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座敷わらし、介抱する
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午前二時。あやかし的には「さあ、これからが本番!」という時間帯。ハルキは閉店作業を終え、バー・エドモンズをあとにした。
店から出てしばらくは人間気分でトボトボ歩いて帰っていたのが、途中からめんどうくさくなって、幽体でふよふよと浮いてスピードアップした。今日は悦子の相手にちょうど良さそうな男性は現れず、ただただフルーツを切ったり、足りなくなった食品を買いに走ったり、氷を作って終わった。なかなかうまくいかないものだ。
マンションの近くまで来て浮上しようとすると、入り口のあたりに女性らしき人影が座り込んでいるのが見えた。
なんだか見たことある服装だ。膝丈の胸元がVネックになっている橙色のワンピース。あんな派手な色を着ている人、そうそういるものではない。
「えっ、もしかして悦子さん?!」
––––友達と飲んでくるって言ってたけど、なんで入り口に? あ、もしかしてタクシー降りたあと、入り口で力尽きちゃったのかな。とにかく助けなきゃ。
エントランスの壁にしなだれかかるように眠っているため、胸の谷間が見えてしまっている。よくこのままの格好で無事でいられたものだ。他の男に見つかって、連れ去られたりする前で本当によかった。ぐったりとはしているが、穏やかな寝息を立てているところを見ると、具合が悪いわけではなく、単に酔い潰れているだけのようだった。
そして、人間奈良漬けの如く酒臭い。相当飲んでいるようだ。
「ほら、悦子さん、抱っこしますよ。頼むから殴らないでね」
そっと、彼女の体を抱き上げる。ハルキが想像していたよりずっと軽かった。先日江口を抱き抱えたばかりだったので、余計に軽く感じたのかもしれない。
「じゃあマンションに入るからね」
床に落ちていたバックを拾って肩に引っ掛け、悦子を抱き直した。
「ん……? ハルキ……?」
悦子は目を薄く開き、上気した顔でハルキを見上げた。甘えるような表情と声でそう呼ばれて、思わずキュンとしてしまう。
そのままぼんやりとした頭で壁抜けをしようとして。人が壁にぶつかる音を聞いて、ハッとした。
「いったぁ! なにするのよ……ハルキ」
「ご、ごめん。うっかりしてた。人間は壁抜けできないんだった。悦子さん、カバン借りるよ。鍵出すからね」
「んん……はいはい……」
返事はしているが、目が開いていない。ハルキは床に落ちてしまった鞄を拾い直し、鍵を取り出した。
––––まったく、年頃の女の子なんだからもうちょっと気をつけてくれよ。
彼女の鞄を腕にかけ、鍵を手に持ち、ふたたび実体で悦子を抱き抱えながらエントランスのドアを開けた。
アルコールの匂いに混じって、彼女の柔らかな匂いがする。耐えきれなくなって、寝ぼけているのを良いことに、ハルキは彼女の頬に口づけをした。
「ほら、悦子さん。部屋に着きましたよ。自分で寝る支度できる? って、無理か」
全身から力の抜けている様子の悦子は、声をかけてもまったく起きる気配がしない。
––––これ、どうしよう……。お化粧したままだし、落としてあげた方がいいのか? 着替えさせるにも……え、脱がすの? 僕が? いいの?
不埒な気持ちがむくむくと湧き上がり、それを抑え込むのに難儀した。深呼吸を何度か繰り返し、ようやく落ち着いたところで彼女をソファに下ろす。
洗面所に悦子がいつも使っている化粧落としを探しにいったのだが、すぐに断念した。種類が多すぎる上、ぱっと見ボトルに書いてある文字が全部横文字で、どれがどれだか判別できなかったのだ。
しかたなく寝間着だけ一揃え持ってきて、コップ一杯の水を片手に、悦子の前に戻ってきた。
「悦子さん、ほら、起きて。そんなに酔っ払ってるんだから、少しお水を飲んだ方がいいよ」
マスターに、酔っ払いの人の対処を教えてもらっておいてよかったと、ハルキはひとり頷いた。あやかしは急性アルコール中毒なんかにはならないので、どうやって人間を介抱してあげたらいいのかなんて普通知らない。働き始めたことで、悦子の役に立てる知識が一つ増えて、密かに嬉しかった。
悦子は目をうっすら開けて、目の前のコップをたどたどしく掴み、両手で支えながら飲み始めた。子どものように水を飲む仕草がとても可愛らしくて、ハルキはまじまじと見入ってしまう。
「悦子さん、着替えられる? その格好じゃあ窮屈じゃないの」
「いい、もう、このまま寝る……」
「もおお……。まったく、だめだよそんなになるまで飲んじゃ」
着替えないと言われてしまえば、こちらが勝手に着替えさせるわけにもいかない。ハルキはふたたび悦子を抱き抱え、ベッドに向かった。
「ほら、悦子さん。ベッドまで来たよ。また横にいたら怒られそうだから、僕はリビングに行くからね」
彼女の胸まで布団をかけ、頭を撫でた。相変わらず薄目を開けたまま、放心状態みたいだが。大丈夫だろうか。
すると悦子は、ぼんやりとした様子のまま布団の中で体を反転させ、こちらに向き直り。なにをするかと思いきや、ハルキの首のうしろに両手を絡ませ、頭をぐいと引き寄せた。
「おわっ!」
ほんのり赤みを帯びた、美しい彼女の顔が近づいてくる。
温度のないハルキの唇に、温かい彼女の唇の感触が広がった。なにが起こったのか分からず動揺するハルキに構わず、彼女は縋り付くように両腕を背中に回す。
––––えっ、悦子さん起きてる? それとも酔って寝ぼけてやってる?
ハルキの薄い胸に、彼女の豊かな胸の感触が押しつけられた。体の奥が熱くなって、パチパチと目を瞬かせる。はぁ、と色っぽいため息をついた悦子は、唇を離し、ハルキの胸に頭をぐりぐりと押しつけてくる。これは、まずい。ハルキの理性の堤防は、ほぼ決壊していると言っていい状態まできていた。
「あの、悦子さん……その……これは……」
「……寂しい、辛い……悲しい……」
悦子に飛びかかる寸前で、彼女の弱々しいつぶやきを聞いて動きを止めた。顔を覗き込めば、いつもの強気な雰囲気は完全に消え去っていて、静かに涙の筋を頬に作っていた。
「ど、ど、ど、どうしたの? なにかあったの?」
「なんでもない、なんでもないわ。でも……」
その言葉を最後に、彼女はまた、眠りの底へ落ちていったようだった。
店から出てしばらくは人間気分でトボトボ歩いて帰っていたのが、途中からめんどうくさくなって、幽体でふよふよと浮いてスピードアップした。今日は悦子の相手にちょうど良さそうな男性は現れず、ただただフルーツを切ったり、足りなくなった食品を買いに走ったり、氷を作って終わった。なかなかうまくいかないものだ。
マンションの近くまで来て浮上しようとすると、入り口のあたりに女性らしき人影が座り込んでいるのが見えた。
なんだか見たことある服装だ。膝丈の胸元がVネックになっている橙色のワンピース。あんな派手な色を着ている人、そうそういるものではない。
「えっ、もしかして悦子さん?!」
––––友達と飲んでくるって言ってたけど、なんで入り口に? あ、もしかしてタクシー降りたあと、入り口で力尽きちゃったのかな。とにかく助けなきゃ。
エントランスの壁にしなだれかかるように眠っているため、胸の谷間が見えてしまっている。よくこのままの格好で無事でいられたものだ。他の男に見つかって、連れ去られたりする前で本当によかった。ぐったりとはしているが、穏やかな寝息を立てているところを見ると、具合が悪いわけではなく、単に酔い潰れているだけのようだった。
そして、人間奈良漬けの如く酒臭い。相当飲んでいるようだ。
「ほら、悦子さん、抱っこしますよ。頼むから殴らないでね」
そっと、彼女の体を抱き上げる。ハルキが想像していたよりずっと軽かった。先日江口を抱き抱えたばかりだったので、余計に軽く感じたのかもしれない。
「じゃあマンションに入るからね」
床に落ちていたバックを拾って肩に引っ掛け、悦子を抱き直した。
「ん……? ハルキ……?」
悦子は目を薄く開き、上気した顔でハルキを見上げた。甘えるような表情と声でそう呼ばれて、思わずキュンとしてしまう。
そのままぼんやりとした頭で壁抜けをしようとして。人が壁にぶつかる音を聞いて、ハッとした。
「いったぁ! なにするのよ……ハルキ」
「ご、ごめん。うっかりしてた。人間は壁抜けできないんだった。悦子さん、カバン借りるよ。鍵出すからね」
「んん……はいはい……」
返事はしているが、目が開いていない。ハルキは床に落ちてしまった鞄を拾い直し、鍵を取り出した。
––––まったく、年頃の女の子なんだからもうちょっと気をつけてくれよ。
彼女の鞄を腕にかけ、鍵を手に持ち、ふたたび実体で悦子を抱き抱えながらエントランスのドアを開けた。
アルコールの匂いに混じって、彼女の柔らかな匂いがする。耐えきれなくなって、寝ぼけているのを良いことに、ハルキは彼女の頬に口づけをした。
「ほら、悦子さん。部屋に着きましたよ。自分で寝る支度できる? って、無理か」
全身から力の抜けている様子の悦子は、声をかけてもまったく起きる気配がしない。
––––これ、どうしよう……。お化粧したままだし、落としてあげた方がいいのか? 着替えさせるにも……え、脱がすの? 僕が? いいの?
不埒な気持ちがむくむくと湧き上がり、それを抑え込むのに難儀した。深呼吸を何度か繰り返し、ようやく落ち着いたところで彼女をソファに下ろす。
洗面所に悦子がいつも使っている化粧落としを探しにいったのだが、すぐに断念した。種類が多すぎる上、ぱっと見ボトルに書いてある文字が全部横文字で、どれがどれだか判別できなかったのだ。
しかたなく寝間着だけ一揃え持ってきて、コップ一杯の水を片手に、悦子の前に戻ってきた。
「悦子さん、ほら、起きて。そんなに酔っ払ってるんだから、少しお水を飲んだ方がいいよ」
マスターに、酔っ払いの人の対処を教えてもらっておいてよかったと、ハルキはひとり頷いた。あやかしは急性アルコール中毒なんかにはならないので、どうやって人間を介抱してあげたらいいのかなんて普通知らない。働き始めたことで、悦子の役に立てる知識が一つ増えて、密かに嬉しかった。
悦子は目をうっすら開けて、目の前のコップをたどたどしく掴み、両手で支えながら飲み始めた。子どものように水を飲む仕草がとても可愛らしくて、ハルキはまじまじと見入ってしまう。
「悦子さん、着替えられる? その格好じゃあ窮屈じゃないの」
「いい、もう、このまま寝る……」
「もおお……。まったく、だめだよそんなになるまで飲んじゃ」
着替えないと言われてしまえば、こちらが勝手に着替えさせるわけにもいかない。ハルキはふたたび悦子を抱き抱え、ベッドに向かった。
「ほら、悦子さん。ベッドまで来たよ。また横にいたら怒られそうだから、僕はリビングに行くからね」
彼女の胸まで布団をかけ、頭を撫でた。相変わらず薄目を開けたまま、放心状態みたいだが。大丈夫だろうか。
すると悦子は、ぼんやりとした様子のまま布団の中で体を反転させ、こちらに向き直り。なにをするかと思いきや、ハルキの首のうしろに両手を絡ませ、頭をぐいと引き寄せた。
「おわっ!」
ほんのり赤みを帯びた、美しい彼女の顔が近づいてくる。
温度のないハルキの唇に、温かい彼女の唇の感触が広がった。なにが起こったのか分からず動揺するハルキに構わず、彼女は縋り付くように両腕を背中に回す。
––––えっ、悦子さん起きてる? それとも酔って寝ぼけてやってる?
ハルキの薄い胸に、彼女の豊かな胸の感触が押しつけられた。体の奥が熱くなって、パチパチと目を瞬かせる。はぁ、と色っぽいため息をついた悦子は、唇を離し、ハルキの胸に頭をぐりぐりと押しつけてくる。これは、まずい。ハルキの理性の堤防は、ほぼ決壊していると言っていい状態まできていた。
「あの、悦子さん……その……これは……」
「……寂しい、辛い……悲しい……」
悦子に飛びかかる寸前で、彼女の弱々しいつぶやきを聞いて動きを止めた。顔を覗き込めば、いつもの強気な雰囲気は完全に消え去っていて、静かに涙の筋を頬に作っていた。
「ど、ど、ど、どうしたの? なにかあったの?」
「なんでもない、なんでもないわ。でも……」
その言葉を最後に、彼女はまた、眠りの底へ落ちていったようだった。
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