半身転生

片山瑛二朗

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第6章 公国復興編

第483話 怠惰の悪魔と幸せな——

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「リーゼ、なにこれ?」

「中々いい出来じゃないですか。走って呼んできた甲斐がありました」

「じゃなくて、誰これ?」

「アラタとノエルですよ」

「なにしてる?」

「寝ている」

「だよね」

 理解が追いつかないアラタは、一時的に収まったはずの頭痛が再発してしまう。
 奥を刺すような痛みは【痛覚軽減】で多少楽になるとしても、そんなに気持ちの良いものではない。
 頭を抑える彼の目の前には、1枚の絵画が飾られていた。

 キャンバスサイズP150号、2273mm×1620mmの超大作である。
 正面から見て、3人掛けのソファの右側2席に並んで寝ている2人の男女。
 右側の男は毛布を掛けて無表情、左側の女は何も掛けずにただ幸せそうに寝ていた。
 暖炉の炎の光が射しているのは多少の脚色であることを考えると、ありのままを写生した写実画ではない。
 ある種作者の想像が入った、印象的要素を取り入れた絵である。

 まあ当の本人にはそんなことどうでもいいらしく、リーゼが拵えたこの超巨大自画像をどうしたものかと思案していた。

「せめてこう、もう少し小さく……いやそうじゃなくて!」

「いいじゃないですか。何事も記憶に残すだけが思い出じゃないですし」

「そうだけど……もっと、あーもう、どこに置くんだよ」

「ノエルが自分の部屋に欲しいって言ってましたよ」

「こんなでけーの部屋に入るわけないだろ。入ってもこえーよ」

 納期数時間でこのサイズ、このクオリティの作品を完成させられたのは、やはり異世界基準といえるのかもしれない。
 クラス【絵師】に加えて、【作業加速】のスキルホルダー。
 週刊連載の漫画家が喉から手が出るほど欲しい技能であることは間違いない。
 リーゼが呼んできた画家は、アラタとノエルが寝ている間にやってきて、寝ているうちに作業を終えて帰っていった。
 リーゼは作者の名前を秘密だと言い、キャンバスの裏に書かれたサインはアラタでは読めない。
 普通の文字は読めても、崩された署名のようなものはまだ難しかった。
 写真やポスター、雑誌に載る経験はあっても、自画像は流石にない。
 これをどうしたものかと途方に暮れていたアラタの前に、もう1人のモデルがやって来た。

「アラタ! これいいでしょ!」

「あーはい、そうですね」

「アラタが欲しかったらあげるけど、どう? いらないなら私が貰う!」

「お好きにどうぞ」

「エヘヘ、じゃあ遠慮なく!」

 ルンルンのノエルはキャンバスをひょいっと持ち上げると、そのまま階段を上がっていってしまった。
 野球の滑り止めに使われる松脂のような匂い、それは絵画に使われるテレピン油のそれだ。
 少し鼻に来る匂いでも、慣れてしまえばどうってことない。
 今まで散々人の血の匂いを嗅いできたアラタにとっては大して気にならなかった。
 テレピンと、それから絵具と木枠のキャンバスの匂いがリビングに残っている。
 今日も色んなことがあったとアラタは思いながら、久しぶりの食卓に久しぶりのゆったりとした風呂の時間、それから夜間に魔術の訓練を終えて、その日は数カ月ぶりにベッドで寝た。

※※※※※※※※※※※※※※※

 アラタの朝はまあまあ早い。
 5時半起床、歯を磨いて軽食を取り、それから5分のアップのあとランニング。
 1kmを3分20秒、それを5km続ける。
 この時アラタは【身体強化】を使用しない。
 腕立て、腹筋などの補強トレーニングをそこそこに切り上げて、刀を握る。
 朝一番に刀を握れば、その日の調子がどれくらい良いのかはっきりと分かる。
 今日はいつもと違う昨日を過ごしたからか、少し調子が悪かった。
 生活習慣を変えたのだから、多少の変化は受け入れなければならない。
 素振り、刀を介した魔術制御、地面に魔力を流した結界術の練習。
 それらを一通り終えて、初めてアラタの朝は終わる。

 家に戻りシャワーを浴びて、朝食を摂る。
 随分前は彼が食事などの家事を担当していたが、シルが生まれてからは彼女の役割に変わった。
 そのおかげでこうして自由な時間を得ることが出来たのだから、実はシルが果たしている役割というのは甚だ大きい。

「アラタアラタ」

「んー?」

「今日ね、父上がフライフィッシュをくれるの!」

「なんのフライフィッシュ?」

「サーモンだよ」

「へぇー、食べたことない」

「でしょ? 出かけてもいいけど、早く帰って来てね!」

「おっけー。ごちそうさま」

 アラタは朝から上機嫌なノエルの向かいから立ち上がり、台所に食器を戻しに来た。
 この屋敷の家事全般はシルが担当している。
 しかし、流石に食器くらいは自分で洗おうよと言い始めたのはアラタだ。
 そして忘れてはならないのは、ノエルの家事能力の低さ。
 彼女が料理を作ろうとすれば、残るのは焼け野原のみ。
 だからこうして申し訳なさそうに、誰かに食器をまとめて洗ってもらうのだ。

「アラタ、ごめんね~」

「はいはい」

「じゃっ、今日は楽しみにしててね!」

 毎度のことだから慣れればいいのに、ノエルはバツが悪いのか足早にその場を後にした。
 アラタは2人分の食器を洗いながら、先ほどのことをシルにも教えてあげる。

「今日夜はサーモンフライフィッシュだって」

「それってあれ? 空飛ぶ魚のこと?」

「そー。羽と体の比重があってないのに飛べるのは、魔術か何からしいよ」

「じゃあ魔物なの?」

「分類上はね。まあおいしければいいや」

 どうにも適当な認識の父親兼主人に、シルはその見た目にそぐわない年老いた溜息をつく。

「どうしたの?」

「それ、捌くのシルでしょ?」

「そうだよ。よろしくね」

「シル生魚きらーい」

「好き嫌いしないと育たないよ?」

「違うよ。捌くのが面倒くさいって言ってるの!」

「あぁ、なるほど。俺も手伝うから頑張ろうね」

「…………はぁ~い」

 シルはたまに、もっとアラタがだらしない人間だったら良かったのにと思う。
 アラタはいい人だから、自分が我儘を言えばほとんど必ず言うことを聞いてくれる。
 それじゃあシルも頑張らないといけないじゃん、と彼女は贅沢な悩みを抱えていた。
 彼女はこれを機にもう少しアラタと同じ場所で同じ時間を過ごした方がいい。
 そして彼との正しい付き合い方を身につけるべきだ。
 なにせ、実質的な親子であるにもかかわらず過ごした時間が短すぎるから。

 アラタはシルを台所に残して、自分は用事があるので外に出る準備をする。
 今日はドレイクの家で、メイソン・マリルボーンと黒装束の次世代品について打ち合わせをする予定になっている。
 あの魔道具の系譜は、特殊配達課の黒装束、八咫烏の黒装束、第1192小隊の黒鎧と続いている。
 アラタを除く1192小隊のメンバーは今も黒鎧をメンテナンスしながら使用しているのだが、アラタのそれは一度完全に壊れてしまった。
 それ以来、彼は八咫烏時代の黒装束を使っていた。
 背中に3本足のカラスの意匠が刻まれた、特別仕様の黒装束だ。
 少し自己主張が強すぎる気もするが、隠密効果で気にならないのだから別にいいだろう。

 とにかく、アラタは新しいスパイク、ユニフォーム、ラケットをオーダーメイドするような楽しみに胸を躍らせていた。
 自分の要望した機能が組み込まれるかもしれないなんて、道具を使う人間からすればこれほど嬉しいことはない。
 アラタは浮足立つ気持ちを抑えながらトイレに向かう。
 鍵はついている。
 しかし鍵の開閉状態を示すインジケーターがないので、必ずノックする。
 コンコンと2回扉を叩くも反応なし、これでアラタが加害者になる可能性はゼロになった。
 もし中でノエルが寝ていたとしても、それは彼女の過失であってアラタの罪ではない。
 なんて面倒な思考は置いておき、トビラ・タタク、ドア・アケルくらいの感覚でアラタはドアノブを回して戸を引いた。

 そして——

「あら、こんにちは♡」

「失礼しました」

 アラタは扉を閉めてから思った。

 何が失礼したんだ?
 というかここはうちのトイレだよな?
 いつから公衆トイレになった?

「あれかな、疲れてるのかもしれない」

 アラタもトイレに入りたいので、扉をもう一度開く。

「……失礼しました」

 またも扉を閉めて、アラタは顎を触る。

 ……薄いピンクだった。
 黒か紫かなって思ったけど、ピンクだった。
 悪くない、悪くないよそういうの。
 なんか良い匂いしたし、フェロモンっていうのかな、うちのゴリラ共とはフェロモンレベルが段違いだ。

 アラタがキャラ崩壊レベルの一人語りを心の中で繰り広げている間に、蛇口をひねる音が鳴った。
 カナン公国、その首都アトラといえど、下水道完備型の住居はそこまで多くない。
 この物件の自慢できる箇所の1つだ。
 扉が開き、中から例の美女が出てきた。
 アラタは思わず直立不動、気を付けの体勢に移行する。

「私、ベルフェゴールっていうの。あなたのことが気になって気になって、我慢できずに来ちゃったわ」

「じっ、自分もベルフェゴールさんのことが気になっているであります! 自分の名前はアラタっていいます! 20歳独身彼女無しであります!」

 アラタはもう、黒鎧の後継機種のことなんてどうでもよくなっていた。
 紫がかった深い青色の美しい髪。
 濡れ羽色の髪とは、彼女の為にある言葉のように思えた。
 身長はかなり高く、約170cmといったところ。
 これはオランダ人女性の平均身長と同程度であるから、そのようなイメージがわかりやすいだろう。
 女性の容姿を表現することに対する風向きが強くなる昨今。
 それでもアラタは思った。

 デッッッッッッッッッッカ!!!

 何がとは敢えて言わない。
 言わなくても分かるから。
 アラタの身長は185cmであることを鑑みると、ベルフェゴールと名乗った女性の目を見て話そうとすると視線が少し下がることは避けられない。
 でも、アラタの視線は不必要なほど下を向いていた。
 太く、細く、また太く。
 アラタの好みド真ん中ドストライクだった。
 薄く浮かべている笑みも、美しい曲線を描く脚も、悪魔的なまでの造形美をしている顔も、アラタは彼女から視線が離せなくなっていた。

「あの、なんで家のトイレに……」

「……趣味、もしくは生き方、かな」

「良いと思います」

 アラタは親指を天に刺さるほど強く上に突き立てて、何が何だか分からない趣味趣向に全力で同意した。
 徹頭徹尾意味の分からないアラタとベルフェゴールのファーストコンタクトは、乱入者によって強制終了することとなる。

「アラター、もう行くから夜ご飯楽しみに——」

 廊下で謎の美女とアラタが至近距離で見つめ合っていて、それを見てしまった立場の自分。
 肩にかけていたバッグがドサリと落ちた。

「ノエル!? あーこの人はね、えっと、どちら様?」

「指名されて来ちゃいました」

 分かっているのか、ベルフェゴールは悪ノリをしてアラタの方にハートが付きそうなウインクをした。
 アラタは以前、女遊び絡みでノエル、リーゼ、クリスに締め上げられている。
 凄い量の汗と共に、アラタは両手を振って弁明した。

「あのですねノエルさん、これはその決していかがわしいこととかではなくこの人がうちのトイレにですね……えっと、そのぉ……」

「ない。これはない」
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