407 / 544
第5章 第十五次帝国戦役編
第403話 数あるうちの1つ
しおりを挟む
人の痛みは、一過性だ。
どんなに痛くても、その感覚が畳み込み、つまり積分されることは無く、今感じている痛覚もやがて薄れて消えてしまう。
過去の骨折よりも、いまタンスの角にぶつけてしまった小指の方が痛みを強く感じるという事だ。
そう考えると、この痛みもいくらかマシになる。
弟を喪ったという心の痛みが。
「……消えねえなあ」
どうしようもなく深く潜り込んだ心の棘に、アラタは嘆息した。
敵が能力をオフにすれば、あるいは敵を殺害すれば、スキルの効果は停止すると思っていた。
実際そのようなものは多いし、そう言う目的でアラタは敵を殺害した。
しかし残念ながら、目の前に倒れている少年兵の能力はそういう類のものではなかったらしい。
相手と自分の関係性を錯覚させる能力ではなく、相手と自分の関係性を書き換える能力だったという事だ。
前者は一時的効果に留まることが想像されるが、後者は永続的な効果だろう。
後者の能力を無効化するには、もう一度現実に即した形で能力を掛け直すしかない。
そしてアラタがスキルホルダーの敵を倒したことで、その望みも消えてしまった。
アラタとアーキム、そして少年が今までスキルを行使してきたすべての人間は、これから近しい者の喪失感を胸に抱いて生きていくのだ。
「アーキム、大丈夫か? 大丈夫だな」
「俺は…………」
名も知らぬ少年兵の前で立ち尽くしているアーキムは、ただ茫然自失としていた。
そんな彼に何を言っても無駄だろうと、アラタはそれ以上何も言わなかった。
ただ肩を叩き味方の方へ向きを変え、仲間と共に帰還する。
スキルの重要なサンプルとして、少年兵の遺体は第1192小隊によって公国軍に収容された。
——いつの間にか、残りの少年兵の姿は消えていた。
※※※※※※※※※※※※※※※
アラタはエルモが手綱を握る馬の後ろに乗っていた。
先に一番砦に向かわせていた荷車を追いかけて、司令部に向かうためだ。
彼はこれから、ハルツ戦死の報告を行わなければならない。
ハルツと同じクラーク家の司令官と、もしかすると彼の甥と義理の甥になるかもしれなかった人間たちの前で。
「アラタ、ちょっといいか」
2人乗りでゆっくりと歩みを進めていたエルモは、後ろに乗っているアラタを呼んだ。
「ん?」
「ちょっと耳貸してくれ」
「はい」
向きが逆なら良かったのにと思いつつ、アラタはエルモの肩にあごを乗せた。
肩にボウリングの球くらいの重量感を感じつつ、エルモは周囲の様子を確認した。
やがて、蚊の鳴くような小さな声で——
「…………どう?」
「可能性は確かめて排除しなくちゃな」
「じゃあ」
「あぁ、お前のいう通りにしよう。ただ、この件は俺とお前で止めとけ、いいな」
「分かった」
アラタは偶然、たまたま、運といった概念が実在すると信じている。
ただ、普通の人とは少し異なる考え方をする彼は、いうなれば偶然の狂信者。
確かに偶然は人生の中にちりばめられているが、こんなものは偶然でも何でもない、お前如きが偶然という事象を自称するなと即座に否定から入る。
大手パン製造メーカーばりの厳しい審査を乗り越えて、ようやく彼の中で偶然の産物であることが認定される。
それまでは、目の前で起きた現象は全て必然によるものだと考えることが彼の癖になっていた。
荷物を襲ってきた敵を跳ね返した時は一時的にテンションが上がって我を忘れていたが、自分たちの指揮官がやられたというのは結構心に来るものがある。
時間制限のある鼓舞は出来ても、心の傷そのものを取り除くことは出来ない。
それは古傷のようにいつまでも消えることは無く、適切に向き合わなければたちまち雑菌で膿んでしまう。
彼の心の中に、また澱が沈殿していった。
「……な、本っと……いや! まだ信じないぞ! 遺体が見つからなければあいつは!」
「ご遺体は既に収容してあります。対面いたしますか?」
「あ…………」
アダム・クラーク中将は、クラーク伯爵家本家が嫌いだ。
憎いとか壊してやりたいとか、そこまでの憎悪ではない。
ただ、分家の自分たちには回ってこない権益を多く持っていたりすることが気に入らなかった。
だから初めは、士官学校に入って来たハルツのことも同じく気に入らなかった。
それでも軍人として、意識的に公正であることに努めたこともあって、成績などを減点したことは無い。
だが今となっては、それは逆差別だったのかもしれないとも思う。
やがて第十四次帝国戦役が発生し、その後ハルツは軍をやめた。
当時もあれしきのことで辞職するなんて、覚悟が足りないと心の中で罵った。
冒険者になった時も、軍から逃げたという感覚を拭うことは出来なかった。
そして、彼はまた戦場に帰って来た。
多くの頼もしい仲間を引き連れて。
そこまで来てようやくアダムは、自身がハルツを正当に評価していないことに気が付いた。
そしてそのまま表向きの態度を変えることないまま、彼らは死によって別たれた。
「中将閣下、入ります」
遺体安置に使われている天幕をめくると、そこには大勢の兵士たちで溢れ返っていた。
装備は公国軍の正式なものから、冒険者なのか多種多様なものまで。
居場所を転々としてきて、その先々で様々な人と仲良くなってきた彼らしかった。
顔にかけられる白布は取り去られていて、彼の胸元に置かれている。
アダム中将が近づくと自然と道が開いた。
「中隊長、か……」
共に険しい顔だった。
苦しんでいるのとはまた違うが、ハルツもアダムも、共に顔に刻まれた皺は苦労の証。
ここまでの人生が決して平坦ではなかったことの表れ。
「中尉……いや、外郭団体なら少尉か?」
中将は独り言をぶつぶつと繰り返す。
「二階級特進しても大尉。……大貴族の血縁が尉官で殉職なんぞ、この……お前…………なぜ、お前は……っ!」
将官たるもの、部下の前で涙は見せない。
今まで多くの死に直面してきた百戦錬磨の将は、こんなことで泣き崩れたりしない。
粛々と受け入れて、次に進むだけだ。
泣いてもハルツは生き返らないし、味方の士気も上がらない。
悲しみは涙を流せば一緒に流れてくれるから、悲しみを怒りに変えて前に進むには不要なものだ。
「首都に、アトラの街に帰らせてやれ」
中将はそれだけ言うと、遺体安置所を後にした。
司令部と遺体の安置エリアが近くにあるなんて、こんなに不吉なことは無い。
だからハルツが置かれている場所から本部までは、歩きでそこそこかかる。
一番砦の頂上に司令部は置かれていて、遺体の安置は一番砦の中腹付近に位置している。
兵士が死ぬのは基本的に前線で、一時的に遺体を保管することもある場所は、なるだけ移動距離が少ないことが好ましかった。
徒歩で来たのだから、帰りも徒歩。
数名の部下を連れて山頂まで山登りの最中だったアダム中将の後ろから、カッポカッポと馬の蹄の音が聞こえてきた。
「ここでいい、降ろしてくれ」
「おう」
ブルル、と馬の息遣いが近くで聞こえたので、思わず振り返った。
黒衣の兵士が20名弱、2人で1頭の馬に乗馬していた。
その先頭から降りて小走りに駆けてきたのがアラタである。
「アダム・クラーク中将閣下。第206中隊所属、第1192小隊長アラタです」
「あ、あぁ。この前はすまなかったな」
「いえ。それより、もうお会いになられましたか」
ハルツのことを言っているのだと一瞬で分かる。
アダム中将は首を縦に振り、自分が元来た道を指し示した。
「向こうに安置されている。もうすぐアトラに帰還するだろうから、挨拶を済ませておきなさい」
「いえ、自分はもう済ませましたので」
「そうか」
「それに……」
「ん? どうした?」
「いえ、何でもありません」
空気の読める男アラタは、口から出かかった言葉をグッと飲み込んだ。
——見に行ったところで、ハルツさんは生き返らない。
その発言がどれくらい『ナシ』であるのか、アラタだってそれくらいの知能はある。
上官の死はこんなにも状況を変えてしまうのかと、アラタは自分の身を心配する。
自分が死ねば、ついてきている部下がどうなってしまうのか想像すらしたくない。
自身より劣る指揮官の元任務に赴きやがて壊滅、もしくは隊員がバラバラになってそのまま二度と会わず。
それはあまりにも無常だと、彼は生き抜かなければと使命感に突き動かされた気がした。
「アラタ」
「タリアさん」
目元が腫れている、というより現在進行形で泣いている。
アラタは自分の目から出てこない涙が、なんだかとても尊くて大切なものに思えた。
忘れてはならない、大事なものに見えた。
「206の隊長はあなたになるんでしょ」
「えぇ、まあ。特に何もなければ」
「私は必ず、絶対に帝国軍を滅ぼすわ。あなたも全力を尽くしなさい」
「あ、はい」
タリアはそれだけ宣言すると、元来た道を引き返していった。
アダム中将が言っていた、ハルツの遺体安置場の方向だった。
アラタは逆に、エルモたち1192小隊が向かった方へと歩いていく。
こちらは一番砦の司令部の方向だ。
なだらかな傾斜を登りつつ、アラタは思考する。
この戦争が始まってから自分が奪った命をカウントする。
初めの方は案外よく覚えているなと思ったが、途中からまるで思い出せない。
丁度、コートランド川の戦いが本格化した辺りからだろうか。
そして今度は、味方の損失を思い浮かべる。
20人隊の1192から何人離脱したとか、中隊になって損壊と再編成を何回したとか、そういった理論的な計上方法は用いない。
1人1人の顔を思い浮かべて、どんな死に方だったのか、最後に交わした言葉はなんだったか、エピソード仕立てで回顧する。
「…………やめた」
こちらも途中から思い出せなくなり、途中で放り投げた。
その結果を受けて、彼は一つの結論を出した。
たかが人間の命、だと。
この世界の人口は知らないが、元の世界では数十億人が暮らしている。
その中のたかが1つ、数あるうちの1つだと、そう自らに言い聞かせた。
大したことないと、心揺り動かされるほどの出来事ではないと、心の中で反芻する。
揺らぐ自我、消えゆく敵味方の命、傷つく体。
どれも元の世界では特に大切にしてこなかったもの、大切にしなくても厳重に保証されていたもの。
この世界に来てからというもの、彼の中のアイデンティティは、崩壊の一途を辿っている。
悲しんでも何も変わらないというが、じゃあ悲しんではいけないのか、悲しむべきではないのか。
——否。
それは断じて、否、である。
しかし、そうでも考えなければ、死と距離を取らなければ、単なる人間の1個体として、精神の安定を保てなかったのだろう。
アラタは死を遠ざけることで、心の安寧を確保する道を無意識に選んでしまった。
それがのちにどんな悲劇を生み出すのか、当時彼はまだ知らない。
どんなに痛くても、その感覚が畳み込み、つまり積分されることは無く、今感じている痛覚もやがて薄れて消えてしまう。
過去の骨折よりも、いまタンスの角にぶつけてしまった小指の方が痛みを強く感じるという事だ。
そう考えると、この痛みもいくらかマシになる。
弟を喪ったという心の痛みが。
「……消えねえなあ」
どうしようもなく深く潜り込んだ心の棘に、アラタは嘆息した。
敵が能力をオフにすれば、あるいは敵を殺害すれば、スキルの効果は停止すると思っていた。
実際そのようなものは多いし、そう言う目的でアラタは敵を殺害した。
しかし残念ながら、目の前に倒れている少年兵の能力はそういう類のものではなかったらしい。
相手と自分の関係性を錯覚させる能力ではなく、相手と自分の関係性を書き換える能力だったという事だ。
前者は一時的効果に留まることが想像されるが、後者は永続的な効果だろう。
後者の能力を無効化するには、もう一度現実に即した形で能力を掛け直すしかない。
そしてアラタがスキルホルダーの敵を倒したことで、その望みも消えてしまった。
アラタとアーキム、そして少年が今までスキルを行使してきたすべての人間は、これから近しい者の喪失感を胸に抱いて生きていくのだ。
「アーキム、大丈夫か? 大丈夫だな」
「俺は…………」
名も知らぬ少年兵の前で立ち尽くしているアーキムは、ただ茫然自失としていた。
そんな彼に何を言っても無駄だろうと、アラタはそれ以上何も言わなかった。
ただ肩を叩き味方の方へ向きを変え、仲間と共に帰還する。
スキルの重要なサンプルとして、少年兵の遺体は第1192小隊によって公国軍に収容された。
——いつの間にか、残りの少年兵の姿は消えていた。
※※※※※※※※※※※※※※※
アラタはエルモが手綱を握る馬の後ろに乗っていた。
先に一番砦に向かわせていた荷車を追いかけて、司令部に向かうためだ。
彼はこれから、ハルツ戦死の報告を行わなければならない。
ハルツと同じクラーク家の司令官と、もしかすると彼の甥と義理の甥になるかもしれなかった人間たちの前で。
「アラタ、ちょっといいか」
2人乗りでゆっくりと歩みを進めていたエルモは、後ろに乗っているアラタを呼んだ。
「ん?」
「ちょっと耳貸してくれ」
「はい」
向きが逆なら良かったのにと思いつつ、アラタはエルモの肩にあごを乗せた。
肩にボウリングの球くらいの重量感を感じつつ、エルモは周囲の様子を確認した。
やがて、蚊の鳴くような小さな声で——
「…………どう?」
「可能性は確かめて排除しなくちゃな」
「じゃあ」
「あぁ、お前のいう通りにしよう。ただ、この件は俺とお前で止めとけ、いいな」
「分かった」
アラタは偶然、たまたま、運といった概念が実在すると信じている。
ただ、普通の人とは少し異なる考え方をする彼は、いうなれば偶然の狂信者。
確かに偶然は人生の中にちりばめられているが、こんなものは偶然でも何でもない、お前如きが偶然という事象を自称するなと即座に否定から入る。
大手パン製造メーカーばりの厳しい審査を乗り越えて、ようやく彼の中で偶然の産物であることが認定される。
それまでは、目の前で起きた現象は全て必然によるものだと考えることが彼の癖になっていた。
荷物を襲ってきた敵を跳ね返した時は一時的にテンションが上がって我を忘れていたが、自分たちの指揮官がやられたというのは結構心に来るものがある。
時間制限のある鼓舞は出来ても、心の傷そのものを取り除くことは出来ない。
それは古傷のようにいつまでも消えることは無く、適切に向き合わなければたちまち雑菌で膿んでしまう。
彼の心の中に、また澱が沈殿していった。
「……な、本っと……いや! まだ信じないぞ! 遺体が見つからなければあいつは!」
「ご遺体は既に収容してあります。対面いたしますか?」
「あ…………」
アダム・クラーク中将は、クラーク伯爵家本家が嫌いだ。
憎いとか壊してやりたいとか、そこまでの憎悪ではない。
ただ、分家の自分たちには回ってこない権益を多く持っていたりすることが気に入らなかった。
だから初めは、士官学校に入って来たハルツのことも同じく気に入らなかった。
それでも軍人として、意識的に公正であることに努めたこともあって、成績などを減点したことは無い。
だが今となっては、それは逆差別だったのかもしれないとも思う。
やがて第十四次帝国戦役が発生し、その後ハルツは軍をやめた。
当時もあれしきのことで辞職するなんて、覚悟が足りないと心の中で罵った。
冒険者になった時も、軍から逃げたという感覚を拭うことは出来なかった。
そして、彼はまた戦場に帰って来た。
多くの頼もしい仲間を引き連れて。
そこまで来てようやくアダムは、自身がハルツを正当に評価していないことに気が付いた。
そしてそのまま表向きの態度を変えることないまま、彼らは死によって別たれた。
「中将閣下、入ります」
遺体安置に使われている天幕をめくると、そこには大勢の兵士たちで溢れ返っていた。
装備は公国軍の正式なものから、冒険者なのか多種多様なものまで。
居場所を転々としてきて、その先々で様々な人と仲良くなってきた彼らしかった。
顔にかけられる白布は取り去られていて、彼の胸元に置かれている。
アダム中将が近づくと自然と道が開いた。
「中隊長、か……」
共に険しい顔だった。
苦しんでいるのとはまた違うが、ハルツもアダムも、共に顔に刻まれた皺は苦労の証。
ここまでの人生が決して平坦ではなかったことの表れ。
「中尉……いや、外郭団体なら少尉か?」
中将は独り言をぶつぶつと繰り返す。
「二階級特進しても大尉。……大貴族の血縁が尉官で殉職なんぞ、この……お前…………なぜ、お前は……っ!」
将官たるもの、部下の前で涙は見せない。
今まで多くの死に直面してきた百戦錬磨の将は、こんなことで泣き崩れたりしない。
粛々と受け入れて、次に進むだけだ。
泣いてもハルツは生き返らないし、味方の士気も上がらない。
悲しみは涙を流せば一緒に流れてくれるから、悲しみを怒りに変えて前に進むには不要なものだ。
「首都に、アトラの街に帰らせてやれ」
中将はそれだけ言うと、遺体安置所を後にした。
司令部と遺体の安置エリアが近くにあるなんて、こんなに不吉なことは無い。
だからハルツが置かれている場所から本部までは、歩きでそこそこかかる。
一番砦の頂上に司令部は置かれていて、遺体の安置は一番砦の中腹付近に位置している。
兵士が死ぬのは基本的に前線で、一時的に遺体を保管することもある場所は、なるだけ移動距離が少ないことが好ましかった。
徒歩で来たのだから、帰りも徒歩。
数名の部下を連れて山頂まで山登りの最中だったアダム中将の後ろから、カッポカッポと馬の蹄の音が聞こえてきた。
「ここでいい、降ろしてくれ」
「おう」
ブルル、と馬の息遣いが近くで聞こえたので、思わず振り返った。
黒衣の兵士が20名弱、2人で1頭の馬に乗馬していた。
その先頭から降りて小走りに駆けてきたのがアラタである。
「アダム・クラーク中将閣下。第206中隊所属、第1192小隊長アラタです」
「あ、あぁ。この前はすまなかったな」
「いえ。それより、もうお会いになられましたか」
ハルツのことを言っているのだと一瞬で分かる。
アダム中将は首を縦に振り、自分が元来た道を指し示した。
「向こうに安置されている。もうすぐアトラに帰還するだろうから、挨拶を済ませておきなさい」
「いえ、自分はもう済ませましたので」
「そうか」
「それに……」
「ん? どうした?」
「いえ、何でもありません」
空気の読める男アラタは、口から出かかった言葉をグッと飲み込んだ。
——見に行ったところで、ハルツさんは生き返らない。
その発言がどれくらい『ナシ』であるのか、アラタだってそれくらいの知能はある。
上官の死はこんなにも状況を変えてしまうのかと、アラタは自分の身を心配する。
自分が死ねば、ついてきている部下がどうなってしまうのか想像すらしたくない。
自身より劣る指揮官の元任務に赴きやがて壊滅、もしくは隊員がバラバラになってそのまま二度と会わず。
それはあまりにも無常だと、彼は生き抜かなければと使命感に突き動かされた気がした。
「アラタ」
「タリアさん」
目元が腫れている、というより現在進行形で泣いている。
アラタは自分の目から出てこない涙が、なんだかとても尊くて大切なものに思えた。
忘れてはならない、大事なものに見えた。
「206の隊長はあなたになるんでしょ」
「えぇ、まあ。特に何もなければ」
「私は必ず、絶対に帝国軍を滅ぼすわ。あなたも全力を尽くしなさい」
「あ、はい」
タリアはそれだけ宣言すると、元来た道を引き返していった。
アダム中将が言っていた、ハルツの遺体安置場の方向だった。
アラタは逆に、エルモたち1192小隊が向かった方へと歩いていく。
こちらは一番砦の司令部の方向だ。
なだらかな傾斜を登りつつ、アラタは思考する。
この戦争が始まってから自分が奪った命をカウントする。
初めの方は案外よく覚えているなと思ったが、途中からまるで思い出せない。
丁度、コートランド川の戦いが本格化した辺りからだろうか。
そして今度は、味方の損失を思い浮かべる。
20人隊の1192から何人離脱したとか、中隊になって損壊と再編成を何回したとか、そういった理論的な計上方法は用いない。
1人1人の顔を思い浮かべて、どんな死に方だったのか、最後に交わした言葉はなんだったか、エピソード仕立てで回顧する。
「…………やめた」
こちらも途中から思い出せなくなり、途中で放り投げた。
その結果を受けて、彼は一つの結論を出した。
たかが人間の命、だと。
この世界の人口は知らないが、元の世界では数十億人が暮らしている。
その中のたかが1つ、数あるうちの1つだと、そう自らに言い聞かせた。
大したことないと、心揺り動かされるほどの出来事ではないと、心の中で反芻する。
揺らぐ自我、消えゆく敵味方の命、傷つく体。
どれも元の世界では特に大切にしてこなかったもの、大切にしなくても厳重に保証されていたもの。
この世界に来てからというもの、彼の中のアイデンティティは、崩壊の一途を辿っている。
悲しんでも何も変わらないというが、じゃあ悲しんではいけないのか、悲しむべきではないのか。
——否。
それは断じて、否、である。
しかし、そうでも考えなければ、死と距離を取らなければ、単なる人間の1個体として、精神の安定を保てなかったのだろう。
アラタは死を遠ざけることで、心の安寧を確保する道を無意識に選んでしまった。
それがのちにどんな悲劇を生み出すのか、当時彼はまだ知らない。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
【R18】童貞のまま転生し悪魔になったけど、エロ女騎士を救ったら筆下ろしを手伝ってくれる契約をしてくれた。
飼猫タマ
ファンタジー
訳あって、冒険者をしている没落騎士の娘、アナ·アナシア。
ダンジョン探索中、フロアーボスの付き人悪魔Bに捕まり、恥辱を受けていた。
そんな折、そのダンジョンのフロアーボスである、残虐で鬼畜だと巷で噂の悪魔Aが復活してしまい、アナ·アナシアは死を覚悟する。
しかし、その悪魔は違う意味で悪魔らしくなかった。
自分の前世は人間だったと言い張り、自分は童貞で、SEXさせてくれたらアナ·アナシアを殺さないと言う。
アナ·アナシアは殺さない為に、童貞チェリーボーイの悪魔Aの筆下ろしをする契約をしたのだった!
転生者は力を隠して荷役をしていたが、勇者パーティーに裏切られて生贄にされる。
克全
ファンタジー
第6回カクヨムWeb小説コンテスト中間選考通過作
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
2020年11月4日「カクヨム」異世界ファンタジー部門日間ランキング51位
2020年11月4日「カクヨム」異世界ファンタジー部門週間ランキング52位
幼馴染み達が寝取られたが,別にどうでもいい。
みっちゃん
ファンタジー
私達は勇者様と結婚するわ!
そう言われたのが1年後に再会した幼馴染みと義姉と義妹だった。
「.....そうか,じゃあ婚約破棄は俺から両親達にいってくるよ。」
そう言って俺は彼女達と別れた。
しかし彼女達は知らない自分達が魅了にかかっていることを、主人公がそれに気づいていることも,そして,最初っから主人公は自分達をあまり好いていないことも。
【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する
雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。
その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。
代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。
それを見た柊茜は
「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」
【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。
追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん…....
主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる