ふたつの嘘

noriko

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ふたつのしあわせ

ふたつのしあわせ 2

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しかし、現実はそんなに甘くなかった。
僅かに残った、映画の1シーンのような断片的な記憶は、あまりにも細かすぎて繋がらない。
だから、ほとんど意味がなかった。
わけのわからないいくつかの映像はおそらく、必要がなければ徐々に薄れていくだろう。
それはつまり、時間が経つほど、記憶は0に近づくということ。
もう、諦めるしかないのか。


僕は、ため息をついた。
外に出れば何か刺激があって、思い出せたりするだろうか。
でも、僕はいつになったら出歩けるのかわからない。
体はまだ軋む。
腕を見ると、包帯が巻かれて、固定されていた。
折れてる?
そうでないにしろ、完治に時間はかかりそうだ。
足もおそらく、そんな感じだろうか。
「思い出せたところで、どうにかなるのかな」
僕が大助の悪い想像とおり、誰かに狙われているのなら、今までの記憶があったって意味はない。
もしかしたら、邪魔なものにさえなるかもしれない。
そもそも、こんなボロボロの身体にされているんだ、思い出さない方が自分のためですらあるかもしれない。


窓の外は、もう暗かった。
随分寝ていたつもりだったが、そんなこともなかったようだ。
少し、肌寒い。
窓が閉まっているから、風が吹いてくる訳じゃないのに。
今は冬なのか、それとも寒い地方なのか。
窓からは、月が丁度見えて綺麗だった。
ぼんやりと、光が見える。
ベランダには、控えめな葉をつける植物が見えた。

ぼんやりと周囲を見回しているとき、控えめなノックが聞こえた。
「はい」
「起こしてしまいましたか?」
ドアを開けたのは、恵さんだった。
「いいえ、さっき起きました」
「それはよかったです。先ほど重湯を準備してもらったので」
手には、お椀を乗せたトレーを持っていた。

「すみません、こんなに遅くまで……」
「かまいませんよ。乗りかかった船といいますか」
特に苦でもない、というように微笑む。
きっとものすごく親切で、心の優しい人なのだろう。
「食べられますか?」
「はい、少し、いただきます」
「わかりました。では、すこし起こしますので。痛かったらおっしゃってください」

そう言って、僕の背中を支える。
ベッドの頭を上げて、背もたれを作った。
「ありがとう、ございます」
「気にしないでください。あなたは治すのが仕事ですから」
彼は手際よく、僕の髪を束ねた。
「あの、すごく、なれていらっしゃいますね」
そう言うと、彼は天井を見上げてから。
「たしかにそうですね」
とだけ返した。
「でも、早めに切りたいです、この髪の毛。」
「あら。折角綺麗に伸びてるのに勿体ない」
「鬱陶しいのもあるので」
「そうですねえ。特に前髪なんか」
少なくとも僕は好きでのばしてるわけじゃないけれど、やっぱり実際鬱陶しいと言われると、ちょっと傷ついた。

隣にある丸いすに座った彼は、丁度良さそうな温度の重湯を少量、レンゲにとった。
「無理はしなくていいけど、食べてみてください」
口にしてみると、今の僕には丁度良かった。
やさしい薄味も、その温かさも。
でも、食べさせてもらうのはとても恥ずかしかった。
「ありがとうございます、恵さん」
「無理しないでくださいね」
「はい……おいしいです」
「よかったです」
眼鏡の奥で、目を細める。

「あの、恵さん」
「何でしょう?」
「ここって、どこでしょうか」
「どうしていきなり?」
「寒かったので……」
「寒いですか。毛布を増やしてもらいますね。ここは北部……とはいえ暖かい方ですが。3月なのでまだ少し肌寒いかもしれません」
「北部……どうりで寒いわけですね」
「そのあたりは覚えているんですね」
「一般的な情報は、覚えているみたいです」
「そうですか。……それでは、例えば河関グループのことは何か?」
「いえ……河関って、大助の名字ですよね。彼、やっぱりすごいお金持ちなんですか?」
その言葉に、彼は目を丸くする。
「北部は覚えてて、河関グループのことはさっぱりですか」
その言葉に、僕は首をかしげる。
「そんなに有名なんですか?」
「はい。北部に拠点を置く国内屈指のグループ企業です。製造業から金融、サービス、などなど手広く展開していて、資本金は…」
「ああ、えっと、細かいことはいいです。お詳しいですね」
「サラリーマンですからね」
そういうものだろうか。
しかし、それで納得した。
「つまり、大助はそこの御曹司……」
「そういうことです」
どうりで、こんなに広い部屋に、怪我人を簡単にかくまえるわけだ。
しかし、大助はそんな御曹司でも、僕はいまいちこの生活にピンと来ていない。
万が一ここの生活に慣れたら、これから先どうすればいいんだ。
なにより、僕には場違いじゃないだろうか?
「僕、こんなところにいてもいいんですかね」
僕をかくまって、何のメリットがあるだろう。
「大助君がいいというなら、いいのではないでしょうか。北部は寒いけど、治安はいいですし」
出て行くにしても、この身体じゃむりでしょうけど――彼はそう言って、僕の口にレンゲを運ぶ。
「僕の体、どうなんですか」
「とりあえず、けっこうな重傷ということです。3ヶ月は安静にしなさいとお医者様が」
「3ヶ月……」
3ヶ月後、僕にはどれだけの新しい記憶が刻まれているだろう。
……どれだけの、古い記憶が残されているだろう。
「なにか、思い詰めてるんですか?」
茶碗には、もうお粥がのこっていない。
最後のひとくち。
「記憶は、ずっと戻らないんでしょうか」
「さあ、どうでしょう」
きっと、あなた次第ですね。
彼はそういって、茶碗を机に置いた。


「ごちそうさまでした」
「だんだん、ちゃんとしたものに変えていくそうです」
「はい」
彼は優しく笑った。
「それじゃ、また明日」
音も立てず、上品な物腰で彼は立ち上がる。
「あの、恵さん」
僕に背を向けた恵さんは、振り返る。
「ありがとうございます。こんなに、優しくしてくれて。――あの、はじめに、通りがかったって言われてましたけど、それだけでどうしてこんなに、よくしてくれるんですか」
それは、素直な疑問だった。
通りがかっただけで、見ず知らずの人間にここまでよくしてくれるものなのだろうか。
それに、普通の会社員にしては、大助と親しい気がしたし。

彼はまた、少し天井を見上げる。
「そうですねえ。……あなたがとても、私の大切な人に似ていたもので」
背広を靡かせて部屋を去る。
少し、寂しそうな表情で。
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