16 / 35
座敷わらし、介抱する
しおりを挟む
午前二時。あやかし的には「さあ、これからが本番!」という時間帯。ハルキは閉店作業を終え、バー・エドモンズをあとにした。
店から出てしばらくは人間気分でトボトボ歩いて帰っていたのが、途中からめんどうくさくなって、幽体でふよふよと浮いてスピードアップした。今日は悦子の相手にちょうど良さそうな男性は現れず、ただただフルーツを切ったり、足りなくなった食品を買いに走ったり、氷を作って終わった。なかなかうまくいかないものだ。
マンションの近くまで来て浮上しようとすると、入り口のあたりに女性らしき人影が座り込んでいるのが見えた。
なんだか見たことある服装だ。膝丈の胸元がVネックになっている橙色のワンピース。あんな派手な色を着ている人、そうそういるものではない。
「えっ、もしかして悦子さん?!」
––––友達と飲んでくるって言ってたけど、なんで入り口に? あ、もしかしてタクシー降りたあと、入り口で力尽きちゃったのかな。とにかく助けなきゃ。
エントランスの壁にしなだれかかるように眠っているため、胸の谷間が見えてしまっている。よくこのままの格好で無事でいられたものだ。他の男に見つかって、連れ去られたりする前で本当によかった。ぐったりとはしているが、穏やかな寝息を立てているところを見ると、具合が悪いわけではなく、単に酔い潰れているだけのようだった。
そして、人間奈良漬けの如く酒臭い。相当飲んでいるようだ。
「ほら、悦子さん、抱っこしますよ。頼むから殴らないでね」
そっと、彼女の体を抱き上げる。ハルキが想像していたよりずっと軽かった。先日江口を抱き抱えたばかりだったので、余計に軽く感じたのかもしれない。
「じゃあマンションに入るからね」
床に落ちていたバックを拾って肩に引っ掛け、悦子を抱き直した。
「ん……? ハルキ……?」
悦子は目を薄く開き、上気した顔でハルキを見上げた。甘えるような表情と声でそう呼ばれて、思わずキュンとしてしまう。
そのままぼんやりとした頭で壁抜けをしようとして。人が壁にぶつかる音を聞いて、ハッとした。
「いったぁ! なにするのよ……ハルキ」
「ご、ごめん。うっかりしてた。人間は壁抜けできないんだった。悦子さん、カバン借りるよ。鍵出すからね」
「んん……はいはい……」
返事はしているが、目が開いていない。ハルキは床に落ちてしまった鞄を拾い直し、鍵を取り出した。
––––まったく、年頃の女の子なんだからもうちょっと気をつけてくれよ。
彼女の鞄を腕にかけ、鍵を手に持ち、ふたたび実体で悦子を抱き抱えながらエントランスのドアを開けた。
アルコールの匂いに混じって、彼女の柔らかな匂いがする。耐えきれなくなって、寝ぼけているのを良いことに、ハルキは彼女の頬に口づけをした。
「ほら、悦子さん。部屋に着きましたよ。自分で寝る支度できる? って、無理か」
全身から力の抜けている様子の悦子は、声をかけてもまったく起きる気配がしない。
––––これ、どうしよう……。お化粧したままだし、落としてあげた方がいいのか? 着替えさせるにも……え、脱がすの? 僕が? いいの?
不埒な気持ちがむくむくと湧き上がり、それを抑え込むのに難儀した。深呼吸を何度か繰り返し、ようやく落ち着いたところで彼女をソファに下ろす。
洗面所に悦子がいつも使っている化粧落としを探しにいったのだが、すぐに断念した。種類が多すぎる上、ぱっと見ボトルに書いてある文字が全部横文字で、どれがどれだか判別できなかったのだ。
しかたなく寝間着だけ一揃え持ってきて、コップ一杯の水を片手に、悦子の前に戻ってきた。
「悦子さん、ほら、起きて。そんなに酔っ払ってるんだから、少しお水を飲んだ方がいいよ」
マスターに、酔っ払いの人の対処を教えてもらっておいてよかったと、ハルキはひとり頷いた。あやかしは急性アルコール中毒なんかにはならないので、どうやって人間を介抱してあげたらいいのかなんて普通知らない。働き始めたことで、悦子の役に立てる知識が一つ増えて、密かに嬉しかった。
悦子は目をうっすら開けて、目の前のコップをたどたどしく掴み、両手で支えながら飲み始めた。子どものように水を飲む仕草がとても可愛らしくて、ハルキはまじまじと見入ってしまう。
「悦子さん、着替えられる? その格好じゃあ窮屈じゃないの」
「いい、もう、このまま寝る……」
「もおお……。まったく、だめだよそんなになるまで飲んじゃ」
着替えないと言われてしまえば、こちらが勝手に着替えさせるわけにもいかない。ハルキはふたたび悦子を抱き抱え、ベッドに向かった。
「ほら、悦子さん。ベッドまで来たよ。また横にいたら怒られそうだから、僕はリビングに行くからね」
彼女の胸まで布団をかけ、頭を撫でた。相変わらず薄目を開けたまま、放心状態みたいだが。大丈夫だろうか。
すると悦子は、ぼんやりとした様子のまま布団の中で体を反転させ、こちらに向き直り。なにをするかと思いきや、ハルキの首のうしろに両手を絡ませ、頭をぐいと引き寄せた。
「おわっ!」
ほんのり赤みを帯びた、美しい彼女の顔が近づいてくる。
温度のないハルキの唇に、温かい彼女の唇の感触が広がった。なにが起こったのか分からず動揺するハルキに構わず、彼女は縋り付くように両腕を背中に回す。
––––えっ、悦子さん起きてる? それとも酔って寝ぼけてやってる?
ハルキの薄い胸に、彼女の豊かな胸の感触が押しつけられた。体の奥が熱くなって、パチパチと目を瞬かせる。はぁ、と色っぽいため息をついた悦子は、唇を離し、ハルキの胸に頭をぐりぐりと押しつけてくる。これは、まずい。ハルキの理性の堤防は、ほぼ決壊していると言っていい状態まできていた。
「あの、悦子さん……その……これは……」
「……寂しい、辛い……悲しい……」
悦子に飛びかかる寸前で、彼女の弱々しいつぶやきを聞いて動きを止めた。顔を覗き込めば、いつもの強気な雰囲気は完全に消え去っていて、静かに涙の筋を頬に作っていた。
「ど、ど、ど、どうしたの? なにかあったの?」
「なんでもない、なんでもないわ。でも……」
その言葉を最後に、彼女はまた、眠りの底へ落ちていったようだった。
店から出てしばらくは人間気分でトボトボ歩いて帰っていたのが、途中からめんどうくさくなって、幽体でふよふよと浮いてスピードアップした。今日は悦子の相手にちょうど良さそうな男性は現れず、ただただフルーツを切ったり、足りなくなった食品を買いに走ったり、氷を作って終わった。なかなかうまくいかないものだ。
マンションの近くまで来て浮上しようとすると、入り口のあたりに女性らしき人影が座り込んでいるのが見えた。
なんだか見たことある服装だ。膝丈の胸元がVネックになっている橙色のワンピース。あんな派手な色を着ている人、そうそういるものではない。
「えっ、もしかして悦子さん?!」
––––友達と飲んでくるって言ってたけど、なんで入り口に? あ、もしかしてタクシー降りたあと、入り口で力尽きちゃったのかな。とにかく助けなきゃ。
エントランスの壁にしなだれかかるように眠っているため、胸の谷間が見えてしまっている。よくこのままの格好で無事でいられたものだ。他の男に見つかって、連れ去られたりする前で本当によかった。ぐったりとはしているが、穏やかな寝息を立てているところを見ると、具合が悪いわけではなく、単に酔い潰れているだけのようだった。
そして、人間奈良漬けの如く酒臭い。相当飲んでいるようだ。
「ほら、悦子さん、抱っこしますよ。頼むから殴らないでね」
そっと、彼女の体を抱き上げる。ハルキが想像していたよりずっと軽かった。先日江口を抱き抱えたばかりだったので、余計に軽く感じたのかもしれない。
「じゃあマンションに入るからね」
床に落ちていたバックを拾って肩に引っ掛け、悦子を抱き直した。
「ん……? ハルキ……?」
悦子は目を薄く開き、上気した顔でハルキを見上げた。甘えるような表情と声でそう呼ばれて、思わずキュンとしてしまう。
そのままぼんやりとした頭で壁抜けをしようとして。人が壁にぶつかる音を聞いて、ハッとした。
「いったぁ! なにするのよ……ハルキ」
「ご、ごめん。うっかりしてた。人間は壁抜けできないんだった。悦子さん、カバン借りるよ。鍵出すからね」
「んん……はいはい……」
返事はしているが、目が開いていない。ハルキは床に落ちてしまった鞄を拾い直し、鍵を取り出した。
––––まったく、年頃の女の子なんだからもうちょっと気をつけてくれよ。
彼女の鞄を腕にかけ、鍵を手に持ち、ふたたび実体で悦子を抱き抱えながらエントランスのドアを開けた。
アルコールの匂いに混じって、彼女の柔らかな匂いがする。耐えきれなくなって、寝ぼけているのを良いことに、ハルキは彼女の頬に口づけをした。
「ほら、悦子さん。部屋に着きましたよ。自分で寝る支度できる? って、無理か」
全身から力の抜けている様子の悦子は、声をかけてもまったく起きる気配がしない。
––––これ、どうしよう……。お化粧したままだし、落としてあげた方がいいのか? 着替えさせるにも……え、脱がすの? 僕が? いいの?
不埒な気持ちがむくむくと湧き上がり、それを抑え込むのに難儀した。深呼吸を何度か繰り返し、ようやく落ち着いたところで彼女をソファに下ろす。
洗面所に悦子がいつも使っている化粧落としを探しにいったのだが、すぐに断念した。種類が多すぎる上、ぱっと見ボトルに書いてある文字が全部横文字で、どれがどれだか判別できなかったのだ。
しかたなく寝間着だけ一揃え持ってきて、コップ一杯の水を片手に、悦子の前に戻ってきた。
「悦子さん、ほら、起きて。そんなに酔っ払ってるんだから、少しお水を飲んだ方がいいよ」
マスターに、酔っ払いの人の対処を教えてもらっておいてよかったと、ハルキはひとり頷いた。あやかしは急性アルコール中毒なんかにはならないので、どうやって人間を介抱してあげたらいいのかなんて普通知らない。働き始めたことで、悦子の役に立てる知識が一つ増えて、密かに嬉しかった。
悦子は目をうっすら開けて、目の前のコップをたどたどしく掴み、両手で支えながら飲み始めた。子どものように水を飲む仕草がとても可愛らしくて、ハルキはまじまじと見入ってしまう。
「悦子さん、着替えられる? その格好じゃあ窮屈じゃないの」
「いい、もう、このまま寝る……」
「もおお……。まったく、だめだよそんなになるまで飲んじゃ」
着替えないと言われてしまえば、こちらが勝手に着替えさせるわけにもいかない。ハルキはふたたび悦子を抱き抱え、ベッドに向かった。
「ほら、悦子さん。ベッドまで来たよ。また横にいたら怒られそうだから、僕はリビングに行くからね」
彼女の胸まで布団をかけ、頭を撫でた。相変わらず薄目を開けたまま、放心状態みたいだが。大丈夫だろうか。
すると悦子は、ぼんやりとした様子のまま布団の中で体を反転させ、こちらに向き直り。なにをするかと思いきや、ハルキの首のうしろに両手を絡ませ、頭をぐいと引き寄せた。
「おわっ!」
ほんのり赤みを帯びた、美しい彼女の顔が近づいてくる。
温度のないハルキの唇に、温かい彼女の唇の感触が広がった。なにが起こったのか分からず動揺するハルキに構わず、彼女は縋り付くように両腕を背中に回す。
––––えっ、悦子さん起きてる? それとも酔って寝ぼけてやってる?
ハルキの薄い胸に、彼女の豊かな胸の感触が押しつけられた。体の奥が熱くなって、パチパチと目を瞬かせる。はぁ、と色っぽいため息をついた悦子は、唇を離し、ハルキの胸に頭をぐりぐりと押しつけてくる。これは、まずい。ハルキの理性の堤防は、ほぼ決壊していると言っていい状態まできていた。
「あの、悦子さん……その……これは……」
「……寂しい、辛い……悲しい……」
悦子に飛びかかる寸前で、彼女の弱々しいつぶやきを聞いて動きを止めた。顔を覗き込めば、いつもの強気な雰囲気は完全に消え去っていて、静かに涙の筋を頬に作っていた。
「ど、ど、ど、どうしたの? なにかあったの?」
「なんでもない、なんでもないわ。でも……」
その言葉を最後に、彼女はまた、眠りの底へ落ちていったようだった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる