永徳の顔を見上げた。まだふらふらはしているが、降りた直後と比べれば、吐き気はだいぶマシになってきている。
「また、働かせていただいても……いいでしょうか」
柔らかな風が、艶のある黒髪を靡かせた。佐和子が懇願するように永徳の目を見つめていると、彼は両眉を上げる。
「だからさっきから、戻ってきてくれと何度もお願いしているじゃないか」
そう言って、藤の花が綻んだかのような笑顔を見せる。
優しくて暖かいその笑顔を前に、佐和子も自然と頬を緩ませた。
◇◇◇
「まったく! 辞めたと思ったらすーぐ戻ってきて。なんだったのよ!」
「刹那さん、葵さんを責めないであげてください。元はと言えば、自分が血の匂いに負けて、葵さんに襲い掛かっちゃったのがきっかけではありますし」
「マイケルさんのせいじゃないですよ。私がうだうだ悩んでたのがいけないんです」
「まあまあ、いいじゃないか。結果として戻ってきたんだから。今夜はとにかく飲もう。飲んですべてを水に流そうじゃないか」
永徳はそう言って、刹那とマイケル、佐和子のコップに日本酒を注いだ。
編集部に戻って早々、まだ真昼間だというのに、永徳は縁側に面した広間のちゃぶ台に豪勢な料理を広げ、宴会を始めた。昼間から飲む酒は格別だとかなんだとか言いながら、編集長自らあやかしたちに酒を盛って回っている。
「たのもー! 笹野屋殿はおるか!」
玄関からの地鳴りのような叫び声が聞こえ、佐和子は目を剥いた。
永徳の方を見ると、彼は眉尻を下げて苦笑いをしている。
「ああ、うるさいのが来たね。まったく、今回は扉が見えているんだから、インターホンを押してくれればいいのに。視界に入ってないのかね」
やれやれと言いながら玄関に向かった永徳が連れてきたのは、大きな木箱を抱えた黒羽だった。
「佐和子が戻った記念に酒盛りをするとの連絡を、笹野屋殿からいただいたのでな。酒を持って参った」
「わあ、わざわざありがとうございます」
佐和子が恐縮して例を言うと、黒羽は面を取って笑顔を見せた。
頬が紅潮しているところを見ると、照れているようだ。
「この間も、勝手にやってきて、佐和子佐和子ってうるさかったからさ。呼んでやったんだよ」
永徳はそう言ったあと、「タダ酒の調達担当としてね」とこっそり佐和子に耳打ちした。
黒羽が酒の輪に加わったあと、井川や米村もやってきた。
宴会の始まりは昼だったはずなのに、いつの間にか夜は更けて。それでもどんちゃん騒ぎはおさまらず。
残業続きで疲れ切っていた佐和子は、笑い転げているうちに眠りについていた。
白んだ空を見て、佐和子は絶望を感じた。
ここのところ毎日、日付を跨いで家に帰り、家には風呂と寝に帰るだけの生活が続いている。
あれだけ「自分の限界を超えない範囲で仕事をすること」と口酸っぱく永徳に言われていたが。
相手が有無を言わさず無茶を要求する上、それが会社の文化になってしまっているなら、自分だけがそうすることも叶わない。少なくとも佐和子には、そんな環境でうまく立ち回れるほどの器用さはなかった。
ビルの自動扉を通過し、エレベーターで四階へ登る。階数を示すランプが一階登るたび、まるで重力がましていくかのように徐々に体が重くなっていく。
デスクに着く頃には、やっとやっとで体勢を保っていられるくらいになっていた。
今日は朝から、社長による挨拶があるらしい。席についてすぐ、秘書を伴って上機嫌の社長がやってきた。
「よし、みんな揃っているな。今日は重大発表があってな! きっとみんな驚くぞ。やっぱり私は天才だ」
不穏な空気を感じ、社員はその場で皆凍りついた。社長がこういう話の始め方をする時、ろくなことがないというのを知っているのだ。
「なんと! 我が地元のサッカーチーム『ソラリス』の大株主になれることになったんだ。すごいだろう? チームと連携してのマーケティング活動も今後行なっていく予定だ。葵くん、これに関してはね、君に任せようと思っている、やってくれるね?」
––––……え? そんな話、聞いてない。
慌てて立ち上がり、佐和子は社長に向かって抗議の表情をあらわにする。
「あの、社長。お話は大変嬉しいのですが。すでに抱えている業務が大量にあり、毎日夜中まで残業をしている状態です。どう考えても、さらに新しい活動をやるのは……」
ここで「大丈夫」なんて言ったら、過労で死んでしまう。
佐和子は永徳が自分に向けて言ってくれた言葉を反芻していた。
「大丈夫、という言葉に『自分が無理をすれば』という枕詞をつけてはいけないよ。大丈夫と言っていいのは、自分が元気な状態で、余裕を持ってやり切れるときだけなんだ」
社歴の浅い新人に、まさか正面切って反抗されるとは思っていなかったのだろう。鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべたあと、額に青筋を立てて社長は怒り始めた。
「なんだと? やらないって言うのか。素晴らしいチャンスなんだぞ。だいたい、君は仕事が遅いんだよ。もっと効率良くやれば新規事業の一つや二つ、十分対応できる余裕があるはずだ。努力が足りないんだよ、努力が」
周りにいる社員は、皆、目を伏せていた。
巻き込まれたくない、という表情が見てとれる。動画施策を「私に任せればいいのに」と言っていた山田でさえ、目を逸らしていた。
それだけこの仕事が、先の見えない、社内の誰にも知見がない仕事であることを示している。
「ほら、大丈夫って言え。やれるだろ、え? せっかく私がとってきてやった仕事だぞ?」
「……大丈夫じゃありません」
「ああ? 声が小さくて聞こえなかったな、もうちょっとはっきり言いなさい」
昔の佐和子なら、ここで恫喝に負けて「大丈夫です」と言っていただろう。でも今の自分は違う。佐和子はまっすぐと社長を見つめ、思い切り叫んだ。
「大丈夫じゃありません!」
「よく言った。葵さん」
風鈴のような涼やかな声が、佐和子の背後から聞こえた。
聞き慣れたその声の方を振り返ると––––紺色の羽織に黒地の着物を着た、あやかし瓦版オンラインの編集長、笹野屋永徳が立っていた。
ヴェネチアングラスを埋め込んだかのような青い双眸が、まっすぐに社長を見つめている。
突如社内に現れた和服の美丈夫を前に、社長はなにが起きたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしていた。
「俺も経営者の端くれなものでね。ひとつ言わせてもらうよ。経営者というものはね、従業員の健康を第一に考えなければならないと思っている。従業員が健康でなければ、いい仕事はできないからだ。だから貴殿のやり方はどうも理解できん。自分のやりたいことを押し切って部下の命を削る行為は、非常に愚かだと俺は思う」
永徳が吐いたド正論に、その場の空気が凍る。動揺しつつも、誰も永徳を止めるそぶりは見せず、社員たちは話の行方を見守っていた。
「そんなのは理想論だろう! そんなことで会社が上手くいくなら、誰だってそうしているさ。部下は常に怠けようとするものだ。だから私が発破をかけてやっているんだよ。何処の馬の骨かもわからんあんたに口出しされる覚えはない。第一不法侵入だ! 警察を呼ぶぞ」
怒り心頭の様子の社長に対し、相変わらず涼しい顔で永徳は笑っている。
「まぁ、うちは土地転がしで実質食っているようなものだからなぁ。そういう意味では本職で利益が上がっているかというと微妙なところだし、理想論というのは否定できないが……。だがしかし」
突然、ヒヤリとした冷気があたりを包んだ。
いつもの掴みどころのないヘラヘラした態度は鳴りを顰め、身の毛のよだつような氷の眼差しが、社長を射抜く。
「大魔王山本五郎左衛門が息子、笹野屋永徳の嫁候補への仕打ち、実に許すまじ。人ならざるものの怒り、思い知るがいい」
地の底から這うような声で永徳がそう言い放った瞬間。執務室のドアが勢いよく開け放たれた。紫や青、金色の煙が、まるで曲技飛行の如く、入り乱れて雪崩れ込んでくる。
派手な赤い着物に身を包み、長い首を縦横無尽に伸ばしながら入ってくる刹那。鋭い牙を見せつけるように口を開けながら、その場にいる人間を威嚇するマイケル。赤いふんどしでシコを踏みながら入場してきたかと思えば、張り手でオフィスの壁に穴を開けていく宗太郎。小鬼の蒼司と赤司は、黄色い雲に乗って部屋中を飛び回って雄叫びを上げている。
目の前でいきなり始まった百鬼夜行のような光景に、社長は腰を抜かし、口を開けたまま動けずにいる。
その場にいる社員たちはあやかしの一大パフォーマンスを捉えようと、次々とスマートフォンのカメラを構えるが、永徳が片手を上げれば、すべての電子機器の電源がプツリと落ち、撮影は失敗に終わった。
赤司と蒼司が乗った雲は、煙幕のように部屋中を煙で満たし、視界を遮っていく。するとその中から部屋全体を包み込むように巨大な髑髏が現れ、社長の喉元目掛けて大きな口を開いて飛び込んできた。
「うわああああ!」
巨大髑髏は、恐ろしげにガチャガチャとアゴを鳴らしながら社長の体を通り抜けたかと思うと、霧のように掻き消えた。
あまりの恐怖に床に崩れ落ちた社長は、どうやら失神してしまったようだ。
その様子を冷ややかな目で見ていた永徳だったが。佐和子の方に向き直ると、いつもの穏やかな顔に戻り、彼女の両肩に手を置いた。
「葵さん、ごめんね。突然お邪魔して。でもひとつだけ聞かせて欲しい」
「……はい」
「君は、本当はどこで働きたい? どんな仕事がしたい?」
「私……」
永徳の優しい眼差しを受けて。佐和子の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
–––––今なら言える。自分の言葉で。
–––––きちんと自分のやりたいことを、自分の意思で選び取れる。
「私、あやかし瓦版編集部で……あやかしの皆さんのための記事を、もっとたくさん書きたいです。皆さんと悩みながら、記事を作るのが好きなんです」
佐和子の返答を聞いた永徳は、今まで見せたことのないような幸せそうな笑顔を浮かべる。
我慢していた涙が、ポロポロと溢れた。
「そうかい」
「戻っても、いいんでしょうか」
「編集部は君がいなくなって、火が消えたようだよ。あれだけ快活だった刹那はすっかり元気がなくなってしまったし、君の人間としての意見を求めていたあやかしたちは、相談相手を失って非常に困っていてね。葵さんの連載記事を楽しみにしているという読者からのコメントも届いている。俺としてはなんとか、君に戻ってきてもらえないかなあ、と思っていてね」
困ったような笑みを浮かべ、永徳は佐和子の前に手を差し出した。
「俺と来てくれるかい?」
なんとか目に留まっていた涙が、ポロポロと溢れ出し頬を伝っていく。
初めて自分を必要としてくれた職場に、上司の温かい微笑みに。
心が満たされて、たまらなくなった。
「はい、喜んで」
「じゃあ、決まりだ」
永徳がパチン、と指を鳴らすと、時代劇で見るような籠が現れた。籠を担いでいるのは、小鬼の蒼司と赤司。永徳に促されるまま中に乗ると、外から見た籠の大きさとはずいぶん異なり、籠の中は観覧車のゴンドラくらいの広さがあった。
「さあ、少し揺れるからね。しっかり俺に捕まっていなさい」
「え、そんなに揺れるんですか……? う、うわああ」
腕を掴むのに躊躇しているうちに、激しい揺れに振られて、永徳の胸に飛び込む形になってしまった。
「おや、葵さん。やっぱり俺のところに嫁に来る気になったのかな? 君がそう決めたのなら、ありがたい限りだが」
「これは、不可抗力です……!」
威勢の良い掛け声と共に駆け出した籠は、小鬼たちのテンションの高さに呼応するように、上下に揺れに揺れて。
耐えきれなくなった佐和子は永徳に懇願して、つるさわ川のほとりになんとか降ろしてもらえることになった。
火車といい、なぜ、あやかしの乗り物はこうも揺れるのだろうか。
「き、気持ち悪い……よく長い間乗っていられますね。あの籠に……、いや、本当に、あの会社から連れ出していただいたのは、とってもありがたかったんですが……」
吐き気に耐えかねて、川辺に座り込む佐和子の背を撫でながら、永徳は答える。
「いやあ、あれはね。慣れだよ、慣れ」
「……そういえば、どうしてあのタイミングで会社にいらっしゃったんですか。私はもう、あやかし瓦版の編集部員じゃないのに」
「うーん……もしかしたら、ちょっと気持ち悪いと思われてしまうかもしれないんだけど」
永徳は、顎に手を当てながら、少し気まずそうにしている。
「俺はね、一度雇い入れたものは皆、自分の家族のように思っているんだよ。だから、新しい仕事が軌道に乗るまで、葵さんのことも見守ろうと思っていたんだ」
「見られてたんですね……」
佐和子の反応を見て、ごめんね、と眉尻を下げながら、永徳は続ける。
「だがしかし、どんどん良くない方に転がっていくのを見てね。このまま放っておいていいのか迷い始めて……本当は、もうちょっと早く手を出したかったんだが」
「……もしかして、私の意思を尊重してくれようとしていたんですか?」
「葵さんはやはり人間だから。あやかしが君の決めたことに横槍を入れて良いのか迷ったんだ。だけど君が『大丈夫じゃない』と言ったのを聞いたから、やはりもうここは出ていくべきかな、と思ってね。迷惑ではなかったかい」
「とんでもない。私も本当は……ずっとずっと、戻りたかったんです。でも、世間体とか、人間としてどうするべきなのかとか、ぐるぐる考えてて。……でも、もう覚悟は決まりました」
佐和子は立ち上がり、永徳の顔を見上げた。まだふらふらはしているが、降りた直後と比べれば、吐き気はだいぶマシになってきている。
「また、働かせていただいても……いいでしょうか」
柔らかな風が、艶のある黒髪を靡かせた。佐和子が懇願するように永徳の目を見つめていると、彼は両眉を上げる。
「だからさっきから、戻ってきてくれと何度もお願いしているじゃないか」
そう言って、藤の花が綻んだかのような笑顔を見せる。
優しくて暖かいその笑顔を前に、佐和子も自然と頬を緩ませた。
◇◇◇
「まったく! 辞めたと思ったらすーぐ戻ってきて。なんだったのよ!」
「刹那さん、葵さんを責めないであげてください。元はと言えば、自分が血の匂いに負けて、葵さんに襲い掛かっちゃったのがきっかけではありますし」
「マイケルさんのせいじゃないですよ。私がうだうだ悩んでたのがいけないんです」
「まあまあ、いいじゃないか。結果として戻ってきたんだから。今夜はとにかく飲もう。飲んですべてを水に流そうじゃないか」
永徳はそう言って、刹那とマイケル、佐和子のコップに日本酒を注いだ。
編集部に戻って早々、まだ真昼間だというのに、永徳は縁側に面した広間のちゃぶ台に豪勢な料理を広げ、宴会を始めた。昼間から飲む酒は格別だとかなんだとか言いながら、編集長自らあやかしたちに酒を盛って回っている。
「たのもー! 笹野屋殿はおるか!」
玄関からの地鳴りのような叫び声が聞こえ、佐和子は目を剥いた。
永徳の方を見ると、彼は眉尻を下げて苦笑いをしている。
「ああ、うるさいのが来たね。まったく、今回は扉が見えているんだから、インターホンを押してくれればいいのに。視界に入ってないのかね」
やれやれと言いながら玄関に向かった永徳が連れてきたのは、大きな木箱を抱えた黒羽だった。
「佐和子が戻った記念に酒盛りをするとの連絡を、笹野屋殿からいただいたのでな。酒を持って参った」
「わあ、わざわざありがとうございます」
佐和子が恐縮して例を言うと、黒羽は面を取って笑顔を見せた。
頬が紅潮しているところを見ると、照れているようだ。
「この間も、勝手にやってきて、佐和子佐和子ってうるさかったからさ。呼んでやったんだよ」
永徳はそう言ったあと、「タダ酒の調達担当としてね」とこっそり佐和子に耳打ちした。
黒羽が酒の輪に加わったあと、井川や米村もやってきた。
宴会の始まりは昼だったはずなのに、いつの間にか夜は更けて。それでもどんちゃん騒ぎはおさまらず。
残業続きで疲れ切っていた佐和子は、笑い転げているうちに眠りについていた。
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