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座敷わらし、働く
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「あー、もう! 鬱陶しいわね! なんであなたは、部屋の中をウロウロウロウロ……」
「だっ、だって、今日バイト初日なんだもの! そりゃあ緊張するよ」
落ち着きなく大理石の敷き詰められたリビングを行ったり来たりしていたら、悦子に睨まれてしまった。怒られたくはないので、ハルキはソファに座ってみたが、やはり落ち着かず、立ったり座ったりしてしまう。
「大丈夫よ。遠藤さん優しいから。あそこのお店、定期的にスタートアップ仲間と使ってるけど、従業員の人の扱いも丁寧だし。バイトの子たちも長く続いている人が多い印象よ」
悦子の言うとおり、店の雰囲気はとっても良かった。しかし、初めての労働なのだ。ハルキは恥を忍んで、うわ目がちにお願いをしてみる。
「ねえ、この間のあやかし用医薬品? まだあったりする? あんまり薬に頼るのも良くないとは思うけど、やっぱり初日はあったほうが……」
「あらやだ。ハルキ、まだ信じてたのね」
「えっ……」
そう言うと、悦子はスマホを取り出し、なにやら画面をいじっていたかと思うと、ハルキの方に向けて画面を見せた。
映し出されていたのは動画で、筋肉ムキムキの男性二人組が、先日僕が「あやかし用医薬品」として渡された茶色の小瓶を手に、「今日も元気いっぱい! エナジーショット!」と決めポーズをとる映像が流れていた。
その映像をまじまじと見て、宣伝動画で紹介されていた効能と、悦子がハルキにした説明とを頭の中で突き合わせる。
「ねえ……まさか」
「ないわよ、あやかし用医薬品なんて。あれはただの栄養ドリンク」
「騙したの?!」
「人聞が悪いわね。『プラシーボ効果』ってやつよ。いわゆる偽薬ね」
「なにそれ」
聞きなれない言葉に、ハルキは首を捻った。
「ただの水を飲んだだけでも、それが『絶対的な効き目がある薬』だって思い込んでいると、病気の症状が改善したりすることがあるの。それをプラシーボ効果って言うのよ」
「つまり、僕が信じたから効果が出たってこと?」
あのドリンクを飲んだ瞬間、一気に力が湧いたような感覚があった。あれが思い込みの力だったなんて、驚きだ。
「そ。さあ、そうとわかったら、覚悟を決めていってらっしゃい。『うまく行く』って思い込めば、きっと仕事もうまく行くわよ!」
「そんなああ」
がっくりと肩を落とすハルキの背中を悦子はぐいぐいと押し、窓の外へと放り出した。
◇◇◇
「三枝ハルキです。どうぞよろしくお願いちます! あっ」
バイトはじめの挨拶で、恥ずかしい噛み方をしてしまった。鼻の下に綺麗に整えられた髭、黒いチョッキに蝶ネクタイが似合う初老の紳士-----バー・エドモンズのマスターである遠藤さんに、ふふ、と笑われてしまう。
「三枝ハルキ君、今日からよろしくね。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。今日はとりあえず、簡単な仕事から始めてもらうから」
「ううう……すみません。バイトって初めてで。緊張しちゃって」
「大丈夫、大丈夫。心配しないで。ゆっくり教えていくからね」
新人のハルキの仕事は、まず買い出し。カクテルに使うフルーツやフードメニュー用の食品を近所のスーパーへ買いにいく。それからおしぼりの準備や、消耗品の補充など、バーテンダー素人でもできる作業から取り組んでいく。
仕事をし始めてすぐはおどおどしていたが、慣れてきて緊張が落ち着いてくると、だんだんと働いている実感が湧いてきて、楽しくなってきた。
––––なんだか、働くっていいな。生きてるって感じがするぞ。
遠藤マスターから一通り説明を受けつつ、オープン準備が終わったところで、マスターはハッとしたような顔をして、奥に引っ込んだ。しばらくして戻ってきた彼は、綺麗にアイロンがけされた制服を渡してくれた。
「ごめんごめん。すっかり渡すのを忘れていたよ。休憩室でこれに着替えてきてくれる? 使い終わったら、自分で持って帰って、また次の勤務の時に洗濯したのを持ってきてね」
「……はい!」
両手で制服の質量を感じると、胸の内に喜びがじんわりと広がった。
初めてのアルバイト、初めての制服。ハルキの狭かった世界が、広がっていく瞬間だった。
白いワイシャツに袖を通し、黒いズボンにギャルソンタイプのエプロンを絞める。鏡に映った自分は、その辺にいる大学生のバイトと変わらず、座敷わらしには到底見えない。見目だけでいえば、人間のアイドルにも負けないと、ハルキは自画自賛した。
休憩室から出てきたハルキの姿を見たマスターは、「女の子のお客さんが増えそうだね」とニコニコ笑っていた。
––––僕としては、悦子さん以外の女の子にはあまり興味がないのだけどね!
遠藤マスターがレコードをかけ始める。間も無く開店時間だ。
軽快なピアノの音楽を耳で聴きながら、ハルキは考えを巡らせる。
先日の響への相談通り、バイト開始と同時並行で「微妙な男探し」を始めていた。
しかしやはり、道ゆく人をふらふらしながら観察するだけでは、見た目の良し悪しくらいしかわからない。今日はでめぼしい当て馬は見つからなかった。
––––今日やってくるお客さんの中で、誰かちょうどいい人が見つかるといいのだけど。
「あからさまに微妙」な男はダメだ。悦子は賢いし、おそらくすぐハルキが手を抜いていることがバレてしまう。それで自分の評価が下がるのはまずい。「なかなかいいけど、ここがダメね」という感じで、全体感はいいが決定的な欠点がある男がいい。
両手をお腹の前で合わせた格好で、カウンターに待機していると、来客を告げる鐘が鳴った。
「こんばんは。おや、マスター、そちらの子は?」
「いらっしゃいませ、江口さん。この子はね、今日新しく入ったバイトの子で、ハルキ君だよ」
「へえ、ハルキ君。小説家みたいな名前だねえ。初めまして、よろしくね」
「い……いらっしゃいませ」
今日ひとり目の来店客は、早速ターゲットとして適切そうな男性客だった。
––––年齢はギリギリ三十歳ぐらいかな。僕ほどではないけど、かっこいい。見た目は悪くないな。僕ほどではないけど!
「か、会社員の方なんですか?」
初めての接客でドキドキしながらも、なんとか情報を引き出そうと話しかけてみる。東京の社会人と渡り合うために、経済新聞は毎日読んでるし、会話術の本は一冊読んだ。付け焼き刃なので、たどたどしさは否めないが。
「ああ、そうだよね。こんなカッコしてればフリーターにも見えるかな? 僕はね、デザイナーなの。マスター、シャンディガフひとつ。ハルキ君、君もなんか頼んでいいよ。奢ってあげる」
「ええっ! そんな、申し訳ないです」
「ハルキ君、せっかくのお客様からのお申し出だから」
マスターにそう促されて、ハルキは渋々ノンアルコールカクテルを選んだ。酒に弱いのはわかっているので、うっかり粗相をしてクビになったら大変だ。
江口はセンターパート分けの短髪の、線の細い感じの男で。カーキのオープンカラーの半袖シャツに白いノーカラーのシャツ、細身の黒いパンツという、いかにもオシャレ男子といったふうのファッションをしていた。彼は美術館で販売するような、展覧会の図録の表紙を作る仕事をしているらしい。
悦子の場合、彼女自身が大金持ちだから、仕事さえしていてくれれば年収とかは関係ないはず。あとは人柄や、フィーリングとか。寛容さも大事だろうか。
––––そしてどこかに「残念な点」がないとなあ。
そのあともハルキは江口につきっきりで、彼のことを根掘り葉掘り聞いた。江口は自分語りが好きなタイプなのか、お酒も進み、どんどん饒舌になっていく。マスターは他の来店客の相手をし始めたので、ハルキはそのまま江口の相手に集中することができた。
「ねえ、ハルキ君。ちょっと飲み過ぎちゃったみたい。悪いけど、トイレまで連れてってくれないかなあ」
「あらら。それは大変。僕の肩に捕まってください。お連れします」
「うん、悪いね」
ハルキと身長は変わらないが、彼は体重が軽かったので、寄り掛かられてもそんなに大変さを感じることはなかった。バーカウンターとは反対方向にある、トイレの前室の洗面所の扉を開け、江口を奥に連れて行く。二人とも前室に入ったところで、ハルキはカウンターに戻ろうとしたのだが。
「んむううううう?!」
なんと江口は、洗面室のドアに向けて壁ドンするかたちで、ハルキの唇を奪ってきたのだ。
「え、ちょっ、なあああ?」
––––めちゃくちゃ酒臭い!
慌てて両手で突き放し、混乱しながら江口を見つめる。ハルキはすっかり血の気がひいていた。いや、実際には流れていないのだが。
「君、僕のこと気になってるんでしょ。かわいいなあ。僕もね、君みたいな子が好きなんだ」
「え、えええええ?」
––––そうか。僕が熱心に彼のことを聞いていたのを、江口さんは好意と受け取ってたのね!
とにかく、これは誤解を解かねば。常連客のようだし、バイトを続けるためには穏便に済まさなければならない。
––––あれ、っていうか、もし男性しか愛せない人なんだったら、まずはこの人を悦子さんに紹介するのがいいのかも?
混乱する頭をフル回転させながら、そう考えたハルキは、江口に質問を投げかける。
「あ、あのっ。江口さんはその、好きになるのに性別はこだわるタイプですか?」
デリケートな質問なので、聞き方は気をつけたい。誰を好きになろうと今は自由な時代なのだ。この間なにかの雑誌のコラムにそう書いてあった。
とにかく、失礼にならない程度に事実確認せねばならない。
「あ、もしかして、同性を好きになるのは初めての経験? そうかあ、それは戸惑うよね。僕はね、男の子が好きなんだ。だから安心して。君が嫌がることはしないし、ゆっくり進んでいこう?」
ビンゴ! ちょっと強引ではあるけど優しそうだし、性格も良さそうだし。デザイナーという職業もかっこいい。女性を好きにならないなら、悦子に紹介しても二人がくっつくこともない。
「あの、連絡先を……」
「それはもうちょっと、イチャイチャしてからでもよくない?」
「うおおおおおおああああ」
––––だめ、却下。計画を実行するよりも先に、僕の身が危ない!
誤解をフルスロットルで踏み抜いてしまったがために、貞操の危機に瀕したハルキは、江口を断念して次のターゲットを探すことにした。
「だっ、だって、今日バイト初日なんだもの! そりゃあ緊張するよ」
落ち着きなく大理石の敷き詰められたリビングを行ったり来たりしていたら、悦子に睨まれてしまった。怒られたくはないので、ハルキはソファに座ってみたが、やはり落ち着かず、立ったり座ったりしてしまう。
「大丈夫よ。遠藤さん優しいから。あそこのお店、定期的にスタートアップ仲間と使ってるけど、従業員の人の扱いも丁寧だし。バイトの子たちも長く続いている人が多い印象よ」
悦子の言うとおり、店の雰囲気はとっても良かった。しかし、初めての労働なのだ。ハルキは恥を忍んで、うわ目がちにお願いをしてみる。
「ねえ、この間のあやかし用医薬品? まだあったりする? あんまり薬に頼るのも良くないとは思うけど、やっぱり初日はあったほうが……」
「あらやだ。ハルキ、まだ信じてたのね」
「えっ……」
そう言うと、悦子はスマホを取り出し、なにやら画面をいじっていたかと思うと、ハルキの方に向けて画面を見せた。
映し出されていたのは動画で、筋肉ムキムキの男性二人組が、先日僕が「あやかし用医薬品」として渡された茶色の小瓶を手に、「今日も元気いっぱい! エナジーショット!」と決めポーズをとる映像が流れていた。
その映像をまじまじと見て、宣伝動画で紹介されていた効能と、悦子がハルキにした説明とを頭の中で突き合わせる。
「ねえ……まさか」
「ないわよ、あやかし用医薬品なんて。あれはただの栄養ドリンク」
「騙したの?!」
「人聞が悪いわね。『プラシーボ効果』ってやつよ。いわゆる偽薬ね」
「なにそれ」
聞きなれない言葉に、ハルキは首を捻った。
「ただの水を飲んだだけでも、それが『絶対的な効き目がある薬』だって思い込んでいると、病気の症状が改善したりすることがあるの。それをプラシーボ効果って言うのよ」
「つまり、僕が信じたから効果が出たってこと?」
あのドリンクを飲んだ瞬間、一気に力が湧いたような感覚があった。あれが思い込みの力だったなんて、驚きだ。
「そ。さあ、そうとわかったら、覚悟を決めていってらっしゃい。『うまく行く』って思い込めば、きっと仕事もうまく行くわよ!」
「そんなああ」
がっくりと肩を落とすハルキの背中を悦子はぐいぐいと押し、窓の外へと放り出した。
◇◇◇
「三枝ハルキです。どうぞよろしくお願いちます! あっ」
バイトはじめの挨拶で、恥ずかしい噛み方をしてしまった。鼻の下に綺麗に整えられた髭、黒いチョッキに蝶ネクタイが似合う初老の紳士-----バー・エドモンズのマスターである遠藤さんに、ふふ、と笑われてしまう。
「三枝ハルキ君、今日からよろしくね。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。今日はとりあえず、簡単な仕事から始めてもらうから」
「ううう……すみません。バイトって初めてで。緊張しちゃって」
「大丈夫、大丈夫。心配しないで。ゆっくり教えていくからね」
新人のハルキの仕事は、まず買い出し。カクテルに使うフルーツやフードメニュー用の食品を近所のスーパーへ買いにいく。それからおしぼりの準備や、消耗品の補充など、バーテンダー素人でもできる作業から取り組んでいく。
仕事をし始めてすぐはおどおどしていたが、慣れてきて緊張が落ち着いてくると、だんだんと働いている実感が湧いてきて、楽しくなってきた。
––––なんだか、働くっていいな。生きてるって感じがするぞ。
遠藤マスターから一通り説明を受けつつ、オープン準備が終わったところで、マスターはハッとしたような顔をして、奥に引っ込んだ。しばらくして戻ってきた彼は、綺麗にアイロンがけされた制服を渡してくれた。
「ごめんごめん。すっかり渡すのを忘れていたよ。休憩室でこれに着替えてきてくれる? 使い終わったら、自分で持って帰って、また次の勤務の時に洗濯したのを持ってきてね」
「……はい!」
両手で制服の質量を感じると、胸の内に喜びがじんわりと広がった。
初めてのアルバイト、初めての制服。ハルキの狭かった世界が、広がっていく瞬間だった。
白いワイシャツに袖を通し、黒いズボンにギャルソンタイプのエプロンを絞める。鏡に映った自分は、その辺にいる大学生のバイトと変わらず、座敷わらしには到底見えない。見目だけでいえば、人間のアイドルにも負けないと、ハルキは自画自賛した。
休憩室から出てきたハルキの姿を見たマスターは、「女の子のお客さんが増えそうだね」とニコニコ笑っていた。
––––僕としては、悦子さん以外の女の子にはあまり興味がないのだけどね!
遠藤マスターがレコードをかけ始める。間も無く開店時間だ。
軽快なピアノの音楽を耳で聴きながら、ハルキは考えを巡らせる。
先日の響への相談通り、バイト開始と同時並行で「微妙な男探し」を始めていた。
しかしやはり、道ゆく人をふらふらしながら観察するだけでは、見た目の良し悪しくらいしかわからない。今日はでめぼしい当て馬は見つからなかった。
––––今日やってくるお客さんの中で、誰かちょうどいい人が見つかるといいのだけど。
「あからさまに微妙」な男はダメだ。悦子は賢いし、おそらくすぐハルキが手を抜いていることがバレてしまう。それで自分の評価が下がるのはまずい。「なかなかいいけど、ここがダメね」という感じで、全体感はいいが決定的な欠点がある男がいい。
両手をお腹の前で合わせた格好で、カウンターに待機していると、来客を告げる鐘が鳴った。
「こんばんは。おや、マスター、そちらの子は?」
「いらっしゃいませ、江口さん。この子はね、今日新しく入ったバイトの子で、ハルキ君だよ」
「へえ、ハルキ君。小説家みたいな名前だねえ。初めまして、よろしくね」
「い……いらっしゃいませ」
今日ひとり目の来店客は、早速ターゲットとして適切そうな男性客だった。
––––年齢はギリギリ三十歳ぐらいかな。僕ほどではないけど、かっこいい。見た目は悪くないな。僕ほどではないけど!
「か、会社員の方なんですか?」
初めての接客でドキドキしながらも、なんとか情報を引き出そうと話しかけてみる。東京の社会人と渡り合うために、経済新聞は毎日読んでるし、会話術の本は一冊読んだ。付け焼き刃なので、たどたどしさは否めないが。
「ああ、そうだよね。こんなカッコしてればフリーターにも見えるかな? 僕はね、デザイナーなの。マスター、シャンディガフひとつ。ハルキ君、君もなんか頼んでいいよ。奢ってあげる」
「ええっ! そんな、申し訳ないです」
「ハルキ君、せっかくのお客様からのお申し出だから」
マスターにそう促されて、ハルキは渋々ノンアルコールカクテルを選んだ。酒に弱いのはわかっているので、うっかり粗相をしてクビになったら大変だ。
江口はセンターパート分けの短髪の、線の細い感じの男で。カーキのオープンカラーの半袖シャツに白いノーカラーのシャツ、細身の黒いパンツという、いかにもオシャレ男子といったふうのファッションをしていた。彼は美術館で販売するような、展覧会の図録の表紙を作る仕事をしているらしい。
悦子の場合、彼女自身が大金持ちだから、仕事さえしていてくれれば年収とかは関係ないはず。あとは人柄や、フィーリングとか。寛容さも大事だろうか。
––––そしてどこかに「残念な点」がないとなあ。
そのあともハルキは江口につきっきりで、彼のことを根掘り葉掘り聞いた。江口は自分語りが好きなタイプなのか、お酒も進み、どんどん饒舌になっていく。マスターは他の来店客の相手をし始めたので、ハルキはそのまま江口の相手に集中することができた。
「ねえ、ハルキ君。ちょっと飲み過ぎちゃったみたい。悪いけど、トイレまで連れてってくれないかなあ」
「あらら。それは大変。僕の肩に捕まってください。お連れします」
「うん、悪いね」
ハルキと身長は変わらないが、彼は体重が軽かったので、寄り掛かられてもそんなに大変さを感じることはなかった。バーカウンターとは反対方向にある、トイレの前室の洗面所の扉を開け、江口を奥に連れて行く。二人とも前室に入ったところで、ハルキはカウンターに戻ろうとしたのだが。
「んむううううう?!」
なんと江口は、洗面室のドアに向けて壁ドンするかたちで、ハルキの唇を奪ってきたのだ。
「え、ちょっ、なあああ?」
––––めちゃくちゃ酒臭い!
慌てて両手で突き放し、混乱しながら江口を見つめる。ハルキはすっかり血の気がひいていた。いや、実際には流れていないのだが。
「君、僕のこと気になってるんでしょ。かわいいなあ。僕もね、君みたいな子が好きなんだ」
「え、えええええ?」
––––そうか。僕が熱心に彼のことを聞いていたのを、江口さんは好意と受け取ってたのね!
とにかく、これは誤解を解かねば。常連客のようだし、バイトを続けるためには穏便に済まさなければならない。
––––あれ、っていうか、もし男性しか愛せない人なんだったら、まずはこの人を悦子さんに紹介するのがいいのかも?
混乱する頭をフル回転させながら、そう考えたハルキは、江口に質問を投げかける。
「あ、あのっ。江口さんはその、好きになるのに性別はこだわるタイプですか?」
デリケートな質問なので、聞き方は気をつけたい。誰を好きになろうと今は自由な時代なのだ。この間なにかの雑誌のコラムにそう書いてあった。
とにかく、失礼にならない程度に事実確認せねばならない。
「あ、もしかして、同性を好きになるのは初めての経験? そうかあ、それは戸惑うよね。僕はね、男の子が好きなんだ。だから安心して。君が嫌がることはしないし、ゆっくり進んでいこう?」
ビンゴ! ちょっと強引ではあるけど優しそうだし、性格も良さそうだし。デザイナーという職業もかっこいい。女性を好きにならないなら、悦子に紹介しても二人がくっつくこともない。
「あの、連絡先を……」
「それはもうちょっと、イチャイチャしてからでもよくない?」
「うおおおおおおああああ」
––––だめ、却下。計画を実行するよりも先に、僕の身が危ない!
誤解をフルスロットルで踏み抜いてしまったがために、貞操の危機に瀕したハルキは、江口を断念して次のターゲットを探すことにした。
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