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第7章 紅玉姫の嫁入りと剣聖の片恋慕編
第512話 奇妙な関係
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アラタは父親とあまり話したことがない。
仲が悪いわけではない。
ただ自営業で毎日機械油にまみれながら金属部品とにらめっこをしている父親とは、若干だが普通の家族よりも距離があった。
アラタは何不自由なく育ててもらった自覚があるし、感謝もしている。
育ててくれた恩を覚えていることとは別にして、アラタは父親という存在との距離の取り方が良く分からなかった。
それは彼に告白したノエルの父、シャノン・クレストにも言える事だった。
「アラタ君、どうしても無理かい」
「……譲れない場所です」
「そうか」
もし彼がノエルの申し出を受け入れれば、彼はシャノンの義理の息子ということになる。
そんな間柄の人間に対して、この国の最高権力者に対して、アラタは接し方が分からない。
そんな機会は今まで一度もなかったから。
3月になり、暖かい日が増えてきた。
アラタは相変わらず戦友たちと貴族院で教導隊として働いていて、それなりに暮らしている。
何も話すことがないかと言われると、そんなことはないと断言できる程度には忙しく刺激に溢れる毎日。
ただ大公選の末期や戦時中ほど命を燃やしているのかと言われると、それはそれで違う。
一言で言えば、平和だった。
相変わらずウル帝国はちょこちょことちょっかいを出してくるし、未開拓領域では魔物の脅威と戦い続けている。
物価高も一時期に比べればだいぶ落ち着いたが、それでもまだ生活は苦しい。
そんな毎日を過ごしている今日この頃、アラタはこうして時折シャノンに呼び出されて近況報告をさせられていた。
「娘はどうだい? 少しは成長したかな?」
「いえ……特にこれと言って変化は」
「お世辞抜きで教えてくれて助かるよ」
「どうも」
シャノンは椅子の背もたれに全体重をかけた。
木製の背もたれがうめき声をあげてしなる。
彼の眼の前の机には、大公としての仕事なのだろうか大量の書類がうず高く積み上げられていた。
アラタはその向かい側で直立している。
「アラタ君」
「はい」
「正直に言おう。私は君がノエルと一緒になってくれたらいいと望んでいる」
「……それは命令ですか」
少し低くなったアラタの声を聞き、シャノンは慌てて誤解を解こうとする。
「ちがうちがう。あくまでも私個人の希望だ」
「一般人を貴族家に迎え入れるのはまずいのでは?」
彼は卑下したつもりはなかった。
ただの事実として自らを一般人と定義してそう呼称したに過ぎない。
しかしそれが面白おかしかったのか、シャノンは高笑いしながら頭を抑えた。
「くくっ、アラタ君も冗談を言うんだね」
「冗談のつもりはありませんでした」
「それなら君には人を笑わせる才能があるよ。いいかい、端的に言って君は一般人ではない」
「一般人でしょう」
「いいや、君はすでにこの国で貴族階級に迎え入れられるに相応しい能力を有している」
「そうでしょうか。もし仮にそうだったとして、ご息女をあてがう理由にはならないと思いますけど」
「君は本当に卑屈で自分を過小評価するんだなぁ。良くないよ、そういうの」
「は…………」
シャノンは行き過ぎた謙遜は嫌味と同義だと言いながら、目の前に広がる書類に判を押した。
「君は自分と他人と能力の差をはっきり認識できていると思ったが」
「…………俺は弱い」
「だからそういうのを——」
「剣聖オーウェン・ブラック、勇者レン・ウォーカー、賢者アラン・ドレイク、ユウ、俺より上なんていくらでもいます。1人じゃ、それどころか大勢でかかっても勝てなかった。大公がいくら認めてくれたとしても、俺は俺を認められない。俺は俺を好きになれないんです」
生き辛いだろうなと、シャノンはアラタに対して思った。
いつも上を向いているから、自分より下がいくらいようと安心することはない。
首が痛くなるくらいに天高くを見上げていて、一生かけても届かないような高みに手を伸ばしている。
それじゃ自己肯定感が育たないのも納得だ。
シャノンは小休止とペンを置く。
立ち上がり、戸棚に入れてある壺を取り出した。
「仕事の効率化にはこれがなくてはな。君もどうだい?」
「俺はいいです」
「毒が入っているかもしれないから?」
「【毒耐性】のスキルは持っているので問題はありませんが……決まった人の作ったものしか体が受け付けないんです」
「そうか」
「すみません」
「いや、構わないよ」
シャノンはチョコチップの入ったクッキーをサクサク口にしていく。
チョコレートにもクッキーの生地にもしっかりと上質な砂糖が使われていて、疲れた脳を回復させてくれる。
一息つくシャノンを前に、アラタはただ立っていた。
まだ話が続くのかなと心の中で思いながら。
「時にアラタ君」
「はい」
「好みの異性のタイプは?」
「はい?」
「だから、ただの世間話だよ。そういうのも無理かな?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ付き合いたまえ。ちなみに私は黒髪で背が高く胸が豊かな人が好みだ」
「大公妃様ですか」
「その通り」
アラタの脳内にはシャノンの妻、ノエルの母アリシア・クレストの顔が思い浮かんだ。
ノエルと親子とは思えないような抜群のプロポーション、顔はノエルとよく似ている。
ただし、ノエルの眼の色はシャノン譲りなので印象が少し異なる。
シャノンはクッキーを齧りながらペンでアラタを指さした。
「君は?」
「俺は……背はあまり気にしませんけど明るくて知的で、金持ちで俺に働かなくてもいいって言いながらお金を渡してくれる人が好みです」
「外見は?」
「もろもろデカい方がいいです。顔以外は」
「同感だ」
「何でこんな話始めたんです?」
「ただの興味だよ。ノエルに近ければ儲けものだと思ったのだが、外れだったみたいだね」
「失礼ですが……ご息女は親戚の子供かよくて妹のようなものと思っております」
「じゃあ近親婚だね」
「それはちょっと…………」
「冗談だ」
「大公は少し冗談が分かりにくいです」
「はは、気を付けよう」
そうこうしていくうちに、積み上げられた書類は徐々に減っていく。
他人事だからこんなことが言えるのだが、大したものだとアラタはシャノンを称賛した。
自分が書類処理をする立場なら、ここまで無駄話をしていたとして絶対にろくな作業進捗を出せる気がしない。
集中力が切れてゲームオーバーか、このままダラダラと続けてそこそこの成果しか上げられないかのどちらか。
その点シャノンはアラタと世間話をしつつも正確に迅速に仕事を片付けていった。
やがて残り2,3時間で作業が終わりそうだというところで、すっかり口数が減ったアラタが切り出した。
「自分はそろそろこの辺で失礼いたします」
「待ちたまえ」
「なんでしょうか」
「君は自分以外とノエルの婚約成立を積極的に推し進めるということでいいのかな?」
「積極的に進められるほど人脈はありませんが、まあ機会があれば」
ペンをぴたりと止め、シャノンは顎に手をやった。
綺麗に剃っているひげも、この時間帯になると少し青くなってきた気がする。
手に帰ってくる僅かな抵抗感を感じつつ、シャノンは自身の考えを述べる。
「ではここからは敵同士だ」
「はい?」
「私は君とノエルをくっつけてみせるよ。もちろんノエルもそのつもりだろうね。君はどうする? 悪いがノエルの元を去るというのは無しで頼む。また剣聖の人格が暴走したらノエルは今度こそ死ななければならなくなる」
「卑怯すぎますって」
「どんな手を使っても勝つ。私のモットーであり、亡きレイフォード卿もそうだったはずだ」
「エリーはもっとえげつなかったですよ」
「なるほど。だから私は危うく負けるところだったのか」
「ははっ」
それは嘲笑か愛想笑いだったのか、とにかく久しぶりにアラタが笑いながらその場を後にしようとする。
「最後にもう1つ」
「多いですよ大公」
「すまない。もし君がノエルと一緒になってくれるとして——」
「失礼しました」
「待ちたまえ。2人が愛を誓い合ったとして、君が幸せになれるのか私には分からない。せいぜいここ1年と少しの付き合いだからね。ただ、ノエルは違う。断言しよう、確実に、絶対に、天に誓って、必ずノエルは幸せになる。そのことを知っておいて欲しい」
「…………失礼します」
バタンと扉が閉まり、若武者が部屋から去っていった。
シャノンはクッキーの入った壺を仕舞うと、再びペンを手に取った。
「ノエルが幸せになるのは決まっているのだから、あとは君が幸せになる道を探ればいいのさ」
※※※※※※※※※※※※※※※
「ただいま」
音もなく帰ってきて、音もなくリビングに入って来られると心臓に悪いという事で、アラタは玄関で必ずこの言葉を口にするように言われていた。
別に迎えに来いと言っているわけではないので、誰も来なくても勝手に靴を脱いで勝手にあがる。
濁った瞳で前を見ながら、アラタは部屋への階段を上っていく。
それを後ろから呼び止める声があった。
「アラタ、ちょっと待って」
「ん?」
声の主は分かり切っている、ノエルだ。
「私は最近、少し大人しくしていた」
「そうだっけ?」
「そういうつもりだったんだ。でね、少し考えたんだ。アラタに振り向いてもらうにはどうしたらいいのか、そもそも私は本当にアラタが好きなのか」
「俺はいまでもお前が他の誰かとくっついてほしいと願っているよ」
「そう、それ」
「は?」
後ろを振り返ったアラタの頭上にははてなマークがいくつも浮かんでいる。
「アラタは何が何でも他の人とくっつけたいんでしょ? 私はまるで逆、是が非でもアラタに好きって言って欲しい。天地がひっくり返ってもいいからアラタに私のことを惚れさせたい。分かった?」
「……俺は、俺も逆だ。俺はお前が普通の幸せを掴むところを遠くから見ることが出来ればそれでいい。それがいい」
「勝負だね」
「なんだこのわけ分かんねー勝負は」
「早い者勝ちだよ!」
「競ってねーっつーの」
ちょっと最近ノエルが大人しくしていたと思ったら、こんなことを考えていたのかとアラタは心底呆れていた。
もう少しこうまともというか高尚というか、意義のあることに脳みそを使って欲しいと嘆いている。
でもまあ、思えば変な関係だと振り返る。
互いに互いのことが大事だから譲れない、そんな奇妙な関係。
いや、ノエルの場合は好きな人と一緒に居たいというのだから別におかしくないだろう。
アラタは大切な人の幸福な未来を護る為に、自分は傍らにいることができないと言っている。
どう考えてもおかしいのはアラタの方で、彼自身薄々それを感じ取っていた。
「調子狂うわ~」
アラタはそう言いつつ、口角をほんの少しだけ上げて部屋に戻っていった。
仲が悪いわけではない。
ただ自営業で毎日機械油にまみれながら金属部品とにらめっこをしている父親とは、若干だが普通の家族よりも距離があった。
アラタは何不自由なく育ててもらった自覚があるし、感謝もしている。
育ててくれた恩を覚えていることとは別にして、アラタは父親という存在との距離の取り方が良く分からなかった。
それは彼に告白したノエルの父、シャノン・クレストにも言える事だった。
「アラタ君、どうしても無理かい」
「……譲れない場所です」
「そうか」
もし彼がノエルの申し出を受け入れれば、彼はシャノンの義理の息子ということになる。
そんな間柄の人間に対して、この国の最高権力者に対して、アラタは接し方が分からない。
そんな機会は今まで一度もなかったから。
3月になり、暖かい日が増えてきた。
アラタは相変わらず戦友たちと貴族院で教導隊として働いていて、それなりに暮らしている。
何も話すことがないかと言われると、そんなことはないと断言できる程度には忙しく刺激に溢れる毎日。
ただ大公選の末期や戦時中ほど命を燃やしているのかと言われると、それはそれで違う。
一言で言えば、平和だった。
相変わらずウル帝国はちょこちょことちょっかいを出してくるし、未開拓領域では魔物の脅威と戦い続けている。
物価高も一時期に比べればだいぶ落ち着いたが、それでもまだ生活は苦しい。
そんな毎日を過ごしている今日この頃、アラタはこうして時折シャノンに呼び出されて近況報告をさせられていた。
「娘はどうだい? 少しは成長したかな?」
「いえ……特にこれと言って変化は」
「お世辞抜きで教えてくれて助かるよ」
「どうも」
シャノンは椅子の背もたれに全体重をかけた。
木製の背もたれがうめき声をあげてしなる。
彼の眼の前の机には、大公としての仕事なのだろうか大量の書類がうず高く積み上げられていた。
アラタはその向かい側で直立している。
「アラタ君」
「はい」
「正直に言おう。私は君がノエルと一緒になってくれたらいいと望んでいる」
「……それは命令ですか」
少し低くなったアラタの声を聞き、シャノンは慌てて誤解を解こうとする。
「ちがうちがう。あくまでも私個人の希望だ」
「一般人を貴族家に迎え入れるのはまずいのでは?」
彼は卑下したつもりはなかった。
ただの事実として自らを一般人と定義してそう呼称したに過ぎない。
しかしそれが面白おかしかったのか、シャノンは高笑いしながら頭を抑えた。
「くくっ、アラタ君も冗談を言うんだね」
「冗談のつもりはありませんでした」
「それなら君には人を笑わせる才能があるよ。いいかい、端的に言って君は一般人ではない」
「一般人でしょう」
「いいや、君はすでにこの国で貴族階級に迎え入れられるに相応しい能力を有している」
「そうでしょうか。もし仮にそうだったとして、ご息女をあてがう理由にはならないと思いますけど」
「君は本当に卑屈で自分を過小評価するんだなぁ。良くないよ、そういうの」
「は…………」
シャノンは行き過ぎた謙遜は嫌味と同義だと言いながら、目の前に広がる書類に判を押した。
「君は自分と他人と能力の差をはっきり認識できていると思ったが」
「…………俺は弱い」
「だからそういうのを——」
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生き辛いだろうなと、シャノンはアラタに対して思った。
いつも上を向いているから、自分より下がいくらいようと安心することはない。
首が痛くなるくらいに天高くを見上げていて、一生かけても届かないような高みに手を伸ばしている。
それじゃ自己肯定感が育たないのも納得だ。
シャノンは小休止とペンを置く。
立ち上がり、戸棚に入れてある壺を取り出した。
「仕事の効率化にはこれがなくてはな。君もどうだい?」
「俺はいいです」
「毒が入っているかもしれないから?」
「【毒耐性】のスキルは持っているので問題はありませんが……決まった人の作ったものしか体が受け付けないんです」
「そうか」
「すみません」
「いや、構わないよ」
シャノンはチョコチップの入ったクッキーをサクサク口にしていく。
チョコレートにもクッキーの生地にもしっかりと上質な砂糖が使われていて、疲れた脳を回復させてくれる。
一息つくシャノンを前に、アラタはただ立っていた。
まだ話が続くのかなと心の中で思いながら。
「時にアラタ君」
「はい」
「好みの異性のタイプは?」
「はい?」
「だから、ただの世間話だよ。そういうのも無理かな?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ付き合いたまえ。ちなみに私は黒髪で背が高く胸が豊かな人が好みだ」
「大公妃様ですか」
「その通り」
アラタの脳内にはシャノンの妻、ノエルの母アリシア・クレストの顔が思い浮かんだ。
ノエルと親子とは思えないような抜群のプロポーション、顔はノエルとよく似ている。
ただし、ノエルの眼の色はシャノン譲りなので印象が少し異なる。
シャノンはクッキーを齧りながらペンでアラタを指さした。
「君は?」
「俺は……背はあまり気にしませんけど明るくて知的で、金持ちで俺に働かなくてもいいって言いながらお金を渡してくれる人が好みです」
「外見は?」
「もろもろデカい方がいいです。顔以外は」
「同感だ」
「何でこんな話始めたんです?」
「ただの興味だよ。ノエルに近ければ儲けものだと思ったのだが、外れだったみたいだね」
「失礼ですが……ご息女は親戚の子供かよくて妹のようなものと思っております」
「じゃあ近親婚だね」
「それはちょっと…………」
「冗談だ」
「大公は少し冗談が分かりにくいです」
「はは、気を付けよう」
そうこうしていくうちに、積み上げられた書類は徐々に減っていく。
他人事だからこんなことが言えるのだが、大したものだとアラタはシャノンを称賛した。
自分が書類処理をする立場なら、ここまで無駄話をしていたとして絶対にろくな作業進捗を出せる気がしない。
集中力が切れてゲームオーバーか、このままダラダラと続けてそこそこの成果しか上げられないかのどちらか。
その点シャノンはアラタと世間話をしつつも正確に迅速に仕事を片付けていった。
やがて残り2,3時間で作業が終わりそうだというところで、すっかり口数が減ったアラタが切り出した。
「自分はそろそろこの辺で失礼いたします」
「待ちたまえ」
「なんでしょうか」
「君は自分以外とノエルの婚約成立を積極的に推し進めるということでいいのかな?」
「積極的に進められるほど人脈はありませんが、まあ機会があれば」
ペンをぴたりと止め、シャノンは顎に手をやった。
綺麗に剃っているひげも、この時間帯になると少し青くなってきた気がする。
手に帰ってくる僅かな抵抗感を感じつつ、シャノンは自身の考えを述べる。
「ではここからは敵同士だ」
「はい?」
「私は君とノエルをくっつけてみせるよ。もちろんノエルもそのつもりだろうね。君はどうする? 悪いがノエルの元を去るというのは無しで頼む。また剣聖の人格が暴走したらノエルは今度こそ死ななければならなくなる」
「卑怯すぎますって」
「どんな手を使っても勝つ。私のモットーであり、亡きレイフォード卿もそうだったはずだ」
「エリーはもっとえげつなかったですよ」
「なるほど。だから私は危うく負けるところだったのか」
「ははっ」
それは嘲笑か愛想笑いだったのか、とにかく久しぶりにアラタが笑いながらその場を後にしようとする。
「最後にもう1つ」
「多いですよ大公」
「すまない。もし君がノエルと一緒になってくれるとして——」
「失礼しました」
「待ちたまえ。2人が愛を誓い合ったとして、君が幸せになれるのか私には分からない。せいぜいここ1年と少しの付き合いだからね。ただ、ノエルは違う。断言しよう、確実に、絶対に、天に誓って、必ずノエルは幸せになる。そのことを知っておいて欲しい」
「…………失礼します」
バタンと扉が閉まり、若武者が部屋から去っていった。
シャノンはクッキーの入った壺を仕舞うと、再びペンを手に取った。
「ノエルが幸せになるのは決まっているのだから、あとは君が幸せになる道を探ればいいのさ」
※※※※※※※※※※※※※※※
「ただいま」
音もなく帰ってきて、音もなくリビングに入って来られると心臓に悪いという事で、アラタは玄関で必ずこの言葉を口にするように言われていた。
別に迎えに来いと言っているわけではないので、誰も来なくても勝手に靴を脱いで勝手にあがる。
濁った瞳で前を見ながら、アラタは部屋への階段を上っていく。
それを後ろから呼び止める声があった。
「アラタ、ちょっと待って」
「ん?」
声の主は分かり切っている、ノエルだ。
「私は最近、少し大人しくしていた」
「そうだっけ?」
「そういうつもりだったんだ。でね、少し考えたんだ。アラタに振り向いてもらうにはどうしたらいいのか、そもそも私は本当にアラタが好きなのか」
「俺はいまでもお前が他の誰かとくっついてほしいと願っているよ」
「そう、それ」
「は?」
後ろを振り返ったアラタの頭上にははてなマークがいくつも浮かんでいる。
「アラタは何が何でも他の人とくっつけたいんでしょ? 私はまるで逆、是が非でもアラタに好きって言って欲しい。天地がひっくり返ってもいいからアラタに私のことを惚れさせたい。分かった?」
「……俺は、俺も逆だ。俺はお前が普通の幸せを掴むところを遠くから見ることが出来ればそれでいい。それがいい」
「勝負だね」
「なんだこのわけ分かんねー勝負は」
「早い者勝ちだよ!」
「競ってねーっつーの」
ちょっと最近ノエルが大人しくしていたと思ったら、こんなことを考えていたのかとアラタは心底呆れていた。
もう少しこうまともというか高尚というか、意義のあることに脳みそを使って欲しいと嘆いている。
でもまあ、思えば変な関係だと振り返る。
互いに互いのことが大事だから譲れない、そんな奇妙な関係。
いや、ノエルの場合は好きな人と一緒に居たいというのだから別におかしくないだろう。
アラタは大切な人の幸福な未来を護る為に、自分は傍らにいることができないと言っている。
どう考えてもおかしいのはアラタの方で、彼自身薄々それを感じ取っていた。
「調子狂うわ~」
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