射干玉秘伝

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【肆】物思へば沢の蛍も我が身より

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 ある日暮れどき、与一は扇に乗った夕顔を片手に梓乃を訪ねてきた。
 歌を書き付けるまでの教養はないがとへりくだってみせるが、なかなか風雅な真似をする。
 浅利の家紋は扇だ。弓引きらしく笠懸にちなんだかと思いきや、貧乏暮しの糊口しのぎに、扇を張って売ったからだと嘯いた。

「御前、お身体がよいようなら、夕涼みと参らぬかのう」

 そのようなわけで、梓乃は久方ぶりに馬に揺られている。
 呑気なようで、なにか考えがあってのことだろう。断れる立場ではないと大人しく従った。
 しかし、己が馬上にあって、与一がかちなのはいかにも落ち着かない。
 妙に喜んだ下女に髪を結われ、真新しい着物に絹の被衣まで支度されたのも、解せなかった。

 野良仕事を仕舞う領民たちが、行き交うごとに頭を垂れる。

「ようよう、今日もご苦労じゃった」

 与一は、気負わぬふうで彼らを労った。
 子供がひとり、物珍しげに梓乃を見上げた。

「与一さま、嫁っこもろうたかい」

 彼はからから笑い、節くれだった大きな手のひらで子の頭を撫でて応じた。

「左様、鎌倉殿より賜った、三国一の姫さまじゃ」

 人々の注視を浴びて、梓乃は被衣の裾をとって口元を覆った。鎌倉で将軍以下御家人共の前に引き出されたときすら怖じなかったものを、かように女扱いされれば、戯れと知れど気恥ずかしかった。

 与一に導かれて着いた先は、湧くように蛍が乱舞する畔だった。
 幼少より親しんだ和歌が、ふと頭に浮かんだ。

『物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る』

 弓の手解きを受けていたとはいえ、梓乃は越後を治めた豪族の姫だった。あれほどまで追い詰められなければ、戦さ場に出ることもなく、いずれどこかに嫁して子を産む定めだっただろう。
 沢の水音に、低く蛙の声がする。
 一面藍色に沈んだ景色を、光る虫がそこかしこ、彷徨うように飛んでいる。
 そのひとつひとつが、まるで己が命を取った相手のように思われた。
 しかし、後悔はなかった。
 梓乃とて、譲れぬもの、護りたいものがあったのだ。
 思い出されるのは、弟のように慈しんだ甥、資盛だった。一族の男たちが次々と倒れ、元服も迎えぬ身で郎党を率いることになった。

あねさま、行ってはなりませぬ」

 涙を浮かべるのを叱り、城氏の霊璽れいじを守るよう言い含めて別れたのが、最後になった。

 与一は、やがて地に鉄椀を置き、篝火を起こした。
 ぽつりぽつり、問わず語りを始めた。

「俺は弓の修練のために、出羽の神職に教えを請うたことがある。門外の俺に肝心要を教えようはずもなかったがのう……其方がここにいると伝わって、寄越してきた」

 与一は懐から、書状を取り出して梓乃に寄越した。篝火のもと、梓乃は目を走らせる。
 出羽の神職は、一人、越後より頼ってきたいとけない男の童を迎えたという。

「この戦乱の世に、無惨なれどよくある話じゃ。さてどこの童やら知らぬが、鎌倉殿も忙しい。遠く出羽に童一人の討手をかけるのも手間じゃろうと俺は思う。目通しいただけたか」
「うむ」

 与一は返された書状を篝火に焚べた。

「与一殿。かたじけない」
「俺は何もしなかっただけだ。礼には及びませぬ」

 帰り道、与一は訊いた。

「御前、板額とはまこと凛々しいよい御名じゃ。されど、のう。俺は義遠より与一と呼ばれるほうが好きじゃ。御前にも、身内に呼ばれた名があれば教えてはもらえぬか」
「……しの」
「もしやあずさの字かのう」
「左様じゃ」
「いかにも女の弓引きらしい、たおやかなよい御名じゃ。これからそうお呼びしても宜しいか」
「好きになされ」

 与一は、しの、しのと、口の中でその響きを転がしている。
 大の男がそれしきなにが嬉しいか、梓乃はわからないながら、先ほど姫とからかわれたのと同じ恥ずかしさに襲われて俯いていた。

 ふと心惹かれるのを押しとどめた。
 死に際の夢幻が少しばかり長く続いている、仮初の平穏だ。
 されど、滅びゆく城氏の菩提を弔う恩をかけてくれた彼には、報いねばならぬ。

 城氏の弓の秘伝。
 かの男にならば、最後に見せても許されるだろう。
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