30 / 65
第七章 働く上での「幸せ」
すれ違う想い
しおりを挟む
龍に縛り上げられたマイケルを別室に移して落ち着かせ、あたり一面に散らばった食器を片付けたあと。永徳は佐和子の肩に両手を置き、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「今日はこのまま家に帰ったほうがいい」
「え、でも……」
「ヴァンパイアが一度血の味を思い出してしまったら、少なくとも一週間は人間と一緒に居させない方がいいから……とにかく今は、この場を離れていてほしい」
そう言われて、先ほどの出来事がフラッシュバックした。
鋭い牙、食糧として狙われる恐怖。そして、憎しみに満ちた椿の瞳。
命の危険をこれほどまでに身近に感じたことはない。
「わかり……ました……」
震えが止まらない唇からは、そのひと言を絞り出すのがやっとで。
顔を真っ青にして俯く佐和子の髪を、永徳は慈しむように撫でる。
「家まで送るよ」
そう言って永徳は、佐和子の肩を抱き、玄関へと促した。
外はまだ明るかった。目の前で起こった出来事を、まだ脳が処理しきれないようで、佐和子の頭はぼうっとしている。
「背中は痛くないかい。打っていたようだけど」
「今のところは大丈夫です。少し、痛いですけど」
「人間を雇う上で、必要な安全策は講じていたつもりだったんだけど……不十分だった。本当に申し訳ない」
「笹野屋さんが謝ることはなにもありません」
永徳はそう言われて、口をつぐんだ。しばらくの沈黙ののち、永徳は佐和子に声をかけた。
「葵さん」
「なんでしょうか」
彼は佐和子の方には目を向けず、正面を見たまま、自分にも言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「出会ったばかりのころ、君は自信を失っていて、今にも消えてしまいそうだったね」
「……そうでしたね」
「でもひとつひとつ壁を乗り越えて、人間ながら、あやかしの世界で活躍していった」
「活躍……までは言い過ぎです。笹野屋さんが手を貸してくださらなかったら、私はきっと、ずっとダメなままでしたし……」
「俺はヒントを与えただけだよ」
「そうでしょうか」
「君はそのヒントを見逃さず、自分の力でゴールを見つけた。立派にひとりの社員として、仕事をできるようになった」
「……そういうふうに言っていただけて、嬉しいです」
褒められたことがむず痒くて。恐怖で温度を失っていた頬に、少しだけ赤みが戻る。しかし永徳は気まずそうな顔で、次の言葉を口にした。
「ただ、あやかしの世界で仕事をするには、やはりさまざまな困難がある。椿についてはこちらで手を打つけれども、再び命の危険に晒される可能性が、まったくないとは言い切れない」
「……それは、そうですね」
何を永徳が言おうとしているのか、佐和子は予想がつかなかった。言いにくそうにする彼の様子を、ただただ見守り、言葉を待つ。
「葵さん、君はそろそろ、人間の社会に戻ってもやっていけるんじゃないかい? あえて、あやかしの世界にとどまる理由は、もうないんじゃないかな」
「え」
歩みを止め、佐和子は永徳の顔を見上げた。
まさか永徳から、そんなことを言われるとは思っていなくて。あやかし瓦版の編集部員としての実質上の戦力外通告を受けたようで、ショックだった。
––––「人間としての視点を活かしてほしい」って言っていたのに。どうして今になって、そんなことを言うんですか?
「私が今いなくなっても、問題ないってことですか」
思わず、反抗するような態度をとってしまった。一瞬後悔したが、出てしまった言葉は引っ込めることができない。永徳の言い分はわからなくもない。優しい彼のことだから、佐和子の身を案じての発言だというのも理解できる。それでも永徳の言葉は、深く佐和子を傷つけた。
「会社っていうのはさ、誰かがいなくなっても回るようにできていないといけないんだ。それにほら、うちのあやかし瓦版は、地主の道楽みたいな事業なわけだから」
編集部の一員として、力になれているような気になっていた自分の、横面を引っ叩かれたみたいな気分だった。
自惚れるなと。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだと。そう言われてしまった気がして。
『君が辞めたら困る』
いつか自分の今後について相談する時が来た時。佐和子は、永徳にそう言ってもらえることを心のどこかで期待していた。
自分が頑張った成果を認めてもらって、引き止められることを。
「……実は、昔の友人から、うちの会社に来ないかって、言われているんですけど」
––––ねえ、笹野屋さん。引き止めて下さいよ。
「そうか」
「でも……」
「やってみたい仕事なのかい?」
「興味は、ある仕事……ではあります」
––––私は、あやかし瓦版の、かけがえのないひとりにはなれませんか。
「うちは大丈夫だから。ちょうど一週間あるわけだし、その期間で考えてみたら」
「引き止めて、くれないんですか」
駄々っ子みたいな、振り向いてくれない異性を振り向かそうと必死になっているような、嫌な言い方だと思った。だけど居た堪れなくて、もどかしくて、佐和子は口にしてしまった。
––––だって、あなたが私を誘ったんじゃないですか。あんなふうに無理やり。嫁候補だとか、大事な社員だとか言いながら、あなたが私を求めてくれたから。そのおかげで、ようやく光を見出せてきたのに。どうして今、そんなふうに、突き放そうとするんですか。
佐和子は心の中でそう叫んだ。
しかし永徳の口から出てきたのは、佐和子が求めていた言葉ではなかった。
「葵さんの進む道は、俺が決めることじゃない。君の人生だ。君の仕事は、君が決めなさい」
いつもの穏やかで優しい声の調子とは違う、温度のない声だった。
「……そうですね」
––––どうしよう。
「おっしゃる通りだと思います」
––––泣きそうだ。
「……家が見えたね。俺は戻るよ。もし、辞めるのであれば、特に連絡はしなくていい。根付をポストに返しておいておくれ。退職した場合も、椿が捕まるまで身の回りの安全は守るから。そこは安心して」
藍色の羽織は、あっという間に遠ざかっていってしまった。
取り残された佐和子は、しばし呆然と、笹野屋永徳が消えていった方向を見つめていた。
「今日はこのまま家に帰ったほうがいい」
「え、でも……」
「ヴァンパイアが一度血の味を思い出してしまったら、少なくとも一週間は人間と一緒に居させない方がいいから……とにかく今は、この場を離れていてほしい」
そう言われて、先ほどの出来事がフラッシュバックした。
鋭い牙、食糧として狙われる恐怖。そして、憎しみに満ちた椿の瞳。
命の危険をこれほどまでに身近に感じたことはない。
「わかり……ました……」
震えが止まらない唇からは、そのひと言を絞り出すのがやっとで。
顔を真っ青にして俯く佐和子の髪を、永徳は慈しむように撫でる。
「家まで送るよ」
そう言って永徳は、佐和子の肩を抱き、玄関へと促した。
外はまだ明るかった。目の前で起こった出来事を、まだ脳が処理しきれないようで、佐和子の頭はぼうっとしている。
「背中は痛くないかい。打っていたようだけど」
「今のところは大丈夫です。少し、痛いですけど」
「人間を雇う上で、必要な安全策は講じていたつもりだったんだけど……不十分だった。本当に申し訳ない」
「笹野屋さんが謝ることはなにもありません」
永徳はそう言われて、口をつぐんだ。しばらくの沈黙ののち、永徳は佐和子に声をかけた。
「葵さん」
「なんでしょうか」
彼は佐和子の方には目を向けず、正面を見たまま、自分にも言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「出会ったばかりのころ、君は自信を失っていて、今にも消えてしまいそうだったね」
「……そうでしたね」
「でもひとつひとつ壁を乗り越えて、人間ながら、あやかしの世界で活躍していった」
「活躍……までは言い過ぎです。笹野屋さんが手を貸してくださらなかったら、私はきっと、ずっとダメなままでしたし……」
「俺はヒントを与えただけだよ」
「そうでしょうか」
「君はそのヒントを見逃さず、自分の力でゴールを見つけた。立派にひとりの社員として、仕事をできるようになった」
「……そういうふうに言っていただけて、嬉しいです」
褒められたことがむず痒くて。恐怖で温度を失っていた頬に、少しだけ赤みが戻る。しかし永徳は気まずそうな顔で、次の言葉を口にした。
「ただ、あやかしの世界で仕事をするには、やはりさまざまな困難がある。椿についてはこちらで手を打つけれども、再び命の危険に晒される可能性が、まったくないとは言い切れない」
「……それは、そうですね」
何を永徳が言おうとしているのか、佐和子は予想がつかなかった。言いにくそうにする彼の様子を、ただただ見守り、言葉を待つ。
「葵さん、君はそろそろ、人間の社会に戻ってもやっていけるんじゃないかい? あえて、あやかしの世界にとどまる理由は、もうないんじゃないかな」
「え」
歩みを止め、佐和子は永徳の顔を見上げた。
まさか永徳から、そんなことを言われるとは思っていなくて。あやかし瓦版の編集部員としての実質上の戦力外通告を受けたようで、ショックだった。
––––「人間としての視点を活かしてほしい」って言っていたのに。どうして今になって、そんなことを言うんですか?
「私が今いなくなっても、問題ないってことですか」
思わず、反抗するような態度をとってしまった。一瞬後悔したが、出てしまった言葉は引っ込めることができない。永徳の言い分はわからなくもない。優しい彼のことだから、佐和子の身を案じての発言だというのも理解できる。それでも永徳の言葉は、深く佐和子を傷つけた。
「会社っていうのはさ、誰かがいなくなっても回るようにできていないといけないんだ。それにほら、うちのあやかし瓦版は、地主の道楽みたいな事業なわけだから」
編集部の一員として、力になれているような気になっていた自分の、横面を引っ叩かれたみたいな気分だった。
自惚れるなと。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだと。そう言われてしまった気がして。
『君が辞めたら困る』
いつか自分の今後について相談する時が来た時。佐和子は、永徳にそう言ってもらえることを心のどこかで期待していた。
自分が頑張った成果を認めてもらって、引き止められることを。
「……実は、昔の友人から、うちの会社に来ないかって、言われているんですけど」
––––ねえ、笹野屋さん。引き止めて下さいよ。
「そうか」
「でも……」
「やってみたい仕事なのかい?」
「興味は、ある仕事……ではあります」
––––私は、あやかし瓦版の、かけがえのないひとりにはなれませんか。
「うちは大丈夫だから。ちょうど一週間あるわけだし、その期間で考えてみたら」
「引き止めて、くれないんですか」
駄々っ子みたいな、振り向いてくれない異性を振り向かそうと必死になっているような、嫌な言い方だと思った。だけど居た堪れなくて、もどかしくて、佐和子は口にしてしまった。
––––だって、あなたが私を誘ったんじゃないですか。あんなふうに無理やり。嫁候補だとか、大事な社員だとか言いながら、あなたが私を求めてくれたから。そのおかげで、ようやく光を見出せてきたのに。どうして今、そんなふうに、突き放そうとするんですか。
佐和子は心の中でそう叫んだ。
しかし永徳の口から出てきたのは、佐和子が求めていた言葉ではなかった。
「葵さんの進む道は、俺が決めることじゃない。君の人生だ。君の仕事は、君が決めなさい」
いつもの穏やかで優しい声の調子とは違う、温度のない声だった。
「……そうですね」
––––どうしよう。
「おっしゃる通りだと思います」
––––泣きそうだ。
「……家が見えたね。俺は戻るよ。もし、辞めるのであれば、特に連絡はしなくていい。根付をポストに返しておいておくれ。退職した場合も、椿が捕まるまで身の回りの安全は守るから。そこは安心して」
藍色の羽織は、あっという間に遠ざかっていってしまった。
取り残された佐和子は、しばし呆然と、笹野屋永徳が消えていった方向を見つめていた。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる