忘却の丘で、君と

兎騎かなで

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第三段階その3

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 気がつくとカエンを目で追っている。そう自覚した日の朝、僕は彼を湖に誘った。

「湖か、いいな。お弁当作っていこうぜ」
「今日はおにぎりがいい」
「よしきた」

 もはやどこから米が出てくるなんてツッコまない。便利でいいよね、それだけだ。

 このぬるま湯のような世界はカエンの存在で成り立っているということを、おぼろげながら僕は理解しはじめていた。

 あまり原理を追求すると、ろくなことにならないと思う。最初に米が出てきて驚きカエンを問い詰めた時、たいそう困った顔をしてごまかされたから。

 僕がカエンにべったり寄りかかるような生活を、彼は気に入っているみたいだった。

 甘えても、多少わがままを言っても、性的に襲ってみても嫌な顔一つしない。ただ僕のやることを受け入れて、楽しそうにしている。

「カエンってさ、記憶を失う前から僕のことが好きだった?」
「なにを今更。あんたのことは、物心ついた時からずっと好きだ」
「……カエンって何歳?」
「さあ? いくつに見える?」

 肌のきめ細かさは十代でも通じるけれど、余裕のある態度や何に対しても手慣れた様子を見ていると、実は三十代でしたと言われても驚かない。

 カエンは現実離れしていて、あまり年齢を感じさせない男だった。

「わかんない」
「ならひとつだけヒントをあげよう。俺は拓海より年上なんだ」
「もう一声」
「ええー……あんたのおばあちゃんよりは年下だな」
「そんなの見ればわかる」

 身にならない会話をしながら湖への道を歩いた。湖に行くのは初めてだから、未知の場所に出かける高揚感で心も弾んだ。

 湖は森の中にひっそりと存在していた。開けた場所に出るまでは、知っていないとたどり着けないくらいに森の奥深い場所にあった。

 湖水は藻が繁殖していて少し濁っている。その間を、赤や銀色の魚がスイスイと泳ぎ回っていた。

「へえ、こんなところなんだ。雰囲気いいね」

 それにしても、初めて来たはずなのに妙に既視感を感じる。掘り下げようとした疑問は、カエンの楽しげなあいづちの前にかき消えた。

「だろ? それで、今日は何を描くんだ?」
「カエンを」

 僕は腰を下ろすのによさそうな倒木を見つけると、露を払って尻を落ち着けた。画材とイーゼルをセッティングしていると、妙に静かなことに気づいた。

 カエンに目を向けると、彼は目を見張ったまま立ち尽くしている。

「なに?」
「へ? いや……め、珍しいこともあるもんだなって」
「普段は風景ばかり描いてるからね。でも今日はカエンを描きたくなったんだ。モデルになってよ」

 お願いすれば、カエンはたいてい断らない。この時もそうだった。彼は落ち着きなく視線を彷徨わせながらも、僕の願いを受け入れた。

「わかった。どうすればいい?」
「そうだね、もうちょっと右にずれて……で、あっちに視線向けて。そう。そのまま動かないで」

 ピタリとカエンが静止したのを確認して、僕は絵筆に色を乗せた。

 人物画は得意じゃない。だから今までは描きたいと思っても、実際に描こうとはしなかった。

 今回描いてみたいと思ったのは……なんでだろう。自分の中にあるカエンへの気持ちを、ハッキリと形にしてみたかったからだろうか。

 カエンの上半身……大体腰あたりまでを描こうと考えて構図を決めた。

 背景にちょうど光が差しこんでいるから、それと一緒に光る水面が描きこめるような、絵的に映える場所を選んだ。

 少し上を向くカエンの瞳には、一層丁寧に絵筆を走らせる。

 少し乱れた髪は無造作に整っていて、その奇跡的なバランスをキャンバスの上に余さず描き起こしたくて、夢中で手を動かした。

 ラフなシャツはざかざかと、背景の一部みたいにぼかして描く。彼の顔の美しさを際立たせるために、陶器のようにきめ細かい肌はより一層、繊細な筆使いで仕上げた。

 僕が集中している間、彼は一切動かなかった。時々、思い出したように瞬きをする。魚が跳ねる水音がする以外、とても静かな時間が過ぎた。

 日の角度が変わる前になんとか背景まで描き終えると、僕は絵筆をパレットの上に置いた。

「……もう動いていいよ」
「もういいのか? 完成?」
「うん、後でもう少し修正するかもしれないけど」

 彫像のように動かなかったカエンは、息を吹きこまれたかのようにパッと表情を綻ばせると、僕の目の前にあるキャンバスをのぞきこんだ。

「わお。これが俺?」
「うん。どう?」
「めっちゃいいじゃん。人描くのは苦手って嘘だろ? ふつうに上手い。それに、色合いがすげー幻想的っていうか……拓海には俺がこう見えてるんだ?」

 影と背景に赤色を混ぜた分、カエンの持つ青の色彩が際立ち、まるで光り輝いているかのように見える。神秘的で、神の使いかなにかのようだ。

「ああ、まあ……ちょっと盛ったかも」
「盛った?」
「カエンは確かに現実離れしてるけど、見た目よりは親しみやすいと思うよ」
「ははっ、そっか」

 カエンはパッと花が咲いたように笑うと、俺の隣に腰かけた。

「俺さ、拓海がここにいてくれて本当に嬉しいんだ。ずっとこうやって暮らしていけたらいいよな」
「僕がカエンにおんぶに抱っこされながら?」
「俺、あんたのことおんぶなんてしたか?」
「そうじゃない、比喩だよ」

 カエンはわからないという顔をしている。衣食住プラス夜の世話まで、どっぷりと僕に依存される生活をしているというのに、なんとも思っていないのか。

「流石にずっとこのままってわけにはいかないよ。ここがどこだかわからないけれど、家族だって心配しているだろうし、友達とも……まあ、会いたいっていうか。ちゃんと会って、無事な姿を見せないと」
「……ああ、うん。そうだよな」

 僕が現実に帰りたいという話をすると、カエンはきまり悪そうな顔をする。そして話を逸らすのだ。

 誤魔化される前に、僕はもう一歩だけ踏みこんでみることにした。

「これは、僕の勝手な想像なんだけど。ここは夢の世界で、カエンはこの夢の中ではなんでもできるんだ。僕は大きな怪我とかで意識を無くして、カエンの夢の中に連れ去られて、長い夢をみている……どう? 面白くない?」
「笑えない冗談だ」

 カエンは一瞬痛みを堪えるような顔をした後、下手くそな笑顔を作った。

「ところで、この近くにメロンが群生してる場所があるんだ。拓海、メロン好きだろ? 寄っていこうぜ」
「……行く」

 僕はカエンの下手な誤魔化しに乗せられることにした。僕はカエンを悲しませたいわけではないのだ。

 僕が返事をすると、ホッとしたようにくしゃりと笑うカエン。僕も微笑みを返した。差し出された手と手を繋ぐ。

 記憶を思い出したい。あの海に着いた後、僕はどうなったのだろう。それに、なぜあんな荒れた天候の日に、海に出かけたのだろう。

 カエンに聞いてもきっと、悲しそうな顔をするだけだ。

 思い出したい、けれど悲しませたくない……板挟みの間で気持ちは揺れ動いたけれど、今日のところはカエンの下手くそな笑顔に免じて追求をやめた。
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