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人を幸せにする仕事

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 ----あれ、私どうしちゃったのかしら。

 ----ハルキが家に帰ってきて、女が現れて……で、二人を追い出して。

 ----自分の部屋に閉じこもったはずだったんだけど。

 ----なんだか体が異様に軽い。

 ----さっきまであんなにしんどかったのに。どうして?

 ゆっくりと、固く閉じられていた瞼を開く。なんだか視界がぼやける。焦点が合わない。

 何度も瞬きして、ようやく焦点があってきたところに飛び込んできた映像に、悦子は衝撃を受けた。

「えっ、なんで? なんで私が見えるの?」

 悦子の視界に飛び込んできたのは、苦悶の表情を浮かべ、床に倒れる自分の姿だった。顔面蒼白で呼吸も荒い。明らかに健康状態は良くなさそうだ。

「もしかして、幽体離脱……とか? どうしてこうなったの?」

 とまどいながらも、自分の体を揺り起こそうと試みる。しかし触ろうとしても、雲をかくように体をすり抜けてしまう。困って自分の体をよく観察していて、悦子は気づいた。

「なに、この黒いモヤみたいなものは……?」

 普段生活している中ではまったく見えなかったのだが、幽体になった体に慣れてくるにつれ、はっきり見ることができた。頭の先から足の先まで、黒いモヤが大蛇の如くぐるぐると自分の体を取り囲んでいるのが見えたのだ。そしてそのモヤは、窓の外から続いている。

「しかもだんだん濃くなってない? これ……」

 ----私が倒れちゃった原因はわからないけど。この黒いモヤが見る限りでは怪しいわね。とりあえず、これの根本がどこなのか探ってやろうじゃない。

 眠れなくて冴えなかった頭も、今はくっきりとしている。体も重くない。

 悦子は自分の体調不良の原因を解明するべく、ハルキの真似をして、マンションの窓から飛び出した。

「うわあ! なにこれ、最高!」

 状況としては最悪な状況ではあるのだが。空を飛んでいるという爽快感は、幽体ならではの特権だと悦子は思った。風を感じられないのが残念だが、ものすごい解放感だ。眼下には光を纏った遊覧船の行き交う海や、宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっている。

 ----こんな風景をいつも見ていたなんて。ハルキが少し羨ましいわ。

「しまったしまった。本来の目的を忘れていたわ。黒いモヤを追わないと」

 ----終着点は近くはなさそうね。この辺りからだと終わりが見えないもの。

 悦子は体の向きをモヤの帯の方へ向けると、一目散に出どころを目掛けて飛び始めた。

 ----こっちは……神奈川の方かしら。

 黒いモヤは、東京の街を突っ切る方向ではなく、海沿いに続いていた。品川のビル街をこえ、川崎の工業地帯を超え、それでもまだモヤの発生源は見えない。マンションを飛び出した直後は羽のように軽かった体も、だんだんと重くなってくる。自分の体と離れてしまったせいだろうか。

 ----でも、ここまできてあと戻りはできないわ。

 ようやく終着点が見えたのは、新杉田についた頃だった。こじんまりとした街だが、商業施設が揃っていて、駅から住宅街の方へと伸びる商店街もあり、暮らしやすそうな街だ。悦子はこの街に見覚えがあった。エリの自宅がある場所だからだ。

「まさかとは思うけど……でも、やっぱりこの道」

 発生源に近づくにつれ、禍々しさを増していくモヤは、見慣れた道に続いていく。商店街に入り、途中で左に入り、その先に見えたのは----間違いなく親友のマンションの一室だった。

「なんで? どうして?」

 状況が理解できぬまま、居ても立ってもいられなくなって、悦子はエリの部屋の中に飛び込んだ。今なら、部屋に無断で入ってもエリに気づかれることはない。ここに来るまでもたくさんの人間とすれ違ったが、誰も悦子に気づくことはなかったからだ。

 白を基調としたリビングに入り込むと、うずくまる親友の姿と、幽体でその場に佇む、響とハルキの二人の姿が目に映った。

 ハルキの姿を確認した悦子は、咄嗟に物陰に隠れた。あれだけの剣幕で追い出した手前、今は顔を合わせづらい。そもそもまだ怒りが収まったわけでもなかった。それと同時に、さらなる疑問も巻き起こった。

 ----なんでハルキと響さんがここにいるの? ちょっともう、なんなのこの状況?



       ◇◇◇



「せっかく幸せになれると思ったのに。私のことを馬鹿にしたやつらに、見せつけてやれるチャンスだったのに。……悦子にだって勝てるはずだったのに」

 聞きなれた名前が出たことで、ハルキと響は顔を見合わせた。しかし響には心当たりがないらしく、首を傾げている。「悦子」があの悦子だとすると、ハルキにはひとりだけ心当たりがある「エリ」がいた。

「響さん、このエリさんて人。たぶん、悦子さんの小学校の時からの同級生だよ。僕、一度悦子さんが、この人と飲みにいくって言ったのを覚えてる」

 悦子が泥酔して帰ったあの日に、会っていた相手が「エリさん」だったはず。

 うずくまったまま泣き叫ぶエリの姿を取り囲むように、黒いモヤがあたりに立ち込めていた。彼女が泣けば泣くほど、その濃度が濃くなっていくようだ。

 そのうちエリの真横に、白い影が立ち上る。それは人間のような形状に膨らみ、柊の姿になった。

「そうよ、憎いわよね。いつも得するのは、見た目が良くて、環境に恵まれた人間よ。たいした努力もせずに成り上がって、私たちみたいに一生懸命に生きている存在を馬鹿にするの。ねえ、エリ、みんな殺してやりましょう。あなたの婚約者だった男も、いつもあなたに惨めな思いをさせる悦子も。そういう人間がいなくなれば、あなたも幸せになれるはずよ」

 エリはうわ言のように、でも、でも、と繰り返している。ただ、柊の方に顔を向けていないところを見ると、声は聞こえていても、姿が見えているわけではないらしい。

「ねえ、これ、どういうこと?」

 ハルキはエリの様子を見ながら、響に問いかける。

「この黒い瘴気がこれだけこの部屋に渦巻いてるってことは、柊の発生源はこの女で間違いない。ただ、ひとりの人間の生き霊如きが、あんなに大きくなることは考えられねえんだけどなあ……。とにかく、まずはこの女の気持ちをおさめてやらねえと。柊の力を削ぐことはできねえな」

「そうはさせないから」

 鈴の音のような女の声が、憎悪に満ちた声でそう言った。口角を恐ろしげに引き上げた柊は、ロープのようにモヤを引き伸ばし、無数の槍を作った。鋭利に尖った悪意の塊は、ハルキと響に向かって風を切るような勢いで襲い掛かる。

 即座にハルキの前に飛び出した響が、降り注ぐ槍を目にも止まらぬ速さで器用に打ち落としていく。

「くっそ、無限に湧いてくるな、埒があかねえ。ハルキ、ぼさっと突っ立ってないで、お前もなんか案を考えろよ! って、おい、ハルキ! あぶねえぞ、前に出たら! お前みてえな力の弱いあやかし、あんなのに当たったら一発で砕け散るぞ」

 ハルキは響の制止を振り切って、前に出る。直後、目前に迫っていた黒い槍が、頭上に降り注いだ。

「ハルキ!」

 悲鳴のような響の叫び声と同時に、ハルキの体を貫くと思われた槍は、肌に触れる直前で粉々になり、崩れ落ちた。

 眉根を寄せ、動揺しながらも、柊はハルキを睨む。

「……なんで? なんであなたには効かないの? 腹立たしい。ハルキ、止まれ、動くな!」

 銀座で彼女とデートをした時のように術をかけようとしたのか、彼女はハルキに向けて腕を突き出した。
 ハルキはそれに構わず、壁際からエリと柊の方に向かって、ゆっくりと距離を詰めていく。

「どうして……?」

 怪訝な顔をする柊に、ハルキはにっこりと微笑む。

「柊さん、自分で言ってたじゃない。僕がいるせいで、悦子さんに力が届きづらいって。『不幸』の力は、『幸福』の力と相対するものでしょ。だから僕には効かないんだ」

「でも、さっきまで術にはかかってたじゃない!」

「あの時は君がなんなのかよくわからなかったし。座敷わらしだって聞いてて、好意的に接してたのもあって油断してたんだ。でも、もう効かないよ」

 響の方に振り向き、ハルキは片手に胸を添える。

「あとは僕に任せて。座敷わらしの腕の見せ所だ」

「は……? お前、どうするつもりだよ」

 ハルキはエリの目の前に立ち、実体を現した。

「淳……? 戻ってきてくれたの?」

 一瞬、嬉しそうな顔をして顔を上げたエリは、目の前にいる男が「淳」ではないことに気づくと、顔をこわばらせた。

「な、な、あんた誰? 人を呼ぶよ!」

 飛び起きた彼女は、壁に張り付くようにして最大限ハルキと距離をとりながら、抗議の声を上げる。柊は、憎悪の感情をむき出しに片手を伸ばし、オオカミのような形状の黒いモヤを作り出すと、ハルキに向かってはなった。

 反撃をしようとしたのか姿勢を低くする響を、ハルキは視線で制する。

 首元に食らいつこうと飛びかかってきた黒いモヤの狼は、やはり触れる直前で霧散した。

「エリさん、初めまして。僕は座敷わらしのハルキ。今日は君と話がしたくて来たんだ」

 彼女の隣にいる柊は、歯軋りをしてこちらを見ている。

「あんたのいったいどこが座敷わらしだっての? どう見たってその辺にいる大学生でしょうが。じっとしてて! 今、警察を呼んでやるんだから!」

「あー、そっか……。僕この格好だと座敷わらしに見えないのか」

 今時の若者ファッションでは、単なる不審者にしか見えないらしい。

 でも、あの座敷わらしの衣装捨ててしまったし、身なりはもうどうしようもない。

「僕が座敷わらしなのは本当だよ。ほら、見てて」

 人外の存在である証明として、ハルキは目の前で、幽体と実体をチカチカと切り替えて見せる。

「嘘……!」

 両手で口を押さえ、肩を震わせていた彼女だったが。不思議な現象を前に、座敷わらしであるということの信憑性が増してくると、途端に希望に満ちた表情に変わった。

「ほ。本当に? 本当にあなた座敷わらしなの?」

「はい、そうです。僕が世に言う座敷わらしです」

「私を幸せにしてくれるために来てくれたの?」

「うーん、なんというか。まあ、間違っちゃいないか」

 頭をぽりぽりと掻きながら、ハルキは困った顔をした。

 柊は、相変わらずこちらを睨みつけている。だが、ハルキを退ける方策が尽きてしまったのか、そのままその場から動かないでいた。響も幽体のまま、様子を窺っているようだ。

「エリさんの願いはなあに?」

「誰もが羨む幸せな結婚をすることだよ! 私は学もないし、容姿だって平凡だし。学生時代からずっと馬鹿にされてきた。だから高学歴でエリートで、見た目のいい男と結婚することでしかそういうやつらを見返せない。……腐れ縁の友達にも、もうそれくらいでしか勝てるものがないんだよ」

「じゃあ、さっき出て行った彼氏は、理想の男性だったんだね」

「……見てたの?」

「でもエリさん、全然幸せそうじゃなかったよ」

 彼女はハルキの言葉を聞いて、唇をつぐんだ。

 ––––きっとエリさん自身も、本当はわかっているんだ。追い求めた、誰もが羨む「理想」の幸せが、「現実」には苦しくて仕方がないっていうことが。

「……あなたはずっと『その友達』と自分を比較して、自分の幸せを決めているようだけど。にそれで本当にいいの?」

 エリは、切長の目に涙をいっぱい溜めていた。

 なにか言葉を発しようとして止める、を何度か繰り返したあと、悔しそうに歪められた彼女の口から、言葉がこぼれる。

「私と悦子が、いつも一緒にいるから。ずっと周りに比べられてた。美人で頭も良くて、才能もある悦子と、馬鹿で不良で、これといった長所もない私。ずっと辛かった。だから悦子と仲良くしながらも、鬱憤が溜まってって。……悦子が、不幸になればいいって、願ったこともあった。仕事でも失敗して、酷い目にあって、苦しめばいいって」

 ハルキはその言葉を聞いて、柊に視線をうつした。こんなにも煮詰まった怨念の塊は、一朝一夕で出来上がるものではない。何年もかけて成長し、不幸を吸いながらここまで膨らんだのだろう。エリと響の言葉を反芻し、一つの可能性が浮かび上がるとともに、ハルキは眉間の皺を深くした。

 ––––人間の嫉妬って、怖いものだな。身近な他人に自分の幸せの基準を作ってしまうことほど、不幸なことはないのに。

 だけど、悦子が苦しむ元凶になったからって、この人を憎んではいけない。

 この人には、この人なりの苦しみがあった。他の人にはわからない、やるせない思いがあった。

 悦子がそうだったように。

「比べられるって辛いよね。エリさんも苦しかったんだね」

 「幸せ」を司るあやかしであるハルキが、今この人にしてあげられることは、自分にとっての本当の幸せを、見つける道筋を作ってあげること。

「さっき、仕事のことで彼氏と揉めていたよね。エリさん、本当はもっと仕事をしていたいんじゃないの? ……店長さんの仕事、やりたいんじゃないの?」

「……」

 エリさんは俯いたまま、動かない。

 ハルキは彼女の心を開こうと、慎重に言葉を重ねる。

「君が、『店長をやらないか』って言われたのは。君が一生懸命お仕事をしていたからだよ。一緒に働いている仲間の中で、一番適任だって思われたから、そういう話になったんだよ。お友達と比べないで。エリさん自身が幸せでいられる場所は、本当はどこなの?」

 彼女は床に突っ伏し、子どものように泣き崩れた。髪の毛をかきむしり、嗚咽混じりに小さな声で言葉を漏らす。

「私、お客さんに似合う洋服を選んであげている時が一番幸せ。スタッフと一緒にお店のディスプレイ考えたり、お店を盛り上げるために企画を考えてる瞬間が好き。淳といても、全然幸せじゃなかった。ずっとずっといい婚約者を演じてて、辛かった……」

 彼女が泣き崩れる姿を見て、ハルキは大きく深呼吸をした。

 どうしてみんな比較ばかりして、人生の選択を間違ってしまうんだろう。

 人にはそれぞれ、自分だけの幸せの形があるのに。

 どうして隣にいる誰かより、なにかに秀ででいないとダメだって思ってしまうのだろう。

「おい、大丈夫かよ! 大きくなってはいねえけど、全然モヤが消える気配はねえぞ!」

 心配そうに窓の方から声をかけてくる響に、ハルキは軽く微笑んだ。

 ––––大丈夫さ。「人を幸せにする」ことだけは、僕は得意なんだから。
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