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第二章
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僕は巽から目を逸らして、ぼそぼそと小さな声で答える。
「無理とかは、ないけど……食事をするだけなら」
「本当ですか? 嬉しいな、では次回はいつにしましょうか」
「え、次回?」
「今週末の予定は空いていますか」
「予定はない、けど……」
「では週末は空けておいてください。詳細については、またメッセージを送ります」
言葉巧みに連絡先を交換させられることになってしまった。連絡先一覧に森栄巽の名前が追加されて、おかしなことになったなあと頭を掻く。
スマホ画面の表示を見ると、すでに九時近くになっていた。流石にそろそろ帰らないと、彼の息子と出くわしてしまいそうだ。
「もう帰るよ、ご馳走様でした」
「お粗末さまでした……名残惜しいですね、気をつけてお帰りください」
鞄を持って立ち上がると、巽も玄関先までついてくる。靴を履いて玄関の扉に手をかけると、肩に手を置かれたので振り返った。
「なに……んっ!?」
唇が熱いモノに塞がれた。ぬるりと下唇を撫でた舌は、チュッとリップ音を響かせて離れていく。
「んな……っ、いきなり何するんだ!」
「失礼、美味しそうな欠片が唇の端に残っていましたので」
「だったら言ってくれればいいのに」
巽は自身の唇を見せつけるようにゆっくり舐めると、企むように微笑んだ。
「貴方にキスができるチャンスを、私が逃すとでも?」
「な、何を言ってるんだお前は! もう帰るからな」
「ええ。またお会いできる日を楽しみにしております」
巽に見送られて家を後にする。ああ、調子が狂うなあ。ゴシゴシと袖で唇を拭って、街灯の白い光の下を早足で歩く。
歩いていると、スマホのバイブがポケットの中で響いた。和泉からだろうかと取り出すと、そこには森栄巽の名前があった。
「……っ」
送ってくるのが早すぎる。無視しようかと一瞬黒い気持ちになったものの、忘れ物でもしたのだろうかと心配になり、結局はメッセージを開いた。
『郁巳さん、本日は夢のように素敵な時間をありがとうございました。週末は期待していてくださいね。おやすみなさい』
たったそれだけの短文だったが、期待という文字を見て、またしても巽の艶姿が脳裏に蘇り、慌てて頭を振った。
一体僕はどうしてしまったんだろう。まるで巽に新しい扉でも開けられたみたいに、彼との行為が気になってしょうがない。思考を振り切るように足を踏み出して、家路を急いだ。
**4**
平日、仕事が忙しい間は巽のことを忘れていられたし、和泉と話をしている時も気にせずにいられた。
けれどひとたび一人の時間になると、巽のことを思い出してしまう。そしてそのタイミングで狙ったようにメッセージが来るのだ。
『郁巳さんは中華はお好きでしょうか、それとも和食派ですか?』
簡単な問いかけを前に、メッセージ画面を睨むようにして、もう何十分も考えこんでいる。
巽はどういうつもりで僕に声をかけているんだろう。まさか僕に本気で惚れている?
顔はいい自覚があるが、それ以外の取り柄なんてそんなにない僕に、どうしてこんなにも関わってくるのだろう。
「夏葉……どうしたらいいと思う?」
自室の机に飾ってある亡き妻の写真に尋ねると、記憶の中の彼女はこう答えた。
『アンタの心のままに生きなよ。私のことなんていつまでも引きずらないでよね?』
夏葉はバイタリティに溢れる女性だった。どんな大変な状況でも根性とごり押しでやり遂げる彼女の姿に、慄きながらも尊敬の気持ちを抱いていた。
しかし仕事に家事に育児と頑張りすぎたのだろう、和泉が十歳の時にガンを患い、気づいた時には身体中に転移が進んでいて手遅れだった。
灰になって空に昇っていく彼女を、呆然としながら見送った。それからは悲しむ暇もないくらいに、怒涛の日々が過ぎ去った。
慣れない家事を和泉と二人でこなし、仕事量を調整して折り合いをつけ、なんとかここまでやってきたんだ。
「……最後までお前は前向きで明るくて……いい女だったよな」
もう八年経った、されどたった八年という気もする。七回忌を終えてからは、やっと前を向いて歩こうと気持ちを切り替えられた。
それでも再婚だとか、新しい恋人だとか、そういうことは微塵も考えていなかった。夏菜だけでいい。彼女が一生分、僕のことを愛してくれた。
だったら僕も、例え彼女が望んでいなかったとしても、一生彼女を愛し続けたいと思っていた。
それを、あの男が突然踏み越えてきたのだ。嵐のように僕の体を奪って、これまでの常識を一変してしまった。
僕はこれ以上幸せになる気なんて毛頭ないのに……そんな資格なんてないのに、迫ってこられて大いに困っている。
そう、僕は困っているんだ。慣れ親しんだ日常を崩されて嫌なんだ、なのに律儀にメッセージを返そうと悩んでいる自分に混乱した。
(いやでも、突然返信しなくなるとか、社会人としてどうかと思うよな?)
別に客とか取引相手じゃないんだから、無視したっていいのかもしれない。だけど一度は食事に行くと言ってしまった手前、ちゃんと返事はしなきゃと回答を捻り出す。
「……中華かな」
返信を送って、スマホをベッドの脇に置いた。もう、なるようになれだ。
巽のことを考えるとどうしても気持ちが落ち着かないので、和泉が面白いと言っていたゲームアプリをダウンロードして、時間を潰すことにした。
「無理とかは、ないけど……食事をするだけなら」
「本当ですか? 嬉しいな、では次回はいつにしましょうか」
「え、次回?」
「今週末の予定は空いていますか」
「予定はない、けど……」
「では週末は空けておいてください。詳細については、またメッセージを送ります」
言葉巧みに連絡先を交換させられることになってしまった。連絡先一覧に森栄巽の名前が追加されて、おかしなことになったなあと頭を掻く。
スマホ画面の表示を見ると、すでに九時近くになっていた。流石にそろそろ帰らないと、彼の息子と出くわしてしまいそうだ。
「もう帰るよ、ご馳走様でした」
「お粗末さまでした……名残惜しいですね、気をつけてお帰りください」
鞄を持って立ち上がると、巽も玄関先までついてくる。靴を履いて玄関の扉に手をかけると、肩に手を置かれたので振り返った。
「なに……んっ!?」
唇が熱いモノに塞がれた。ぬるりと下唇を撫でた舌は、チュッとリップ音を響かせて離れていく。
「んな……っ、いきなり何するんだ!」
「失礼、美味しそうな欠片が唇の端に残っていましたので」
「だったら言ってくれればいいのに」
巽は自身の唇を見せつけるようにゆっくり舐めると、企むように微笑んだ。
「貴方にキスができるチャンスを、私が逃すとでも?」
「な、何を言ってるんだお前は! もう帰るからな」
「ええ。またお会いできる日を楽しみにしております」
巽に見送られて家を後にする。ああ、調子が狂うなあ。ゴシゴシと袖で唇を拭って、街灯の白い光の下を早足で歩く。
歩いていると、スマホのバイブがポケットの中で響いた。和泉からだろうかと取り出すと、そこには森栄巽の名前があった。
「……っ」
送ってくるのが早すぎる。無視しようかと一瞬黒い気持ちになったものの、忘れ物でもしたのだろうかと心配になり、結局はメッセージを開いた。
『郁巳さん、本日は夢のように素敵な時間をありがとうございました。週末は期待していてくださいね。おやすみなさい』
たったそれだけの短文だったが、期待という文字を見て、またしても巽の艶姿が脳裏に蘇り、慌てて頭を振った。
一体僕はどうしてしまったんだろう。まるで巽に新しい扉でも開けられたみたいに、彼との行為が気になってしょうがない。思考を振り切るように足を踏み出して、家路を急いだ。
**4**
平日、仕事が忙しい間は巽のことを忘れていられたし、和泉と話をしている時も気にせずにいられた。
けれどひとたび一人の時間になると、巽のことを思い出してしまう。そしてそのタイミングで狙ったようにメッセージが来るのだ。
『郁巳さんは中華はお好きでしょうか、それとも和食派ですか?』
簡単な問いかけを前に、メッセージ画面を睨むようにして、もう何十分も考えこんでいる。
巽はどういうつもりで僕に声をかけているんだろう。まさか僕に本気で惚れている?
顔はいい自覚があるが、それ以外の取り柄なんてそんなにない僕に、どうしてこんなにも関わってくるのだろう。
「夏葉……どうしたらいいと思う?」
自室の机に飾ってある亡き妻の写真に尋ねると、記憶の中の彼女はこう答えた。
『アンタの心のままに生きなよ。私のことなんていつまでも引きずらないでよね?』
夏葉はバイタリティに溢れる女性だった。どんな大変な状況でも根性とごり押しでやり遂げる彼女の姿に、慄きながらも尊敬の気持ちを抱いていた。
しかし仕事に家事に育児と頑張りすぎたのだろう、和泉が十歳の時にガンを患い、気づいた時には身体中に転移が進んでいて手遅れだった。
灰になって空に昇っていく彼女を、呆然としながら見送った。それからは悲しむ暇もないくらいに、怒涛の日々が過ぎ去った。
慣れない家事を和泉と二人でこなし、仕事量を調整して折り合いをつけ、なんとかここまでやってきたんだ。
「……最後までお前は前向きで明るくて……いい女だったよな」
もう八年経った、されどたった八年という気もする。七回忌を終えてからは、やっと前を向いて歩こうと気持ちを切り替えられた。
それでも再婚だとか、新しい恋人だとか、そういうことは微塵も考えていなかった。夏菜だけでいい。彼女が一生分、僕のことを愛してくれた。
だったら僕も、例え彼女が望んでいなかったとしても、一生彼女を愛し続けたいと思っていた。
それを、あの男が突然踏み越えてきたのだ。嵐のように僕の体を奪って、これまでの常識を一変してしまった。
僕はこれ以上幸せになる気なんて毛頭ないのに……そんな資格なんてないのに、迫ってこられて大いに困っている。
そう、僕は困っているんだ。慣れ親しんだ日常を崩されて嫌なんだ、なのに律儀にメッセージを返そうと悩んでいる自分に混乱した。
(いやでも、突然返信しなくなるとか、社会人としてどうかと思うよな?)
別に客とか取引相手じゃないんだから、無視したっていいのかもしれない。だけど一度は食事に行くと言ってしまった手前、ちゃんと返事はしなきゃと回答を捻り出す。
「……中華かな」
返信を送って、スマホをベッドの脇に置いた。もう、なるようになれだ。
巽のことを考えるとどうしても気持ちが落ち着かないので、和泉が面白いと言っていたゲームアプリをダウンロードして、時間を潰すことにした。
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