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第3章 大公選編
第217話 泥中に沈む(烏鷺相克11)
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——ふむ。
【狂化】系のスキルか。
その手に伝わってくる衝撃、アラタの表情、動き、息遣い、それら様々な情報を整理して、ユウは能力の解析中だ。
全てを見通すような都合の良い目は持っていないが、男は経験則で敵を丸裸にしていく。
見るからに正気を失っている。
それに……。
一撃、いいのがアラタの体に入った。
フロントキックが体のど真ん中に入り、内臓を保護する役割の肋骨を破壊する。
幾本かの骨が折れる感触が返ってきて、相手の体も吹き飛ばせるはずだった。
これだけの衝撃が体に伝わると、人間の体は自然と硬直してしまうからだ。
しかし、アラタは止まらない。
口元に赤いものを滲ませながらも、攻撃を受けながらも前進する。
まるで意に介していないのだ、即戦闘不能レベルのこのダメージを。
脳の制限が解除されている…………というより、脳内麻薬の過剰分泌が肝か?
動きが良くなっていることはこれで説明がつくし、痛覚軽減……は元から持っているか。
判断能力の欠如は快楽物質からくるものなのか。
では、これは?
骨を折りながら突っ込んできたアラタの刀をユウは弾くと、後ろに大きく跳躍した。
なおも追いすがるアラタに対して、彼は十分なスペースを確保する。
何をするのに十分なのか?
それはもちろん、見定めるため、彼が担い手にふさわしいかを、判断するために。
半円状に、魔力が広域展開された。
初めは結界術を使用するかに思われたそれだったが、途中で魔力の循環を止めた様子から見るに、どうやら違うらしい。
使うのは純粋な攻撃魔術、全てが雷撃だ。
雷撃の長所は高速起動、連続起動性能が優れていること。
速く、沢山使える魔術ということだ。
だから、ユウが合計15個の雷撃を展開し終えて、発射するまでにかかった時間は、たったの1.5秒。
神速である。
込めた魔力は大した量ではない。
それこそ一握りいくらの魔術師が使う程度の威力。
これではアラタを止めることは出来ない。
ただ、止めることは出来なくても、体勢を崩すことは出来る。
ダメージを与えることも出来る。
既に満身創痍な彼にとって、これ以上の被弾は何が何でも避けるべき。
普通は、論理的な思考をするのなら、そう考える。
だから、これは試験として最適な攻撃だ。
正常な思考力を残しているのか、そのテストとなるから。
「ォォォオオオ!!!」
咆哮を上げながら、アラタはただ一直線に突っ込む。
そこは180度から攻撃が降り注ぐ爆撃地域だというのに。
初めに、一番近い左側面の魔術が彼に当たった。
次いで正面、右側面、斜め右、斜め左、当たる当たる、それはもう面白いくらいに。
FPSをやっていたとして、これほど綺麗に攻撃が命中すれば、それはもう面白くて仕方がないだろう。
一方、もしこれが自分だったら、相手のチートを疑うくらいの被弾率。
15発中、15発全弾命中。
アラタの動きが、鈍った。
つまらんな。
ありきたりな、どこにでもある【狂化】。
ユウはこのスキルが嫌いだった。
蛮勇とも呼ばれる、自身の理性と引き換えに戦闘力を向上させる系統のスキル。
それは、自分が人間であることを否定するものだと、彼は考えていた。
ヒトが何故、魔物や獰猛な危険生物溢れるこの世界で、文明を築き上げることが出来たのか、彼らには考えが及ばない。
極限まで肉体を鍛え上げたとしても、生物的な差は埋められない。
だからこそ、ヒトは魔力を使う術を身に着け、スキルを使いこなし、頭を使うのだ。
幾度もシミュレーションを重ね、準備をして、危険を正しく恐れて、やりすぎなくらいに自然に備えるから、ヒトは強い。
そこから考える力を奪ったら、霊長類の中でも大した身体能力を持たない、ただの餌としての価値しか残らない。
だから、男は彼を否定する。
それは間違っていると、それでは人間足りえないと、そう拳で言い聞かせる。
再び、地面に魔力が流れた。
※※※※※※※※※※※※※※※
援護に入る隙が無い。
あいつ、私の位置を分かっているのか?
奴が躱せば、アラタに当たる位置を取り続けていく。
「…………化け物」
クリスの手から、力が抜けていく。
ドレイク、ディラン、そしてユウ。
特殊配達課から組織を転々として半年以上。
この短い期間で、どれだけの強者と出会ってきたことか。
例え自分が百人いたとしても、相手に傷を付けられるか怪しいほど、実力に開きのある敵と相対するたびに、彼女の心は折られてきた。
こんなモンスターがこの世にはいるのかと、しかもそれが一人ではないのだと、自分はこれを相手にしなければならないのかと、彼女はこの世を儚んだ。
それでもクリスが戦うことをやめなかったのは、隣で諦めない男がいたから。
初めてその姿を見たとき、この男は弱いどころの話ではなかった。
まるでお話にならない、自分が本気を出せば10秒と持たない、どこにでもいる弱者のはずだった。
でも、行動を共にするようになって、こいつは軽く見てはいけないと、そう思った。
毎日、顔を合わせる度に、アラタは強くなっていく。
やがて自分が抜かれたときも、悔しくないことが悔しかった。
当たり前だと、そう思ってしまった自分を恥じた。
だからこそ、精神的支柱であるアラタが圧し折られようとしている今、同様にクリスの心もポッキリと折れそうになっていた。
あのアラタでさえ、赤子の手を捻るように畳まれてしまう。
これほどの差があるとは、これほど手も足も出ないとは思わなんだ。
彼女の視線の先で、【狂化】を発動しているアラタの足が止まった。
体力の限界が来たのではなかった。
アラタは、泥に足を取られて動けなくなっている。
先ほどまであんなに縦横無尽に走り回っていたのに、生コンクリートの中に足を突っ込んだように、頑として動かない。
粘性抵抗の強い物質に動きを絡めとられては、走り続けることは出来ない。
泥沼と化した水たまりのうちのいくつかに、ユウは仕掛けを作った。
一見ただの小さな水たまりにしか見えないが、足を踏み込んだが最後、魔術でふかふかに仕上げられた地面は、足を跳ね返すどころか吸着して沈ませに来る。
原理的には、水属性の魔術と土属性の魔術。
それも生成を必要とするような、高難易度の物ではない。
どちらも現場にある物を使って、雨上がりの状況を利用して行使した、消費エネルギーの少ない賢い戦い方だ。
ユウから言わせると、【狂化】状態ではこのような戦い方が難しくなる。
彼の言葉を借りるなら、『不純物の無い世界』とやらではなくなってしまうのだろう。
完全に足の止まったアラタを見て、そして何度場所を移動しても、射線が被ってしまう敵の力量を見て、クリスは弓を置いた。
「お前が……」
死んだらエリになんて言えばいい。
2本の短剣を手に、クリスが動いた。
※※※※※※※※※※※※※※※
「ハァ、ハァ、ブフッ、ハァ……」
先ほどまで、アラタはまるでプールの底へ沈んでいくような感覚の中、夢を見ていた。
自分の意思に対してダイレクトに、よりセンシティブに、キレの良いレスポンスで、体を操ることが出来た。
痛みも和らいだし、力も溢れていた。
ただし、周りが見えなくなった。
トンネルマインドと呼ばれる状態に、陥ってしまった。
こうなると、ユウが考えたように、搦め手に対して非常に脆くなる。
それはもうすべての雷撃を食らってしまうくらい、以前と比べて圧倒的に。
そして、再び気を確かに取り戻した時、彼の手の中にあったのは、カラっ欠になった肉体。
立っているだけで膝が震えて、手が震えて、視界がおぼつかず、一点を見つめることが出来ない。
視界がぶれ、200kgのバーベルを背負ってスクワットをしている最中のような、肉体的、精神的負荷が常時かかっている気さえする。
「ここまでだな」
「はは……冗談」
なけなしの魔力を使って、拘束用の泥沼から足を引き上げた。
膝まで浸かっていたのだから、靴の内側にも泥が入り込んでいて不快だ。
本当なら靴ごと水洗いして、清潔にしたい。
水虫なんて死んでも御免だから。
そんなことを考えていること自体が、彼の集中力が限界に達していることを物語っている。
【不溢の器】、力をくれ。
あと少しでいいから、俺に力を。
少しだけ貰えれば、あとは俺がなんとかするから。
だから、あと1回全力で動ければいいから、頼む。
固有スキルは、応えない。
これは人間ではないから、感情なんてものは持ち合わせていないから。
無情にも、スキルは応えない。
「剣術、体術は叩いた。なら、次はこれだな」
そう言うと、ユウは剣を収めた。
代わりに取り出したのは、身の丈以上もある大きな杖。
グネグネとカーブを描いて、一目でワンオフと分かる造形。
駆動部分なのか、大事な部分には金属があしらわれていて、魔石も至る所に見受けられる。
形や大きさの異なる魔力結晶を装着するために、セット部位には多少の遊びが持たされていた。
4方向からストッパーをあてがうことで、任意の大きさのそれを固定するような構造らしい。
位置的には三角錐の頂点的な様子だろうか。
大小20以上の魔石が煌めく杖は、さながら棒状の魔石展示用ディスプレイだ。
「殺しはしないと言ったが、それはお前の反応次第だ」
ブゥンと、それっぽい起動音を杖が発しつつ、ユウは最後に問いかける。
ここから先、発言には気を付けろと。
「お前は、何の為に武器を取る。何の為に戦う」
根幹を、もう一度、原点を、照らし出す。
「俺は、エリーの為に、あの子が幸せになれるような世界を、あの子が笑えるような未来を勝ち取るために、戦う。命を懸けて、全てを懸けて、戦う」
刀を杖にしなければ、もはや立っていることすら厳しいアラタの視線は、当の昔に下を向いている。
気持ちがどうこうではなく、もうそれしか身体が言うことを聞いてくれないから。
だが、目には見えていなくても、彼は感じていた。
まだ諦めずに戦う、もう一人の馬鹿の存在を。
「……まあ及第点か。少し加減してやる」
魔石から魔力が放出され、それは杖に組み込まれた回路に流れ始める。
流入したそれは、回路に従って、あらかじめ決められた挙動をする。
その回路に何が刻まれているのか、アラタは知らない。
ユウのことだ、攻撃系の魔術が仕込まれていることは確実だが。
カタカタと、魔石が揺れる。
初めはぴったりと固定されていたのに、震えが止まらない。
魔力を放出して、小さくなったのだから、それも当然だが、この数の魔石が、これだけ消費されるという現象、並大抵の魔術ではない。
クリスが使った竜の魔石でも、魔力の総量でいえば劣るだろう。
「雷槍、並列起動100」
桁が2つ多いだろ。
心の中でそう愚痴を溢した。
100本同じ場所にミスなくぶち込めるわけじゃあるまいし、半分以上、絶対に外れる。
外れる攻撃に意味なんてほとんどない。
少なくともこの状態じゃ、魔力と魔石の無駄使いだ。
でも、ここが最後の正念場だ。
気張れよ、俺と……クリス。
超至近距離から、1発1発が即死に繋がる魔術を100発、アラタに撃とうとする男。
アラタの考える通り、多分半分以上の雷槍は外れてしまうのだろう。
だが、仮に50本が命中したとして、アラタは50回死ぬことのできる威力。
絶望が、彼の体を支配する。
でも、【狂化】が解けた今、思考の方はクリアだ。
2筋の銀光が、地面を走るようにユウに向かった。
左手の剣が空振り、右手の剣が、杖をわずかに掠める。
そして、ユウの重心が後ろに傾いた。
クリスは止まらない。
ここでは不十分だと分かっているから、一縷の望みに賭けるとして、アラタは生きて戦わなければいけないから。
その為には、両者の間に距離が必要だから。
右手は左袈裟から、左手は突く構え。
仮面の下の表情は、無表情。
歯を食いしばることも無く、笑うことも無い。
そこに割く余裕なんて、彼女にはないから。
この戦場に不似合いな、足手纏いの彼女の剣が、未来を切り拓く。
アラタとユウ、2人の間に割り込んで、ただで済むはずがない。
でも、クリスの剣は、ユウを下がらせた。
一歩、二歩、三歩と。
想いの強さだけは、クリスも譲らない。
敵の足元から、嫌な感じがした。
クリスはすかさず左に避けると、彼女が動けるスピードの遥か上の速度で、土の棘が泥を伴って繰り出された。
ユウは、今使えるギリギリのところの攻撃を、外した。
攻撃が、届く。
「あああぁぁぁあああっ!」
安全圏を捨てて、ここまで出てきてしまった彼女の行動は自殺行為に他ならない。
でも、命を懸けなければ、何も為せない。
「邪魔をするなぁ!」
ユウの左手が、クリスを捕らえた。
「寝とけ!」
彼女の首元を抑えた彼は、アラタが序盤で彼に対してやろうとしたように、風刃でのどを切り裂くことも出来たかもしれない。
しかし、ユウはクリスを地面にたたきつけて戦闘不能にしただけで、それ以上は何もせずに手を離した。
今の彼にはそれ以上に大事なことがある。
魔道具の、装填が完了、発射に入る。
「起動手順、正常終了。魔道回路、冷却開始。標準、ヨシ。百連装雷槍、発射」
その戦場は、雷の光に包まれた。
【狂化】系のスキルか。
その手に伝わってくる衝撃、アラタの表情、動き、息遣い、それら様々な情報を整理して、ユウは能力の解析中だ。
全てを見通すような都合の良い目は持っていないが、男は経験則で敵を丸裸にしていく。
見るからに正気を失っている。
それに……。
一撃、いいのがアラタの体に入った。
フロントキックが体のど真ん中に入り、内臓を保護する役割の肋骨を破壊する。
幾本かの骨が折れる感触が返ってきて、相手の体も吹き飛ばせるはずだった。
これだけの衝撃が体に伝わると、人間の体は自然と硬直してしまうからだ。
しかし、アラタは止まらない。
口元に赤いものを滲ませながらも、攻撃を受けながらも前進する。
まるで意に介していないのだ、即戦闘不能レベルのこのダメージを。
脳の制限が解除されている…………というより、脳内麻薬の過剰分泌が肝か?
動きが良くなっていることはこれで説明がつくし、痛覚軽減……は元から持っているか。
判断能力の欠如は快楽物質からくるものなのか。
では、これは?
骨を折りながら突っ込んできたアラタの刀をユウは弾くと、後ろに大きく跳躍した。
なおも追いすがるアラタに対して、彼は十分なスペースを確保する。
何をするのに十分なのか?
それはもちろん、見定めるため、彼が担い手にふさわしいかを、判断するために。
半円状に、魔力が広域展開された。
初めは結界術を使用するかに思われたそれだったが、途中で魔力の循環を止めた様子から見るに、どうやら違うらしい。
使うのは純粋な攻撃魔術、全てが雷撃だ。
雷撃の長所は高速起動、連続起動性能が優れていること。
速く、沢山使える魔術ということだ。
だから、ユウが合計15個の雷撃を展開し終えて、発射するまでにかかった時間は、たったの1.5秒。
神速である。
込めた魔力は大した量ではない。
それこそ一握りいくらの魔術師が使う程度の威力。
これではアラタを止めることは出来ない。
ただ、止めることは出来なくても、体勢を崩すことは出来る。
ダメージを与えることも出来る。
既に満身創痍な彼にとって、これ以上の被弾は何が何でも避けるべき。
普通は、論理的な思考をするのなら、そう考える。
だから、これは試験として最適な攻撃だ。
正常な思考力を残しているのか、そのテストとなるから。
「ォォォオオオ!!!」
咆哮を上げながら、アラタはただ一直線に突っ込む。
そこは180度から攻撃が降り注ぐ爆撃地域だというのに。
初めに、一番近い左側面の魔術が彼に当たった。
次いで正面、右側面、斜め右、斜め左、当たる当たる、それはもう面白いくらいに。
FPSをやっていたとして、これほど綺麗に攻撃が命中すれば、それはもう面白くて仕方がないだろう。
一方、もしこれが自分だったら、相手のチートを疑うくらいの被弾率。
15発中、15発全弾命中。
アラタの動きが、鈍った。
つまらんな。
ありきたりな、どこにでもある【狂化】。
ユウはこのスキルが嫌いだった。
蛮勇とも呼ばれる、自身の理性と引き換えに戦闘力を向上させる系統のスキル。
それは、自分が人間であることを否定するものだと、彼は考えていた。
ヒトが何故、魔物や獰猛な危険生物溢れるこの世界で、文明を築き上げることが出来たのか、彼らには考えが及ばない。
極限まで肉体を鍛え上げたとしても、生物的な差は埋められない。
だからこそ、ヒトは魔力を使う術を身に着け、スキルを使いこなし、頭を使うのだ。
幾度もシミュレーションを重ね、準備をして、危険を正しく恐れて、やりすぎなくらいに自然に備えるから、ヒトは強い。
そこから考える力を奪ったら、霊長類の中でも大した身体能力を持たない、ただの餌としての価値しか残らない。
だから、男は彼を否定する。
それは間違っていると、それでは人間足りえないと、そう拳で言い聞かせる。
再び、地面に魔力が流れた。
※※※※※※※※※※※※※※※
援護に入る隙が無い。
あいつ、私の位置を分かっているのか?
奴が躱せば、アラタに当たる位置を取り続けていく。
「…………化け物」
クリスの手から、力が抜けていく。
ドレイク、ディラン、そしてユウ。
特殊配達課から組織を転々として半年以上。
この短い期間で、どれだけの強者と出会ってきたことか。
例え自分が百人いたとしても、相手に傷を付けられるか怪しいほど、実力に開きのある敵と相対するたびに、彼女の心は折られてきた。
こんなモンスターがこの世にはいるのかと、しかもそれが一人ではないのだと、自分はこれを相手にしなければならないのかと、彼女はこの世を儚んだ。
それでもクリスが戦うことをやめなかったのは、隣で諦めない男がいたから。
初めてその姿を見たとき、この男は弱いどころの話ではなかった。
まるでお話にならない、自分が本気を出せば10秒と持たない、どこにでもいる弱者のはずだった。
でも、行動を共にするようになって、こいつは軽く見てはいけないと、そう思った。
毎日、顔を合わせる度に、アラタは強くなっていく。
やがて自分が抜かれたときも、悔しくないことが悔しかった。
当たり前だと、そう思ってしまった自分を恥じた。
だからこそ、精神的支柱であるアラタが圧し折られようとしている今、同様にクリスの心もポッキリと折れそうになっていた。
あのアラタでさえ、赤子の手を捻るように畳まれてしまう。
これほどの差があるとは、これほど手も足も出ないとは思わなんだ。
彼女の視線の先で、【狂化】を発動しているアラタの足が止まった。
体力の限界が来たのではなかった。
アラタは、泥に足を取られて動けなくなっている。
先ほどまであんなに縦横無尽に走り回っていたのに、生コンクリートの中に足を突っ込んだように、頑として動かない。
粘性抵抗の強い物質に動きを絡めとられては、走り続けることは出来ない。
泥沼と化した水たまりのうちのいくつかに、ユウは仕掛けを作った。
一見ただの小さな水たまりにしか見えないが、足を踏み込んだが最後、魔術でふかふかに仕上げられた地面は、足を跳ね返すどころか吸着して沈ませに来る。
原理的には、水属性の魔術と土属性の魔術。
それも生成を必要とするような、高難易度の物ではない。
どちらも現場にある物を使って、雨上がりの状況を利用して行使した、消費エネルギーの少ない賢い戦い方だ。
ユウから言わせると、【狂化】状態ではこのような戦い方が難しくなる。
彼の言葉を借りるなら、『不純物の無い世界』とやらではなくなってしまうのだろう。
完全に足の止まったアラタを見て、そして何度場所を移動しても、射線が被ってしまう敵の力量を見て、クリスは弓を置いた。
「お前が……」
死んだらエリになんて言えばいい。
2本の短剣を手に、クリスが動いた。
※※※※※※※※※※※※※※※
「ハァ、ハァ、ブフッ、ハァ……」
先ほどまで、アラタはまるでプールの底へ沈んでいくような感覚の中、夢を見ていた。
自分の意思に対してダイレクトに、よりセンシティブに、キレの良いレスポンスで、体を操ることが出来た。
痛みも和らいだし、力も溢れていた。
ただし、周りが見えなくなった。
トンネルマインドと呼ばれる状態に、陥ってしまった。
こうなると、ユウが考えたように、搦め手に対して非常に脆くなる。
それはもうすべての雷撃を食らってしまうくらい、以前と比べて圧倒的に。
そして、再び気を確かに取り戻した時、彼の手の中にあったのは、カラっ欠になった肉体。
立っているだけで膝が震えて、手が震えて、視界がおぼつかず、一点を見つめることが出来ない。
視界がぶれ、200kgのバーベルを背負ってスクワットをしている最中のような、肉体的、精神的負荷が常時かかっている気さえする。
「ここまでだな」
「はは……冗談」
なけなしの魔力を使って、拘束用の泥沼から足を引き上げた。
膝まで浸かっていたのだから、靴の内側にも泥が入り込んでいて不快だ。
本当なら靴ごと水洗いして、清潔にしたい。
水虫なんて死んでも御免だから。
そんなことを考えていること自体が、彼の集中力が限界に達していることを物語っている。
【不溢の器】、力をくれ。
あと少しでいいから、俺に力を。
少しだけ貰えれば、あとは俺がなんとかするから。
だから、あと1回全力で動ければいいから、頼む。
固有スキルは、応えない。
これは人間ではないから、感情なんてものは持ち合わせていないから。
無情にも、スキルは応えない。
「剣術、体術は叩いた。なら、次はこれだな」
そう言うと、ユウは剣を収めた。
代わりに取り出したのは、身の丈以上もある大きな杖。
グネグネとカーブを描いて、一目でワンオフと分かる造形。
駆動部分なのか、大事な部分には金属があしらわれていて、魔石も至る所に見受けられる。
形や大きさの異なる魔力結晶を装着するために、セット部位には多少の遊びが持たされていた。
4方向からストッパーをあてがうことで、任意の大きさのそれを固定するような構造らしい。
位置的には三角錐の頂点的な様子だろうか。
大小20以上の魔石が煌めく杖は、さながら棒状の魔石展示用ディスプレイだ。
「殺しはしないと言ったが、それはお前の反応次第だ」
ブゥンと、それっぽい起動音を杖が発しつつ、ユウは最後に問いかける。
ここから先、発言には気を付けろと。
「お前は、何の為に武器を取る。何の為に戦う」
根幹を、もう一度、原点を、照らし出す。
「俺は、エリーの為に、あの子が幸せになれるような世界を、あの子が笑えるような未来を勝ち取るために、戦う。命を懸けて、全てを懸けて、戦う」
刀を杖にしなければ、もはや立っていることすら厳しいアラタの視線は、当の昔に下を向いている。
気持ちがどうこうではなく、もうそれしか身体が言うことを聞いてくれないから。
だが、目には見えていなくても、彼は感じていた。
まだ諦めずに戦う、もう一人の馬鹿の存在を。
「……まあ及第点か。少し加減してやる」
魔石から魔力が放出され、それは杖に組み込まれた回路に流れ始める。
流入したそれは、回路に従って、あらかじめ決められた挙動をする。
その回路に何が刻まれているのか、アラタは知らない。
ユウのことだ、攻撃系の魔術が仕込まれていることは確実だが。
カタカタと、魔石が揺れる。
初めはぴったりと固定されていたのに、震えが止まらない。
魔力を放出して、小さくなったのだから、それも当然だが、この数の魔石が、これだけ消費されるという現象、並大抵の魔術ではない。
クリスが使った竜の魔石でも、魔力の総量でいえば劣るだろう。
「雷槍、並列起動100」
桁が2つ多いだろ。
心の中でそう愚痴を溢した。
100本同じ場所にミスなくぶち込めるわけじゃあるまいし、半分以上、絶対に外れる。
外れる攻撃に意味なんてほとんどない。
少なくともこの状態じゃ、魔力と魔石の無駄使いだ。
でも、ここが最後の正念場だ。
気張れよ、俺と……クリス。
超至近距離から、1発1発が即死に繋がる魔術を100発、アラタに撃とうとする男。
アラタの考える通り、多分半分以上の雷槍は外れてしまうのだろう。
だが、仮に50本が命中したとして、アラタは50回死ぬことのできる威力。
絶望が、彼の体を支配する。
でも、【狂化】が解けた今、思考の方はクリアだ。
2筋の銀光が、地面を走るようにユウに向かった。
左手の剣が空振り、右手の剣が、杖をわずかに掠める。
そして、ユウの重心が後ろに傾いた。
クリスは止まらない。
ここでは不十分だと分かっているから、一縷の望みに賭けるとして、アラタは生きて戦わなければいけないから。
その為には、両者の間に距離が必要だから。
右手は左袈裟から、左手は突く構え。
仮面の下の表情は、無表情。
歯を食いしばることも無く、笑うことも無い。
そこに割く余裕なんて、彼女にはないから。
この戦場に不似合いな、足手纏いの彼女の剣が、未来を切り拓く。
アラタとユウ、2人の間に割り込んで、ただで済むはずがない。
でも、クリスの剣は、ユウを下がらせた。
一歩、二歩、三歩と。
想いの強さだけは、クリスも譲らない。
敵の足元から、嫌な感じがした。
クリスはすかさず左に避けると、彼女が動けるスピードの遥か上の速度で、土の棘が泥を伴って繰り出された。
ユウは、今使えるギリギリのところの攻撃を、外した。
攻撃が、届く。
「あああぁぁぁあああっ!」
安全圏を捨てて、ここまで出てきてしまった彼女の行動は自殺行為に他ならない。
でも、命を懸けなければ、何も為せない。
「邪魔をするなぁ!」
ユウの左手が、クリスを捕らえた。
「寝とけ!」
彼女の首元を抑えた彼は、アラタが序盤で彼に対してやろうとしたように、風刃でのどを切り裂くことも出来たかもしれない。
しかし、ユウはクリスを地面にたたきつけて戦闘不能にしただけで、それ以上は何もせずに手を離した。
今の彼にはそれ以上に大事なことがある。
魔道具の、装填が完了、発射に入る。
「起動手順、正常終了。魔道回路、冷却開始。標準、ヨシ。百連装雷槍、発射」
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