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悦子の命
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----まさか、エリがこの黒いモヤの元凶だったなんて。
悦子は、信じられない気持ちで状況を見守っていた。
----あんなに長く一緒にいたのに。私は思うままに振る舞うばかりで。親友だと思っていたエリの苦悩をなにも知らなかった。……それに私も、エリに自分の苦しみを、打ち明けたことはなかった。
----私たち、言いたいことを言い合っていたようで、全然言い合ってなかったのね。
----知らず知らずのうちにマウントを取り合って、傷つけあって、馬鹿みたい。
結論の出ない、荒み切った気持ちの中で、不意にハルキの声が室内に響いた。
「頑張っている君のために、今日は特別に座敷わらしが幸せを願ってあげよう」
ハルキは天使のような柔らかな笑みを浮かべると、両手を大きく天に向けて、キラキラと輝く金色の光を散らした。たんぽぽのような暖かな光は、エリの部屋の中を満たしていく。
----まさか、力を使おうとしてるんじゃ。
「待って、待ってよハルキ、そんなことしたら、あなたが……」
そう叫ぼうとしたのに、体が重くてうまく声が出ない。今の自分の姿は、あやかしであるハルキや響にも見えていないらしい。
天井から降り注ぐ希望の光を受けてか、先ほどのような悲壮感は、エリの顔から消えている。頬には赤みが差し、涙もいつの間にか止まっていた。
ハルキは微笑み、エリに向かって言葉を紡ぐ。
「自分が本当に幸せな瞬間がなにかを、見失わないで。雑誌や他人のソーシャルメディアにある絵に描いたような「幸せ」が、君の幸せとは限らない。自分が好きだと思えることに突き進んだ方が、君はきっと幸せになれる。きっとその先で、君を本当に好きになってくれる人とも出会えるはずだよ」
力を使ったはずなのに。ハルキはまったく消える気配などなく、ケロッとしている。なにがどうなっているのかと混乱しつつ、悦子は状況を眺めていた。
エリの周りからは、黒いモヤは綺麗に消え、隣に立っていた「柊」という女の姿も消えている。
----さっきの響さんとハルキの話からするに、あの「柊」って女は、ハルキの恋人ではなかったのね。「出ていけ」なんて、ハルキに悪いこと言っちゃったわ……。
あたりを見回すと、薄く、小さくなった黒いモヤが窓の外へと流れていくのが見えた。
----あれ、あのまま逃したらまずいんじゃないの?
「おい、ハルキ! あいつ逃げるぞ!」
「えっ、やばっ! じゃ、エリさんお幸せにね!」
響もハルキも逃げるモヤの姿に気がつき、それだけ言って、慌てて窓の外へと飛び出していった。
急いで彼らの背中を追おうとして、なぜか悦子の視界は暗転した。体から急速に力が抜け、重力が何倍にも増したようにどんどん体が重くなっていく。
----嘘、なに? タイムリミットってこと?
そのまま悦子は、深い闇に引き込まれるようにして意識を失った。
◇◇◇
黒いモヤはふたたび街中を逃げ始めた。ただ、悦子のマンションの屋上で見た時よりも、だいぶ大きさが小さくなっているし、逃げる速度も遅い。ハルキたちはふたたび空を駆けて、モヤを追い詰めていく。
「お前、やるじゃねえか。初めて座敷わらしっぽいところを見た気がするな。しかし、力を使ったら消えるんじゃなかったのか?」
響にそう言われて、ハルキはちょっとだけ得意げな顔をする。
「えへへ。実は力は使ってないの。さっきの光は、手品みたいなもので、座敷わらしとしての幸せの力は使ってないんだよ」
「は? 嘘だろ。っていうか、それじゃあ詐欺じゃねえか」
「詐欺じゃないよ。前にね、悦子さんに教えてもらったことがあったんだけど。『プラシーボ効果』っていうのがあるんでしょ? 僕が実際に力を使わなくても、『座敷わらしに幸せをもらった』って思ったら、前向きに物事に取り組めるようになるし、成果も出やすくなると思うんだよね。要は何事も気の持ちようだと思うの」
響は目を丸くしてハルキをまじまじと見て、破顔する。
「……お前、ずる賢くなってきたなあ。都会に染まりやがって。田舎から出てきた頃のボロボロのお前が懐かしいよ、俺は」
「なんだよう、僕だって成長してるんだよ! ……それにね。旅館で、やれ「出世したい」だの『玉の輿にのりたい』だの、欲望丸出しの願いを叶え続けて思ったんだよ。自分の幸せは、人に与えてもらうものじゃないなって。自分で勝ち取るべきものなんだよ。そうじゃないと、手に入れた幸せは長続きしないんだ。だって与えられた幸せが失われた時、自分の力で取り戻せないからね」
「お前はたまーに、いいこと言うなあ」
「『たまに』は余計だよ、響さん!」
一時は三階建てのビルぐらいの大きさに膨れ上がっていた黒いモヤだったが、ハルキたちの追跡を振り切っていくうち、人間ひとり分くらいの大きさまで萎んでいた。空が白み始めた頃、ようやくハルキたちは、都会の一角で忘れ去られたような、手入れのされていない雑木林までモヤを追い詰めた。
黒いモヤは、一箇所に集まったかと思うと、白い着物に赤いチョッキを着た、柊さんの形に戻っていた。でも初めて見た時の彼女の美しさはもうない。頬はこけていて、大きな目は飛び出しそうなくらい窪んでいて、体もところどころ煤けている。
「柊さん、僕、君の正体がわかったよ」
柊はこちらを睨んだまま、微動だにしない。
「……わかったからってなんなのよ。あの女の呪いは解かないわ。もうすぐよ、もうすぐ。あの女の息の根は止まるわ。いい気味! 死んで当然。たいした実力もないのに、美人だからって偉そうにして。私だって幸せになりたかったのに。あれは私が手に入れるべき幸せなのに!」
「響さんから、もののけについて教えてもらったんだ。君の言っていたことや、エリさんが話していたことを考えると、たぶん君の正体は……生きている人間の『嫉妬』の塊だね」
柊は歯を食いしばり、憎々しい表情でハルキを睨んでいた。
「……僕ね、引きこもってた時はわからなかったけど。都会に出てきて、日本がとっても便利な世の中になったのを知ったよ。でもその一方で、物的にも情報的にも豊かになったせいなのか、たくさんの人が自分の幸せの基準を他人に委ねていることもわかったんだ。エリさんの心が緩んでも消えなかったところを見ると、同じように、いろんな人の『他人の幸せへの嫉妬』が集まったものが、君を形作ってるんじゃないのかな」
ハルキがそう言い切った瞬間。木々の隙間から漏れた光が、柊の体を貫いていく。雑木林の向こうから覗く、東京湾の水平線からは、うっすらと朝日が顔を出していた。
清らかな朝の光を受けて、彼女の体は、足のほうからゆっくりと、織物が糸に戻っていくように解けていく。
「ハルキ、よくやった。これで終わりだ」
じっと柊を見据えながら、響はそう静かに口にした。
「え、どうして……? なんで私が消えるのよ? どうして、どうして?」
「もののけって言うのはな、正体のわからない霊のこという。その正体が暴かれると、消えちまうんだよ」
「いやよ! 消えたくない。せめて、せめて……あの女を道連れにしてやるんだから……」
獣の咆哮のような悍ましい声をあげ、柊は天に向かって叫ぶ。
「憎い! 妬ましい! 絶対に許さない……」
断末魔の叫び声を上げながら、光に包まれるようにして柊さんは霧散した。
彼女の体が完全に消えるのを確認したあと。ハルキたちは複雑な気持ちで、彼女が立っていた泥土の上を見つめていた。
「……ああいうのは。今後もきっとまた現れるだろうなあ。今の社会は病んでるからな」
まるでこの世の終わりを見たような声で、響はポツリとつぶやく。
「そうだねえ」
響の言うように、きっと柊と同じような気持ちを抱いている人は少なくない。
彼女は消えたけど、また他人の不幸を願うもののけは現れるかもしれない。
「……悦子さんのところへ急がないとだね。彼女の無事を確かめなきゃ」
「そうだな」
ハルキたちは雑木林をあとにし、全速力で悦子のいるマンションへと向かった。
悦子は、信じられない気持ちで状況を見守っていた。
----あんなに長く一緒にいたのに。私は思うままに振る舞うばかりで。親友だと思っていたエリの苦悩をなにも知らなかった。……それに私も、エリに自分の苦しみを、打ち明けたことはなかった。
----私たち、言いたいことを言い合っていたようで、全然言い合ってなかったのね。
----知らず知らずのうちにマウントを取り合って、傷つけあって、馬鹿みたい。
結論の出ない、荒み切った気持ちの中で、不意にハルキの声が室内に響いた。
「頑張っている君のために、今日は特別に座敷わらしが幸せを願ってあげよう」
ハルキは天使のような柔らかな笑みを浮かべると、両手を大きく天に向けて、キラキラと輝く金色の光を散らした。たんぽぽのような暖かな光は、エリの部屋の中を満たしていく。
----まさか、力を使おうとしてるんじゃ。
「待って、待ってよハルキ、そんなことしたら、あなたが……」
そう叫ぼうとしたのに、体が重くてうまく声が出ない。今の自分の姿は、あやかしであるハルキや響にも見えていないらしい。
天井から降り注ぐ希望の光を受けてか、先ほどのような悲壮感は、エリの顔から消えている。頬には赤みが差し、涙もいつの間にか止まっていた。
ハルキは微笑み、エリに向かって言葉を紡ぐ。
「自分が本当に幸せな瞬間がなにかを、見失わないで。雑誌や他人のソーシャルメディアにある絵に描いたような「幸せ」が、君の幸せとは限らない。自分が好きだと思えることに突き進んだ方が、君はきっと幸せになれる。きっとその先で、君を本当に好きになってくれる人とも出会えるはずだよ」
力を使ったはずなのに。ハルキはまったく消える気配などなく、ケロッとしている。なにがどうなっているのかと混乱しつつ、悦子は状況を眺めていた。
エリの周りからは、黒いモヤは綺麗に消え、隣に立っていた「柊」という女の姿も消えている。
----さっきの響さんとハルキの話からするに、あの「柊」って女は、ハルキの恋人ではなかったのね。「出ていけ」なんて、ハルキに悪いこと言っちゃったわ……。
あたりを見回すと、薄く、小さくなった黒いモヤが窓の外へと流れていくのが見えた。
----あれ、あのまま逃したらまずいんじゃないの?
「おい、ハルキ! あいつ逃げるぞ!」
「えっ、やばっ! じゃ、エリさんお幸せにね!」
響もハルキも逃げるモヤの姿に気がつき、それだけ言って、慌てて窓の外へと飛び出していった。
急いで彼らの背中を追おうとして、なぜか悦子の視界は暗転した。体から急速に力が抜け、重力が何倍にも増したようにどんどん体が重くなっていく。
----嘘、なに? タイムリミットってこと?
そのまま悦子は、深い闇に引き込まれるようにして意識を失った。
◇◇◇
黒いモヤはふたたび街中を逃げ始めた。ただ、悦子のマンションの屋上で見た時よりも、だいぶ大きさが小さくなっているし、逃げる速度も遅い。ハルキたちはふたたび空を駆けて、モヤを追い詰めていく。
「お前、やるじゃねえか。初めて座敷わらしっぽいところを見た気がするな。しかし、力を使ったら消えるんじゃなかったのか?」
響にそう言われて、ハルキはちょっとだけ得意げな顔をする。
「えへへ。実は力は使ってないの。さっきの光は、手品みたいなもので、座敷わらしとしての幸せの力は使ってないんだよ」
「は? 嘘だろ。っていうか、それじゃあ詐欺じゃねえか」
「詐欺じゃないよ。前にね、悦子さんに教えてもらったことがあったんだけど。『プラシーボ効果』っていうのがあるんでしょ? 僕が実際に力を使わなくても、『座敷わらしに幸せをもらった』って思ったら、前向きに物事に取り組めるようになるし、成果も出やすくなると思うんだよね。要は何事も気の持ちようだと思うの」
響は目を丸くしてハルキをまじまじと見て、破顔する。
「……お前、ずる賢くなってきたなあ。都会に染まりやがって。田舎から出てきた頃のボロボロのお前が懐かしいよ、俺は」
「なんだよう、僕だって成長してるんだよ! ……それにね。旅館で、やれ「出世したい」だの『玉の輿にのりたい』だの、欲望丸出しの願いを叶え続けて思ったんだよ。自分の幸せは、人に与えてもらうものじゃないなって。自分で勝ち取るべきものなんだよ。そうじゃないと、手に入れた幸せは長続きしないんだ。だって与えられた幸せが失われた時、自分の力で取り戻せないからね」
「お前はたまーに、いいこと言うなあ」
「『たまに』は余計だよ、響さん!」
一時は三階建てのビルぐらいの大きさに膨れ上がっていた黒いモヤだったが、ハルキたちの追跡を振り切っていくうち、人間ひとり分くらいの大きさまで萎んでいた。空が白み始めた頃、ようやくハルキたちは、都会の一角で忘れ去られたような、手入れのされていない雑木林までモヤを追い詰めた。
黒いモヤは、一箇所に集まったかと思うと、白い着物に赤いチョッキを着た、柊さんの形に戻っていた。でも初めて見た時の彼女の美しさはもうない。頬はこけていて、大きな目は飛び出しそうなくらい窪んでいて、体もところどころ煤けている。
「柊さん、僕、君の正体がわかったよ」
柊はこちらを睨んだまま、微動だにしない。
「……わかったからってなんなのよ。あの女の呪いは解かないわ。もうすぐよ、もうすぐ。あの女の息の根は止まるわ。いい気味! 死んで当然。たいした実力もないのに、美人だからって偉そうにして。私だって幸せになりたかったのに。あれは私が手に入れるべき幸せなのに!」
「響さんから、もののけについて教えてもらったんだ。君の言っていたことや、エリさんが話していたことを考えると、たぶん君の正体は……生きている人間の『嫉妬』の塊だね」
柊は歯を食いしばり、憎々しい表情でハルキを睨んでいた。
「……僕ね、引きこもってた時はわからなかったけど。都会に出てきて、日本がとっても便利な世の中になったのを知ったよ。でもその一方で、物的にも情報的にも豊かになったせいなのか、たくさんの人が自分の幸せの基準を他人に委ねていることもわかったんだ。エリさんの心が緩んでも消えなかったところを見ると、同じように、いろんな人の『他人の幸せへの嫉妬』が集まったものが、君を形作ってるんじゃないのかな」
ハルキがそう言い切った瞬間。木々の隙間から漏れた光が、柊の体を貫いていく。雑木林の向こうから覗く、東京湾の水平線からは、うっすらと朝日が顔を出していた。
清らかな朝の光を受けて、彼女の体は、足のほうからゆっくりと、織物が糸に戻っていくように解けていく。
「ハルキ、よくやった。これで終わりだ」
じっと柊を見据えながら、響はそう静かに口にした。
「え、どうして……? なんで私が消えるのよ? どうして、どうして?」
「もののけって言うのはな、正体のわからない霊のこという。その正体が暴かれると、消えちまうんだよ」
「いやよ! 消えたくない。せめて、せめて……あの女を道連れにしてやるんだから……」
獣の咆哮のような悍ましい声をあげ、柊は天に向かって叫ぶ。
「憎い! 妬ましい! 絶対に許さない……」
断末魔の叫び声を上げながら、光に包まれるようにして柊さんは霧散した。
彼女の体が完全に消えるのを確認したあと。ハルキたちは複雑な気持ちで、彼女が立っていた泥土の上を見つめていた。
「……ああいうのは。今後もきっとまた現れるだろうなあ。今の社会は病んでるからな」
まるでこの世の終わりを見たような声で、響はポツリとつぶやく。
「そうだねえ」
響の言うように、きっと柊と同じような気持ちを抱いている人は少なくない。
彼女は消えたけど、また他人の不幸を願うもののけは現れるかもしれない。
「……悦子さんのところへ急がないとだね。彼女の無事を確かめなきゃ」
「そうだな」
ハルキたちは雑木林をあとにし、全速力で悦子のいるマンションへと向かった。
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