黒山羊と花の乙女

NA

文字の大きさ
上 下
42 / 52

36.メビウスの悪夢① ※

しおりを挟む
 オフィーリアは、翅をだらりと冷たい床に広げていた。
 カツン、カツン。
 硬い靴音がまるで頭を蹴り飛ばすように、暴力的に響く。

「おやマダム、なんてざまだ」

 妙に明るい声が、降ってくる。

「ミュート、ちいときつく当てすぎじゃねえか? 大事な卵抱いた身体で、気の毒ったらねえよ。……あれ、吸わせてやれ」

 口元に柔らかいものが押し当てられる。甘い、優しい香りに誘われるまま、口吻を伸ばして、蜜を吸った。

 意識がはっきりしはじめた途端、身体が慄いた。
 白い八重咲きの花は、半ば握りつぶされて、鉤爪のついた獣の手の中にあった。

「リファ、リール、さま」

 震える腕を花に伸ばす。しかし、目の前で獣の手は引っ込み、錠がかけられた。意識を失う前に見た、蝙蝠族の男だった。

 金網の向こうには、もう一人、黒服の貂がいる。
 オフィーリアは声を振り絞った。

「リファリール様は、どこ!」
「ああ、心配いらねえよ。あれは最高級品だ。一番いい部屋に入れてある。もちろん、あんたのことも歓迎してるつもりだよ? とっときの樹花族の蜜吸わせてやるくらい。状態がいい方が値が上がるからさあ」

 黒貂メビウスはソファに腰掛けて、黒いステッキの柄に、両手と顎を乗せた。

「なーあ、マダム。ちょうちょってのは、何が一番高く売れるか知ってるかい」

 メビウスは、低い虫籠の中の黒揚羽を睨め付けた。

「わかりやすいのは大型種の雄の翅だ。ありゃ他種の目から見ても綺麗なもんだね。需要って意味なら一番多い。柄は派手なほどいい。丸ごと標本はエグいって敬遠する客には、翅だけのアートも人気だ。俺も扱ったことあるよ、何十頭分も翅を使って、額の中に花束みたいに飾ってさあ……先のオークションじゃ、なかなか盛り上がったもんさ」

 オフィーリアにはおぞましいばかりの話を、得意げに語る。

「だが、一番高えのは、あんたみたいに卵で腹膨らませた雌の生体なんだよ。欲しがる客は限られてるが、売値はそれこそ桁違い」

 オフィーリアは服を剥がれていた。恥辱を与えるためだけではなかった。孕んでいるのがわかりやすいようにするためだ。
 オフィーリアは理解し始めていた。
 この男は、ひとを商うのだ。

「ご招待したのはそういうわけだ、黒揚羽のマダム・オフィーリア。俺にゃわからんが、虫の中じゃ美人で通ってるらしいねえ。孕んだあんたが手に入るなら、どんだけでも金積むってお得意様が、ひとりふたりじゃねえんだよ」
「そんなこと、許されるわけが……!」

 腕で身体を支えて、オフィーリアは黒貂を睨む。

「へーえ、なかなかいい目だ。自前で店構えてるだけあるね。俺は気の強い女は好きだよ」

 メビウスは顎を上げると、ステッキを持ち直した。

「鼻っ柱へし折ってやるのが、楽しいからさあ。ま、ちょうちょに鼻なんてあんのか知らねえが」

 ステッキが虫籠の天井を打ったとたん、オフィーリアの視界が歪んだ。





 闇の中に、無数の標本箱が吊られている。
 虫籠に閉じ込められた商品オフィーリアを、魔灯が照らし出す。

 オークショニアは黒貂メビウス。
 気取ってハットをとり、しなやかな身体をくねらせて一礼すると、ステッキを回した。

『さて次なるお品は、皆さまご存知、黒揚羽のマダム・オフィーリア! 熱いご要望にお応えしての入荷でございます。代替わりを控えてご覧の通り、卵入り! 金貨十枚からで参りましょう!』

 十五、二十。三十。
 四十五、五十。
 百!

 オフィーリアの値付けが釣り上がっていく。目の前の標本箱に入っているのは、青筋揚羽の翅だ。

――ルミエール。

 ひととき、オフィーリアを慕ってくれた、軽薄なまでに明るい青年。地下の組織で働かされていた彼は、摘発のときに助け出された小灰蝶が言うには、逃げようとして捕まり、翅をむしられて殺されたという。その身体は見つからなかった。ルミエールを使っていたという、黒山羊のものになったとも、聞いたけれど。

――あなた、こうして売られたの……!

 声にならない。動けない。
 
 百五十と言ったのは蟷螂だ。三角の頭を90度回して、抱くものをずたずたに切り裂く腕を広げる。

『ずっと見てたよ、マダム・オフィーリア。毎年毎年腹膨らませやがって、ひでえ淫乱のちょうちょ……ああ、その腹切り裂いて、目の前で喰う卵はどんだけ美味いんだろうなあ。大丈夫だよ、空っぽになった腹には、俺のもん注ぎなおしてやる。そうやって一緒に死のうな、オフィーリア。もう誰にもやらねえよ』

 二百、と蟷螂と競るのは蝦蟇。口から伸びる長い舌から、ぽたり、ぽたり、粘液が滴る。

『いけないいけない、そんなむごいことをしてはよろしくない。オフィーリア、優しくするとも。舌で巻き取って、その綺麗な翅がくしゃくしゃになるのも、細い腕が折れるのも、腹の中でぷちぷち卵が潰れるのも……ゆっくり、君の全てを味わって、まるごとお腹にしまってあげる』

 言葉だけですら、ねとねとと犯されて絡め取られる。オフィーリアは、声にならない声で叫んだ。

――やめて、やめて、嫌だ! せめて卵は、卵は残して……!

 メビウスが虫籠を覗き込んでくる。落とし穴のような真っ黒な目、口ばかりにやにや笑っている。

『そりゃ無理な相談だ、マダム。あんた何回生きたか知んねえが、その命、完全に断ち切りたいって……孕んだ雌を喰いたがる客は、正にそこに興奮するわけだ。春にヒラヒラ復活されちゃ、興醒めってもんだろう?』

 五百。

 値付けが跳ね上がる。のっそり現れるのは、蜥蜴族だ。蟷螂と蝦蟇との三すくみで競り続け、蜥蜴が八百と言い渡したところで、終わった。
 
『ひどいやつらだ。助けられてよかったよ、オフィーリア』

 蜥蜴はメビウスから檻の鍵を受け取って言う。

『安心なさい、殺したりなど絶対しないとも。こんなところはすぐに出て、わたしの屋敷で卵を産むがいい。……全く、それもこれも、お前が美しいのがよくない。貴重な宝石はふさわしい場所に仕舞わなくては』

 蜥蜴は陰鬱に、独り言のように呟いている。

『なにも不自由させやしない、立派な籠を用意してある。毎年雄をあてがってもやろう。何代も何代も、大切に守ってやるとも……』

 メビウスが高笑いして、オフィーリアの檻を再びステッキで叩く。
 鋭い音と共に、悪夢がひび割れていった。




「さあて、ご趣味のいいファンばっかりだ。誰が競り落とすかはやってみなきゃわかんねえが。一番あんたに金を出す……入れ込んでるやつに可愛がってもらえんのは、保証してやるさ」

 オフィーリアは恐怖に震える身体をかき抱いている。
 代替わりで従業員には暇を出し、春まで休業の看板をかけているオフィーリアがいなくなったところで、誰も気づいてはくれない。だからこそ今、狙われたのだ。
 しかし、リファリールも共に攫われたのならば。

「すぐ、傭兵団が探しにくるわ……リファリール様がいなくなって、黙っているはずがない……!」

 しかし、メビウスはニヤニヤ笑いを引っ込めなかった。

「うんうん、普通、そう思うよなあ。……特にあの黒山羊くんとかさあ、絶対に大騒ぎしそうだもんな」
「あ……」

 恐ろしい可能性に思い至った。
 あの黒山羊も、このひと攫いたちの仲間だったら。

「まさか、あの、男」

 メビウスは愉快そうに口にした。

「うん、先代が可愛がっててね。知らねえ仲じゃねえわけよ」

 リファリールに近づいた獣族の男への嫌悪が、オフィーリアの中で一気に膨らんで、疑念が確信に変わった。
 花祭りの夜、オフィーリアの言葉に傷ついた顔をしてみせたことすら、全て、演技だ。
 それでもリファリールが望むならと、どうせ寿命の違う異種族、やがて死に別れて、リファリールはグリムフィルドのもとへいく運命だと、口を噤んだのが悔やまれた。たとえリファリールに嫌われようと、もっと強く諫めて、やめさせるべきだった。
 一度裏に染まって、ルミエールを売り飛ばした男だ。更生などするはずがない。
 はじめから、あの男は機会を見て、リファリールを売るつもりだったのだ。一緒に暮らしている恋人ならば、リファリールがいなくなったことを、いくらでも誤魔化せる。病で臥せったなり、故郷に帰ったなり……あの男はそれが充分通るほど、リファリールと睦まじいふりをして、周囲を信用させている……。

「あの、ケダモノ……!」

 オフィーリアの声に憎悪を聞き取って、メビウスは満足げに笑みを深めた。

「……ま、ご想像にお任せしておこう。迎えを期待するのも、ご自由にってことで」




 商品の状態確認と世間話を済ませて、メビウスは廊下に出た。
 最後は見当違いに怒り狂って、なかなか滑稽だった。まだ笑いが引っ込まないくらいだ。
 しかし、黒揚羽のご指摘通り、樹花族については何か細工をしないことには、すぐに騒ぎになってしまう。黒揚羽のついでに仕入れができたのは幸運だったが、こうなると、あの黒山羊はさっさと抱き込むか、片付けるかしなければならない。

 蝙蝠のミュートだけ連れていたのが、何人かの手下が後をついてきた。

「ボス」
「うん?」
「ミュートが持ってきた樹花族、バフォメットの女らしいですが」
「お前らほんとあの山羊好きだよね。元同僚のよしみってやつ?」

 虎も狼もハイエナも、泣く子も黙る肉食の獣族が、山羊一匹に目の色を変える。メビウスが祭りの夜につついたときには、青ざめて女に庇われすらしたものが、昔はどれだけ暴れ回ったのやら、本性を見物してみたい気もしはじめた。

「魔力持ちの黒角、欲しくねえですか」
「俺たちはやっぱり、あの山羊は喰い殺さなきゃ、気が収まんねえ」
「目玉抉って鼻潰して、歯ぁ全部引っこ抜いて、あの忌々しい脚へし折って、心臓食いちぎって、それでもまだ足りねえ」

 熱烈なことだねえ、と呆れ笑う。ボスと呼ばれるからには、手下どもに餌をやるのが仕事の一つだ。

「前はてこずったんだろ? やれんの?」

 鉛色の義歯を剥き出して、虎族のタレスが答えた。

「あんな野郎、魔力さえなけりゃただの山羊。……『リング』の使用許可を」
「あ、もう手段選ばねえわけね」

 最近改造した特別製の舞台だ。魔力の行使を妨害する陣が床に仕込まれている。
 ハイエナ族のシェイドが言い添える。

「ミュートの調べじゃ、樹花族と山羊、しかも前科持ちじゃ釣り合わねえって、虫どもなんかにゃ白い目で見られてるって話です。あいつも始末しておいて、ふたりでどっか逃げちまったことにすりゃあいい」

 口封じに片付ける方向だ。どのみち、手下のこの様子では、黒山羊を引き込んで使うのは無理そうだった。

「んー……ま、ちょいと雑だがいいか。蒸発は金か色だ。せいぜい、代書屋に泣ける置き手紙書かせとけよ。ふたりで遠くで幸せになります、探さないでください、ってやつな」
「承知しやした」

 先代以来、久しぶりの興行ショーだ。希少種の女を嬲りながら愉しむのも一興。
 メビウスは追加で指示した。

「『窓』は閉めとけよ。いらない客ってのは来るもんだ」




 通りが夕闇に包まれていく。
 城壁の外での魔物討伐を終えて帰ってきたユールは、ギルドに入らずに、仲間に手を振って別れた。帰着の報告なら小隊長のディードがしてくれる。
 家路を、蹄を鳴らして飛ぶように駆けていく。頭の中はもう、帰りを待っているリファリールのことでいっぱいだった。
 しかし、魔術屋敷のドアノブに触れたとたん、手が弾かれた。

 ポケットの中に、チモシーを入れっぱなしなのを思い出した。疲れたと言って潜り込んできて、そのまま眠ってしまったのだ。
 引っ張り出して腹をくすぐっても、目を開けずにうるさそうに尾を振って丸まろうとする。

「チモシー、起きろって」

 そのとき、ドアが内側から開いた。一角獣のオーネストだった。

「ユールさん、よかった。おかえり」
「あ、どうもっす」

 見れば、手に箱を持っている。

「これ、少し前に届けものってことで預かったんですけどね。……リファリールさんもいないみたいで」
「いないって……?」

 急に、ざわりと嫌な予感がした。もう日も落ちたというのに、どこに行ったというのだろう。

「あと、これ……その、開けてみてくれませんか。受け取ったあとから、家鳴りが酷い。屋敷が怒っているみたいなんです」

 確かに、ミシミシと音がする。チモシー一匹にここまでぴりぴりと反応するのも、なかったことだった。

 甘い、誘うような匂いが漂っている。
 頭で理解する前に、寝起きの悪いリスをポケットに押し込んで、箱を受け取る手が震えていた。

 リファリールの匂いだ。いないはずなのに。眼裏に、青いものが閃く。それはルミエールの幻影だった。

 箱を開けると、目に白いものが飛び込んできた。
 噛み殺された小鳥の死骸のように、潰された花だった。

 その下に、カードが敷かれていた。

『リベンジマッチといこう、悪魔バフォメット。リングで待ってるぜ』

 忌まわしい過去が、蘇る。

『ただし、今度告げ口したら、女は二度と戻らない』
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。

新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、

私はただ一度の暴言が許せない

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
厳かな結婚式だった。 花婿が花嫁のベールを上げるまでは。 ベールを上げ、その日初めて花嫁の顔を見た花婿マティアスは暴言を吐いた。 「私の花嫁は花のようなスカーレットだ!お前ではない!」と。 そして花嫁の父に向かって怒鳴った。 「騙したな!スカーレットではなく別人をよこすとは! この婚姻はなしだ!訴えてやるから覚悟しろ!」と。 そこから始まる物語。 作者独自の世界観です。 短編予定。 のちのち、ちょこちょこ続編を書くかもしれません。 話が進むにつれ、ヒロイン・スカーレットの印象が変わっていくと思いますが。 楽しんでいただけると嬉しいです。 ※9/10 13話公開後、ミスに気づいて何度か文を訂正、追加しました。申し訳ありません。 ※9/20 最終回予定でしたが、訂正終わりませんでした!すみません!明日最終です! ※9/21 本編完結いたしました。ヒロインの夢がどうなったか、のところまでです。 ヒロインが誰を選んだのか?は読者の皆様に想像していただく終わり方となっております。 今後、番外編として別視点から見た物語など数話ののち、 ヒロインが誰と、どうしているかまでを書いたエピローグを公開する予定です。 よろしくお願いします。 ※9/27 番外編を公開させていただきました。 ※10/3 お話の一部(暴言部分1話、4話、6話)を訂正させていただきました。 ※10/23 お話の一部(14話、番外編11ー1話)を訂正させていただきました。 ※10/25 完結しました。 ここまでお読みくださった皆様。導いてくださった皆様にお礼申し上げます。 たくさんの方から感想をいただきました。 ありがとうございます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただける場であって欲しいと思いますので、 今後はいただいた感想をを非承認とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきます。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

【完結】お世話になりました

こな
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

病名 恋煩い

ゆるふわJK
恋愛
貴方のくれる愛は薄めたジュースみたいで吐き気がするわ ※コメントしていただけるとモチベにつながります。 面白い、つまらなかった、だけでも十分ですお時間あればお願いします。

【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?

碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。 まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。 様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。 第二王子?いりませんわ。 第一王子?もっといりませんわ。 第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は? 彼女の存在意義とは? 別サイト様にも掲載しております

巨根王宮騎士の妻となりまして

天災
恋愛
 巨根王宮騎士の妻となりまして

王女の朝の身支度

sleepingangel02
恋愛
政略結婚で愛のない夫婦。夫の国王は,何人もの側室がいて,王女はないがしろ。それどころか,王女担当まで用意する始末。さて,その行方は?

処理中です...