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プロローグ
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重たい…重たい…
ずるり、ずるりとひきずりすぎて、大きな袋は破れてしまった。
その穴からまるで道標のように、愛らしい表紙に彩られた本がこぼれていく。
薄暗い森の中、ひとりの白い少女が息を乱しながら歩く。
重たい…重たい…
ここを行けば、もうすぐ街があるはず。
わたしはそこへ行かなくちゃ…。
「はぁ…はぁ…」
もう少し…もう少し…。
わたしはさすがに疲れて座り込んでしまった。
はためくマントの大きな影にびっくりして、地面にいた虫たちが逃げまどう。
その虫たちを、疲れ切った虚ろな目で見送っていると、
そこではじめて、わたしは自分の呼吸の間に間に、誰かの足音が聞こえているのを知った。
「―――何してるの?」
そう声をかけられて振り返ってみると、
ダークブルーのぼさぼさのショートヘア。
簡易な服で、半袖半ズボン。
剥き出しの手足には切り傷と絆創膏。
その傷だらけの腕の中に抱えられていたのは、わたしがひきずってきた袋の中身の本だった。
彼はずっと後ろにいて、本を拾いながらわたしについてきていたらしい。
「はぁ……はっ…」
わたしは彼の問いには答えられなかった。
呼吸が乱れ、喉はカラカラで、うまく言葉が出せなかった。
男の子はわたしの隣に座り、目の前の木のてっぺんを見ながら無邪気に笑い、問いを変えた。
「んー、じゃあどこから来たの?」
わたしは何とか答えようと辺りを見回す。
こんな森の中だから当然、小枝がたくさん散乱している。
わたしはその中の一本を拾うと、土に突き立て、抉り、書く。
゛黄泉国”
たしか、わたしの故郷はこんな名前だったはず。
しかし男の子はそれを見て、人差し指を口に少し含み、
んー、と首を傾げて考え込んだ。
そして、男の子は言った。
「ねぇ、どこから来たの?」
同じ問い。
わたしはそこでようやく、朦朧としていた意識からハッと覚めた。
―――金星の人は、漢字が読めないんだった。
わたしは慌てて少なくなっている袋の中身を探り、適当に一冊手に取り、開く。
愛らしい表紙には、大きくはっきりした文字で『カタカナ3サイヨウ』と書いてあった。
わたしはカタカナを知らないから。
それを見ながら、さっき書いた文字の上にカタカナで読み仮名を書く。
゛黄泉国”
わたしのその一連の様子を見ていた男の子は、あはははと笑った。
わたしがその様子を不思議そうに見ていると、彼は笑いながら言う。
「きみって何歳ー?」
わたしの呼吸は整いつつある。
今のわたしなら、ちゃんと彼の問いに答えられそうだ。
わたしはもう一度呼吸を整えてから、
「わたし…9歳…」
そう、答えた。
たったそれだけのことなのに、それを聞いた男の子は
今度はお腹を抱えて笑い出した。
「9歳?あははははは!ぼくと同い年なのにそんなカタカナも知らないんだー!あっははははは!」
わたしはちょっとムッとした。
わたしとあなたは住んでる場所が違うのっ!
あなただって漢字知らないくせにっ!
―――なんて、笑い転げまわる男の子を前に、疲れ切ったわたしがそんなこと言えるわけもなく。
しばらくそんな彼の様子を、ちょっと不機嫌に眺めることしかできない。
―――と、男の子の後ろの木陰から、黒くてもじゃっとしているものが見えた。
「ねぇ―――っ!」
わたしは叫んだ。
しかし男の子はへらっとした笑みを浮かべたまま、呆けた顔でわたしを見る。
呆けた彼と、焦ったわたしの視線が交差する刹那。
木陰から大きな゛影”が男の子にとびかかってきた。
艶のある黒い体毛。
鋭い牙。
大きく赤い口。
大きな―――黒い狼。
その恐ろしい獣は、何にも気づいていない男の子を残酷に、無残に噛み千切る。
腕を、脚を、腹を、胸を、そして―――首を。
悲鳴さえなく、ただただ貪り食われていく。
さっきまでわたしと言葉を交わし、そこで笑い転げていた男の子が。
ただの赤い水たまりに変わっていく―――。
バサバサとその水たまりに、彼が抱えていた本が落ち、同じ色に染まっていく。
男の子も、本も、狼も、わたしも―――全部全部赤く染まっていく。
わたしはただ無力に、絶望の眼差しでその様子に射止めていた。
やがて、狼はお腹いっぱいになったのか、しっぽを振りながら森の中へと消えた。
口の端から赤い雫を滴らせながら。
袋から本を零していたわたしのように。
わたしは男の子がいた場所を見る。
ぼさぼさ頭の男の子はもうそこにはいないけれど。
深紅の湖が広がっているだけだけど。
絆創膏の貼られた腕が転がっているだけだけど。
―――心臓が、目の前にあるけれど。
わたしはその心臓に手を伸ばす。
血管は千切られ、それはもう動いてないけれど、まだ温かかった。
あぁ、どうか。
わたしができそこないでないなら。
天よ。この願いを叶えてください。
どうか。
あの男の子がもう一度笑える世界を―――もう誰も大切な人を失いませんように―――
わたしは白く長いマントを血の海に濡らしながら、
ずっとずっと願い続けた―――。
ずるり、ずるりとひきずりすぎて、大きな袋は破れてしまった。
その穴からまるで道標のように、愛らしい表紙に彩られた本がこぼれていく。
薄暗い森の中、ひとりの白い少女が息を乱しながら歩く。
重たい…重たい…
ここを行けば、もうすぐ街があるはず。
わたしはそこへ行かなくちゃ…。
「はぁ…はぁ…」
もう少し…もう少し…。
わたしはさすがに疲れて座り込んでしまった。
はためくマントの大きな影にびっくりして、地面にいた虫たちが逃げまどう。
その虫たちを、疲れ切った虚ろな目で見送っていると、
そこではじめて、わたしは自分の呼吸の間に間に、誰かの足音が聞こえているのを知った。
「―――何してるの?」
そう声をかけられて振り返ってみると、
ダークブルーのぼさぼさのショートヘア。
簡易な服で、半袖半ズボン。
剥き出しの手足には切り傷と絆創膏。
その傷だらけの腕の中に抱えられていたのは、わたしがひきずってきた袋の中身の本だった。
彼はずっと後ろにいて、本を拾いながらわたしについてきていたらしい。
「はぁ……はっ…」
わたしは彼の問いには答えられなかった。
呼吸が乱れ、喉はカラカラで、うまく言葉が出せなかった。
男の子はわたしの隣に座り、目の前の木のてっぺんを見ながら無邪気に笑い、問いを変えた。
「んー、じゃあどこから来たの?」
わたしは何とか答えようと辺りを見回す。
こんな森の中だから当然、小枝がたくさん散乱している。
わたしはその中の一本を拾うと、土に突き立て、抉り、書く。
゛黄泉国”
たしか、わたしの故郷はこんな名前だったはず。
しかし男の子はそれを見て、人差し指を口に少し含み、
んー、と首を傾げて考え込んだ。
そして、男の子は言った。
「ねぇ、どこから来たの?」
同じ問い。
わたしはそこでようやく、朦朧としていた意識からハッと覚めた。
―――金星の人は、漢字が読めないんだった。
わたしは慌てて少なくなっている袋の中身を探り、適当に一冊手に取り、開く。
愛らしい表紙には、大きくはっきりした文字で『カタカナ3サイヨウ』と書いてあった。
わたしはカタカナを知らないから。
それを見ながら、さっき書いた文字の上にカタカナで読み仮名を書く。
゛黄泉国”
わたしのその一連の様子を見ていた男の子は、あはははと笑った。
わたしがその様子を不思議そうに見ていると、彼は笑いながら言う。
「きみって何歳ー?」
わたしの呼吸は整いつつある。
今のわたしなら、ちゃんと彼の問いに答えられそうだ。
わたしはもう一度呼吸を整えてから、
「わたし…9歳…」
そう、答えた。
たったそれだけのことなのに、それを聞いた男の子は
今度はお腹を抱えて笑い出した。
「9歳?あははははは!ぼくと同い年なのにそんなカタカナも知らないんだー!あっははははは!」
わたしはちょっとムッとした。
わたしとあなたは住んでる場所が違うのっ!
あなただって漢字知らないくせにっ!
―――なんて、笑い転げまわる男の子を前に、疲れ切ったわたしがそんなこと言えるわけもなく。
しばらくそんな彼の様子を、ちょっと不機嫌に眺めることしかできない。
―――と、男の子の後ろの木陰から、黒くてもじゃっとしているものが見えた。
「ねぇ―――っ!」
わたしは叫んだ。
しかし男の子はへらっとした笑みを浮かべたまま、呆けた顔でわたしを見る。
呆けた彼と、焦ったわたしの視線が交差する刹那。
木陰から大きな゛影”が男の子にとびかかってきた。
艶のある黒い体毛。
鋭い牙。
大きく赤い口。
大きな―――黒い狼。
その恐ろしい獣は、何にも気づいていない男の子を残酷に、無残に噛み千切る。
腕を、脚を、腹を、胸を、そして―――首を。
悲鳴さえなく、ただただ貪り食われていく。
さっきまでわたしと言葉を交わし、そこで笑い転げていた男の子が。
ただの赤い水たまりに変わっていく―――。
バサバサとその水たまりに、彼が抱えていた本が落ち、同じ色に染まっていく。
男の子も、本も、狼も、わたしも―――全部全部赤く染まっていく。
わたしはただ無力に、絶望の眼差しでその様子に射止めていた。
やがて、狼はお腹いっぱいになったのか、しっぽを振りながら森の中へと消えた。
口の端から赤い雫を滴らせながら。
袋から本を零していたわたしのように。
わたしは男の子がいた場所を見る。
ぼさぼさ頭の男の子はもうそこにはいないけれど。
深紅の湖が広がっているだけだけど。
絆創膏の貼られた腕が転がっているだけだけど。
―――心臓が、目の前にあるけれど。
わたしはその心臓に手を伸ばす。
血管は千切られ、それはもう動いてないけれど、まだ温かかった。
あぁ、どうか。
わたしができそこないでないなら。
天よ。この願いを叶えてください。
どうか。
あの男の子がもう一度笑える世界を―――もう誰も大切な人を失いませんように―――
わたしは白く長いマントを血の海に濡らしながら、
ずっとずっと願い続けた―――。
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