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第3章 大公選編
第226話 もう生きる意味は無い
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嗅ぎなれた血の匂いが、辺りに立ち込めていた。
鉄棒の臭いというか、そこに魚の生臭い臭いを追加したみたいな、そんな香りだ。
それはきっと、人間の体から発せられる匂いだったのだろう。
だから、血生臭いのだ。
「ここだな」
強烈な刺激が、彼らを簡単に現場まで誘導してくれる。
それほど分かりやすいガイドラインだったが、人体の臭いにしてはまだましな部類だったのは、彼らの吐き気を抑える意味で嬉しかった。
これが腐った死体だった時には、いやおうなしに生理現象として嘔吐してしまう可能性が高い。
しかし、2人はそうならずに建物の内部へと侵入する。
もう当然のごとく鍵はかかっていなくて、誘導されているのか、それとも警邏が杜撰すぎるのか、迷う話だ。
明かりの消えた内部はひっそりとアラタたちを待ち構えるように、黒い間口を広げていた。
「抜刀。俺が先行する」
2人は【暗視】を起動して、その先へと進んでいく。
ここから先、声はNGだ。
時折出されるハンドサインに注意しつつ、廊下をまっすぐ進んでいく。
曲がり角が来たら右壁に沿うように進み、迷子になることを防ぐ。
こう進み続ければ、道が組み代わりでもしない限り、最終的に必ず元の場所に戻れるはずだから。
曲がり角、出入り口、それらを注意深く進み、臭気の発生源を目指す。
しかし、ここからは刺激が強すぎてどこから漏れているのかよく分からない。
感覚が強化されていると頭が痛くなってきたので、2人とも【身体強化】を解除する。
急な接敵よりも、この悪臭の方が嫌だというのだから相当なものがある。
しかも、2人とも曲がりなりにも仮面を着けている。
クリスはたまらず仮面を外し、布で口を覆った。
——真似しろ。
——俺は問題ない。
そんなコミュニケーションを交わしつつ、一巡してしまった。
部屋は本館同様もぬけの殻で、それらしい場所はどこにもない。
しかし、この建物のどこかに必ず何かがいる。
恐らくそれは人間の死体で、死体になってしまった元人間を、そのような状態にした現況もセットでいるはず。
だから、彼らの緊張は少しも緩まない。
——話したい。
——……了解。
「隠し部屋の類のはずだ」
「場所に心当たりは?」
「ない。もしかしたらここに入り口は無いのかもしれない」
「地下道か」
「おそらく」
そうなると話は一気にややこしくなる。
クリスの考えでは、確かにこの近くに生ものがあるはず。
しかし、そこに至る為の入り口は同じ場所にあるとは限らない。
だから、臭いの流れを見つけて、それに沿って進むしかないのだ。
臭いが強まっているのだから、近づいているはず。
しかし、強すぎてここから先はもうわからない。
どうやら行き止まりらしかった。
「こんだけ臭いし、通報されていてもおかしくない」
「そうだな。一度撤退するか?」
「二度と戻るチャンスが無いかもしれない」
「迷うところだな」
「探そう。最悪蹴散らせばいい」
2人は一度建物を出て、もう一度周囲を見渡した。
何か不審なものは無いか、それらしきものは無いか。
そうしてぐるりと建物を回ると、1周目でそれは見つかった。
もう呆気なく、肩透かしを食らったように。
雑に隠されていたのは一つの魔道具だった。
地面に繋がっているそれは、魔石を固定してあって、しばらく自動で動き続けているみたいだった。
その管が建物の軒下に潜り込んでいて、そこから臭いが漏れていると、クリスは判断した。
こんなことをしておいて、警邏機構が捜索した時に見つからないはずない。
「ユウかもしれないな」
「それか警邏の奴らか」
「こんなことをするなら特務警邏じゃないか?」
「……急ごう。こっから先に本当に何かがあるんだ」
そこにはカモフラージュされた地下へと続く階段があった。
アトラの城門を通らずに出入りするための地下通路のように、手作り感満載で。
そして、2人は戦闘態勢に入ったまま、そこを降って行った。
※※※※※※※※※※※※※※※
カツン、カツンと音がする。
悪臭漂うこの地獄に、誰かが足を踏み入れようとしている。
それも一人ではない。
2人以上、少しずれたリズムで刻まれる足音がそれを教えてくれる。
石造りの冷たい空間には、明かりがたった一つだけ、灯されていた。
燭台には火が付いておらず、あるのは魔道具の光のみ。
人が魔力を注いでも動く代物だが、本来はこうやって魔石をセットすることで起動する。
魔道具はエネルギー源として魔力を消費するので、こうして照明をつけていれば魔石は小さくなり、いずれ消滅する。
そうなったら最後の光も潰える。
今の魔石の大きさはグリーンピースくらい。
それなりに値段は高いものの、割とその辺に転がっているくらいの希少性。
その時、足音が止まった。
止まる直前の状態で、もうずいぶんと足音が大きくなっていて、かなり近づいてきていたらしい。
「ソフィア・フォン・レイフォードだな」
白い仮面を身に着けた男は、そう言って彼女に話しかけた。
話しかけたというよりも、尋問を開始したという方が正確な気がするが、この際どうでもいい。
ソフィアと呼ばれた女性は、老体を縄に食い込ませて椅子に縛り付けられていた。
彼女の傍には同じように椅子があと4つ、縄もあと4つ置かれていた。
血染めの椅子と縄が、置かれていた。
「どう思う?」
「臭いの正体は判明したが、何が何だか。【敵感知】は?」
「反応なし」
アラタはスキルに集中するが、相変わらず敵意は感じられない。
「私もだ」
それはクリスも同じようだった。
目の前にいる老婆、ソフィアはレイフォード家相談役のトップ。
立場的に5人は横一線の関係なのだが、そんなもの実際に平等なケースは本当に稀だ。
ほとんどの場合は誰かしら発言力の強い人間がいて、逆もまた然り。
そういう見方をすれば、この状況にはそれなりに意図がありそうだった。
「他の4人は?」
「死んださ。そこに転がっているだろう?」
確かに彼女のいう通り、椅子は4つあり、人間だった肉塊が床に転がっている。
カーミラ、グレース、ステラ、エラ・フォン・レイフォードは、死亡したと考えるべきだと、目の前の老婆を見て思ったアラタは、刀を彼女に突き付けた。
「エリーが世話になったな」
「どういたしまして」
力が入り、少しぶれた刃先がソフィアの肌を撫でる。
しわだらけの頬に、赤い線が入った。
【痛覚軽減】を持っているのか、それともスキルを必要としない程度の傷なのか、彼女は表情一つ変えずにアラタを見つめている。
「良い目じゃぁ。お主は良い器になるじゃろう」
「……何の話だ。それより、お前らをこうしたのは誰だ。ユウか?」
担い手、器、何となく関連性を感じ、男の名前を出す。
「知っておったのか。なるほど、これも計画の内か。それならば良い」
「貴様は良くても私たちは納得しない。エリーはなぜ魔物になった、なぜ死ななければならなかった、それを教えろ。口を開くまで、私は貴様の肉を削いでいく」
剣を手にしたクリスの眼は血走っていて、本気であることがうかがえる。
今の彼女ならやりかねない。
もしそれで口を割るのなら、クリスはソフィアの体で船盛を作ってみせるだろう。
それでも、これから刺身になろうかという時でも、ソフィアは表情を変えなかった。
自身の口から全てを話す代わりに、別の方法を提示する。
「本館の執務室、その左奥の本棚に隠してある手紙を見よ。そうすれば何をするか決まるじゃろうて」
「アラタ、押さえていろ」
「いや、こいつの言う通りにしてみよう」
「手紙は偽造されたもの。話はこれで終わりだ、そうだろう?」
「エリーの文字なら山ほど見た。それに、これは多分本物だ」
「何を根拠に——」
「これだよ」
アラタは自分が持っていた封筒を一つ手に取ってみせた。
そこには、『アラタへ』そう書かれている。
日本語で、そう書かれていた。
「これは?」
「日本語、俺の世界の言葉だ。きっと一所懸命勉強したんだと思う。だから、俺はこの手紙を信じようと思う」
「お前がそうしたいのなら、少し待ってやる」
剣を収めたクリスを見て、ソフィアは心なしか安心したようだった。
やはりケバブになるのは怖かったのかもしれない。
2人がこの場に踏み込んだ時よりも、魔石はさらに小さくなっていた。
いまやその大きさは人をダメにするクッションのビーズくらいで、今にも消えそうになっている。
まだ数時間は持つが、陽が落ちる頃には消えてしまうだろう。
冷えた室内に、紙を触る音だけが響く。
文量がかなりあるようで、全部読み終わるにはそれなりに時間を要した。
ただ、所詮は封筒に入るくらいの手紙。
5分程度で読み終えたアラタは、無表情のまま封筒に紙を戻した。
そして、それをポーチの中にしまう。
「どうする?」
クリスは、横からアラタの顔を覗き込んだ。
「アラタ………………」
手紙を読むために仮面を取った彼の眼からは、涙が溢れて溢れて止まらなくなっていた。
何が書いてあったのか、それは分からない。
彼が今後この手紙を誰かに見せることは無かったから。
しかし、そこに掛かれていた内容が、彼を涙させたことは事実だ。
そして、恐らくエリザベスから何らかのメッセージを受け取ったアラタは、手紙を読んでいた時も手に握っていた刀を鞘に納めると、
「もうやめよう。全部、終わりにしよう」
静かに涙を流しながら、そう言った。
「本気か? こいつを殺さないのか?」
「あぁ。もういい。クリスも手紙を読んだら分かると思う」
エリザベスが死んでからアトラに来るまで、復讐心を迸らせていた人間に、一体何があったというのか、クリスは面食らった。
もういいと、そう言った時、最後の仕掛けが動き出す。
「時間切れのようじゃて。さらばじゃ、異世界人とその友よ」
組み替えられる音がした。
エリザベスの時と同じ、あの感じだ。
「伏せろ!」
ブクブクブクゥッと、一瞬のうちに膨張し、骨を折り、内臓を割り、それは破裂した。
悲鳴を出す余裕も、苦しみに顔をゆがめる暇も無く、ソフィアは破裂した。
人間が、破裂した。
クリスに押し倒されて床に倒れ込んだアラタに、血の雨が降る。
血液の雨ではない。
肉も、髪も、爪も、骨も、全てが降り注いだ。
それ自体に毒性は無く、感染する類のものも基本的なもの以外含まれていなかった。
あとで清潔にすれば、問題なく健康でいることが出来る。
そして、クリスが上から覆いかぶさったことで、手紙は守られた。
彼女が持つ分も、アラタが持つ分も、そこまで血が染みこむことは無かった。
「……大丈夫か」
「うん。ありがとう」
涙を血で上書きされた顔を拭い、アラタは立ち上がる。
他の4人がどのようにして死んだのか、理解した。
仕組み的にはおそらく、エリザベスが魔物に変貌したものと同じメカニズムなのだろう。
しかし、彼女たちは魔物になることなく死亡した。
そう仕組まれていたのか、彼女たちが何らかの条件を満たしていなかったのか。
それを調べる術は無い。
ただ、アラタにとって、それはもうどうでもいいことだった。
彼の心に去来する考えはたった一つ。
もう生きる意味は無い。
「動くな! ウッ、これは!?」
「貴様らの仕業か! 武器を置いて投降しろ!」
先ほどまで、あんなに静かだった地下の隠し部屋が騒々しくなった。
血の海に踏み込んできたのは、警邏の紋章を肩につけた警官たち。
どうやらアラタの懸念通り、誰かが悪臭を通報したらしい。
アラタは棒立ちのまま、彼らを見つめ、クリスは剣を抜いている。
「おい…………おい!」
「いや、もういい。投降しよう」
「お前、一体何が……!?」
「悪いようにはならないはずだ。多分」
「その通り。貴殿らには聞きたいことが山ほどあるのでな。傷つけたりするもんか」
30名以上いる警邏の奥から姿を現したのは、平の隊員とは明らかに違う装飾の施された、特別なデザインの制服に身を包んだ男。
アラタは彼を知っていて、彼もアラタを知っている。
「特務警邏局長、あなたが来たってことは……」
「そう、初めからここに網を張っていたということさ」
そう男は言うと、右手を上げる。
「殺すな、傷もつけるな。違反すれば減給処分では済まさんからな」
警官たちは、未だ武器を捨てずにこちらを見ている二人が怖いのか、じりじりと近寄ってくる。
まるで亀の歩みがごとくノロノロとしたスピードで距離を詰めてくる相手に、アラタは刀を床に置いた。
「クリスも。頼む」
「………………分かった」
彼女単体の力でも、彼らを圧倒してこの場を切り抜けることが出来たかもしれない。
何事もやってみなければ分からないが、それだけの実力差がある。
ただし、アラタが割り込んでこなければという但し書きがつく。
手紙を読んでから、人が変わったようにおとなしくなったアラタが、自分の味方であり続ける確証がない今、クリスは剣を置いた。
それほど大きな影響を与える手紙の内容が、クリスは酷く気になった。
こうして、2人は縄に付く。
でも、アラタにとって、そんなことはもうどうでもいい。
彼には、もうこの世界で生きる意味も理由もないから。
鉄棒の臭いというか、そこに魚の生臭い臭いを追加したみたいな、そんな香りだ。
それはきっと、人間の体から発せられる匂いだったのだろう。
だから、血生臭いのだ。
「ここだな」
強烈な刺激が、彼らを簡単に現場まで誘導してくれる。
それほど分かりやすいガイドラインだったが、人体の臭いにしてはまだましな部類だったのは、彼らの吐き気を抑える意味で嬉しかった。
これが腐った死体だった時には、いやおうなしに生理現象として嘔吐してしまう可能性が高い。
しかし、2人はそうならずに建物の内部へと侵入する。
もう当然のごとく鍵はかかっていなくて、誘導されているのか、それとも警邏が杜撰すぎるのか、迷う話だ。
明かりの消えた内部はひっそりとアラタたちを待ち構えるように、黒い間口を広げていた。
「抜刀。俺が先行する」
2人は【暗視】を起動して、その先へと進んでいく。
ここから先、声はNGだ。
時折出されるハンドサインに注意しつつ、廊下をまっすぐ進んでいく。
曲がり角が来たら右壁に沿うように進み、迷子になることを防ぐ。
こう進み続ければ、道が組み代わりでもしない限り、最終的に必ず元の場所に戻れるはずだから。
曲がり角、出入り口、それらを注意深く進み、臭気の発生源を目指す。
しかし、ここからは刺激が強すぎてどこから漏れているのかよく分からない。
感覚が強化されていると頭が痛くなってきたので、2人とも【身体強化】を解除する。
急な接敵よりも、この悪臭の方が嫌だというのだから相当なものがある。
しかも、2人とも曲がりなりにも仮面を着けている。
クリスはたまらず仮面を外し、布で口を覆った。
——真似しろ。
——俺は問題ない。
そんなコミュニケーションを交わしつつ、一巡してしまった。
部屋は本館同様もぬけの殻で、それらしい場所はどこにもない。
しかし、この建物のどこかに必ず何かがいる。
恐らくそれは人間の死体で、死体になってしまった元人間を、そのような状態にした現況もセットでいるはず。
だから、彼らの緊張は少しも緩まない。
——話したい。
——……了解。
「隠し部屋の類のはずだ」
「場所に心当たりは?」
「ない。もしかしたらここに入り口は無いのかもしれない」
「地下道か」
「おそらく」
そうなると話は一気にややこしくなる。
クリスの考えでは、確かにこの近くに生ものがあるはず。
しかし、そこに至る為の入り口は同じ場所にあるとは限らない。
だから、臭いの流れを見つけて、それに沿って進むしかないのだ。
臭いが強まっているのだから、近づいているはず。
しかし、強すぎてここから先はもうわからない。
どうやら行き止まりらしかった。
「こんだけ臭いし、通報されていてもおかしくない」
「そうだな。一度撤退するか?」
「二度と戻るチャンスが無いかもしれない」
「迷うところだな」
「探そう。最悪蹴散らせばいい」
2人は一度建物を出て、もう一度周囲を見渡した。
何か不審なものは無いか、それらしきものは無いか。
そうしてぐるりと建物を回ると、1周目でそれは見つかった。
もう呆気なく、肩透かしを食らったように。
雑に隠されていたのは一つの魔道具だった。
地面に繋がっているそれは、魔石を固定してあって、しばらく自動で動き続けているみたいだった。
その管が建物の軒下に潜り込んでいて、そこから臭いが漏れていると、クリスは判断した。
こんなことをしておいて、警邏機構が捜索した時に見つからないはずない。
「ユウかもしれないな」
「それか警邏の奴らか」
「こんなことをするなら特務警邏じゃないか?」
「……急ごう。こっから先に本当に何かがあるんだ」
そこにはカモフラージュされた地下へと続く階段があった。
アトラの城門を通らずに出入りするための地下通路のように、手作り感満載で。
そして、2人は戦闘態勢に入ったまま、そこを降って行った。
※※※※※※※※※※※※※※※
カツン、カツンと音がする。
悪臭漂うこの地獄に、誰かが足を踏み入れようとしている。
それも一人ではない。
2人以上、少しずれたリズムで刻まれる足音がそれを教えてくれる。
石造りの冷たい空間には、明かりがたった一つだけ、灯されていた。
燭台には火が付いておらず、あるのは魔道具の光のみ。
人が魔力を注いでも動く代物だが、本来はこうやって魔石をセットすることで起動する。
魔道具はエネルギー源として魔力を消費するので、こうして照明をつけていれば魔石は小さくなり、いずれ消滅する。
そうなったら最後の光も潰える。
今の魔石の大きさはグリーンピースくらい。
それなりに値段は高いものの、割とその辺に転がっているくらいの希少性。
その時、足音が止まった。
止まる直前の状態で、もうずいぶんと足音が大きくなっていて、かなり近づいてきていたらしい。
「ソフィア・フォン・レイフォードだな」
白い仮面を身に着けた男は、そう言って彼女に話しかけた。
話しかけたというよりも、尋問を開始したという方が正確な気がするが、この際どうでもいい。
ソフィアと呼ばれた女性は、老体を縄に食い込ませて椅子に縛り付けられていた。
彼女の傍には同じように椅子があと4つ、縄もあと4つ置かれていた。
血染めの椅子と縄が、置かれていた。
「どう思う?」
「臭いの正体は判明したが、何が何だか。【敵感知】は?」
「反応なし」
アラタはスキルに集中するが、相変わらず敵意は感じられない。
「私もだ」
それはクリスも同じようだった。
目の前にいる老婆、ソフィアはレイフォード家相談役のトップ。
立場的に5人は横一線の関係なのだが、そんなもの実際に平等なケースは本当に稀だ。
ほとんどの場合は誰かしら発言力の強い人間がいて、逆もまた然り。
そういう見方をすれば、この状況にはそれなりに意図がありそうだった。
「他の4人は?」
「死んださ。そこに転がっているだろう?」
確かに彼女のいう通り、椅子は4つあり、人間だった肉塊が床に転がっている。
カーミラ、グレース、ステラ、エラ・フォン・レイフォードは、死亡したと考えるべきだと、目の前の老婆を見て思ったアラタは、刀を彼女に突き付けた。
「エリーが世話になったな」
「どういたしまして」
力が入り、少しぶれた刃先がソフィアの肌を撫でる。
しわだらけの頬に、赤い線が入った。
【痛覚軽減】を持っているのか、それともスキルを必要としない程度の傷なのか、彼女は表情一つ変えずにアラタを見つめている。
「良い目じゃぁ。お主は良い器になるじゃろう」
「……何の話だ。それより、お前らをこうしたのは誰だ。ユウか?」
担い手、器、何となく関連性を感じ、男の名前を出す。
「知っておったのか。なるほど、これも計画の内か。それならば良い」
「貴様は良くても私たちは納得しない。エリーはなぜ魔物になった、なぜ死ななければならなかった、それを教えろ。口を開くまで、私は貴様の肉を削いでいく」
剣を手にしたクリスの眼は血走っていて、本気であることがうかがえる。
今の彼女ならやりかねない。
もしそれで口を割るのなら、クリスはソフィアの体で船盛を作ってみせるだろう。
それでも、これから刺身になろうかという時でも、ソフィアは表情を変えなかった。
自身の口から全てを話す代わりに、別の方法を提示する。
「本館の執務室、その左奥の本棚に隠してある手紙を見よ。そうすれば何をするか決まるじゃろうて」
「アラタ、押さえていろ」
「いや、こいつの言う通りにしてみよう」
「手紙は偽造されたもの。話はこれで終わりだ、そうだろう?」
「エリーの文字なら山ほど見た。それに、これは多分本物だ」
「何を根拠に——」
「これだよ」
アラタは自分が持っていた封筒を一つ手に取ってみせた。
そこには、『アラタへ』そう書かれている。
日本語で、そう書かれていた。
「これは?」
「日本語、俺の世界の言葉だ。きっと一所懸命勉強したんだと思う。だから、俺はこの手紙を信じようと思う」
「お前がそうしたいのなら、少し待ってやる」
剣を収めたクリスを見て、ソフィアは心なしか安心したようだった。
やはりケバブになるのは怖かったのかもしれない。
2人がこの場に踏み込んだ時よりも、魔石はさらに小さくなっていた。
いまやその大きさは人をダメにするクッションのビーズくらいで、今にも消えそうになっている。
まだ数時間は持つが、陽が落ちる頃には消えてしまうだろう。
冷えた室内に、紙を触る音だけが響く。
文量がかなりあるようで、全部読み終わるにはそれなりに時間を要した。
ただ、所詮は封筒に入るくらいの手紙。
5分程度で読み終えたアラタは、無表情のまま封筒に紙を戻した。
そして、それをポーチの中にしまう。
「どうする?」
クリスは、横からアラタの顔を覗き込んだ。
「アラタ………………」
手紙を読むために仮面を取った彼の眼からは、涙が溢れて溢れて止まらなくなっていた。
何が書いてあったのか、それは分からない。
彼が今後この手紙を誰かに見せることは無かったから。
しかし、そこに掛かれていた内容が、彼を涙させたことは事実だ。
そして、恐らくエリザベスから何らかのメッセージを受け取ったアラタは、手紙を読んでいた時も手に握っていた刀を鞘に納めると、
「もうやめよう。全部、終わりにしよう」
静かに涙を流しながら、そう言った。
「本気か? こいつを殺さないのか?」
「あぁ。もういい。クリスも手紙を読んだら分かると思う」
エリザベスが死んでからアトラに来るまで、復讐心を迸らせていた人間に、一体何があったというのか、クリスは面食らった。
もういいと、そう言った時、最後の仕掛けが動き出す。
「時間切れのようじゃて。さらばじゃ、異世界人とその友よ」
組み替えられる音がした。
エリザベスの時と同じ、あの感じだ。
「伏せろ!」
ブクブクブクゥッと、一瞬のうちに膨張し、骨を折り、内臓を割り、それは破裂した。
悲鳴を出す余裕も、苦しみに顔をゆがめる暇も無く、ソフィアは破裂した。
人間が、破裂した。
クリスに押し倒されて床に倒れ込んだアラタに、血の雨が降る。
血液の雨ではない。
肉も、髪も、爪も、骨も、全てが降り注いだ。
それ自体に毒性は無く、感染する類のものも基本的なもの以外含まれていなかった。
あとで清潔にすれば、問題なく健康でいることが出来る。
そして、クリスが上から覆いかぶさったことで、手紙は守られた。
彼女が持つ分も、アラタが持つ分も、そこまで血が染みこむことは無かった。
「……大丈夫か」
「うん。ありがとう」
涙を血で上書きされた顔を拭い、アラタは立ち上がる。
他の4人がどのようにして死んだのか、理解した。
仕組み的にはおそらく、エリザベスが魔物に変貌したものと同じメカニズムなのだろう。
しかし、彼女たちは魔物になることなく死亡した。
そう仕組まれていたのか、彼女たちが何らかの条件を満たしていなかったのか。
それを調べる術は無い。
ただ、アラタにとって、それはもうどうでもいいことだった。
彼の心に去来する考えはたった一つ。
もう生きる意味は無い。
「動くな! ウッ、これは!?」
「貴様らの仕業か! 武器を置いて投降しろ!」
先ほどまで、あんなに静かだった地下の隠し部屋が騒々しくなった。
血の海に踏み込んできたのは、警邏の紋章を肩につけた警官たち。
どうやらアラタの懸念通り、誰かが悪臭を通報したらしい。
アラタは棒立ちのまま、彼らを見つめ、クリスは剣を抜いている。
「おい…………おい!」
「いや、もういい。投降しよう」
「お前、一体何が……!?」
「悪いようにはならないはずだ。多分」
「その通り。貴殿らには聞きたいことが山ほどあるのでな。傷つけたりするもんか」
30名以上いる警邏の奥から姿を現したのは、平の隊員とは明らかに違う装飾の施された、特別なデザインの制服に身を包んだ男。
アラタは彼を知っていて、彼もアラタを知っている。
「特務警邏局長、あなたが来たってことは……」
「そう、初めからここに網を張っていたということさ」
そう男は言うと、右手を上げる。
「殺すな、傷もつけるな。違反すれば減給処分では済まさんからな」
警官たちは、未だ武器を捨てずにこちらを見ている二人が怖いのか、じりじりと近寄ってくる。
まるで亀の歩みがごとくノロノロとしたスピードで距離を詰めてくる相手に、アラタは刀を床に置いた。
「クリスも。頼む」
「………………分かった」
彼女単体の力でも、彼らを圧倒してこの場を切り抜けることが出来たかもしれない。
何事もやってみなければ分からないが、それだけの実力差がある。
ただし、アラタが割り込んでこなければという但し書きがつく。
手紙を読んでから、人が変わったようにおとなしくなったアラタが、自分の味方であり続ける確証がない今、クリスは剣を置いた。
それほど大きな影響を与える手紙の内容が、クリスは酷く気になった。
こうして、2人は縄に付く。
でも、アラタにとって、そんなことはもうどうでもいい。
彼には、もうこの世界で生きる意味も理由もないから。
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