忘却の丘で、君と

兎騎かなで

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 カエンは花の精、とでも言えばいいのだろうか。それとも付喪神? 
 どちらも違う気がするが、とにかく、この懐中時計はカエンの本体で間違いない。

 昨日の夜に、眠る直前に思い出した記憶の続きはこうだ。
 僕は突風に煽られて、崖から海へ向かって落ちた。そしたらペンダントから声がしたんだ。

 そして気がついたら、あのネモフィラの花畑にいた。カエンの世界の中に。

 その時の僕も記憶を失っていて、初対面のカエン相手にかなり警戒していた。僕はもともと、そんなに人づきあいが得意な方じゃない。

 今回初めてカエンに会った時のように、あんなにも慕わしさを感じることの方が異常事態だ。

 ……記憶はカエンに触れたり、ペンダントを手にすることで戻るようになっている。

 なぜなら僕の記憶を奪ったのは、カエンだから。カエンの残滓から奪った記憶が流れこむことによって、僕は記憶を取り戻した。

 僕は何度も何度も思い出して、その度に現実に帰ろうとした。

 けれど途中でカエンに邪魔されて力尽きて、時に諦め、時に投げ出し、時に迷い途方に暮れては、失意の中でそれまでの出来事を忘れた。

 繰り返し繰り返し、途方もないほどの回数を重ねて。

 僕はいつしか、ずっと自分の側にいてくれて、僕を愛おしい目で見つめるカエンに、親しみを感じるようになっていった。
 そして、ついには恋に落ちたのだ。

 ……カエンはなぜ、僕の記憶を奪ったのか。
 彼は僕に、現実世界に帰ってほしくなかったんだろう。

 だって彼は花畑で僕に言っていたじゃないか、記憶を奪う前にも何度も言っていた。ここにいてほしいって。

 僕のことが好きだから、閉じこめたかった? それとも、現実世界に帰ると危険だから、帰らせたくなかった?

 それは彼の気持ちを聞かないことには、わからないだろう。けれど一つ確実にわかることがある。

「あのネモフィラの丘を越えて、その先にある海に飛びこめば……僕は現実に戻れる」

 僕は足をゆっくりと動かしはじめた。真っ直ぐに丘の上を目指す。

 丘の上にたどり着くと、大風が吹き荒れていた。花びらは懸命に茎にしがみついているけれど、時に風にさらわれてしまう花弁すらあった。

 風に転がされないようにしっかりと大地を踏み締めながら、一歩一歩進んでいく。

 風の音に混じって、海の波音が耳に届いた。風はますます強くなっている。まるであの嵐の日が再来したような有様だ。

 歯を食いしばり歩を進めると、果たしてカエンはそこにいた。崖の前に立ってこちらを哀しげな瞳で見ている。

「おはよう、拓海。今回もここまで来てしまったんだな」
「おはよう、カエン。今日は風が一段と強いね」
「……来てほしくなかったからな」

 やはりこの風は、カエンの心の荒れようとリンクしてるらしい。

 悲壮感をたっぷり背負った彼の背後には、荒々しく水面が爆ぜる海が見えた。

 風によってなぶられる髪もそのままに、カエンは真剣な面持ちで僕に問いかけた。

「どうしても現実世界に戻りたいのか? 俺は拓海を大切にしたいんだ……ここを出てしまえばもう、俺はお前を守れない」
「……」
「行かないでくれ」

 カエンは言葉尻を震わせながら懇願した。
 ここに来るまでは、海に呼ばれている気がして。導かれるままにここまで来た。

 帰らなきゃいけない。両親も、友人も、みんな僕のことを心配しているだろう。

 おばあちゃんにちゃんとさよならを言って、お墓参りもしたいし。

 海に落ちたであろう僕の体のことを考えると、不安しかないけれど……戻らなければいけないのだろうと、強く思った。思っていた。

 ……だけど、本当にそうだろうか。本当にそれでいいのだろうか。

 僕はここに来て確かに幸せだった。現実の世界では、僕を心から愛してくれる人なんて、もういない。

 両親は僕より仕事の方が好きだし、友人もいるにはいるがそこまで深い関係じゃない。いなくなったところで、一年も経てば忘れ去られる程度の関係しか築いてこなかった。

 そして大好きなおばあちゃんも、もういない。

 僕は長い沈黙の後に顔を上げて、しっかりとカエンを見つめて問いかけた。

「……カエン。この先に行くと僕は元の世界に帰れるんだよね?」
「……そうだ」
「そこにカエンはいない?」
「いるさ、ちゃんとそこに」

 そこ、と言いながらカエンは僕の首にかかっている懐中時計を指し示す。

「この姿ではもう会えないけどな」
「そうなんだ。だったら」

 カエンは覚悟したように目を閉じた。泣き出す寸前の子どもみたいな表情だった。

 決意を込めた声音で、真剣な表情で僕の言葉を遮る。彼は目を潤ませながら懸命に訴えた。

「悪いけどどうしても行かせたくないっ、もう一度あんたの記憶を奪って」
「行かない。ここにいる」
「……えっ?」

 カエンは今までに見たことがないくらいに呆けた顔をした。ぽかんと口を開けた後、信じられないと言いたげに、つっかえながらこちらに歩み寄ってくる。

「……ほ、ほんとか? 本当に? 拓海、全部思い出してるのに、ここにいてくれるのか!?」
「うん。カエンの側にいるよ」
「拓海……!!」

 カエンは僕を骨が軋むほど抱きしめた後、手加減なしの濃厚なキスをかました。

 唇を吸われ、唾液を注がれ、舌で口内を蹂躙される。僕はそれを、当然のように受け入れ舌を絡めた。

 ああ……全て思いだした。
 僕は溺れていた。深く、暗く、もがいてももがいても抜けだせない水の中で。

 波がどんどん僕をさらって、岸から遠ざかっていく。水面から顔が出せないくらいにもみくちゃにされて、上下の感覚すらあいまいになる。

 もう息が続かない、苦しい、苦しい、苦しい……手を伸ばしても地上の光には到底とどかない。

 そんな時、君の声が聞こえたんだ。僕が肌身離さず持っていた、おばあちゃんの肩身……ネモフィラの花のしおりが入ったペンダントから。
 
「死ぬな、死ぬな! せめて、意識だけでもどうにか……」

 死ぬ間際に知らないやつの声が聞こえるとか、ひょっとして神様? なんて思いながら、もう力の入らなくなった手足を水の中に投げだして、僕の肺は水でいっぱいに満たされた。

 そうか、僕……とっくに死んでいたのか。僕の意識がこの世界に連れ去られてきた時には、きっともうすでに事切れていた。

 僕が今更現実世界に帰ったって、既に死んだ体に意識は戻らない。どおりでカエンが必死になって止めるはずだ。

 キスをしている間に、嵐は収束していた。心地良い微風が僕たちの間をすり抜けていく。

 やっと僕を解放したカエンに向かって、吹っ切れたような顔をして微笑んだ。

「帰ろう。僕らの家に」
「……っ、ああ! 帰ろう!!」

 堪えきれなかったカエンの涙が一粒、宙を舞った。


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