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満たされぬ心

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 到着したのは、三浦半島にある三浦海岸という駅に程近い一戸建て。真っ白い壁の大きな洋風住宅で、いかにもお金持ちという感じの家だった。元は普通の家庭だったと悦子が言っていたので、たぶん彼女が買ってあげたのだろう。

 ハルキは悦子の事前の言いつけ通り、人には見えない幽体に切り替える。

「ただいま」

 悦子の声を聞いて、奥から彼女の両親らしき二人が出てきた。

 たしかに悦子の言う通り、普通の田舎のおじさんとおばさんという感じで。派手な彼女のイメージとはだいぶ遠い雰囲気の人たちだった。

「悦子、ようやく帰ってきたの。まったく、三年も帰らないなんて。よほど東京の生活が楽しいのね」

 お母さんは恰幅のいい人で、地味な感じではあったけど、上等な衣服を着ている。

「おお。帰ったのか。久しぶりだなあ。とりあえず手を洗ってこい」

 お父さんは、どちらかというと影の薄い人で、お母さんの存在感にかき消されそうなほどにおとなしそうな人だった。着ているものもその辺のファストファッションを適当に買ってきた様なもので、お母さんの服とはだいぶ格差がある。

「……うん」

 なんだかいつもの彼女じゃないみたいだ、とハルキは思った。悦子はまるでお通夜みたいな表情でトボトボと家の奥に向かっていく。ハルキは彼女の様子を不思議に思いながらも、あたりを伺うと、玄関に飾られている家族写真が目に入った。写真の中の悦子はまだ中学生くらい。経営などには関わる前の頃だろう。祖父母と両親、そして小学生くらいの男の子と悦子が幸せそうな笑顔で笑って写っていた。

 この写真の頃は、とても幸せそうなのに。今この家の中にいる悦子は、ちっとも幸せそうじゃない。なにが彼女にこんな顔をさせているのだろう。

「ご飯、できてるから。早く食べちゃいましょ。悦子あんた、またそんな趣味の悪い派手な服を着て。風俗嬢じゃないんだから。ご飯の前に着替えてきなさい」

「いいのよ私はこれで。こういう服が好きなんだもの」

 悦子が着ていたのは、襟のある黒地の綿のワンピースで。胸から上が切り替えになっていて、黒いレース素材が使われている。この部分の透け感がお母さんからすると、「趣味が悪い」ということになるのかもしれない。

「みっともないわよ。ふしだらな女だと思われるわ。ブランド品を身にまとえばいいってもんじゃないのよ。ほんと、我が娘ながらセンスがなくて嫌になっちゃう」

 そう言いながら、悦子に侮蔑の表情を向けたお母さんは配膳を続けた。

 このお母さんの態度を見て。他人事ながら、ハルキはとても嫌な空気を感じた。うまく言い表せないが、彼女が実家を嫌がる理由の一端がわかってきた気がする。

「仕事の方はどうなんだ。今は休みなのか」

 お父さんの問いに、彼女は暗い顔で食卓のご飯を頬張りながら答える。

「今は、その……会社を売ったところだから、仕事はしてない。売却で得た現金を運用しながら、次のビジネスプランを練ってるところ」

「……そうか。お父さんにはよくわからないが、まあ、無理はするなよ」

「ちょっとやだ。なによあんた、プー太郎なの。困っちゃうわね。あんなにイキがって仕事仕事言ってたのに。だからやっぱり、安定した企業に勤めて、早く結婚したほうがよかったのよ。そろそろ貰い手もなくなるわよぉ、そんなんじゃ」

 悦子の箸を握る手に力がこもったのがわかった。

 彼女が会社を売った経緯を知っているハルキの心も、ギュッと締め付けられたような気分になる。

 言い返したくても、なにも言えない。そんな彼女の気持ちが痛いほどわかって、苦しかった。

「だから、次の事業の準備中だって」

 少し強い調子で悦子にそう言われて、お母さんは不機嫌そうな顔をしたが、それ以上突っ込んではこなかった。

 しばらく無言で食事を続けていた三人だったが、ふたたびお母さんが口を開く。

「ああそうそう。話は変わるけどね、車庫のシャッターが故障しちゃって。修繕費が二百万くらいかかりそうなのよ。悪いけど悦子、工面してくれない?」

 あれだけ悦子のことを馬鹿にするような発言を繰り返していたのに、急なお金の話にハルキは驚いた。

 ––––普通そんなこと言う? 今の流れで。

「……わかった。あとで振り込んでおく」

「ありがとお。やっぱり持つべきものは娘ねえ」

 猫撫で声でそう言うお母さんを見て、なんだか無性に腹が立ってきた。これが実の子どもに対する態度なのだろうか。一生懸命頑張っている娘に向かって、よくこんなふうに言える。しかも、しっかりお金だけはぶんどって。その時だけ褒め称えて。これでは都合のいい金蔓じゃないか。

 悦子は無表情でご飯を食べ続けている。すっかり食器を空にすると、おもむろに席を立ち、カーディガンを肩にかけた。

「ちょっと、外の風を浴びてくる」

 食器を流し台に置いて、彼女は玄関の方へ体を向けた。

「もう八時よ。やめておきなさい。危ないから」

「ボディーガードを雇っているから大丈夫。とにかく行ってくるから」

 宙に視線を泳がせている悦子を見て、ハルキは自分のことを呼んでいるのだとわかった。姿を消したまま、海岸へ向かう悦子の背後を守るように、ハルキは彼女のあとをついていった。



 ここに来るときは晴れていたのに、今はすっかり空が曇っていた。月の姿も見えなくて、なんだか雨が降り出してもおかしくないような天気だ。悦子はひとりでずんずんと住宅街を歩いていく。途中何人か通行人とすれ違ったが、特に危ないこともなく、海岸にたどり着いた。

「もう姿を現しても大丈夫よ、ハルキ」

 そう言われて、ハルキは彼女の目の前に実体を現した。悦子はいつもの通り、強気な態度を保っていたけど、少し辛そうで。ハルキはなんと声をかけたら良いのかわからなくて、そのまま佇んでいた。

「みっともないところを見せちゃったわね。だから嫌だったのよ、連れてくるの」

「そんな、みっともないだなんて」

 悦子にみっともないところなんて、全然なかった。むしろ。

「ねえ、どうしてお母さんは、あんな態度を悦子さんに取るの?」

「うーん、それはね……。話せば長くなるわねえ」

 ハルキたちは、砂浜に続くコンクリートの階段に腰掛けた。海辺の海岸で、二人きりでこういう時間をすごせることを、不謹慎にも少し喜んでいる自分に、嫌気がさす。

「母はね、若い時すごく綺麗な人だったんだって。親戚も親もみんな母のことをちやほやしてて。家は裕福ではなかったけど、欲しいものは誰かしらが買って与えてくれたそうよ」

 今はふくよかで、もうすっかりおばさんて感じだったが。目はぱっちりした二重だったし、鼻筋も通っていたし。痩せて若ければきっと綺麗なんだろうとは思う。

「結婚相手も相当選りすぐったみたいで、それで当時大手企業の営業マンをしていた父と結婚したの。新婚当時はもう、幸せの絶頂だったみたい。自分の思った通りの相手と結婚できて」

 だけどそんな幸せも、長続きはしなかった。すぐに二人の子どもに恵まれるも、お父さんがリストラされた。それからしばらくして中小企業の営業職に転職できたが、四人家族で生きていくにはぎりぎりの年収だったらしい。

「それからはもう、母は父に当たり散らしていてね。父に対する態度が、今私にやってるような態度だったのよ。私も反抗期は、母にのっかるようにして父にだいぶ当たってね。……悪いことをしたわ」

「そうなんだね……」

「私がビジネスコンテストで大賞を取ったばかりの頃は、母はそれはもう有頂天で。自分が産んだ子どもが、こんなすごいことを成し遂げた! って言って、まるで自分のことのように喜んでくれたわ。でもそれはね、たぶん『自分を誇る』ためのちょうどいいアクセサリーだったのよね」

「アクセサリー?」

「母はプライドも自尊心も高い人間だから、常に誰かにちやほやして欲しいの。キャリアの父と結婚できたっていうのが誇れるポイントだったのに、それを失った。で、新しく自分を誇れる材料が、娘の受賞だったわけ。でもね、そこから私自身がどんどん注目されて、日の当たる場所に出始めたら、それが『私への嫉妬』に変わったのよね、きっと」

「そんな……子どもに嫉妬なんて」

「二十五まで生きてきてね、わかったの。子どもの頃は『親が全知全能の神』みたいなところがあったけど。全然そんなことなくてね。親も人間なのよ。嫉妬もするし、誰かを憎んだりもする。ああいう性格だからね、ご近所のコミュニティからもちょっと浮いた存在になっちゃってるみたいで。まあ結論、憂さ晴らしなのよね、私に対するあの態度は」

 ハルキは絶句した。そんな親子関係があることが、信じられなかった。


「起業をした一番の理由は、この世界で自分がやりたいことがあったからなんだけど。半分は父と母のために必死に頑張ったのよ。ようやく起業家として成功して、事業を軌道に乗せられて。だけど成功した結果、母の憂さ晴らしのためのサンドバックみたいになっちゃって。……お金だけ要求されて。なんだか、私バカみたいよね」

 そこまで言い切ったとき、悦子の大きな瞳から、涙が溢れた。

「やだ、泣くつもりなんてなかったのに」

 美しい顔をくしゃくしゃにして、悔しそうに泣く姿を見て。ハルキはたまらなくなって、悦子を抱きしめた。彼女のゆるくウエーブがかった髪を優しく、慈しむように撫でる。悦子は黙って、そのままじっとハルキの腕の中に収まっていた。

「悦子さん、悦子さんは頑張っているよ。僕は賢くないから、悦子さんの仕事のことは正直よくわからないけど。若くして起業家として成功するって、そんなに簡単なことじゃないと思うんだ。辛いこともたくさんあったんだよね」

 悦子から返事はない。泣いているんだろうか、声を殺して。そう思ったら彼女の体に絡めた腕に、力がこもった。

「私、褒めてもらいたかったのかもしれない、母に。『よく頑張ったわね』って。あんな、お金をせびり続けるための、薄っぺらい、とりあえずの『ありがとう』なんてほしくなかった」

 腕の中から聞こえてきた彼女の声は、やっぱり涙声だった。

 その声を聞いてハルキは、唇を噛み締める。

 旅館で初めて言葉を交わした時、悦子は「生きている間に誰に嫌われようとも、バッシングされようとも、自分の信じる道を突き進んでいた方がずっといい」と言っていた。

 だけど自分のためだけに頑張るのは、限界がある。きっと彼女が突き進んでこられたのは、その裏に成功して親を助けたいという想いがあったからだ。

 でも「親に認められたい」という純粋な願望は満たされぬまま、頑張り続けるうちに鉄の仮面を身につけて、彼女自身蓋をしていたのかもしれない。

 あの夜酔って縋りついてきた彼女は、蓋をしてしまった寂しさに、きっと押しつぶされそうになっていたんだと、ハルキは思った。

「悦子さんは偉いよ。大丈夫、きっといつかお母さんもわかってくれる」

 彼女のおでこにかかった髪を手でかき上げて、優しく唇を落とす。慰めるように、何度も。

 悦子がこれだけ結婚相手探しに夢を見ているのは、自分が思春期に親から与えられなかった愛情を、結婚相手に求めているからなのかもしれない。

 ––––今ここで、僕が愛してるって言ったら受け入れてくれるかな。僕が君を支える。ずっとそばにいるよって。報われない、苦しい思いも全部ひっくるめて包んであげるよって。

 ハルキが口を開きかけたその時、悦子は言った。

「なんだか、ハルキにはついつい自分のカッコ悪いところを見せてしまうわね。……やっぱり、あなたが座敷わらしだからかしら」

 そう言われて、ハルキは言葉を飲み込んだ。

 ––––やっぱり、そうか。僕は彼女にとって、居心地のいい、一緒にいて楽な相手であって。恋愛対象ではないんだ。僕が、あやかしだから。

 胸が締め付けられるように痛み、彼女を抱き抱えていた腕が緩む。

 こうして彼女を抱く役割は、きっといつか、人間の男に取られてしまう。

「……そろそろ戻らないとね。あんまり遅くなると、それはそれでまた、うるさくなるから、あの人」

 ハンカチで目の下を拭いながらそう言う悦子に、ハルキは黙って従った。
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