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番外編
黒ウサギの策略・後編
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発情期が来たと思った王はやはり猫と生活を別にした。
ずっと私室に閉じ込められていた猫がいっときの自由を満喫した矢先のことだ。もう元のような閉じ込められた生活では満足できないだろう。それにずっとそばにいた大好きな王もおらず、かわりに気にくわない世話係が寝起きを共にするようになってしまった。そんな窮屈な毎日がこれから数ヵ月も続くのだ。考えただけでもうんざりしているに違いない。
王の状況を説明した際、フィリーはひとつ猫にお願いをした。
「これからは毎日毛繕いにいそしんでください」と。
毎夜王が風呂に入れせっせとブラッシングしていたため、猫は毛並みがよく抜け毛も少なかった。フィリーが知る限り毛玉を吐いたこともない。
だが王はいない。
かわりにフィリーが風呂に入れてやるべきなのかもしれないが、そこまで気を許されてはいないし、王とて望みはしないだろう。だから自分で手入れをするしかないのだと説明した。
猫はわかってくれたようだ。毛繕いをする姿は以前に比べたら格段に増え、フィリーはひそかにほくそ笑んだ。頑張ればそれだけ早く王に会えますよ、と心の中でささやいた。
そしてついにそのときが来た。
胃にたまった毛によって食欲が落ちてきたヒロキがいよいよそれを吐き出そうとしていた。
そうとは知らずフィリーの言付けに血相を変えた王が寝室にやって来た。
一緒についてきたガレウスに寝室から連れ出されたフィリーはそのまま私室から出ると腕を振り払い、近くの部屋に駆け込んだ。
そこにはメイド服に身を包んだアンバーと私服のジークレストがいた。二人とも不安そうな顔つきをしている。
「アンバー、引き受けてくれてありがとう。いよいよ君の出番だよ。手順は覚えているね?」
「ええ、フィリー。そのトレーを持って私室内に入り、床にこぼすのよね」
「息は?」
「なるべく止めていく」
フィリーは頷いた。緊張に身をこわばらせるアンバーをジークレストが横から支えている。
テーブルにあらかじめ用意しておいたトレーをアンバーに持たせた。ティーポットの蓋を持ち上げ、懐から出した小瓶の栓をゆるめる。
「息を大きく吸って」
「………っ」
アンバーが息を止めるのと同時に小瓶の中身をティーポットにすべて注ぎ入れた。部屋に撒いていたのより何倍も濃い、原液に近いものだ。イヌ科の獣人が一瞬で酩酊する強さにしてある。
ジークレストを残してアンバーにトレーを持たせ、私室へ戻った。入り口に立ち中の様子を伺っていたガレウスは、アンバーの様子に違和感を覚えたようだった。不振そうな眼差しをフィリーに向け「王医どのは?」というが、「ツガイさまは毛玉を吐いただけです。のどの炎症を押さえるお茶をお持ちします」と言うとだまって頷き道を開けた。
アンバーのみを室内に入れ、フィリーはその場に残った。扉を閉じると室内の物音はまったく聞こえなくなる。だが、フィリーのウサギ耳はかすかな音をとらえた。床に落ちたティーポットが割れる音だ。そしてかすかな話し声。
一気に緊張したフィリーの様子をそばに立つガレウスが食い入るように見つめている。
「──フィリー?」
「しぃっ!」
人差し指を口にあて、するどく制したとき、室内に閃光が走った。
閉じた扉の隙間から光とかすかな魔力の波動が漏れてきた。──誰かが転化したのだ。そして聞き覚えのない大声。
フィリーのからだに震えが走った。ヒロキだ。きっとそうに違いない!
「フィリー!」
張り上げる声と共にバァンッと扉が勢いよく開いた。見知らぬ白髪の青年が出てきて、フィリーに「ほいよろしく」と横抱きにしたアンバーを託してきた。
「…よくもやってくれたな」
ひそめた声でささやき、ジロリとにらまれた。オトシマエはつけてもらうと言われたが、フィリーにはよく意味がわからない。
ガレウスは目を見開き、まじまじと青年を見つめている。警護の騎士たちも息を呑んでいた。
そんなまわりの状況も意に介さず、青年はふてぶてしく全裸で仁王立ちしている。くあ、とあくびをした──間違いない。王の猫のヒロキだ。王が愛してやまないアメジストの瞳と、頭の上のピンクの猫耳がその証だ。フィリーの思い描いた通り作戦は成功し、ヒロキが無事人化したのだ。
その後ひと騒動あり私室が壊れたため、王とヒロキは駆けつけたザラスによって別室へ移された。
その部屋には例の匂い付けをしていないため、おそらく数時間で王は発情状態からさめるだろう。同じく匂い付けをしていない服を用意しつつフィリーはガレウスと共に浴室の入り口そばに控えていた。扉は開けてあるため中の声はすべて聞こえている。
そしてこの人化はフィリーが仕組んだものだとヒロキによって暴かれた。淡々と正しい推測を語る青年に内心舌を巻きつつすべてを正直に話した。
王はひたすら驚き、ときには眉をひそめ、そしてフィリーのしたことを認めてくれた。覚悟していた咎めは一切無いという。
覚悟はしていたものの、王に不問に処すと言われホッとしたのも事実だった。罰として人化したヒロキにもう会えなくなるのだけは避けたかったからだ。それでは作戦の意味がない。
横に立つガレウスからはずっと視線を感じていたが、顔をあげ、見返す勇気がフィリーにはなかった。
王からの処罰は無くなったものの、ヒロキは気がおさまらないと言ってガレウスに罰を与えるよう言いつけた。
予想外のことに瞠目するフィリーの横で「ははっ」と力強い返事があり、逃げる間もなく肩を抱かれて連れ出された。
「お待ちください、まだあの場に控えていなければ…」
「王は落ち着かれた」
「ですが」
「ツガイさまも二人きりでなさりたいお話があるのだろう」
しっしっと追い払うように手を振られたことを思いだし、言葉が続かない。
向かった先は王の私室やツガイの部屋からそう離れていない小部屋だった。王の寝室の半分ほどの広さのそこはベッドが一台と小さな丸いテーブルがひとつあるだけの、とても質素な雰囲気だった。
「ここは…」
「俺の部屋だ」
「えっ?」
てっきり空き部屋かと思った。それほど生活感のない部屋だった。私物は一切見当たらず、ベッドのシーツもしわひとつなくピンと張られ整えられている。
「座れ」
どこに?
あんなにきれいに整えられた寝具は見たこともない。その上に座ってしわを寄せるなど畏れ多くて、無理だ。
「いえ、立ったままで」
「座れ」
腕を組みアゴでベッドを示すガレウスに逆らえず、浅く腰を下ろした。なるべく体重をかけないようピンと背筋を伸ばす。
そして部屋に沈黙が降りた。
フィリーはガレウスからの言葉を待った。さきほど王たちに話すのを横で聞いていたのだから、フィリーのしたことはわかっているはずだ。
ちらりと上目に見ると腕を組んで無言で見下ろす視線とぶつかった。感情の色がいっさいない無表情だ。何を考えているのかさっぱりわからない。
この沈黙も罰のうちなのだろうか。ガレウスに睨まれたものはその恐怖から息もままならなくなる。目があっただけで飛び上がるものも多い。だが、フィリーはそういった思いに囚われたことはなかった。ずっと陰日向に見守られていたことには気づいている。
「なぜあんなことをした」
突然の問いに一瞬反応が遅れた。
「え?」
「おまえのしたことはわかった。だが、なぜそうまでしてツガイさまを人化させたかったんだ。世話係としての一線を越えてまでする必要があったのか?」
「あのままではいつまで経っても人化はしなかったと思います。ヒロキさまは猫として王に可愛がられることに非常に満足していて、それ以上の待遇は求めていないように見受けられましたので」
「王はツガイさまに運命を感じているようだが」
「ヒロキさまのほうはその実感は無いと思います。元ニンゲンですし、野生の本能が希薄なようですので」
「本能が希薄…」
「はい」
「…おまえも元ニンゲンなのか?」
「は?」
言われた意味がわからなかった。
「だから発情もせず、ツガイを探そうとしないのか?」
「なにを」
「まだラリーが忘れられないのか?」
「………」
「そうなのか、フィリー?」
なぜこんな流れになるのだ。話が脱線していっている。
「……私に罰を与えるのではなかったのですか?」
「これがそうだ」
「なんですって?」
「ずっと逃げ続けていた俺と本音で話をする。これがお前に与える罰だ」
ぽかんと見上げる。逃げ続けている? 僕が──誰から?
「とぼけるなフィリー。俺の思いにはとっくに気づいているはずだ」
「…なんの話ですか」
「お互いにずっと避けていた話だ」
眉をひそめて口を引き結んだ。そんな話しはしたくない。
「僕にはラリーがいます」
「いいやいない。ラリーは死んだ」
淡々と返されカッとなった。にらみつけるがガレウスは意に介していないようだ。
「なぜそうまでしてラリーにこだわる。運命の相手ではなかったのだろう」
「愛していましたから」
「過去形か」
「いいえ、今でも愛しています!」
声を張り上げるとピクリと相手のまなじりがひきつった。その体から怒気が立ち上るのを感じ、フィリーは一瞬満足感を得た。
「本当に?」
「本当です。…ラリーに何があったのかどうしても知りたいのです。そのために元ニンゲンであるヒロキさまのお知恵を拝借したいのです」
「どういうことだ」
「ニンゲンは我々より多くの知識をお持ちだそうです。だからラリーの症状にあった病について何か知っているのではないかと」
「知ってどうする。ラリーはもういないのだぞ」
「それでも! …知らなければならないのです。病か、あるいは他に原因があったのかを知るまでは、僕は…。……誰ともツガイにはなれません」
「他の原因?」
「……」
「なにを考えているかはっきり言え」
「毒を、盛られたのではないかと」
ガレウスはため息をついた。
「その可能性は低いと診察した医師や医務局の報告にあったが」
「われわれが知らない毒があるのかもしれません。それもヒロキさまに聞いてみたいのです」
「ツガイさまが知っているとは限らんだろう。……待て」
ガレウスが戸惑うように言葉を止めた。フィリーは緊張し膝の上で手を握りこんだ。
「毒だったとして、誰を疑ってるんだ。まさか──騎士団員か」
「………」
「そうなんだな? だからあのとき見張りや助けを拒んだ」
「……はい」
あのころラリーの生活は騎士団員として仕事をするかフィリーと家で過ごすかのどちらかだった。フィリーが作った食事以外で何かを口にしたとしたらそれは騎士団でのまかないだ。もしくは団支給の携帯食だ。あの日のラリーは森の見回りが仕事だった。
「仮に毒だったとして、なにか思い当たる理由があるのか?」
「ラリーは誰かに恨まれるようなやつじゃありません。でも…」
「でも?」
「僕にはたくさんの求愛者がいました。…こんなこと言ったらうぬぼれたやつだと思われるかもしれませんが、中にはかなりしつこいものもいたのです」
「…なるほど」
とガレウスが静かにつぶやいた。
「うぬぼれたやつだなんて思わないさ。この四年おまえを守り、そういうものを排除してきたのは他でもないこの俺だ。確かに結構な人数の恨みを買っている自覚はある。──だから誰にも心を開かないんだな」
「…僕には全員が容疑者に見えるのです。嬉しいなんて思えません」
「俺も容疑者のうちのひとりか」
「いいえ」
考えるより先に返事をしていた。ハッとして口を閉じたが言ってしまったことを無かったことにはできない。
「即答だな。なぜだ」
「それは…。わかりません」
「なぜわからん」
「わからないものはわからないのです。そう感じるとしか…」
「つまり、本能がそう告げるんだな?」
ガレウスが組んでいた腕をほどいた。一歩こちらへ近づく。そのたった一歩で距離を詰めてきた。
緊張して浅く掛けていた腰を後ろへずらすと、ガレウスが腰を折り至近距離から目をのぞきこんでくる。
「本能には逆らえん。そうだな、フィリー?」
「ガレウスさま」
「おまえは俺のツガイだ」
「!」
「俺の本能はそう告げている」
「僕は…僕には……」
「ラリーか。…今でも愛しているというのも気に食わんが仕方ない。死んだツガイを忘れられないのもおまえの愛情深さゆえだと理解している。だが」
ギラリと睨まれ、フィリーは息を呑んだ。
「それを理由におまえがおまえ自身を危うい立場に追い込むのを黙って見過ごすわけにはいかん。おまえは俺のツガイだ。絆を結んでいなくとも、本能はそう感じている」
「ガレウスさま…」
「心配するな。無理に関係を強いたりはしない。これまで通りおまえはおまえの好きなように生きればいい。だが、いかなる理由があろうと危険なことに手を出すのは許さん。本来なら王の健康を害するなど無処罰で済む話ではないぞ」
「……はい」
「今回はツガイさまの人化に尽力したとして恩赦が出た。だが、二度はない。わかっているか」
「はい。わかっております」
「これからもおまえは俺が守る。他のものからも、おまえ自身からも。いいな。──話は以上だ」
背を伸ばしたガレウスが一歩退いた。そのまま扉を開け、出ていいと頭を振って示す。
フィリーは無言で立ち上がった。体に力が入らずかすかにふらつく。その様子を扉に手をかけたままのガレウスがじっと見つめていた。
いろんなことを言われ過ぎて混乱しがちな頭を整理しなくてはなにも言えない。視線を浴びたまま黙って戸口を潜り抜けようとしていたときだった。静かに名を呼ばれ、立ち止まった。
「これからはしつこく言い寄るものに俺とツガイになったと言え」
息を呑み目を見張るフィリーにガレウスがニヤリと笑った。
「そうすれば一発で追い払える」
「………それは命令でしょうか」
「いいや。だが試す価値はあるぞ」
「……失礼します」
小走りでその場をあとにした。いつまでも視線が背中に突き刺さり、それに耐えられず最初の角を曲がった。しばらく入り組んだ城内をあてもなく走り続けた。
ついに言われた。
ガレウスの気持ちに気づいてから、いつかこういう日が来るのではないかと思っていたが、ガレウスがその胸のうちを明かすのはもっと先のことだと思っていた。なんの根拠もなく、ただ見守られ無言の平和をもたらし続けてくれると思っていた。そう願っていた。
そしていつかその日が来たらどうするのか、自分がどう感じるのかをずっと考えないようにしてきた。
いざそうなってみないことにはどうなるかわからなかったのもある。そしていま。
フィリーは立ち止まり、弾む息に胸を押さえた。苦しい。間近に迫ったガレウスの目には怒りと嫉妬と切望があった。強く睨まれ息を呑んだ、あのとき。
感じたのは恐怖ではなかった。
───それがフィリーには恐怖だった
ずっと私室に閉じ込められていた猫がいっときの自由を満喫した矢先のことだ。もう元のような閉じ込められた生活では満足できないだろう。それにずっとそばにいた大好きな王もおらず、かわりに気にくわない世話係が寝起きを共にするようになってしまった。そんな窮屈な毎日がこれから数ヵ月も続くのだ。考えただけでもうんざりしているに違いない。
王の状況を説明した際、フィリーはひとつ猫にお願いをした。
「これからは毎日毛繕いにいそしんでください」と。
毎夜王が風呂に入れせっせとブラッシングしていたため、猫は毛並みがよく抜け毛も少なかった。フィリーが知る限り毛玉を吐いたこともない。
だが王はいない。
かわりにフィリーが風呂に入れてやるべきなのかもしれないが、そこまで気を許されてはいないし、王とて望みはしないだろう。だから自分で手入れをするしかないのだと説明した。
猫はわかってくれたようだ。毛繕いをする姿は以前に比べたら格段に増え、フィリーはひそかにほくそ笑んだ。頑張ればそれだけ早く王に会えますよ、と心の中でささやいた。
そしてついにそのときが来た。
胃にたまった毛によって食欲が落ちてきたヒロキがいよいよそれを吐き出そうとしていた。
そうとは知らずフィリーの言付けに血相を変えた王が寝室にやって来た。
一緒についてきたガレウスに寝室から連れ出されたフィリーはそのまま私室から出ると腕を振り払い、近くの部屋に駆け込んだ。
そこにはメイド服に身を包んだアンバーと私服のジークレストがいた。二人とも不安そうな顔つきをしている。
「アンバー、引き受けてくれてありがとう。いよいよ君の出番だよ。手順は覚えているね?」
「ええ、フィリー。そのトレーを持って私室内に入り、床にこぼすのよね」
「息は?」
「なるべく止めていく」
フィリーは頷いた。緊張に身をこわばらせるアンバーをジークレストが横から支えている。
テーブルにあらかじめ用意しておいたトレーをアンバーに持たせた。ティーポットの蓋を持ち上げ、懐から出した小瓶の栓をゆるめる。
「息を大きく吸って」
「………っ」
アンバーが息を止めるのと同時に小瓶の中身をティーポットにすべて注ぎ入れた。部屋に撒いていたのより何倍も濃い、原液に近いものだ。イヌ科の獣人が一瞬で酩酊する強さにしてある。
ジークレストを残してアンバーにトレーを持たせ、私室へ戻った。入り口に立ち中の様子を伺っていたガレウスは、アンバーの様子に違和感を覚えたようだった。不振そうな眼差しをフィリーに向け「王医どのは?」というが、「ツガイさまは毛玉を吐いただけです。のどの炎症を押さえるお茶をお持ちします」と言うとだまって頷き道を開けた。
アンバーのみを室内に入れ、フィリーはその場に残った。扉を閉じると室内の物音はまったく聞こえなくなる。だが、フィリーのウサギ耳はかすかな音をとらえた。床に落ちたティーポットが割れる音だ。そしてかすかな話し声。
一気に緊張したフィリーの様子をそばに立つガレウスが食い入るように見つめている。
「──フィリー?」
「しぃっ!」
人差し指を口にあて、するどく制したとき、室内に閃光が走った。
閉じた扉の隙間から光とかすかな魔力の波動が漏れてきた。──誰かが転化したのだ。そして聞き覚えのない大声。
フィリーのからだに震えが走った。ヒロキだ。きっとそうに違いない!
「フィリー!」
張り上げる声と共にバァンッと扉が勢いよく開いた。見知らぬ白髪の青年が出てきて、フィリーに「ほいよろしく」と横抱きにしたアンバーを託してきた。
「…よくもやってくれたな」
ひそめた声でささやき、ジロリとにらまれた。オトシマエはつけてもらうと言われたが、フィリーにはよく意味がわからない。
ガレウスは目を見開き、まじまじと青年を見つめている。警護の騎士たちも息を呑んでいた。
そんなまわりの状況も意に介さず、青年はふてぶてしく全裸で仁王立ちしている。くあ、とあくびをした──間違いない。王の猫のヒロキだ。王が愛してやまないアメジストの瞳と、頭の上のピンクの猫耳がその証だ。フィリーの思い描いた通り作戦は成功し、ヒロキが無事人化したのだ。
その後ひと騒動あり私室が壊れたため、王とヒロキは駆けつけたザラスによって別室へ移された。
その部屋には例の匂い付けをしていないため、おそらく数時間で王は発情状態からさめるだろう。同じく匂い付けをしていない服を用意しつつフィリーはガレウスと共に浴室の入り口そばに控えていた。扉は開けてあるため中の声はすべて聞こえている。
そしてこの人化はフィリーが仕組んだものだとヒロキによって暴かれた。淡々と正しい推測を語る青年に内心舌を巻きつつすべてを正直に話した。
王はひたすら驚き、ときには眉をひそめ、そしてフィリーのしたことを認めてくれた。覚悟していた咎めは一切無いという。
覚悟はしていたものの、王に不問に処すと言われホッとしたのも事実だった。罰として人化したヒロキにもう会えなくなるのだけは避けたかったからだ。それでは作戦の意味がない。
横に立つガレウスからはずっと視線を感じていたが、顔をあげ、見返す勇気がフィリーにはなかった。
王からの処罰は無くなったものの、ヒロキは気がおさまらないと言ってガレウスに罰を与えるよう言いつけた。
予想外のことに瞠目するフィリーの横で「ははっ」と力強い返事があり、逃げる間もなく肩を抱かれて連れ出された。
「お待ちください、まだあの場に控えていなければ…」
「王は落ち着かれた」
「ですが」
「ツガイさまも二人きりでなさりたいお話があるのだろう」
しっしっと追い払うように手を振られたことを思いだし、言葉が続かない。
向かった先は王の私室やツガイの部屋からそう離れていない小部屋だった。王の寝室の半分ほどの広さのそこはベッドが一台と小さな丸いテーブルがひとつあるだけの、とても質素な雰囲気だった。
「ここは…」
「俺の部屋だ」
「えっ?」
てっきり空き部屋かと思った。それほど生活感のない部屋だった。私物は一切見当たらず、ベッドのシーツもしわひとつなくピンと張られ整えられている。
「座れ」
どこに?
あんなにきれいに整えられた寝具は見たこともない。その上に座ってしわを寄せるなど畏れ多くて、無理だ。
「いえ、立ったままで」
「座れ」
腕を組みアゴでベッドを示すガレウスに逆らえず、浅く腰を下ろした。なるべく体重をかけないようピンと背筋を伸ばす。
そして部屋に沈黙が降りた。
フィリーはガレウスからの言葉を待った。さきほど王たちに話すのを横で聞いていたのだから、フィリーのしたことはわかっているはずだ。
ちらりと上目に見ると腕を組んで無言で見下ろす視線とぶつかった。感情の色がいっさいない無表情だ。何を考えているのかさっぱりわからない。
この沈黙も罰のうちなのだろうか。ガレウスに睨まれたものはその恐怖から息もままならなくなる。目があっただけで飛び上がるものも多い。だが、フィリーはそういった思いに囚われたことはなかった。ずっと陰日向に見守られていたことには気づいている。
「なぜあんなことをした」
突然の問いに一瞬反応が遅れた。
「え?」
「おまえのしたことはわかった。だが、なぜそうまでしてツガイさまを人化させたかったんだ。世話係としての一線を越えてまでする必要があったのか?」
「あのままではいつまで経っても人化はしなかったと思います。ヒロキさまは猫として王に可愛がられることに非常に満足していて、それ以上の待遇は求めていないように見受けられましたので」
「王はツガイさまに運命を感じているようだが」
「ヒロキさまのほうはその実感は無いと思います。元ニンゲンですし、野生の本能が希薄なようですので」
「本能が希薄…」
「はい」
「…おまえも元ニンゲンなのか?」
「は?」
言われた意味がわからなかった。
「だから発情もせず、ツガイを探そうとしないのか?」
「なにを」
「まだラリーが忘れられないのか?」
「………」
「そうなのか、フィリー?」
なぜこんな流れになるのだ。話が脱線していっている。
「……私に罰を与えるのではなかったのですか?」
「これがそうだ」
「なんですって?」
「ずっと逃げ続けていた俺と本音で話をする。これがお前に与える罰だ」
ぽかんと見上げる。逃げ続けている? 僕が──誰から?
「とぼけるなフィリー。俺の思いにはとっくに気づいているはずだ」
「…なんの話ですか」
「お互いにずっと避けていた話だ」
眉をひそめて口を引き結んだ。そんな話しはしたくない。
「僕にはラリーがいます」
「いいやいない。ラリーは死んだ」
淡々と返されカッとなった。にらみつけるがガレウスは意に介していないようだ。
「なぜそうまでしてラリーにこだわる。運命の相手ではなかったのだろう」
「愛していましたから」
「過去形か」
「いいえ、今でも愛しています!」
声を張り上げるとピクリと相手のまなじりがひきつった。その体から怒気が立ち上るのを感じ、フィリーは一瞬満足感を得た。
「本当に?」
「本当です。…ラリーに何があったのかどうしても知りたいのです。そのために元ニンゲンであるヒロキさまのお知恵を拝借したいのです」
「どういうことだ」
「ニンゲンは我々より多くの知識をお持ちだそうです。だからラリーの症状にあった病について何か知っているのではないかと」
「知ってどうする。ラリーはもういないのだぞ」
「それでも! …知らなければならないのです。病か、あるいは他に原因があったのかを知るまでは、僕は…。……誰ともツガイにはなれません」
「他の原因?」
「……」
「なにを考えているかはっきり言え」
「毒を、盛られたのではないかと」
ガレウスはため息をついた。
「その可能性は低いと診察した医師や医務局の報告にあったが」
「われわれが知らない毒があるのかもしれません。それもヒロキさまに聞いてみたいのです」
「ツガイさまが知っているとは限らんだろう。……待て」
ガレウスが戸惑うように言葉を止めた。フィリーは緊張し膝の上で手を握りこんだ。
「毒だったとして、誰を疑ってるんだ。まさか──騎士団員か」
「………」
「そうなんだな? だからあのとき見張りや助けを拒んだ」
「……はい」
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「仮に毒だったとして、なにか思い当たる理由があるのか?」
「ラリーは誰かに恨まれるようなやつじゃありません。でも…」
「でも?」
「僕にはたくさんの求愛者がいました。…こんなこと言ったらうぬぼれたやつだと思われるかもしれませんが、中にはかなりしつこいものもいたのです」
「…なるほど」
とガレウスが静かにつぶやいた。
「うぬぼれたやつだなんて思わないさ。この四年おまえを守り、そういうものを排除してきたのは他でもないこの俺だ。確かに結構な人数の恨みを買っている自覚はある。──だから誰にも心を開かないんだな」
「…僕には全員が容疑者に見えるのです。嬉しいなんて思えません」
「俺も容疑者のうちのひとりか」
「いいえ」
考えるより先に返事をしていた。ハッとして口を閉じたが言ってしまったことを無かったことにはできない。
「即答だな。なぜだ」
「それは…。わかりません」
「なぜわからん」
「わからないものはわからないのです。そう感じるとしか…」
「つまり、本能がそう告げるんだな?」
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「!」
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「ラリーか。…今でも愛しているというのも気に食わんが仕方ない。死んだツガイを忘れられないのもおまえの愛情深さゆえだと理解している。だが」
ギラリと睨まれ、フィリーは息を呑んだ。
「それを理由におまえがおまえ自身を危うい立場に追い込むのを黙って見過ごすわけにはいかん。おまえは俺のツガイだ。絆を結んでいなくとも、本能はそう感じている」
「ガレウスさま…」
「心配するな。無理に関係を強いたりはしない。これまで通りおまえはおまえの好きなように生きればいい。だが、いかなる理由があろうと危険なことに手を出すのは許さん。本来なら王の健康を害するなど無処罰で済む話ではないぞ」
「……はい」
「今回はツガイさまの人化に尽力したとして恩赦が出た。だが、二度はない。わかっているか」
「はい。わかっております」
「これからもおまえは俺が守る。他のものからも、おまえ自身からも。いいな。──話は以上だ」
背を伸ばしたガレウスが一歩退いた。そのまま扉を開け、出ていいと頭を振って示す。
フィリーは無言で立ち上がった。体に力が入らずかすかにふらつく。その様子を扉に手をかけたままのガレウスがじっと見つめていた。
いろんなことを言われ過ぎて混乱しがちな頭を整理しなくてはなにも言えない。視線を浴びたまま黙って戸口を潜り抜けようとしていたときだった。静かに名を呼ばれ、立ち止まった。
「これからはしつこく言い寄るものに俺とツガイになったと言え」
息を呑み目を見張るフィリーにガレウスがニヤリと笑った。
「そうすれば一発で追い払える」
「………それは命令でしょうか」
「いいや。だが試す価値はあるぞ」
「……失礼します」
小走りでその場をあとにした。いつまでも視線が背中に突き刺さり、それに耐えられず最初の角を曲がった。しばらく入り組んだ城内をあてもなく走り続けた。
ついに言われた。
ガレウスの気持ちに気づいてから、いつかこういう日が来るのではないかと思っていたが、ガレウスがその胸のうちを明かすのはもっと先のことだと思っていた。なんの根拠もなく、ただ見守られ無言の平和をもたらし続けてくれると思っていた。そう願っていた。
そしていつかその日が来たらどうするのか、自分がどう感じるのかをずっと考えないようにしてきた。
いざそうなってみないことにはどうなるかわからなかったのもある。そしていま。
フィリーは立ち止まり、弾む息に胸を押さえた。苦しい。間近に迫ったガレウスの目には怒りと嫉妬と切望があった。強く睨まれ息を呑んだ、あのとき。
感じたのは恐怖ではなかった。
───それがフィリーには恐怖だった
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