寂しい竜の懐かせ方

兎騎かなで

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逃亡する

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 庭の雪が完全に溶けた日、夜空に昇った月を見上げながらジルは決心した。迎えにきてもらえると期待して待っていてはだめだ。屋敷を抜け出そう。スピネルの巣に帰るんだ。

 枕元の手袋を身につけ、ジルのために特注されたコートを羽織って部屋を抜け出す。無謀かもしれないが、とにかく彼に会いたくてしょうがなかった。

 台所に忍び込んでナイフを一本拝借した。弓がないのは心許ないが、もう一日だってこの屋敷にいたくない。窓から外に出て塀を乗り越えた。

 夜の町を走っていく。早く、早く会いたい、スピネル……!

「おい、なんだあいつ。貴族の坊ちゃんが一人でいるぞ」
「兄ちゃん、ちょっと待てよ」

 後ろからガラが悪そうな二人組が追いかけてくるが、無視をして外壁まで走ろうとした。だが追いつかれてしまい、行き止まりに追い詰められる。彼らはジルの目を一目見るなり、目の色を変えた。

「こいつ、宝石眼だぞ!」
「何!? やべえ……って、魔法使ってこねえな。使えねえのか?」
「だとしたらチャンスだ……! 捕まえるぞ!」

 ジリジリと迫ってくる二人組の隙をつき脇をすり抜けて、ジルは再び外壁を目指す。

「んにゃろ、待て! 待ちやがれ!」

 がむしゃらに駆けて外壁をよじ登る。間一髪のところで追いつかれずにすみ、そのまま町の外へと抜け出せた。

 森の中にはまだ雪が残っていた。足跡を残しながら森の奥へとわけ入っていく。今夜は満月だったから、スピネルのように夜目が利かないジルでも、転ばずに森を歩くことができた。

 どうやら屋敷の生活で運動不足になっていたようで、予想より早く足が疲れてくる。休憩を取ろうと辺りを見渡すと、背後から松明の光がチラホラと迫ってきているのを確認できた。

 先程の二人が追いかけてきたのだろうか、それにしては数が多いが……まさか、もうジルが屋敷を抜け出したことを気づかれたのだろうか。

 休んでいる場合ではないらしい。重い足を動かして町から離れていく。

 もっと森の奥へ、人に見つからない場所へと行こうとしたのが、まずかったらしい。

 黒い異形の影が視界の端によぎった時には、既に囲まれていた。魔獣だ……!

「……く、来るな」

 狼に似た姿をした魔獣達は、ジルを囲みながらゆっくりと距離を詰めてきている。ナイフを手に持ち牽制するが、まるで効果がなさそうだ。

 ナイフで魔獣を退けられるかというと、答えは否だ。彼らの動きは人の目に追えないくらいに速い。

 だとすれば、どうするべきか。ジルは自分を囲むように土壁を展開させた。

 バウワウと魔獣が吠え立てて、土壁に体当たりを仕掛けてくる。ドンと壁越しに衝撃が伝わるものの、すぐに壊れる気配はない。

 この後、どうすればいい。脅威が過ぎ去るまで隠れ待つばかりで、魔獣との戦い方を知らないジルは、うずくまりながら恐怖に震えた。

「助けて、スピネル……!」

 ドン! 魔獣が土壁を崩すために、何度も攻撃を仕掛けてくる。今にも壁が破壊されるのではないかと、気が気ではなかった。

 そのうちにガヤガヤと、何やら人の声まで聞こえ始める。

「あそこだ、中に御子息様がいるぞ!」
「魔獣だと!? 一旦引き返すか?」
「国の宝である、宝石眼の若者を守れ!」

 土壁の外で戦いが繰り広げられている。駆けつけてきたのは騎士か兵士か、そういった類の人なのだろう。魔獣と互角に戦っているような気配がする。

 助かるのだろうかと希望が出てきて、勇気を出して立ち上がる。すると視界の端に異形の影が映った。木の上によじ登った魔獣は、真っ直ぐにジルを目掛けて飛びかかってくる。

 狼の魔獣は土壁の上を飛び越えた。信じられないと目を見開きながら何もできないでいると、食らいつこうと口を開いた魔獣は、大きな竜の黒い鉤爪に横っ腹を切り裂かれた。

「……っ! スピネル!」

 竜が咆哮すると、人も魔獣も動きを止めた。

 ジルは土壁を元の土に戻しスピネル目掛けて一直線に走っていき、黒い鱗に包まれた足に抱きついた。兵士達が動揺してどよめく。

「竜だ!」
「なんだってこんなところに……! 御子息様、こちらへ!」
「危険だ、今すぐ離れるんだ!」

 ジルは決してスピネルから離れまいと、足から背中側へとくっついたまま移動して、背中によじ登った。

「スピネル、俺も連れていって!」

 首に抱きつくと彼は振り向いた。赤い瞳がギロリとジルを射抜く。

「お前は町で暮らしたいのではなかったのか。一人は寂しいと言っていただろう」

「俺は人間と暮らしたいわけじゃない、一緒にいたいのはスピネルだ! たくさんの人に囲まれていても、お前がいないと寂しくてたまらない……! お願いだ、連れていってくれ」

 真剣に頼みこむとスピネルの瞳は迷うように揺れる。しっかりと首に腕を巻きつけながら返事を待った。

「行かないで! ジョエル!」

 黒竜を取り囲む兵士の後ろからエミリーが現れた。いつも綺麗に結われている髪は解けていて、必死に駆けてきたのだろう、ドレスの裾が雪と泥で汚れている。

「どうして、なぜ森に帰ってしまうの!? 貴方の居場所はバートン家の屋敷でしょう?」
「子爵夫人、お下がりください!」

 兵士が止めるがエミリーは引き下がらない。果敢に一歩踏み出し竜と対峙した。

「欲しいものがあるなら、なんでも買ってあげるわ。お勉強が難しいっていうなら、ゆっくりでいいの。お願いだから一緒にいて、ジョエル……」

 エミリーは両手で目元を覆って泣き崩れてしまった。ジルはスピネルの上から彼女を見下ろしながら口を開く。

「俺が欲しいものは、お金では買えないんだ。新しいことを知るのは楽しいけど、領主なんて向いていないよ。オシリスがやればいい」
「それは! ……あ、貴方が望むのなら、領主にならなくてもいいわ。失ってしまったかと思った息子に会えて、本当に嬉しかったのよ……ねえ、戻ってきて」

 その声からは、本気でジルのことを想っている気配を感じた。後継ぎとして期待されているとばかり思っていたから、驚いた。

「……母さん」

 ハッとエミリーが顔を上げる。初めてジルが自分のことを母と呼んだからだろう、彼女は両手を広げてジルを迎えようとする。

「ジョエル……! ほら、降りてきて! 屋敷に帰りましょう」
「帰らない。俺はスピネルと一緒にいる」

 竜はグゥ、と喉から呻き声のような音を出した。なんだろう、今の反応は? 顔を覗きこもうとしたが、逸らされてしまう。

 振り落とされたりしないということは、嫌ではないのだろう。ジルは都合よくそう信じることにした。

 母は帰らないと聞いて顔を歪めて、また泣きそうになるので慌ててフォローをする。

「スピネルのところに帰るけれど、会いにいくよ」

 母はジルのことを好意的に迎えてくれようとしていた。ジルとしても仲良くしたいと望んでいるし、まだ見ぬ父にも会ってみたい。

 オシリスにも爵位を継がないと名言しておけば、仲良くなれる未来もあるかもしれない。

「それと、俺はずっと自分のことをジルだと思って生きてきたから……母さんには俺のことを、ジルって呼んでほしい」

 エミリーはしゃくりあげながら頷いた。そっとスピネルの首を叩いて合図をする。

「スピネル、行こう」

 促すと、彼は翼を広げて大きく羽ばたいた。兵士達とエミリーが後ずさると、翼は風を起こし雪を吹き飛ばしながら巨体が空へと昇っていく。

「ジル……! また会いましょう、貴方の訪れを待っているわ!」
「……うん! またね母さん!」

 兵士達が予想外の展開にどよめいているが、スピネルは無視して飛び去った。
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