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第7章 紅玉姫の嫁入りと剣聖の片恋慕編
第535話 俺がお前を護るってことだ(第7章最終話)
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屋敷への帰路の間、アラタは一度も口を開いていない。
もう少しで屋敷に着いてしまうというのに、アラタとノエルの会話はゼロだった。
彼が一体何を考えているのかノエルには分からない。
そんなエスパーみたいなことが出来るのなら、簡単にアラタのことを落とせただろう。
他人の気持ちなんて簡単には分からないから、だからすれ違うこともあるしドキドキもする。
でもノエルはそこから一歩前に踏み出せる女の子だ。
怖くても、やりたくなくても、大切なことは必ずやる、それが彼女だ。
「アラタ」
アラタのアの字が少しうわずって変な発音になった。
恥ずかしさに耳を燃やしながらも、彼の反応を待つ。
この距離だ、聞こえないなんてことは有り得ない。
それでもアラタは何を考えているのか、無言のままだった。
「アラタ」
アラタがノエルの方に目線をやった。
彼の黒い眼は、時折真冬の池の底のように冷たく薄暗い光を宿すことがある。
今はそこまでではないにしても、若干の闇深さは当たり前のように彼の中に巣食っている。
「その、私も連れて行って」
「遊びじゃないんだよ」
「分かってる。アラタの役に立ちたいんだ」
真っ直ぐ見つめられることが、アラタにとっては剣を交えることよりも遥かに怖い。
彼は常に闇に紛れているから、輝く瞳の中に自分がいると隠れる場所がないのだ。
アラタは逃げる様にして視線を前に戻した。
「失敗すれば、ただ捕まるだけじゃ済まないかもしれない」
「覚悟の上だ」
「心を壊されるかもしれない、体を壊されるかもしれない、人質になって仲間が代わりに傷つくかもしれない、もしかしたら自分のせいで国が無くなるかもしれない。それでもいいのか? それでも耐えられるのか?」
「やり抜いてみせるよ。アラタと一緒なら出来ると思う」
2人きりの時の中でかつてないほどの真剣なノエルの表情を、アラタは直視することが出来ずにいた。
その世界に入るのが、怖くて怖くてたまらない。
仮にノエルに戦う覚悟が、その道半ばで死ぬ覚悟ができているとしても、アラタは彼女を受け入れて一緒に戦うことが出来ない。
「お前にできても、無理なものは無理だ」
「どうして?」
「お前が捕まれば、ほんの少しだけど俺の心が乱れる。お前が死ねば、それは戦いの中での致命傷になり得る。お前が近くにいて、戦いの現場にいるってことは、つまりはそういう事なんだ。俺にとってお前は弱点なんだ。だから諦めてくれ」
「私は死なないよ。アラタのお嫁さんにしてもらうまで死なない」
「気持ちの話を聞いているわけじゃないんだよ」
「死なないよ」
「だからどうしてそんなにはっきりと——」
ノエルの方を見ようとしない、見ることのできないアラタの顔を、ノエルは強引に振り向かせた。
首が折れてしまいそうなほど強くねじったせいで、アラタは少し不機嫌になる。
「なにすんだ……その眼で見んなよ」
「死なない」
「離せ」
「ヤダ」
「いいから」
——嫌なものを見た。
眩しいくらいに真っ直ぐな輝く瞳。
どんなに羨望したところで、もう俺にあの光は宿せない。
「頑張って訓練する」
「それじゃどうにもならない敵もいるんだよ」
「じゃあ何で貴族院の人たちを連れて行こうとするんだ。なんで私だけ置いていくんだ」
「だからお前が死ぬと俺に心の隙が生まれるかもしれない。それが致命傷になるかもしれないからだよ」
「私が大公の娘だからか? 貴族だからか? それとも……レイフォードと重なるのか?」
エリザベス・フォン・レイフォード。
元レイフォード公爵家当主であり、シャノン・クレストと大公選を戦った相手。
アラタの恋人であり、大公選の後に投獄。
脱走後にそれを手引きしたアラタたち共々ユウと名乗る敵と遭遇、一敗地に塗れた。
最後はアラタの手によってその生涯を閉じ、彼の心に永遠に言えることのない傷を刻み込んだ。
重なる? どこが?
顔も、体型も、頭の良さも、性格も、何もかもが全然違う。
エリーはこんなにしつこくない。
こんなに頭も悪くないから、自分が来たければ搦め手から崩しに来る。
立場もあって、こんな往来でこの距離感まで近づくことも無かった。
あるのは2週に1度あるかないか、執務室でのたった数分間の逢瀬だけ。
「重ねるわけないだろ」
ほんの少しだけ語気を強めた。
ノエルはそれに気づいて萎縮する。
「ご、ごめん。でも…………」
ノエルはエリザベスとは違うから、家のある通りに入ってからアラタの服をそっと掴む。
「なんで戦争に連れて行ってくれなかったんだ。なんで遠ざけようとしたんだ。近衛局の人だって、軍の人だって私と一緒で家族はいるのに。なんで私はダメなんだ」
「それは……」
「ねえ、どうしてそんなに、何が怖いんだ? どうしてそんなに私だけ仲間外れにするんだ」
アラタは答えないまま、屋敷の門をくぐった。
それから少し歩く速度を上げて、服の裾を掴むノエルの手を振りほどいた。
「ねえ! 答えてよ!」
彼女はアラタの正面に回り込むと、スキル【剣聖の間合い】を起動した。
この効果範囲内ではスキルと魔術共に使用不能となり、アラタもただの人間に立ち戻る。
クラスの補助効果は継続中である所がポイントで、この間合いは例え勇者相手でも剣聖の独壇場だ。
がっしりと両腕を掴まれ、体を前後に揺らされる。
強い握力で握られたことによる二の腕の痛みを【痛覚軽減】で和らげることはできない。
答えるしか、逃れる術はない。
「俺にとってお前は……」
「私は……?」
「お前は可能性なんだ。薄汚れることのなかった、この世界に来なかったもう1人の俺と同じなんだ。刀に触れることもなく、戦う訓練を受けることも無かった俺は、きっと平和で安全な毎日の中でお前みたいに無邪気に明るく笑って振舞えたはずなんだ。そう思うと俺が失くしてしまった何か大切なものを、お前は持っているような気がする。俺は俺が失くしてしまったものをノエルが持っているように思えるから、それが大切なものだと頭の中で分かっているから、それを失いたくないんだ。失うわけにはいかないんだ」
「本当? それが全て?」
「俺はもう、誰も失うわけにはいかないんだ」
「だから家でぬくぬく笑っていろって言うのか?」
「そう。それでいい」
次の瞬間、アラタの両腕を掴んでいたノエルの手がアラタの胸元に掴みかかった。
「ぐっ……」
「アラタはいつもいつもそうやって、いちいち言わないと分からないのか!」
「なにが」
「アラタが居ない家で待っていたって、笑えるわけないだろ!」
服を握る手がミシミシと音を立てる。
ノエルは興奮していて少し力が入りすぎていた。
「勝手に出て行った時も、戦争に行った時も、お見合いの話を進めていた時も、私は一回もそんなこと望んでいなかった! それを人の気も知らないで全部1人で背負い込んで、そんなの嬉しくなかった! 行かないで隣に居て欲しかった! どうしても行くなら連れて行ってほしかった! 私はアラタのことが好きなんだよ? 私の気持ちを知っているなら、それくらい分かってよ!」
「それでも俺はお前に、お前らには危険な場所に来てほしくない」
「今回は、今度こそは負けない。絶対に一緒に行って一緒に戦う」
アラタは本当に来てほしくなかった。
それを繰り返し伝えたところで、ノエルは絶対に納得しない。
ただ他にどうすればいいのか、それは分からない。
ひとまず首がきつくなっているので、アラタは逃げの一手を選んだ。
「……今日1日考える。明日話す。だからとりあえず離して」
ノエルはジトッとした目で睨みつけていて、その目の端には涙が浮かんでいた。
でも仕方ないかと渋々その手を離す。
「明日の朝聞くから」
「あー、それでいい」
ともかくアラタは一度家に戻り、帝国に連れていく面子を考えることにした。
※※※※※※※※※※※※※※※
冬が明けて徐々に湿度が高くなってきた。
それと同時に気温も伸びてきたことで、朝も比較的過ごしやすくなっている。
朝霧が街を包む中、1人の男が墓標の前に立っていた。
巨石が1つ、それから名前が刻まれた墓標がいくつか、そして名もなき墓石が1つ。
アラタはその名前が刻まれていない墓石に手を添えると空を見上げた。
夜明け前で、空が徐々に白んできている。
「エリー…………俺、好きだと言ってくれた人が死んだんだ。君と同じように、俺が死なせてしまった」
数か月前、帝国戦役が終結間近というところで、タリアはアラタの腕の中で死んだ。
あとほんの少し彼が治癒魔術の行使に成功していれば、アラタが本隊から離れずに戦っていれば、結果は違っていたかもしれない。
「俺ってばモテモテだからさ、今度はノエルが……俺、また失敗するんじゃないかな。また死なせてしまうんじゃないかな。それが怖くて、受け入れられないんだ」
アラタは墓石を魔術で綺麗にしていく。
風属性魔術でほこりや枯葉を取り除き、周囲も少し掃除する。
それから水属性の魔術で墓石を丸洗いして、また風属性の魔術で乾燥させる。
風属性と火属性の魔術を重ね掛けして温風にしてくれる気遣いが好きだと彼女は言っていた。
「帝国に行く人数は多い方がいいに決まっている。国内にもいくらか戦力を残さないといけないけど、それでノエルは納得しない。でも、あいつに問題があるんじゃなくて、俺が駄目なんだ。俺が怖くて認められないんだ」
墓前に花束を供え、しゃがみこんだまま墓石を見上げた。
「君がいない世界で、俺はどう生きたらいいのかな」
『いつか貴方が、私以外の誰かを愛せますように。いつか貴方が、私以外の誰かから愛されますように。いつか貴方が、好きな人の隣で、心の底から笑えますように。私はそれを、心の底から願っています』
——いい加減しゃんとしなさい。私の愛した人なら、その選択肢で迷うべくもないでしょう?
「エリー!? …………なわけないか。薬はやめたはずなんだけどな」
鈴を鳴らしたような声が、確かに聞こえた。
凛としていて、透き通るような声が。
その声帯の持ち主は疾うに死んでいて、彼の眼の前にある墓に眠っているのは魔物と化してしまった彼女の遺灰の一部だけ。
だから、声なんて聞こえるはずがなかった。
聞こえるはずがなかったが、聞こえるはずがなかったとしても確かに耳に届いたその声は、確かにエリザベスの言いそうなことだった。
「……俺がそう言って欲しかったっていうだけなのかもな」
夜が明けた。
失意と共に沈んだ夕陽の後に、希望と共に陽が昇る。
自分なりの答えが出た。
「おはよ」
「おはよう」
墓参りから帰ってきたアラタは、リビングでノエルを顔を合わせた。
アラタの席の対面でノエルはパンを齧っていた。
彼が席に着くと、シルの手で朝食が運ばれてくる。
それに手を付ける前に、彼は決めたことを口にした。
「ノエル」
「うん」
「他の皆にも話そうと思っているけど、お前が望むなら一緒にウル帝国に行こう」
ノエルの手からパンが滑り落ちて、奇跡的に皿にカムバックした。
彼女は耳を疑う。
「それってつまりどういうこと?」
「だから…………俺がお前を護るってことだ」
パンを取ろうとしたノエルの手が完全に停止した。
「夢じゃないよね?」
「夢じゃないけど、これから苦しい訓練になる。耐えられなければこの話は無しだ」
「行く」
「この話は大公様にも——」
「行く。だからもう一回言って」
「なにが?」
「だから、さっきの、アラタがゴニョゴニョっていうの」
赤面して照れているノエルの様子からして、随分とツボにはまったらしい。
アラタは2年前にも同じような覚えがあった。
ノエルは嬉しい言葉を繰り返し要求する癖がある。
「護るよ」
「違う。全部」
「俺がお前を護る」
「でへへ、もう1回!」
「そんなんじゃ連れて行かないからな」
「お願い! ラストでいいから!」
「……俺が護る。必ず。何があっても」
「フヒッ、へへへ、私もアラタを全力で護るよ!」
——甘すぎるなあ。
アラタは自分の弱さを猛省しながらも、強くならなければならない理由を携えて、朝食に手を付けた。
第7章 紅玉姫の嫁入りと剣聖の片恋慕編 完
第8章 天晴編 毎日更新予定
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恥ずかしさに耳を燃やしながらも、彼の反応を待つ。
この距離だ、聞こえないなんてことは有り得ない。
それでもアラタは何を考えているのか、無言のままだった。
「アラタ」
アラタがノエルの方に目線をやった。
彼の黒い眼は、時折真冬の池の底のように冷たく薄暗い光を宿すことがある。
今はそこまでではないにしても、若干の闇深さは当たり前のように彼の中に巣食っている。
「その、私も連れて行って」
「遊びじゃないんだよ」
「分かってる。アラタの役に立ちたいんだ」
真っ直ぐ見つめられることが、アラタにとっては剣を交えることよりも遥かに怖い。
彼は常に闇に紛れているから、輝く瞳の中に自分がいると隠れる場所がないのだ。
アラタは逃げる様にして視線を前に戻した。
「失敗すれば、ただ捕まるだけじゃ済まないかもしれない」
「覚悟の上だ」
「心を壊されるかもしれない、体を壊されるかもしれない、人質になって仲間が代わりに傷つくかもしれない、もしかしたら自分のせいで国が無くなるかもしれない。それでもいいのか? それでも耐えられるのか?」
「やり抜いてみせるよ。アラタと一緒なら出来ると思う」
2人きりの時の中でかつてないほどの真剣なノエルの表情を、アラタは直視することが出来ずにいた。
その世界に入るのが、怖くて怖くてたまらない。
仮にノエルに戦う覚悟が、その道半ばで死ぬ覚悟ができているとしても、アラタは彼女を受け入れて一緒に戦うことが出来ない。
「お前にできても、無理なものは無理だ」
「どうして?」
「お前が捕まれば、ほんの少しだけど俺の心が乱れる。お前が死ねば、それは戦いの中での致命傷になり得る。お前が近くにいて、戦いの現場にいるってことは、つまりはそういう事なんだ。俺にとってお前は弱点なんだ。だから諦めてくれ」
「私は死なないよ。アラタのお嫁さんにしてもらうまで死なない」
「気持ちの話を聞いているわけじゃないんだよ」
「死なないよ」
「だからどうしてそんなにはっきりと——」
ノエルの方を見ようとしない、見ることのできないアラタの顔を、ノエルは強引に振り向かせた。
首が折れてしまいそうなほど強くねじったせいで、アラタは少し不機嫌になる。
「なにすんだ……その眼で見んなよ」
「死なない」
「離せ」
「ヤダ」
「いいから」
——嫌なものを見た。
眩しいくらいに真っ直ぐな輝く瞳。
どんなに羨望したところで、もう俺にあの光は宿せない。
「頑張って訓練する」
「それじゃどうにもならない敵もいるんだよ」
「じゃあ何で貴族院の人たちを連れて行こうとするんだ。なんで私だけ置いていくんだ」
「だからお前が死ぬと俺に心の隙が生まれるかもしれない。それが致命傷になるかもしれないからだよ」
「私が大公の娘だからか? 貴族だからか? それとも……レイフォードと重なるのか?」
エリザベス・フォン・レイフォード。
元レイフォード公爵家当主であり、シャノン・クレストと大公選を戦った相手。
アラタの恋人であり、大公選の後に投獄。
脱走後にそれを手引きしたアラタたち共々ユウと名乗る敵と遭遇、一敗地に塗れた。
最後はアラタの手によってその生涯を閉じ、彼の心に永遠に言えることのない傷を刻み込んだ。
重なる? どこが?
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エリーはこんなにしつこくない。
こんなに頭も悪くないから、自分が来たければ搦め手から崩しに来る。
立場もあって、こんな往来でこの距離感まで近づくことも無かった。
あるのは2週に1度あるかないか、執務室でのたった数分間の逢瀬だけ。
「重ねるわけないだろ」
ほんの少しだけ語気を強めた。
ノエルはそれに気づいて萎縮する。
「ご、ごめん。でも…………」
ノエルはエリザベスとは違うから、家のある通りに入ってからアラタの服をそっと掴む。
「なんで戦争に連れて行ってくれなかったんだ。なんで遠ざけようとしたんだ。近衛局の人だって、軍の人だって私と一緒で家族はいるのに。なんで私はダメなんだ」
「それは……」
「ねえ、どうしてそんなに、何が怖いんだ? どうしてそんなに私だけ仲間外れにするんだ」
アラタは答えないまま、屋敷の門をくぐった。
それから少し歩く速度を上げて、服の裾を掴むノエルの手を振りほどいた。
「ねえ! 答えてよ!」
彼女はアラタの正面に回り込むと、スキル【剣聖の間合い】を起動した。
この効果範囲内ではスキルと魔術共に使用不能となり、アラタもただの人間に立ち戻る。
クラスの補助効果は継続中である所がポイントで、この間合いは例え勇者相手でも剣聖の独壇場だ。
がっしりと両腕を掴まれ、体を前後に揺らされる。
強い握力で握られたことによる二の腕の痛みを【痛覚軽減】で和らげることはできない。
答えるしか、逃れる術はない。
「俺にとってお前は……」
「私は……?」
「お前は可能性なんだ。薄汚れることのなかった、この世界に来なかったもう1人の俺と同じなんだ。刀に触れることもなく、戦う訓練を受けることも無かった俺は、きっと平和で安全な毎日の中でお前みたいに無邪気に明るく笑って振舞えたはずなんだ。そう思うと俺が失くしてしまった何か大切なものを、お前は持っているような気がする。俺は俺が失くしてしまったものをノエルが持っているように思えるから、それが大切なものだと頭の中で分かっているから、それを失いたくないんだ。失うわけにはいかないんだ」
「本当? それが全て?」
「俺はもう、誰も失うわけにはいかないんだ」
「だから家でぬくぬく笑っていろって言うのか?」
「そう。それでいい」
次の瞬間、アラタの両腕を掴んでいたノエルの手がアラタの胸元に掴みかかった。
「ぐっ……」
「アラタはいつもいつもそうやって、いちいち言わないと分からないのか!」
「なにが」
「アラタが居ない家で待っていたって、笑えるわけないだろ!」
服を握る手がミシミシと音を立てる。
ノエルは興奮していて少し力が入りすぎていた。
「勝手に出て行った時も、戦争に行った時も、お見合いの話を進めていた時も、私は一回もそんなこと望んでいなかった! それを人の気も知らないで全部1人で背負い込んで、そんなの嬉しくなかった! 行かないで隣に居て欲しかった! どうしても行くなら連れて行ってほしかった! 私はアラタのことが好きなんだよ? 私の気持ちを知っているなら、それくらい分かってよ!」
「それでも俺はお前に、お前らには危険な場所に来てほしくない」
「今回は、今度こそは負けない。絶対に一緒に行って一緒に戦う」
アラタは本当に来てほしくなかった。
それを繰り返し伝えたところで、ノエルは絶対に納得しない。
ただ他にどうすればいいのか、それは分からない。
ひとまず首がきつくなっているので、アラタは逃げの一手を選んだ。
「……今日1日考える。明日話す。だからとりあえず離して」
ノエルはジトッとした目で睨みつけていて、その目の端には涙が浮かんでいた。
でも仕方ないかと渋々その手を離す。
「明日の朝聞くから」
「あー、それでいい」
ともかくアラタは一度家に戻り、帝国に連れていく面子を考えることにした。
※※※※※※※※※※※※※※※
冬が明けて徐々に湿度が高くなってきた。
それと同時に気温も伸びてきたことで、朝も比較的過ごしやすくなっている。
朝霧が街を包む中、1人の男が墓標の前に立っていた。
巨石が1つ、それから名前が刻まれた墓標がいくつか、そして名もなき墓石が1つ。
アラタはその名前が刻まれていない墓石に手を添えると空を見上げた。
夜明け前で、空が徐々に白んできている。
「エリー…………俺、好きだと言ってくれた人が死んだんだ。君と同じように、俺が死なせてしまった」
数か月前、帝国戦役が終結間近というところで、タリアはアラタの腕の中で死んだ。
あとほんの少し彼が治癒魔術の行使に成功していれば、アラタが本隊から離れずに戦っていれば、結果は違っていたかもしれない。
「俺ってばモテモテだからさ、今度はノエルが……俺、また失敗するんじゃないかな。また死なせてしまうんじゃないかな。それが怖くて、受け入れられないんだ」
アラタは墓石を魔術で綺麗にしていく。
風属性魔術でほこりや枯葉を取り除き、周囲も少し掃除する。
それから水属性の魔術で墓石を丸洗いして、また風属性の魔術で乾燥させる。
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「帝国に行く人数は多い方がいいに決まっている。国内にもいくらか戦力を残さないといけないけど、それでノエルは納得しない。でも、あいつに問題があるんじゃなくて、俺が駄目なんだ。俺が怖くて認められないんだ」
墓前に花束を供え、しゃがみこんだまま墓石を見上げた。
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『いつか貴方が、私以外の誰かを愛せますように。いつか貴方が、私以外の誰かから愛されますように。いつか貴方が、好きな人の隣で、心の底から笑えますように。私はそれを、心の底から願っています』
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夜が明けた。
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「おはよ」
「おはよう」
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彼が席に着くと、シルの手で朝食が運ばれてくる。
それに手を付ける前に、彼は決めたことを口にした。
「ノエル」
「うん」
「他の皆にも話そうと思っているけど、お前が望むなら一緒にウル帝国に行こう」
ノエルの手からパンが滑り落ちて、奇跡的に皿にカムバックした。
彼女は耳を疑う。
「それってつまりどういうこと?」
「だから…………俺がお前を護るってことだ」
パンを取ろうとしたノエルの手が完全に停止した。
「夢じゃないよね?」
「夢じゃないけど、これから苦しい訓練になる。耐えられなければこの話は無しだ」
「行く」
「この話は大公様にも——」
「行く。だからもう一回言って」
「なにが?」
「だから、さっきの、アラタがゴニョゴニョっていうの」
赤面して照れているノエルの様子からして、随分とツボにはまったらしい。
アラタは2年前にも同じような覚えがあった。
ノエルは嬉しい言葉を繰り返し要求する癖がある。
「護るよ」
「違う。全部」
「俺がお前を護る」
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「そんなんじゃ連れて行かないからな」
「お願い! ラストでいいから!」
「……俺が護る。必ず。何があっても」
「フヒッ、へへへ、私もアラタを全力で護るよ!」
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ゆるゆる設定です。
オタクおばさん転生する
ゆるりこ
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マンガとゲームと小説を、ゆるーく愛するおばさんがいぬの散歩中に異世界召喚に巻き込まれて転生した。
天使(見習い)さんにいろいろいただいて犬と共に森の中でのんびり暮そうと思っていたけど、いただいたものが思ったより強大な力だったためいろいろ予定が狂ってしまい、勇者さん達を回収しつつ奔走するお話になりそうです。
投稿ものんびりです。(なろうでも投稿しています)
転生したら貴族の息子の友人A(庶民)になりました。
襲
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〈あらすじ〉
信号無視で突っ込んできたトラックに轢かれそうになった子どもを助けて代わりに轢かれた俺。
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あぁ、よくあるやつか。
食堂兼居酒屋を営む両親の元に転生した俺は、庶民なのに、領主の息子、つまりは貴族の坊ちゃんと関わることに……
面倒ごとは御免なんだが。
魔力量“だけ”チートな主人公が、店を手伝いながら、学校で学びながら、冒険もしながら、領主の息子をからかいつつ(オイ)、のんびり(できたらいいな)ライフを満喫するお話。
誤字脱字の訂正、感想、などなど、お待ちしております。
やんわり決まってるけど、大体行き当たりばったりです。
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