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第3章 大公選編
第164話 存在の不確かさ
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「プァア! 死ぬとこだったんですけど!」
風陣を起動してがれきから身を守ったアラタは埃まみれになりながらキレ散らかした。
当然だ、誰だってそんな反応をする。
室内で大魔術を発動した挙句、その余波でアラタは天井から落ちてくる破片から身を守らなければならなかったのだ。
忘れがちだが、彼は今日この街に帰ってきたばかりで、ろくに休みも取っていない。
帰ってきて、ハルツの所へ報告に向かった後、政治デモの監視に向かい、結果をドレイクに伝えたところから、さらに彼と地下訓練場で魔術の勉強なのだ。
ハードスケジュールとかいう次元ではない過酷な1日もようやく終わる、というか日付が変わってしまう。
そんなところに来ての炎雷発動。
見て倣うとかそんなことしている場合ではない。
火属性と雷属性の同時発動を実現しようとかそう言う思考をする余裕がないから。
そんなこと考える間もなく風属性の結界を張らなければ死んでしまう。
土まみれになった黒装束をパンパンと叩きながらアラタは猛然と抗議した。
ドレイクはというと、まあ防御しているわけで、アラタと違って埃1つついていない。
「外で炎雷なんぞ使ったらすぐ警邏が飛んでくるわい。ここしか場所はない」
「じゃあ威力を抑えてくださいってば!」
相変わらず彼の言葉もどこ吹く風、ドレイクには届かない。
アラタは諦めて魔術の練習をすることにした。
彼の生活の6割は諦めから始まっている。
こうして抗議することを諦め、刀を構えたところから本格的なレクチャーが始まった。
「まずは詠唱を覚えるところからじゃ。ワシに続いて唱えよ。我は熟慮する、真実を……」
「我は……」
詠唱魔術の訓練はひたすらに口を動かす。
頬の筋肉がつるくらい詠唱を繰り返す。
その中に魔力の扱い方を教わり、詠唱とセットで体に染み込ませ、そうして無意識下で魔力のコントロールを習得していく。
雷撃のようなシンプルに一本の回路しか使わない魔術ならまだしも、複雑な魔術回路の構成をいちいち覚えるのは実質的に不可能である。
時間をかけていけばできなくはないが、そうする意味は特にない。
あのドレイクでさえも回路図の構成は本を見て教えている。
詠唱はダンスの振り付けのようなもので、あるいはランニングの声出し、田植え唄、その他さまざまな人間の生活に根付いているように、何となくで魔力を扱う技術体系のことを指す。
従って詠唱をおろそかにすれば魔術は発動しない。
しないわけで、
「バカもここまでくると気持ちがええのう」
「えぇっと、借りるのは何でしたっけ?」
このありさまである。
特殊配達課の連携サインは1日で覚えられたのだが、アラタは詠唱を噛まずに言うことが出来なかった。
疲れているのもあるのだろうと、その日はそれで終わった。
少し引っ掛かる終わり方だったが、ともかくアラタは疲れた体に鞭打って食事を摂り、風呂に入り、家事をして、そして寝た。
翌日の朝、アラタの朝は早い。
紙に写した詠唱を口にしながら魔力のコントロールの練習をする。
が、どうしても中々上手くいかない。
他の者が起きてくる時間になり、訓練を一度切り上げて朝食の用意をする。
それからドレイクの命令に従って市内の調査、特に先日の政治デモに関わっている活動団体周りに注意を払う。
そして帰って来てから報告を行い、地下に向かう。
クリスも地下で訓練をしていたが、それとは別に1人炎雷の習得に励む。
詠唱はギリギリ覚えた。
気を抜けばすぐにどこかに行ってしまいそうな一時記憶に引っ掛かっているだけだが、暗記は暗記だ。
だがただ詠唱を覚えれば習得できるというものでもない。
難易度的にはBランクの魔術師が扱うよう中でも最上級クラスの攻撃魔術、そう簡単にいくはずが無かった。
数日間同じように練習を繰り返し、振り返り、ドレイクに教わりながら更にトライ&エラーを繰り返し、それでもアラタが炎雷を発動することは叶わなかった。
そんな中、アラタとクリスだけをドレイクは呼んだ。
「先生、失礼します」
2人が入室したのはドレイクの書斎だ。
壁際に大きな執務机が1つ、その両側を難しそうで分厚い本が棚に収められている。
それ以外何もないシンプルな部屋だが、ドアで繋がっているもう一つの部屋の汚さを知っているアラタは、この部屋は客人に見せる用の『賢者アラン・ドレイク』としてのものだと分かっていた。
机の前に2人が直立すると、楽にするように言われる。
両手を後ろで組み、足を肩幅に広げたところで彼は2人にあてがう任務について口を開いた。
「アラタお主、エリザベス・フォン・レイフォードの身体的特徴は分かるか?」
「もちのろんです」
彼の隣から嫌悪感というか侮蔑にも近い視線が飛んできているがアラタは気にしない。
「ではクリスは?」
「お世話をしていた時に少々」
「2人ともそれはいつから?」
「冒険者辞めてエリーの所に行ってからここに来るまでです」
「私は6歳の頃から……15歳まで」
アラタの隣で何やら勝ち誇ったような顔をしているクリスは置いておくとして、エリザベスに関する造詣の深さは彼女に軍配が上がった。
その隣で悔しそうにしている男についても説明するのは面倒くさいが、ドレイクはそんな2人に対して2枚の紙を見せた。
どちらも片面に字が書かれている。
インクを使い、尚且つ高品質な紙を使っている場合、薄い紙質は裏写りして逆に使いづらいという欠点がある。
その墨汁のように濃いインクを何とかするべきだとドレイクは最近解決策を模索しているが、彼もかなり忙しい。
結果金をかけた筆記用具は使い勝手が悪いという最悪な状態なのだが、とにかく連続している情報の書かれた2枚の紙を2人は交互に読み込む。
「先生、質問いいですか?」
「なんじゃ」
「これは誰が調べましたか? 先生じゃないですよね?」
「安心せい、特務警邏に伝手がある。それにこの情報源はレイフォード家の記録じゃ、お主の考えているようなことは無い」
アラタの心配がどんなものだったのかは語られなかったが、どうせ大したことではないだろう。
ただ、書かれていることは結構大したことだった。
記されていたのはエリザベスの身体的特徴に関する情報。
身長体重から何から何まで、ノエルやリーゼが同じ情報をアラタに見られたら記憶がなくなるまで殴られ続けそうな内容が赤裸々に。
「どうじゃ? お主らの知る奴と同じか?」
「当然だ。むしろ私の方がもっと知っ————」
「おかしい」
風向きが変わった。
真面目な話の中でもどこか緩い空気が、変わった。
「アラタ、思ったことを言いなさい」
おかしいとは思っていた。
誰だってそう考えるだろ。
俺が体半分、というか魂半分だけ転生して、たまたまあの子とそっくりな娘と出会う。
そんな偶然あるわけないって、それは偶然ではないって、心のどこかで思っていた。
でも、それを認めたらせっかく手に入れた毎日が消えてしまう気がして、認めるのが怖かった。
「おい、大丈夫か」
クリスがアラタの右肩に触れる。
酷い汗、動悸が収まらず、呼吸も浅い。
「辛くても言いなさい。何も感じた? 何を確信したのじゃ?」
机に手をつく。
そうしていなければアラタは自分を支えきれなかった。
汗が紙の上に落ちて、インクが滲んだ。
そこに書かれていること、一字一句違わず、それは確かに新の知っている彼女だった。
彼女とは三人称のそれではない、交際している女性という意味だ。
余談だが、アラタとエリザベスが交際しているか否かという問題には議論の余地がある。
今話しているのはそんなあやふやなものではない。
かつて交わした約束。
『私たちって付き合ってる?』
『だから、私たちは恋人?』
『新は私の事どう思っているの?』
『告白もしていないのに彼氏面するってどうなの?』
『それは? つまり?』
『俺は遥香のこと好きだよ』
『ふふっ、私も! 今日が記念日ね!』
頭が沸騰しそうになった。
甲子園のマウンドで、壊れるまで投げてもここまで頭がおかしくなりそうになることは無かった。
その後、俺は何て言ったのかはっきりと覚えていない。
自分の身体じゃないみたいに、フワフワと、夢の中で自分を見ているみたいだった。
「このっ、こ……遥、はぁ。はぁあ、あ。この特徴は、この人は…………この人の名前は多分、清水遥香。俺の元の世界での彼女、恋人です」
アラタが落ち着いて、辺りを見渡すと、見慣れた石造りの壁と固められた土の地面があった。
何も敷かずそこに座り、アラタの部屋着は土に汚れている。
憔悴していたのだ、自分が何を言ったのかすらよく覚えていない。
ただ、悲しいことに、この予感は正しい気がしていた。
確信はない、ただ、恐らくそうなのだろうと。
今の彼には世界が酷く色褪せて映った。
解像度が低く、カラーバリエーションも少ない。
4Kなんて夢のまた夢、デジタルに負けるアナログ、そこにどれほどの意味があるのだろうか。
手の震えが止まらない。
相変わらず呼吸は浅いまま、入ってきた空気をそのまま吐き出している。
このままではいずれ過呼吸になってしまう。
早急に何かの袋を使って呼吸を正常な状態に戻さなければ救急車コースだ。
視界がブレる、焦点が合わない。
このままプツンと死んでしまいそうな、消えてしまいそうな程の無力感と疎外感の井戸に落ちていく。
「アラタ」
「……なに」
黒装束、ただし仮面を着けずフードも被っていない。
元B1、特配課B分隊長、クリスだ。
「お前、異世界人だったのか」
「あぁ。そうだよ」
彼の言葉に力など一縷もない。
「殿下はお前を特別扱いしていた。それが理由なのか」
「そうじゃ……いや、そうなのかもしれない」
震えていた手が滑り、アラタは仰向けになった。
照明の点いた天井が2人を照らしている。
眩しくて、届かなくて、まるで……
「殿下は3歳の折、事故で両親と兄弟を失っている」
「ああ、それで」
「お前の方はどうだ?」
「確か2歳か3歳の時、事故で両親を」
情報が擦りあわされていく。
徐々に仮説が、限りなく真実に近い仮説が構築されていく。
2歳なのか3歳なのか、それは大した違いではない。
もし事故の中、どちらかもしくは両方が死んでいたら。
死ぬまではいかなくともアラタのように半身だけで転生させられていたら。
もし、清水遥香がエリザベス・フォン・レイフォードの転生した姿だったら。
もし、エリザベス・フォン・レイフォードが清水遥香の転生した姿だったら。
まだこの情報だけでは答えは一つに絞ることは不可能だ。
もしかしたら完全なまでに、ホクロの位置や切り傷の痕まで同じな赤の他人という説もある。
あり得ないと断じるのは簡単だが、アラタの常識では測れない、あり得ない事象がそこにあるのだ、あらゆる可能性を考えるしかない。
俺は、遥香は、俺たちは一体何者なんだ?
遥か昔、まだ赤ん坊だった頃に確立したはずの自己という存在が途端にあやふやに、不確かになる。
自分とは何者なのか、他人とは何者なのか。
転生とは一体何なのか、転生者は元の人間と厳密に同一人物と言えるのか。
自分は本当に千葉新なのか、アラタ・チバなのか。
青年の中で、自分が失われていく。
どんなに否定されても、どんなに打ちのめされても、決して、それだけは揺らがなかったはずの自分という存在。
始めたばかりのジェンガのように、全く不安定でないそれが、テーブルがひっくり返されて急に崩れてしまった。
「俺は…………お——」
手の震えが止まった。
正確には止められた、隣に座った仲間の手で。
「お前はアラタだ。私の命の恩人で、仲間の。馬鹿で間抜けで、戦うことだけが取り柄の、黒装束のリーダーのアラタだ」
「だから、それは俺じゃないかもしれなくて」
「そんなこと言いだしたらキリがない。私は私、お前はお前だ。そんなことまで誰かに保証してもらわなければいけないのか?」
「それは……」
「自分は自分だろ、信じるとか信じないじゃない、証明する術なんてないんだ、なら考えるだけ無駄だ。お前は自分の事を私かもしれないとか言い出すつもりか?」
「いや」
「私は異世界人に明るくないから分からないが、お前がそう思ったのなら、それが全てだろう。他に何が欲しいんだ?」
「いや、それで十分だ」
「それならいい。早く戻るぞ、ドレイクから任務の説明がある」
「分かった、行こう」
考えなかったわけではないことをこうして突きつけられて、アラタは自分に言い訳が出来なくなったのだろう。
だからあそこまで追い詰められて、事実を認めざるを得なくなった。
そして己の存在すら不確かになってしまった。
異世界転生者にしか分からない悩みなのかもしれない、だからクリスは元気なのかもしれない。
ただ、彼女の言う通り、クリスから見たその男はアラタだ。
こんなに懸命にフォローして、面倒かけさせて、そう思うとクリスはなんだか無性にアラタに触れたくなって、階段を上がる彼のケツを蹴り上げた。
風陣を起動してがれきから身を守ったアラタは埃まみれになりながらキレ散らかした。
当然だ、誰だってそんな反応をする。
室内で大魔術を発動した挙句、その余波でアラタは天井から落ちてくる破片から身を守らなければならなかったのだ。
忘れがちだが、彼は今日この街に帰ってきたばかりで、ろくに休みも取っていない。
帰ってきて、ハルツの所へ報告に向かった後、政治デモの監視に向かい、結果をドレイクに伝えたところから、さらに彼と地下訓練場で魔術の勉強なのだ。
ハードスケジュールとかいう次元ではない過酷な1日もようやく終わる、というか日付が変わってしまう。
そんなところに来ての炎雷発動。
見て倣うとかそんなことしている場合ではない。
火属性と雷属性の同時発動を実現しようとかそう言う思考をする余裕がないから。
そんなこと考える間もなく風属性の結界を張らなければ死んでしまう。
土まみれになった黒装束をパンパンと叩きながらアラタは猛然と抗議した。
ドレイクはというと、まあ防御しているわけで、アラタと違って埃1つついていない。
「外で炎雷なんぞ使ったらすぐ警邏が飛んでくるわい。ここしか場所はない」
「じゃあ威力を抑えてくださいってば!」
相変わらず彼の言葉もどこ吹く風、ドレイクには届かない。
アラタは諦めて魔術の練習をすることにした。
彼の生活の6割は諦めから始まっている。
こうして抗議することを諦め、刀を構えたところから本格的なレクチャーが始まった。
「まずは詠唱を覚えるところからじゃ。ワシに続いて唱えよ。我は熟慮する、真実を……」
「我は……」
詠唱魔術の訓練はひたすらに口を動かす。
頬の筋肉がつるくらい詠唱を繰り返す。
その中に魔力の扱い方を教わり、詠唱とセットで体に染み込ませ、そうして無意識下で魔力のコントロールを習得していく。
雷撃のようなシンプルに一本の回路しか使わない魔術ならまだしも、複雑な魔術回路の構成をいちいち覚えるのは実質的に不可能である。
時間をかけていけばできなくはないが、そうする意味は特にない。
あのドレイクでさえも回路図の構成は本を見て教えている。
詠唱はダンスの振り付けのようなもので、あるいはランニングの声出し、田植え唄、その他さまざまな人間の生活に根付いているように、何となくで魔力を扱う技術体系のことを指す。
従って詠唱をおろそかにすれば魔術は発動しない。
しないわけで、
「バカもここまでくると気持ちがええのう」
「えぇっと、借りるのは何でしたっけ?」
このありさまである。
特殊配達課の連携サインは1日で覚えられたのだが、アラタは詠唱を噛まずに言うことが出来なかった。
疲れているのもあるのだろうと、その日はそれで終わった。
少し引っ掛かる終わり方だったが、ともかくアラタは疲れた体に鞭打って食事を摂り、風呂に入り、家事をして、そして寝た。
翌日の朝、アラタの朝は早い。
紙に写した詠唱を口にしながら魔力のコントロールの練習をする。
が、どうしても中々上手くいかない。
他の者が起きてくる時間になり、訓練を一度切り上げて朝食の用意をする。
それからドレイクの命令に従って市内の調査、特に先日の政治デモに関わっている活動団体周りに注意を払う。
そして帰って来てから報告を行い、地下に向かう。
クリスも地下で訓練をしていたが、それとは別に1人炎雷の習得に励む。
詠唱はギリギリ覚えた。
気を抜けばすぐにどこかに行ってしまいそうな一時記憶に引っ掛かっているだけだが、暗記は暗記だ。
だがただ詠唱を覚えれば習得できるというものでもない。
難易度的にはBランクの魔術師が扱うよう中でも最上級クラスの攻撃魔術、そう簡単にいくはずが無かった。
数日間同じように練習を繰り返し、振り返り、ドレイクに教わりながら更にトライ&エラーを繰り返し、それでもアラタが炎雷を発動することは叶わなかった。
そんな中、アラタとクリスだけをドレイクは呼んだ。
「先生、失礼します」
2人が入室したのはドレイクの書斎だ。
壁際に大きな執務机が1つ、その両側を難しそうで分厚い本が棚に収められている。
それ以外何もないシンプルな部屋だが、ドアで繋がっているもう一つの部屋の汚さを知っているアラタは、この部屋は客人に見せる用の『賢者アラン・ドレイク』としてのものだと分かっていた。
机の前に2人が直立すると、楽にするように言われる。
両手を後ろで組み、足を肩幅に広げたところで彼は2人にあてがう任務について口を開いた。
「アラタお主、エリザベス・フォン・レイフォードの身体的特徴は分かるか?」
「もちのろんです」
彼の隣から嫌悪感というか侮蔑にも近い視線が飛んできているがアラタは気にしない。
「ではクリスは?」
「お世話をしていた時に少々」
「2人ともそれはいつから?」
「冒険者辞めてエリーの所に行ってからここに来るまでです」
「私は6歳の頃から……15歳まで」
アラタの隣で何やら勝ち誇ったような顔をしているクリスは置いておくとして、エリザベスに関する造詣の深さは彼女に軍配が上がった。
その隣で悔しそうにしている男についても説明するのは面倒くさいが、ドレイクはそんな2人に対して2枚の紙を見せた。
どちらも片面に字が書かれている。
インクを使い、尚且つ高品質な紙を使っている場合、薄い紙質は裏写りして逆に使いづらいという欠点がある。
その墨汁のように濃いインクを何とかするべきだとドレイクは最近解決策を模索しているが、彼もかなり忙しい。
結果金をかけた筆記用具は使い勝手が悪いという最悪な状態なのだが、とにかく連続している情報の書かれた2枚の紙を2人は交互に読み込む。
「先生、質問いいですか?」
「なんじゃ」
「これは誰が調べましたか? 先生じゃないですよね?」
「安心せい、特務警邏に伝手がある。それにこの情報源はレイフォード家の記録じゃ、お主の考えているようなことは無い」
アラタの心配がどんなものだったのかは語られなかったが、どうせ大したことではないだろう。
ただ、書かれていることは結構大したことだった。
記されていたのはエリザベスの身体的特徴に関する情報。
身長体重から何から何まで、ノエルやリーゼが同じ情報をアラタに見られたら記憶がなくなるまで殴られ続けそうな内容が赤裸々に。
「どうじゃ? お主らの知る奴と同じか?」
「当然だ。むしろ私の方がもっと知っ————」
「おかしい」
風向きが変わった。
真面目な話の中でもどこか緩い空気が、変わった。
「アラタ、思ったことを言いなさい」
おかしいとは思っていた。
誰だってそう考えるだろ。
俺が体半分、というか魂半分だけ転生して、たまたまあの子とそっくりな娘と出会う。
そんな偶然あるわけないって、それは偶然ではないって、心のどこかで思っていた。
でも、それを認めたらせっかく手に入れた毎日が消えてしまう気がして、認めるのが怖かった。
「おい、大丈夫か」
クリスがアラタの右肩に触れる。
酷い汗、動悸が収まらず、呼吸も浅い。
「辛くても言いなさい。何も感じた? 何を確信したのじゃ?」
机に手をつく。
そうしていなければアラタは自分を支えきれなかった。
汗が紙の上に落ちて、インクが滲んだ。
そこに書かれていること、一字一句違わず、それは確かに新の知っている彼女だった。
彼女とは三人称のそれではない、交際している女性という意味だ。
余談だが、アラタとエリザベスが交際しているか否かという問題には議論の余地がある。
今話しているのはそんなあやふやなものではない。
かつて交わした約束。
『私たちって付き合ってる?』
『だから、私たちは恋人?』
『新は私の事どう思っているの?』
『告白もしていないのに彼氏面するってどうなの?』
『それは? つまり?』
『俺は遥香のこと好きだよ』
『ふふっ、私も! 今日が記念日ね!』
頭が沸騰しそうになった。
甲子園のマウンドで、壊れるまで投げてもここまで頭がおかしくなりそうになることは無かった。
その後、俺は何て言ったのかはっきりと覚えていない。
自分の身体じゃないみたいに、フワフワと、夢の中で自分を見ているみたいだった。
「このっ、こ……遥、はぁ。はぁあ、あ。この特徴は、この人は…………この人の名前は多分、清水遥香。俺の元の世界での彼女、恋人です」
アラタが落ち着いて、辺りを見渡すと、見慣れた石造りの壁と固められた土の地面があった。
何も敷かずそこに座り、アラタの部屋着は土に汚れている。
憔悴していたのだ、自分が何を言ったのかすらよく覚えていない。
ただ、悲しいことに、この予感は正しい気がしていた。
確信はない、ただ、恐らくそうなのだろうと。
今の彼には世界が酷く色褪せて映った。
解像度が低く、カラーバリエーションも少ない。
4Kなんて夢のまた夢、デジタルに負けるアナログ、そこにどれほどの意味があるのだろうか。
手の震えが止まらない。
相変わらず呼吸は浅いまま、入ってきた空気をそのまま吐き出している。
このままではいずれ過呼吸になってしまう。
早急に何かの袋を使って呼吸を正常な状態に戻さなければ救急車コースだ。
視界がブレる、焦点が合わない。
このままプツンと死んでしまいそうな、消えてしまいそうな程の無力感と疎外感の井戸に落ちていく。
「アラタ」
「……なに」
黒装束、ただし仮面を着けずフードも被っていない。
元B1、特配課B分隊長、クリスだ。
「お前、異世界人だったのか」
「あぁ。そうだよ」
彼の言葉に力など一縷もない。
「殿下はお前を特別扱いしていた。それが理由なのか」
「そうじゃ……いや、そうなのかもしれない」
震えていた手が滑り、アラタは仰向けになった。
照明の点いた天井が2人を照らしている。
眩しくて、届かなくて、まるで……
「殿下は3歳の折、事故で両親と兄弟を失っている」
「ああ、それで」
「お前の方はどうだ?」
「確か2歳か3歳の時、事故で両親を」
情報が擦りあわされていく。
徐々に仮説が、限りなく真実に近い仮説が構築されていく。
2歳なのか3歳なのか、それは大した違いではない。
もし事故の中、どちらかもしくは両方が死んでいたら。
死ぬまではいかなくともアラタのように半身だけで転生させられていたら。
もし、清水遥香がエリザベス・フォン・レイフォードの転生した姿だったら。
もし、エリザベス・フォン・レイフォードが清水遥香の転生した姿だったら。
まだこの情報だけでは答えは一つに絞ることは不可能だ。
もしかしたら完全なまでに、ホクロの位置や切り傷の痕まで同じな赤の他人という説もある。
あり得ないと断じるのは簡単だが、アラタの常識では測れない、あり得ない事象がそこにあるのだ、あらゆる可能性を考えるしかない。
俺は、遥香は、俺たちは一体何者なんだ?
遥か昔、まだ赤ん坊だった頃に確立したはずの自己という存在が途端にあやふやに、不確かになる。
自分とは何者なのか、他人とは何者なのか。
転生とは一体何なのか、転生者は元の人間と厳密に同一人物と言えるのか。
自分は本当に千葉新なのか、アラタ・チバなのか。
青年の中で、自分が失われていく。
どんなに否定されても、どんなに打ちのめされても、決して、それだけは揺らがなかったはずの自分という存在。
始めたばかりのジェンガのように、全く不安定でないそれが、テーブルがひっくり返されて急に崩れてしまった。
「俺は…………お——」
手の震えが止まった。
正確には止められた、隣に座った仲間の手で。
「お前はアラタだ。私の命の恩人で、仲間の。馬鹿で間抜けで、戦うことだけが取り柄の、黒装束のリーダーのアラタだ」
「だから、それは俺じゃないかもしれなくて」
「そんなこと言いだしたらキリがない。私は私、お前はお前だ。そんなことまで誰かに保証してもらわなければいけないのか?」
「それは……」
「自分は自分だろ、信じるとか信じないじゃない、証明する術なんてないんだ、なら考えるだけ無駄だ。お前は自分の事を私かもしれないとか言い出すつもりか?」
「いや」
「私は異世界人に明るくないから分からないが、お前がそう思ったのなら、それが全てだろう。他に何が欲しいんだ?」
「いや、それで十分だ」
「それならいい。早く戻るぞ、ドレイクから任務の説明がある」
「分かった、行こう」
考えなかったわけではないことをこうして突きつけられて、アラタは自分に言い訳が出来なくなったのだろう。
だからあそこまで追い詰められて、事実を認めざるを得なくなった。
そして己の存在すら不確かになってしまった。
異世界転生者にしか分からない悩みなのかもしれない、だからクリスは元気なのかもしれない。
ただ、彼女の言う通り、クリスから見たその男はアラタだ。
こんなに懸命にフォローして、面倒かけさせて、そう思うとクリスはなんだか無性にアラタに触れたくなって、階段を上がる彼のケツを蹴り上げた。
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※この作品はアルファポリス、小説家になろうの両サイトで同時配信しております。
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