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第5章 第十五次帝国戦役編
第350話 あっちでグダグダ、こっちでグダグダ
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この作戦は、初めから厳しいと誰もが言っていた。
賛成派も反対派も、どちらもである。
それくらいギャンブル要素の強い作戦であり、それだけのリターンが見込める策でもあった。
そして、司令部に中間報告がもたらされた。
「報告します! 第288、029中隊壊滅! 繰り返します、2個中隊壊滅です!」
「生存者は」
「……不明です。敵軍に完全に飲み込まれました」
「分かった。一度下がれ」
「はっ」
報告係が天幕を後にすると、司令部に重たい空気が停滞する。
4個投入した中隊の内、2個がロストした。
この事実は作戦の成否に決して少なくない影響を与えると、誰もが理解していた。
第288と第029中隊は、それぞれ戦場の両端を担当していた部隊である。
彼らを喪失したとなれば、敵軍は中央付近の残り2つの中隊に襲い掛かるだろう。
つまり、第223中隊と第301中隊だ。
「会議を再開しましょう」
タッド・ロペス大佐はそう言いながら、コートランド川両端の部隊を模した駒を排除した。
彼らを計算に入れることはもうできない。
ロペス大佐に促されるように、将校らはテーブルを囲んだ。
「敵軍の動きは」
司令官アイザック・アボットが訊く。
「誘引役がそれぞれ追撃を受けています。233はかなりの損失を被っていますが、301は無傷に近いです」
川のこちら側からの監視では、よほど大ダメージを受けない限り認識は出来ない。
2割近い損失も誤差の範囲内に収束してしまう。
「敵の規模はそれぞれ千から2千。船を使用したりしなかったりと対応に差があります」
「なるほど、船の管理は……ガルシア中将、どうなっている?」
「出せることには出せますが、この後の作戦を考えたら馬の運搬用に温存しておきたいというのが本音です」
「そうか」
マイケル・ガルシア中将の意見を聞き、アボットは少し黙った。
彼の脳内では、高速で戦闘シミュレーションが実行されている。
船を使うべきか、それとも中将のいう通り温存すべきか。
「もう一度誘引部隊の様子を報告させろ」
「分かりました。おい」
指示を受けた会場係は外に待機していた部下に命令して、再度情報収集に向かわせる。
司令部付近は緊迫した空気で張り詰めていた。
「特に変化がなければ、ガルシア殿の言うように船は温存する。異存ないな」
司令官の言葉にうなずく諸将。
彼らとは綿密な事前打ち合わせを既に完了させており、いま起こっている戦況も想定の範囲内である。
少し芳しくないと但し書きはつくが。
「2個中隊が壊滅……ですか」
マット・ルイス少将の声も重い。
正直、現時点でかなりの痛手を負っているのは帝国ではなく公国側だ。
奇襲作戦を敵に印象付けるためには、有象無象の部隊では務まらない。
それなりに有能な指揮官とそれに見合うだけの部隊を用意しなければならない。
アラタ率いる第301中隊のように、選り抜きの精鋭を投入している。
それがすでに200人以上の損失、生き残っている2個中隊の被害を含めれば250名の損失は堅いだろう。
開戦当初からじりじりとその数を減らし、1万7千を切った公国軍にこの損失は致命傷になりかねない。
まさに肉を断って骨を断つ策。
会議を続けていると、先ほど命令した情報収集の結果がもたらされた。
「報告! 第223中隊ロスト! 中隊は敵に捕捉されました!」
いよいよ不味くなってきた。
これで残るは第301中隊のみ。
彼らが倒れれば敵も撤収してしまうだろう。
なんとしても彼らだけは生き残ってもらわねばならない。
「第301中隊は!」
唾を飛ばしながらブレア・ラトレイア中将が叫んだ。
アラタの部隊には彼の血縁のアーキム・ラトレイアも所属している。
安否が気になるところだった。
「301は健在! 既に川の中腹を通過してこちらに向かっております!」
「おぉお! やはり切り札か!」
「素晴らしい!」
「他には!」
「は、河川敷の部隊が救出に出たがっております!」
その報告を聞いたアボット大将は、ニヤリと笑った。
3個中隊の命を使い捨ててまで臨んだ状況が、ようやっと目前まで迫って来たのだ。
一度息を吐き、また吸い込んだ。
「ただちに中隊を救出して手当てを受けさせろ! それと前線の兵8千を出して敵を迎撃させるのだ!」
「はっ!」
彼の指示が下りると、途端に司令部が慌ただしくなる。
8千の兵を動かすという事は、最低でも1個旅団と1個連隊、場合によっては1個師団が丸ごと出撃するケースも想定される。
それを指揮するのはここに詰めている大佐や少将以上の階級の軍人になる。
ここ公国軍司令部からもついに出撃者が出るのだ。
次々に天幕を後にする将官たちを、アボットはただ見送る。
作戦の詳細を知る彼らを前線に送ることで、これから想定される緻密で繊細な行動はより一層盤石なものとなる。
そうでもしなければ、これから混乱の真っただ中に陥るであろう河川敷を制御しきることは難しい。
最難関と言っても差し支えない、鬼門に入るのだ。
「さあ、勝負だ」
軍人人生を懸けて、この作戦を成功させるという決意は、果たして点に届くのだろうか。
計算された右往左往が始まろうとしていた。
※※※※※※※※※※※※※※※
「あれは…………!?」
第301中隊第2小隊長リャン・グエルは一度その碧い眼を疑った。
味方陣地に帰還してきた自分たちを助けようと警備兵たちが水際に来てくれたことは嬉しいし、素直にありがたい。
しかし、その奥から雲霞の如く押し寄せる黒い波。
それは味方のはずなのに、酷く恐ろしく映った。
驚愕の光景に表情が固まっているリャンの隣で、アラタは無表情のまま次の動きを考えていた。
隣の……なに中隊だっけ。
敵に追いつかれて沈んだし、他も似たようなもんだろ。
となると俺らを助けにこれだけの兵士が出てきたことになって……おかしいよな、うん、違和感しかない。
となるとケースは『欺瞞行動が的中しなかった』場合の『敵に混乱を印象付ける』行動になるのか。
司令部に入り浸っていたアラタは軍のケース想定を頭に叩き込んである。
これも一朝一夕で覚えきれるような内容ではないが、アラタは割とすんなりと頭に入って定着したと語る。
明らかに彼の勉強能力では説明のつかない現象、ほぼ確実に何らかのスキルの影響が考えられる。
その現象に固有の能力が存在するのか、それとも【不溢の器】の効果なのか。
そこまではアラタでは予測がつかない。
とにかく、混乱前夜というのが今の状況だ。
そして、今の中隊がこの混乱に巻き込まれるのはまずいとアラタは思った。
振り返れば、ボロボロの隊員たちが必死に川を泳いでいる。
道半ばで川に沈んでいった人間もいれば、意識を喪失したまま仲間に担がれている者もいる。
船の上でそのまま息を引き取った奴も、いろんな人間がいる。
そしてついに、アラタの乗っていた船の底が川底を擦った。
「上がれ! すぐに救護所に運べ!」
彼がそう叫ぶ間にも、中隊を援助しようと待ち構えていた警備兵たちが次々に駆け寄ってくる。
彼らはこの瞬間をずっと待っていた。
「土手に馬車を用意してあります! 急いで!」
「こっち脈が止まっている! 救命措置を継続させろ!」
「止血剤! ポーション! 早く!」
河川敷はもうてんやわんやの大騒ぎである。
そして、混乱はこれだけでは収まらない。
土手の奥の方から押し寄せつつあった大規模な部隊が、ついに河川敷近くに到達したのだ。
「全軍! 突撃!」
「「「おおおぉぉぉ!!!」」」
「へいへい正気か?」
エルモはいつもの軽口を叩いていたが、肩を負傷したようで包帯を巻いている。
それも川の水に濡れてしまって、かえって不衛生なまである。
彼も早急な手当てが必要な要救護者だった。
「下がるぞ!」
アラタ達を追いかけていた帝国軍の責任者はすぐに判断を下した。
もう公国軍が突撃命令を受ける前に撤退の合図を出すくらい早いものだった。
しかし、それを上回る速度で上流から船が迫っている。
手が速いのはお互い様らしい。
「中尉殿! 離脱できません!」
「ぬぅう、とにかく下がれ! それ以外に道はない!」
川のかなり敵陣地側まで追って来た彼らに出来る選択は、本当にそれくらいしかなかった。
もっと自由度が欲しいと思うのなら、ここまで出てきてはいけないのだ。
中尉と呼ばれた男は歯を食いしばって悔しがりながら、最後にひと暴れしてやろうと武器を握り締める。
彼らは川を枕に討ち死にする、そのはずだった。
「止まれ! 全軍停止!」
停止を合図する、ラッパの演奏が戦場にこだました。
平時に演奏会で耳にすれば確かに良い音色である。
ただ、戦場で耳にすれば戦意を削ぐメロディをしている。
音の旋律には罪は無いというのに。
「止まれ!」
「無理っだっろぉぉおお!」
「押すな推すな圧すな捺すな!」
8千人もいるのだから、人間そんなに急には止まれない。
もし予めここで止まることが知らされていたのなら、もう少しまともな結果になったかもしれないが、それでは意味がないのだ。
司令部をはじめ作戦立案者の考えでは、この混沌こそ求められていたものだから。
決して演技ではない、本当の混乱が。
「な、なにを……なんだぁ!?」
第301中隊の面々は、自分たちのすぐそばから川の向こう側まで続いている大混乱に、頭を混乱させていた。
唐突な敵軍への突撃命令もそうだが、さらにそれを制止したことで何人も最前線の兵士が川にドボンしている。
これが本当に司令部の命令なら、彼らは頭がおかしくなったとしか言いようのない蛮行。
そもそも一般論として、奇襲が半分成功半分失敗に終わった今、攻めるタイミングではない。
もしそうするのならあと15分は速く出撃する必要があった。
ここで、中隊や大混乱の中にある兵士たちの間に、ある疑念が思い浮かぶ。
司令部はまともな思考能力を有しているのか? という疑問だ。
その猜疑心は戦場という坩堝の中でみるみるうちに増幅され、濃縮され、圧縮され、やがて爆発する。
疑いという負の感情は、それほどに大きなエネルギーを蓄えることが可能なのだ。
「……ラッパの音だ」
尻すぼみな先ほどの演奏とは対照的に、雄大で壮大な勇ましき音色。
突撃の合図である。
「皆の者! 突撃だ!」
足元の不安定な河原で乗馬した指揮官が剣を振りかざして叫ぶ。
しかし、兵士たちに先ほどまでのようなやる気は見えない。
たった一度の失敗でも、人間の士気は驚くほど簡単に崩れ去るのだ。
「やっちまったな」
そうバートンが呟いた。
アラタは逆に、君たちがそう思ってくれているのなら御の字だと、作戦の順調さを喜んだ。
しかし、と彼は喜びを隠しながら思う。
ここまで司令部の想定通りに事が運んでいるわけだが、全ては一度退却した後に再度反転できるかにかかっている。
ここで指揮系統に乱れがあるような素振りを見せれば、あとあと響くのではないか。
そこまで考えが及ぶと、『だから予備のプランだったのか』と自己完結して納得させた。
本来なら、自分たち奇襲部隊とかち合ってしまうことで混乱を生み出すはずが、想定以上に被害が大きく自分たちにその力は残されていなかった。
だから次善の策としてこの作戦が発動されたのだ。
「…………むぅ」
ポーチにしまっておいたポーションを口にしながら、司令部がこの混乱を本当にものにすることが出来るのか、彼の心の中でそんな不安が渦巻いていくのだった。
賛成派も反対派も、どちらもである。
それくらいギャンブル要素の強い作戦であり、それだけのリターンが見込める策でもあった。
そして、司令部に中間報告がもたらされた。
「報告します! 第288、029中隊壊滅! 繰り返します、2個中隊壊滅です!」
「生存者は」
「……不明です。敵軍に完全に飲み込まれました」
「分かった。一度下がれ」
「はっ」
報告係が天幕を後にすると、司令部に重たい空気が停滞する。
4個投入した中隊の内、2個がロストした。
この事実は作戦の成否に決して少なくない影響を与えると、誰もが理解していた。
第288と第029中隊は、それぞれ戦場の両端を担当していた部隊である。
彼らを喪失したとなれば、敵軍は中央付近の残り2つの中隊に襲い掛かるだろう。
つまり、第223中隊と第301中隊だ。
「会議を再開しましょう」
タッド・ロペス大佐はそう言いながら、コートランド川両端の部隊を模した駒を排除した。
彼らを計算に入れることはもうできない。
ロペス大佐に促されるように、将校らはテーブルを囲んだ。
「敵軍の動きは」
司令官アイザック・アボットが訊く。
「誘引役がそれぞれ追撃を受けています。233はかなりの損失を被っていますが、301は無傷に近いです」
川のこちら側からの監視では、よほど大ダメージを受けない限り認識は出来ない。
2割近い損失も誤差の範囲内に収束してしまう。
「敵の規模はそれぞれ千から2千。船を使用したりしなかったりと対応に差があります」
「なるほど、船の管理は……ガルシア中将、どうなっている?」
「出せることには出せますが、この後の作戦を考えたら馬の運搬用に温存しておきたいというのが本音です」
「そうか」
マイケル・ガルシア中将の意見を聞き、アボットは少し黙った。
彼の脳内では、高速で戦闘シミュレーションが実行されている。
船を使うべきか、それとも中将のいう通り温存すべきか。
「もう一度誘引部隊の様子を報告させろ」
「分かりました。おい」
指示を受けた会場係は外に待機していた部下に命令して、再度情報収集に向かわせる。
司令部付近は緊迫した空気で張り詰めていた。
「特に変化がなければ、ガルシア殿の言うように船は温存する。異存ないな」
司令官の言葉にうなずく諸将。
彼らとは綿密な事前打ち合わせを既に完了させており、いま起こっている戦況も想定の範囲内である。
少し芳しくないと但し書きはつくが。
「2個中隊が壊滅……ですか」
マット・ルイス少将の声も重い。
正直、現時点でかなりの痛手を負っているのは帝国ではなく公国側だ。
奇襲作戦を敵に印象付けるためには、有象無象の部隊では務まらない。
それなりに有能な指揮官とそれに見合うだけの部隊を用意しなければならない。
アラタ率いる第301中隊のように、選り抜きの精鋭を投入している。
それがすでに200人以上の損失、生き残っている2個中隊の被害を含めれば250名の損失は堅いだろう。
開戦当初からじりじりとその数を減らし、1万7千を切った公国軍にこの損失は致命傷になりかねない。
まさに肉を断って骨を断つ策。
会議を続けていると、先ほど命令した情報収集の結果がもたらされた。
「報告! 第223中隊ロスト! 中隊は敵に捕捉されました!」
いよいよ不味くなってきた。
これで残るは第301中隊のみ。
彼らが倒れれば敵も撤収してしまうだろう。
なんとしても彼らだけは生き残ってもらわねばならない。
「第301中隊は!」
唾を飛ばしながらブレア・ラトレイア中将が叫んだ。
アラタの部隊には彼の血縁のアーキム・ラトレイアも所属している。
安否が気になるところだった。
「301は健在! 既に川の中腹を通過してこちらに向かっております!」
「おぉお! やはり切り札か!」
「素晴らしい!」
「他には!」
「は、河川敷の部隊が救出に出たがっております!」
その報告を聞いたアボット大将は、ニヤリと笑った。
3個中隊の命を使い捨ててまで臨んだ状況が、ようやっと目前まで迫って来たのだ。
一度息を吐き、また吸い込んだ。
「ただちに中隊を救出して手当てを受けさせろ! それと前線の兵8千を出して敵を迎撃させるのだ!」
「はっ!」
彼の指示が下りると、途端に司令部が慌ただしくなる。
8千の兵を動かすという事は、最低でも1個旅団と1個連隊、場合によっては1個師団が丸ごと出撃するケースも想定される。
それを指揮するのはここに詰めている大佐や少将以上の階級の軍人になる。
ここ公国軍司令部からもついに出撃者が出るのだ。
次々に天幕を後にする将官たちを、アボットはただ見送る。
作戦の詳細を知る彼らを前線に送ることで、これから想定される緻密で繊細な行動はより一層盤石なものとなる。
そうでもしなければ、これから混乱の真っただ中に陥るであろう河川敷を制御しきることは難しい。
最難関と言っても差し支えない、鬼門に入るのだ。
「さあ、勝負だ」
軍人人生を懸けて、この作戦を成功させるという決意は、果たして点に届くのだろうか。
計算された右往左往が始まろうとしていた。
※※※※※※※※※※※※※※※
「あれは…………!?」
第301中隊第2小隊長リャン・グエルは一度その碧い眼を疑った。
味方陣地に帰還してきた自分たちを助けようと警備兵たちが水際に来てくれたことは嬉しいし、素直にありがたい。
しかし、その奥から雲霞の如く押し寄せる黒い波。
それは味方のはずなのに、酷く恐ろしく映った。
驚愕の光景に表情が固まっているリャンの隣で、アラタは無表情のまま次の動きを考えていた。
隣の……なに中隊だっけ。
敵に追いつかれて沈んだし、他も似たようなもんだろ。
となると俺らを助けにこれだけの兵士が出てきたことになって……おかしいよな、うん、違和感しかない。
となるとケースは『欺瞞行動が的中しなかった』場合の『敵に混乱を印象付ける』行動になるのか。
司令部に入り浸っていたアラタは軍のケース想定を頭に叩き込んである。
これも一朝一夕で覚えきれるような内容ではないが、アラタは割とすんなりと頭に入って定着したと語る。
明らかに彼の勉強能力では説明のつかない現象、ほぼ確実に何らかのスキルの影響が考えられる。
その現象に固有の能力が存在するのか、それとも【不溢の器】の効果なのか。
そこまではアラタでは予測がつかない。
とにかく、混乱前夜というのが今の状況だ。
そして、今の中隊がこの混乱に巻き込まれるのはまずいとアラタは思った。
振り返れば、ボロボロの隊員たちが必死に川を泳いでいる。
道半ばで川に沈んでいった人間もいれば、意識を喪失したまま仲間に担がれている者もいる。
船の上でそのまま息を引き取った奴も、いろんな人間がいる。
そしてついに、アラタの乗っていた船の底が川底を擦った。
「上がれ! すぐに救護所に運べ!」
彼がそう叫ぶ間にも、中隊を援助しようと待ち構えていた警備兵たちが次々に駆け寄ってくる。
彼らはこの瞬間をずっと待っていた。
「土手に馬車を用意してあります! 急いで!」
「こっち脈が止まっている! 救命措置を継続させろ!」
「止血剤! ポーション! 早く!」
河川敷はもうてんやわんやの大騒ぎである。
そして、混乱はこれだけでは収まらない。
土手の奥の方から押し寄せつつあった大規模な部隊が、ついに河川敷近くに到達したのだ。
「全軍! 突撃!」
「「「おおおぉぉぉ!!!」」」
「へいへい正気か?」
エルモはいつもの軽口を叩いていたが、肩を負傷したようで包帯を巻いている。
それも川の水に濡れてしまって、かえって不衛生なまである。
彼も早急な手当てが必要な要救護者だった。
「下がるぞ!」
アラタ達を追いかけていた帝国軍の責任者はすぐに判断を下した。
もう公国軍が突撃命令を受ける前に撤退の合図を出すくらい早いものだった。
しかし、それを上回る速度で上流から船が迫っている。
手が速いのはお互い様らしい。
「中尉殿! 離脱できません!」
「ぬぅう、とにかく下がれ! それ以外に道はない!」
川のかなり敵陣地側まで追って来た彼らに出来る選択は、本当にそれくらいしかなかった。
もっと自由度が欲しいと思うのなら、ここまで出てきてはいけないのだ。
中尉と呼ばれた男は歯を食いしばって悔しがりながら、最後にひと暴れしてやろうと武器を握り締める。
彼らは川を枕に討ち死にする、そのはずだった。
「止まれ! 全軍停止!」
停止を合図する、ラッパの演奏が戦場にこだました。
平時に演奏会で耳にすれば確かに良い音色である。
ただ、戦場で耳にすれば戦意を削ぐメロディをしている。
音の旋律には罪は無いというのに。
「止まれ!」
「無理っだっろぉぉおお!」
「押すな推すな圧すな捺すな!」
8千人もいるのだから、人間そんなに急には止まれない。
もし予めここで止まることが知らされていたのなら、もう少しまともな結果になったかもしれないが、それでは意味がないのだ。
司令部をはじめ作戦立案者の考えでは、この混沌こそ求められていたものだから。
決して演技ではない、本当の混乱が。
「な、なにを……なんだぁ!?」
第301中隊の面々は、自分たちのすぐそばから川の向こう側まで続いている大混乱に、頭を混乱させていた。
唐突な敵軍への突撃命令もそうだが、さらにそれを制止したことで何人も最前線の兵士が川にドボンしている。
これが本当に司令部の命令なら、彼らは頭がおかしくなったとしか言いようのない蛮行。
そもそも一般論として、奇襲が半分成功半分失敗に終わった今、攻めるタイミングではない。
もしそうするのならあと15分は速く出撃する必要があった。
ここで、中隊や大混乱の中にある兵士たちの間に、ある疑念が思い浮かぶ。
司令部はまともな思考能力を有しているのか? という疑問だ。
その猜疑心は戦場という坩堝の中でみるみるうちに増幅され、濃縮され、圧縮され、やがて爆発する。
疑いという負の感情は、それほどに大きなエネルギーを蓄えることが可能なのだ。
「……ラッパの音だ」
尻すぼみな先ほどの演奏とは対照的に、雄大で壮大な勇ましき音色。
突撃の合図である。
「皆の者! 突撃だ!」
足元の不安定な河原で乗馬した指揮官が剣を振りかざして叫ぶ。
しかし、兵士たちに先ほどまでのようなやる気は見えない。
たった一度の失敗でも、人間の士気は驚くほど簡単に崩れ去るのだ。
「やっちまったな」
そうバートンが呟いた。
アラタは逆に、君たちがそう思ってくれているのなら御の字だと、作戦の順調さを喜んだ。
しかし、と彼は喜びを隠しながら思う。
ここまで司令部の想定通りに事が運んでいるわけだが、全ては一度退却した後に再度反転できるかにかかっている。
ここで指揮系統に乱れがあるような素振りを見せれば、あとあと響くのではないか。
そこまで考えが及ぶと、『だから予備のプランだったのか』と自己完結して納得させた。
本来なら、自分たち奇襲部隊とかち合ってしまうことで混乱を生み出すはずが、想定以上に被害が大きく自分たちにその力は残されていなかった。
だから次善の策としてこの作戦が発動されたのだ。
「…………むぅ」
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