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第2話

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 ——昨日はほんとごめんね! 今度絶対埋め合わせするから!
 スマホのディスプレイに映っているのは、ついさっき葉月さんから届いたメッセージ。いつも淡々としている文面なだけに、相当焦っていることが窺える。
 三限終了後の午後二時半。
 寒空の下で確認した通算三回目の謝罪に、わたしは思わず苦笑した。
「謝りすぎです、葉月さん……」
 一回目の謝罪は、昨日の昼休みに通話で。二回目は、昨夜寝る前にメッセ―ジで。そして三回目が、今のこれである。
 そもそも、彼が謝る道理などないのだ。むしろ、寝落ちするまで彼を動かしてしまったわたしのほうに非があるのに。
「優しいなあ……」
 優しい。優しすぎる。
 優しくて、美人で、大人で……。ときどきすごく不安になる。あんなに素敵な人の隣にいるのが、こんな子どもみたいなわたしでいいのだろうかと。
 どうして付き合ってくれたんだろう。どうして好きになってくれたんだろう。
 考えれば考えるほど、堕ちていく感覚に苛まれる。こういう卑屈なところがだめだって、葉月さんにも迷惑かけてるって、わかっているのに。
「ああ、もう……!」
 ぎゅっと目を瞑って、パシンッと一発。気合いを入れるために両の頬を叩けば、冷気で痛みが三割ほど増した。
「おいおい、可愛い顔に何やってんだよ美波」
 と、不意に頭上から声をかけられ、そちらを見遣る。
 図書館へと続く階段の踊り場。ブーツの踵を鳴らしながら軽快に降りてきたのは、友人の赤城あかぎ陽子ようこちゃんだった。
「陽子ちゃん。図書館にいたの?」
「うん。レポートやるついでに時間潰してた」
「明日締め切りの分?」
「そうそう。美波は? もうできた?」
「うん。三限目終わって、今提出してきたところ」
「おー、さっすが」
 ワインレッドの髪を頭頂部でお団子に纏め、少し残した前髪が、黒くてつぶらな猫目にかかっている。
 彼女とは、一年の春期に受講していた科目が多数被っていたことで、自然と仲良くなった。さばさばとした性格と物言いだが、人当たりはよく、名前のとおり太陽みたいにあたたかい子だ。
 実は陽子ちゃん。幼なじみ兼彼氏の職場が、葉月さんと同じバーなのだ。
 こちらは年の差五つ。八月に、彼を驚かせようと内緒でバーを訪れるも、なんとたまたま休みで不在。そのことにキレて深酒をしてでき上がって……結局彼が迎えに来てくれたそうなのだが、あいにくわたしはそれを見届けることができなかった。
 なぜなら、まさにその日が、わたしの〝黒歴史〟編修日だったから。
「時間潰してたってことは、四限目講義取ってるの?」
「んーん、五限目。ちょっと喉渇いたから、カフェでなんか飲もうと思って。……美波は? もう帰んの?」
「うん。今日の講義は全部終わったから」
「そっか。よかったら一緒にお茶しない? 奢るよ」
「え……そんな。悪いよ」
「何言ってんの。この前あたし奢ってもらったじゃん。だから今日はあたしが奢る番」
「……じ、じゃあ、お言葉に甘えて」
「よし、決まり」
 陽子ちゃんの押しの強さと目力に敗北し、わたしは彼女と一緒に構内のカフェへと向かった。
 昼食時には学生でごった返す屋内も、今の時間帯はさすがにまばらだった。友人とスイーツを囲んで談笑したり、一人黙々とPCやタブレットで作業したり……先輩も後輩も、皆それぞれ自分の時間を過ごしている。
 わたしと陽子ちゃんは、噴水広場が望めるいつもの場所を選んだ。一面ガラス張りの、いわゆるカーテンウォールと呼ばれる壁の近く。明るく暖かく、居心地の好いスペースだ。
 わたしはレモンティーを、陽子ちゃんはカフェオレを注文し、四人掛けの丸テーブルに対座する。
 彼女とこんなふうに過ごすようになって、もう二年半が過ぎた。 
「で、最近どうなのよ。水瀬みなせさんとは」
「……へ?」
 お礼を言って、「いただきます」と両手を合わせた直後のこと。
 あまりにも唐突に訊ねられたものだから、自分でも驚くくらい間抜けな声を上げてしまった。陽子ちゃんの猫目が、きらりと光る(ちなみに〝水瀬さん〟とは、葉月さんのことである)。
 一言発しただけで呆けていると、間髪容れずに彼女からこう返ってきた。
「『え』じゃなくて。さっきの〝ほっぺたパシン〟は、水瀬さんと関係あるの?」
「……陽子ちゃん、鋭いね」
「ったりまえじゃん。あたしの美波愛なめんな」
 なるほど、理解できた。
 陽子ちゃんは、さっきのわたしの様子を気にかけて、お茶に誘ってくれたんだ。
「ありがとう。……大したことじゃないの。また、わたしが勝手に卑屈になってるだけで」
「どんなふうに?」
「あんなに素敵な人が、どうしてわたしなんかと……って。葉月さんのことは大好きだし、彼がくれる言葉や気持ちはすごく嬉しいんだけど、なんていうか、どうしても自分に自信が持てなくて……」
 訥々と、胸の中にあるものを、素直に吐露する。視線を落とせば、レモンティーに映る冴えない自分と目が合った。
 小さな田舎町の旧家に生まれ、特定のコミュニティに縛られ生きてきた。何もかも決まっていた。生まれる前から。
 自分がこうなってしまったこと、そのすべてを、故郷のせいにするつもりはない。けれど、どうしても纏わりついて離れてくれないのだ。

 ——お前に意思なんて必要ない。お前はオレのもんなんだよ、美波。

 まるで、呪いのように。
「……っ——!」
 ねぶるような声が脳内で再生された瞬間、脈拍が一気に跳ね上がった。
 湧き起こる耳鳴り。全身がそそけ立ち、血圧が急激に上昇していくのを感じる。
「ちょっ……美波、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「あ……だ、大丈夫……」
「換気できてないのかな……。外出る?」
「ううん、大丈夫。……ほんと、平気だから。ありがとう」
 心配そうにわたしの顔を覗き込む陽子ちゃんに、どうにか笑って見せる。しばらくすると、すーっと波が引いていくように、しだいに脈拍は落ち着いてきた。
 陽子ちゃんが一緒にいてくれてよかった。一人だったら、きっとまだ治まっていなかっただろうから。
 気を取り直してレモンティーを一口流し込めば、爽やかな酸味とほのかに甘い香りが、毛羽立った感情を撫でつけてくれた。
「……まあ、自信満々になる必要なんか全然ないと思うけどさ、美波は自信なさすぎだよね。あたし、水瀬さんが美波に『自己評価低い』って言ったって聞いて、『よくぞ言ってくれました!』って心ン中で拍手喝采だったもん」
「え……?」
 改まった語調で陽子ちゃんが言う。
 目をぱちくりとしばたかせるわたしの体調を気遣いながら、ゆっくりと、諭すように。
「あたしは、ほら、ストレートに人のこと褒めたり気持ち伝えたりっての、あんま得意じゃないからさ。変に照れちゃって。だから、そういうの嫌味なく言える水瀬さんみたいな人が、美波と一緒になってくれて、ほんとよかったなって」
 陽子ちゃんの言葉が、次から次へと体の内側に沁み渡る。
「っても、水瀬さんだって、猫も杓子も相手にしてるわけじゃないと思うし」
 まるで、雪が溶けるように。
「……美波だからだよ」
 灯った明かりが、亘るように。
「……——」
 息が詰まるほど狭隘なあの世界で、なす術なく耐えるしかないと思っていた。一生。
 自分の意思なんて必要ない。望むだけ無駄だって。
「わーっ、泣くなよ美波! 可愛い顔がますます可愛くなるぞっ! ……しんどい? 大丈夫?」
 外の世界は、こんなにも眩しい。
 焦がれた世界は、こんなにも——美しい。

 *

 あのあとすぐに陽子ちゃんと別れ、わたしは帰路についた。
 わたしの体調を案じて送ってくれると言った彼女の申し出を丁重に断り、電車に揺られること十分。最寄りの駅に到着すると、マンションまでの道のりを気持ち軽やかに進んだ。
 彼女の申し出を断ることは少々憚られたけれど、あれ以上気を遣わせたくなかったし、なにより講義を休ませるわけにはいかなかったから。
 今夜、改めてお礼のメッセージを入れておこう。「心配かけてごめんね」って。「いつもありがとう」って。
 そんなことを考えながら歩いていると、自宅マンション……の、隣のマンションが見えてきた。見るからに高級そうな、ダークグレーのタイル張り。シックでモダンで上品だ。
 葉月さんの住んでいるそのマンションは、わたしが住んでいるマンションの倍ほどの高さがある。よって、必然的に先に視界に入ってしまうのだ。
 エントランス前のお洒落な広場を横切れば、自宅マンションはすぐそこ。ヒールの音を強め、わたしは少しだけ歩く速度を上げた。
「美波!」
 突然、名前を呼ばれた。
 声のしたほう——高級マンションのエントランス——へと顔を向ける。そこには、こちらに駆け寄ってくる葉月さんの姿があった。
 細身の黒いトレンチコートに、グレーのロングマフラー。これから出勤なのだろう。私服姿もすこぶる麗しい。ああ……眼福。
 などと悠長に浸っていられたのもつかの間。
「美波ごめんね!」
「……!! は、葉月さん……っ!?」
 なんと、勢いよく彼に抱き締められてしまった。
 わたしの背中に回された腕に力がこもる。ぎゅーっという音が聞こえそうなくらい強く。
 彼に会うのはおよそ一日半ぶりだが、通算四回目となる謝罪は実に激しいものだった。
 ……けど、さすがに……ちょっと、これは……
「葉月、さ……すみませ……ちょっ、苦し……っ」
「……あっ、ごめん!」
 解放された胸元から、ぷはっと息を継ぐ。
 この華奢な体のいったいどこにこんな力が……。もう何度目かの疑問を呈するも、やはり彼は男の人なのだと帰結する。
 首を上げてぱちっと視線を合わせれば、端正な眉目が見る見るうちに下がってしまった。
 なんだか申し訳ない。けれど、それと同時に込み上げてきたのは、溢れんばかりの愛おしさだった。
「葉月さんが謝る必要なんてないですよ。謝っちゃだめです」
「ううん。せっかく美波が泊まってくれたのに、見送りしないどころかベッドに運ばせるとか……ほんと最低」
「それを言うなら、疲れてる葉月さんに甘えすぎたわたしのほうが最低です」
「な……っ、だからそれは俺がしたくて勝手に——んんっ!?」
 むにっと、葉月さんの口元に、あるものを押しつける。ポンチョコートのポケットから取り出したそれは、いい具合に温まっていた。
「お仕事遅れちゃいますよ。それ、さっき開けたばかりなんです。半日保つので、持って行ってください」
 駅から降りてすぐに開封したミニカイロ。カイロカバーは黒猫だ。
 頬に手を添えられ、彼が素手であるということに気がついた。仕事に行くときは、いつも革手袋を嵌めているのに……どうやら、部屋に忘れてしまったようだ。
 人一倍身なりを気遣っている彼にしては珍しい。それほど気がそぞろになっていたということだろうか。
「あーもう……なんでそんなに可愛いの……」
「え? ……わっ!」
 わたしの手の黒猫を捕まえると、葉月さんは再度わたしの体を抱き締めた。先ほどよりも緩い力で、全身を包み込むように。
「明日、大学午後からだよね?」
「はい」
「今夜、俺んに泊まってくれる?」
「……はい」
「帰ったら、起こしてもいい?」
「……は、い」
 耳元で囁く、花蜜のような葉月さんの声。
 その一音一音が、わたしの心臓をゆっくり溶かしていく。
「ありがとう、美波。大好きだよ」
「!! ……わたし、も……葉月さんが、大好きです」
 痛いくらい赤く染まったわたしの頬に軽く口づけると、葉月さんは足早に職場へと出かけていった。夕日に照らされたその背中を、見えなくなるまでずっと見送る。
 言葉にすればするほど、伝えれば伝えるほど、想いは膨れ上がる。自分の中に、こんなにも熱い情動があるなんて、思いもしなかった。
 こんな形の幸せがあるなんて。
 幸せの形が、見えるなんて——。
「ずっと一緒に、いたいなあ……」
 識らなかったものを識ったとき、人は貪欲になるということを識った。
 彼と一緒にいたい。彼と、離れたくない。
「……」
 こんなわたしでも、彼は望んでくれるだろうか。愚かで無力な、こんなわたしでも。
「……このままじゃだめ。迷惑、かけちゃう」 
 アイツに知れたら、何をされるかわからない。彼に迷惑をかけないために、早く解決策を見つけなければ。
 アイツが日本に帰ってくる前に。わたしが、大学を卒業する前に。
 ……でも。
「解決、できるのかな……わたしに」
 一陣の冷たい風が、身を切るようにヒュッと吹きつける。潤んだ赤いガラス玉が、西へ西へと傾いていく。
 頬の火照りは、いつの間にか消えていた。
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