黒山羊と花の乙女

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13.影狼 ※

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 夜半過ぎて、赤い満月は降りはじめている。
 もやもやとした気味の悪さを振り払いたくて、白兎族の傭兵、ラパンは焚き火に薪を足した。
 季節は夏になろうとしている。
 暖をとる必要はないのだが、野営の明かりを絶やすわけにはいかなかった。

 今回の仕事は、商人組合からの護衛の依頼だ。
 東街道中央街イーストミッドの付近では、近頃、人を狙う魔物が出没していた。
 積荷は無事で、運び人だけが無惨に食い殺されている。手口からおそらく同じ個体と思われたが、遭遇して生きて帰ったものはなく、正体は未だ不明だった。

 街の傭兵団と騎士団で手分けして、隊商には護衛をつけることになった。
 できるだけまとまって動いて欲しいのだが、小規模な卸はそうもいかないこともある。
 後ろに停まっている、馬が二頭繋がれた幌馬車の主人もそうだ。鹿族の若い野菜商人で、ルッコラといった。
 今はもう一人の護衛、黒山羊族のユールとともに、積荷のキャベツと人参に埋もれて夢の中だ。

 護衛といいつつ、昼はただ見ているのも悪いと、傭兵二人は野菜の集荷も手伝った。
 特にユールは手際がいいと感心され、照れているのかひたすら黙々と力仕事をしていた。
 ルッコラは客商売らしく人懐こくて、同年代の彼らに、友人のように接した。

「二人とも、ありがとうな!」

 早く済んだと労われ、仕入れたばかりの新鮮な野菜を山盛り食べさせてもらって、草食二人としては充分すぎる謝礼だった。

 農家を回って健康的に汗を流して働いた昼間とは裏腹に、ラパンは夜の闇に囲まれて、ひどく落ち着かない。
 嫌な予感がして、ずっと耳を立てていた。
 交代してもらったばかりで悪いが、やはりユールを起こそうか悩んでいる。
 ラパンは耳の良さと脚の速さが売りで、斥候や諜報は得手だ。一方、戦闘となると、それなりに訓練しているとはいえ、単独では心許なかった。

 不意に、近くに気配があった。
 ラパンは腿のホルダーからナイフを引き抜く。
 焚き火を挟んだ向こう、藪の中から街道に現れたのは、長身の蛇族だった。
 縦に瞳孔の割れた金の目。琥珀色の鱗に覆われた尾をひいている。

 ラパンは小隊長の姿に、耳を下ろした。

「スヴェンさん! どうしたんすか?」

 声をかけられて、彼は口の端を吊り上げた。

「近くの仕事が片付いてさあ、火が見えたもんだから。来てよかったねえ、そんなビビって構えてさあ」
「べっつに! 警戒すんの悪ぃことじゃねえでしょ」

 強がりを言いながら、ラパンはナイフをホルダーに戻した。
 蛇族の姿のそれは、ちらりと馬車を見やる。

「兎に山羊に鹿ねえ。まあ、お前らだけじゃ心配だから、いてやるよ」
「ガキじゃねえんすから!」

 そうは言いつつも、安心していた。

「酒でも飲みます? 食うもんは野菜だけっすけど」
「肉がいいねえ。兎は好きだ」
「あはは、冗談きついっすよ」

 酒瓶を取り出そうと背を向けたラパンに近づいて、それはぱかりと口を開けた。頭の真横まで裂けた中に、鋭い牙が二重に並んでいる。

 そのとき、馬車の上から影が飛び出した。
 黒山羊は空中で振りかぶって、ラパンの後ろにいたものに蹴りを入れた。

 それは、前腕一本で攻撃を受けきった。
 ユールは跳ね返って、着地する。

「ご挨拶だねえ」
「おい、なにやってんだ!」

 ラパンが咎めると、ユールは臨戦態勢を崩さないまま低い声で言った。

「ラパン、寝ぼけてんなよ。そいつ、馬車の中の客が鹿ってなんで知ってやがる」

 ラパンは耳を立てた。
 それの心音は、哺乳族並みに早い。爬虫系のスヴェラードではない。

「おやあ、ついやっちまったねえ。そういや、読めねえやつにはわかるわけねえなあ」

 それは、禍々しい気配をもはや隠さない。

「ばれちゃ、つまんねえなあ。信用してるやつに襲われて、なんでなんでって泣き喚くのを聞きながら喰うのが、美味いんだけどなあ」

 全身の毛が恐怖で逆立つのを感じながらも、ラパンは再びナイフを抜いた。
 まずいと本能が告げている。
 それでも、ユールと同時に左右から飛びかかった。

 腕の一振りで跳ね飛ばされて、馬車に叩きつけられた。
 馬が騒ぎ、ルッコラが慌てた様子で顔を出した。

「ラパン、動け! 客のガードしろ!」

 ユールの声が飛んできた。
 上がってきた胃液を吐き捨てて、ラパンはルッコラを馬車に押し込み、かわりに増援願いの信号弾の筒を掴んだ。
 火打石で火を切り、夜空に放つ。
 遠距離まで届く独特の風切り音とともに、魔力によって一定時間保つ火の花が、空に咲いた。

 振り返れば割り込む余地もない、乱打の応酬だ。
 近接戦闘で、身の軽さと一撃の重さを備えたユールに並ぶものは、そういない。
 だが。

 魔物はゆうゆうと謳う。

「へえ、強えなあ。でも、『ユールお前スヴェラードこいつに勝ったことがない』」

 呪詛だった。
 蛇の尾がうなりを上げて、ユールの腹を打ち、続けて手刀が突き刺さった。
 爪先が、背まで通る。

 ユールが血を吐くのが見えた。

 長い腕で宙に吊り上げられながら、ユールは片手を上げて、肩越しに親指で向こうを指した。

 護衛任務の最優先は客の命だ。

――ルッコラを連れて、逃げろ。

 そう、伝えてきていた。

「……ざっけんな!」

 ラパンは鋭い前歯で親指の先を噛みきった。
 滲んだ血で、火の魔力が焼き付けられた呪符を開封する。
 ユールも巻き込むだろうが、魔物相手に何もできずに仲間を食わせてやるよりマシだ。

『火の三段、火炎ノ雨!』

 瞬時に、頭上に赤色に発光する陣が展開する。
 しかしその魔力は、魔物が長い蛇の尾でひと撫ですると、掻き消えた。

「焼肉よりは、生が好きだねえ。……しっかし、この蛇、強えなあ、魔術耐性まであんのかあ。覚えとくよ、こいつとはやりたくない」

 ひゅっと空を切って走った尾が、ラパンを絡めとった。胸を締め上げられて、声どころか呼吸まで危うい。
 抜けようともがく脚が、虚しく空を掻いた。

「順番な。お友達が喰われるの、見物してな」

 スヴェラードに化けたそれは、脱力したユールのうつろな目を覗き込んで、品定めをはじめた。
 肉体から精神まで探り、無遠慮に踏み荒らす。

「山羊肉なあ。三年くらい前かねえ、たらふく食ったねえ。お、そうかあ、お前」

 記憶を操る魔物は、まるで親切のように言った。

「死ぬ前に、いいもの見せてやるよ。家族に会いてえんだろ?」

 その記憶を、獲物を貫いている手から、血を媒介に流し込んだ。

『まずは親父を食って化けた』
『次は、嫁と倅ふたり』
『最後は、ちいせえガキどもとじじいとばばあ』

『一匹一匹、追い詰めてさあ』
『あれは中々、楽しかったねえ』

『食い残しの頭並べといたらネズミどもが来てよ』
『キイキイ大騒ぎして、耳やら鼻やら齧ってやがった』

 意識を無くしていたユールの身体が、震えだす。

「……す」
「うん?」

 血を吐きながら、ユールは咆哮した。

「ころす殺す殺す! ぶっ殺してやらあ!」

 目が憎悪に燃え上がる。拳に力が戻り、身体を貫く腕を掴む。

「うん、いい目だねえ。そういう真っ黒な感情が、魔物(おれ)のご馳走だよ。それで、誰一人守れなくて、身内の仇討ちもできねえのに絶望して、喰われてくれよ、なあ」

 魔物は、ユールの体内に入っている手のひらを、内臓ごと握った。

 ユールはもう、吠えなかった。
 激痛に歯を食いしばって、角のある頭を振りかぶる。

 獲物の悪あがきを魔物は一瞬笑い、そして爆発的な魔力の上昇を察知して戦慄した。
 ほんの短い距離と時間で、ユールの頭突きは凄まじい加速を起こしていた。

 双方の頭骨が砕ける、鈍い音がした。

 激情にかられた黒山羊は、精神の強度で魔物を上回った。
 意識を途切れさせることなく、地に片脚が着いた瞬間、もう片脚で敵を蹴り飛ばして腕を抜いた。
 自由になった瞬間、跳んだ。

 真紅の満月を背に、黒い輪郭となった牧神は、蹄の脚を頭まで振りかぶる。
 落下の速度を、魔力でさらに加速させて、仇の脳天に渾身の一撃を叩き込んだ。

 尾が緩み、ラパンは地に落とされた。
 咳き込みつつも息を吸って、跳んで距離をとった。

 蛇の尾が消えていく。
 変化を保つ力を失って、現れたのは黒い大狼だった。
 頭を半ば潰されてなお、動いている。

 ユールがもう一撃と片脚を後ろに引く。
 狼は、闇に溶けた。
 そして、現れたのは白い小柄な人影だった。

「ユールさん、助けて」

 記憶を読み、化ける。
 その手をわかっていてなお、心あるものは、止まってしまう。

 ラパンの眼裏が、怒りで赤く染まった。

――どこまで人の気持ちで遊びやがる!

 ラパンはナイフを逆手に掴み、後ろから一息にその喉を掻き切った。
 額を割って顔が血染めになったユールが、呆然とそれを見ていた。

 ラパンは肩で息をしながら、狼に戻ったものの頭にナイフを突き立てた。
 魔物は他の生き物とは組成が違う。死ねば黒変し、悪臭を放つ汚泥になる。
 止めを見届けて、ラパンはようやく耳を下ろしてへたりこんだ。
 はっとして、ユールを見上げて言った。

「ごめん」

 ユールは、ぼそりと答えた。

「……謝んなよ。偽物でも、俺じゃやれなかった」





 ルッコラが馬車から転がりおちるように出てきた。
 がたがた震えながらも、訊いた。

「やったのか? 二人とも、大丈夫か!?」

 ユールは、振り返って妙にのんびりと答えた。

「腹減りすぎてくらくらする。ルッコラさん、朝飯にゃ早そうだけど、なんか食っていいすか」

 全身血塗れの彼を認めて、ルッコラは絶句した。ラパンはフラフラ歩くユールの袖を掴む。

「ちげえよそれ怪我のせいだよ!」
「ああ? なんだよこれ、全部真っ赤だな。月が赤えからか」
「動くな、座れ! 頭も腹もすげえ血ぃ出てんよ!」
「っっても、あんま痛くねえよ? 眠みぃけど……」

 ユールは突然、くずおれた。
 ラパンはぎりぎり地に叩きつけられる前に、その身体を支えた。

「ルッコラさん、馬車ん中に救急箱あるから持ってきて! 止血帯と、回復の呪符!」

 そうする間にも、ユールは「だりい」と呟いて、気を失った。

「ユール、ユール! がんばれよ! くそ、起きろ! 俺は嫌だからな、リファちゃんになんて言えばいいんだよ!」
「兄さん、しっかり! あんたよくやったよ、生きて帰ろう、なあ!」

 ラパンは赤目をさらに赤くして、ルッコラと手当をしながら、声をかけ続けた。

 なんでこいつばかり、こんな目にあうのだろう。
 なんでこいつは、逃げることができないんだろう。
 ぐるぐる、そんなことを思っていた。

 やがて上空に、消えつつある信号弾の周りを旋回する影が現れた。
 ふわり、音もなく梟族のフロックが舞い降りた。
 丸い金目で一瞥し、全て把握したらしい。

「そいつ運ぶ。騎士団がこっち向かってるから、お前と客は合流させてもらえ」

 風の魔力の付与でユールを浮かせ、爪をかけて、梟は朝焼けの空へ消えていった。







 ユールは、目覚めた。
 何度となく見た、これは、救護室のベッドから見る天井だ。
 カーテンが開いて、医者が顔を出した。

「おはよう。死に損ないって言ってやりたいけど、リファリールに悪いからやめとくよ」

 いつもの憎まれ口だった。

「ほとんど言ってんじゃん、それ……」
「うん、受け答えできるね。意識清明」

 雑な問診だった。

「いまいつ」
「若草の月の二十日。君が運び込まれて三日目」
「腹減った」
「だろうね。身体自体は治ってるから、起きたんなら好きなもの食べていいよ」

 枕元に、キャベツと人参が入った籠が置いてあった。
 何があったか、思い出し始めていた。

「……よく生きてんね、俺」
「正直、もう手がつけられないと思ったよ。内臓いくつも潰れてたし、頭はちょっと中身見えてたし。最後のお別れをさせるつもりでリファリールを呼んだんだ」

 医者は、苦々しげに説明した。

「あれは、治癒じゃなかったよ。君の身体は活性を上げるどころで治る状態じゃなかった。あの子は、ぐちゃぐちゃに壊れた身体を、血管一本、神経一筋まで元通り繕って、ほとんど死んでた君を引っ張り戻した。どれだけの魔力を注ぎ込んだと思う。限界を超えて、自分の命まで削って使ったんだ」

 さっと身体が冷えた。
 リファリールの姿をしたものが、喉を掻き切られる光景が蘇った。

「リファちゃんは!?」
「君を治して、倒れた。今は風花の森で預かってもらって、療養中」

 医者は静かに言い渡した。

「この先一生感謝するといいよ。今、君が生きてるのは、あの子のおかげだ」
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