ロレンツ夫妻の夜の秘密

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最終話 遠い国の、満月の下

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 救護室に近づいてくる足音に、ステファンは顔を上げた。

「婿先生、頼むよ」

 歩兵科の下士官アーノルドがしかめ面で、片腕をブラブラさせながら入ってきた。一昨日はめ直したはずの肩だ。

「ちょっと訓練出てみたらさぁ」
「一週間は休養と言いましたよ」
「いけると思ったんだよ」

 診察台にかけた彼の軍服の上を脱がせると、ステファンは迷いなく力をかけた。患者はぐっと息を詰めたが、一瞬で再びその大きな関節はあるべき位置に戻っていた。

「……さすがぁ」

 彼が試しに肩を回そうとするのを、ステファンは止めた。

「後ろに回したり、手をついたりは避けてください。診断書を上の方宛で出します。二週間安静」
「あれ、日数延びてない?」
「繰り返すと外れるのが癖になりますよ。早期退役したいなら好きにしたらいいですが」
「勘弁」

 包帯での保定を指導しなおしていると、また一人やってきた。額を割って顔半分血に染まっているのを、丸めた布で押さえている。
 先客に「お、派手にやったな」と評されて、大柄な二人目の患者、同じく歩兵科のヴィルヘルムはフンと鼻を鳴らした。
 ステファンは、銃剣の模擬戦でぶつけたという彼の傷を確かめる。出血の割に傷口は小さく、縫わずに済みそうだ。止まりきるまで圧迫してから消毒するように、傍の衛生兵ノイマンに頼んだ。

 北方共和国駐留軍、正式には中央帝国(セントラル)陸軍第二師団旗下第一連隊。最小単位ずつながら歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵、憲兵といった兵科と、法務、経理、衛生の部を揃え、規模は千五百人を超える。
 衛生部所属、陸軍中尉軍医というのが、ここでステファンに与えられた肩書きだった。
 衛生兵は二十名余りいるが、看護師免状はあっても、医師免状を受けているものは他にいない。前任の歴戦の老軍医が退役してしまい、軍経験のない彼が、いきなり衛生部を束ねる席に座った形だ。
 多くの時間を研究に割けた王都の研究所とは違い、さしずめ小規模な街の診療所を任されたようなものだった。
 赴任して二月を数えようとしていた。
 当初は残っていた雪も溶けて、北国は短かい夏を迎えている。
 周囲と関係を築いて仕事が回せるようになってはきたが、軍服の硬い詰襟には慣れない。一応将官扱いの徽章も、我ながら似合わない。周りもそう思うのか、特に若いざっくばらんな兵士たちは、ステファンを「婿先生」と呼んだ。
 噂の巡りは早いもので、彼がリヒター少将の姻戚なのは赴任前から知られていた。
 治療報告にサインを求めると、アーノルドは曲がりくねった字を書いて、訊いた。

「婿先生、昼飯何?」

 ステファンは仕事の混み具合によって、食堂では昼食を取り損ねることがあり、このごろは妻に昼を持たされているのを、救護室の常連になりつつある彼は知っている。

「今日は忘れたんですよ」
「残念だね。なあ、先生の嫁さんって、すげえ美人って、本当?」
「ご想像にお任せします」

 軍の高級将校の娘であるディアナに興味を示すものは多いが、ステファンにとっては軽々しく自慢するのも憚られるほど、大切な人だ。口を尖らせる彼から治療報告を受け取ってファイルに挟む。
 コツコツとノックの音がする。昼食は抜きになるかと諦めて、ステファンは答えた。

「どうぞ」
「失礼しますわ」

 女性の声だ。見ればディアナが籐のバスケットを持って立っていた。シンプルな白のブラウスに、胸下から腰まで編み上げのあるスカートを合わせている。左肩で緩く纏めた髪には、スカートと共布の藍色のリボンが差し込まれていた。
 室内の全員の注目を集めても、彼女は悠々とステファンに歩み寄った。

「貴女、何で」
「うふふ、お昼、入り口で預けるつもりだったんですけど。名乗ったら入っていいと言っていただけたものですから」
「ありがとうございます。……わざわざ、すみません」

 興味しんしんといった視線に囲まれて、ステファンの方が居心地が悪い。警備規定はどこに行ったのかと思う。しかし、午後になれば帝国民であれば外部からの受診も受け付けているから融通を利かせたらしい。

「いいえ。お仕事中にごめんなさい。こちらに置かせてもらいますわね」

 彼女はバスケットからサンドイッチの包みと、ハーブティーのボトル、林檎を取り出して、調剤をするテーブルの、珈琲抽出器の前に並べた。

「貴方」

 振り向いて顔を寄せてきた。石鹸の清潔な香りがした。彼女は、ステファンの襟の徽章が斜めになっているのを直した。

「ねえ、今日」
「うん、わかっていますよ」
「お早いお帰り、お待ちしてますわ」

 甘い声で囁いて、彼女は離れた。ドアまで戻ると、室内の面々を見回して、会釈した。

「お邪魔致しました。ごきげんよう」




 アーノルドはドアが閉まったとたん、ステファンを後ろから羽交い締めにした。

「この野郎、もったいつけて!」

 階級も年も相当に上なのだが、気にする性格ではない。
 ステファンは踵を浮かされたまま抗議した。

「肩、また外れますよ!」

 ヴィルヘルムは、包帯を巻かれる下で呟いた。

「……美人だな。いいもん見た」
「文句なく」

 ノイマンが相槌を打つ。

「ああムカつく! 彼女、地元に置いてきた身になりやがれ! 今日ってなんだ? 吐け!」
「私生活は黙秘します」

 アーノルドが笑いながら、さらに持ち上げる。足をパタパタさせはじめたところで、ノイマンが止めに入った。銀縁眼鏡の線が細い顔だが、立ってみればアーノルドに負けない長身だ。

「あんまりうちの上官で遊ばないでもらえますか」

 正午の鐘が鳴ったところで、彼は処置の済んだ患者二人を追い出した。

「あれはしょうがないですね」
「そう思うなら、次から早く助けてほしいです」
「申し訳ありません、殿

 ノイマンはステファンに一番熱心に教えを請う部下なのだが、皮肉屋の気がある。医師としてはともかく、軍歴が皆無の上官を補佐はすれど、肩肘張った敬意を示すつもりはないらしい。階級で呼ばれるのが苦手なのを察しているくせに敢えて言う。

「……しかし、本当、綺麗な奥様ですね。王立衛生研究所いいところにお勤めだったのに、こんなところまで来ちゃうはずだ」

「婿先生」への解釈の一つは、リヒター少将に結婚を認めてもらうために、わざわざ軍籍を志望したというものだ。

「でも、結構、覚悟が要ったでしょう?」

 ステファンは訂正もしない。ここに来た経緯は他言無用でけりがついた話で、真相など語ってもディアナの傷を抉るだけだ。
 一つだけ答えておいた。

「覚悟を決めてくれたのは、妻の方です」




 ステファンが仕事を終えて基地を出るころには、東の空に月が昇りはじめていた。
 黄色味の強い、望月だ。
 妻の囁きが耳に蘇る。
 北国に来て気がかりだったのは、自分より彼女のことだった。夫である自分を頼んで付いてきてくれたが、常に側にいてやれるわけではない。自分はディアナさえいてくれれば後は構わないが、多くの人に囲まれて生きてきた彼女は、知己のない国で、心身を病んでしまわないか心配だった。
 しかし、今のところ、杞憂に終わっている。
 ディアナの父は、古い友人だという外交官に紹介を書いてくれた。彼女、リヴィエラ・アズィーロ女史は、国籍は帝国だが、北国人特有の銀髪蒼目をしていた。

「はじめまして、ロレンツご夫妻。北方共和国へようこそ」

 融和政策の中心人物は、二人の来国を歓迎した。

「先生のご高名はかねがね、伺っておりましたわ。どうぞ軍だけでなく、この国の医療にお力を貸してくださいませ」

 彼女は続けて、凛々しい目元をやわらげて、ディアナに声をかけた。

「……ふふ、貴女、お父様にそっくりね」

 幸い、ディアナとリヴィエラは波長が合った。
 比較言語学の博士号を持つ彼女の教えを受けて、ディアナは北国語を習得しつつある。北国の文化風土や、帝国との関係性も折々に解説してもらっているらしい。
 居間の机には時々、北国語の教科書や、新聞記事が広げられているようになった。

「アズィーロ先生が、仕事を手伝ってみないかっておっしゃってくれているんです」
「貴女に無理のない程度なら」

 この情勢の難しい国で、厄介に巻き込まれないかと心配もあったが、見守ることにした。
 ディアナは仕事を得て、より生き生きとしはじめている。

「私、ここに来てよかったですわ」

 まだたいしたことができるわけではないけれど、と前置きしながらも、彼女は言った。

「学んだことを活かせるのは、楽しくて……それに、融和政策が上手くいけば、貴方が危ない目にあう心配も減りますもの」

 強い女性だと思った。危ないからと閉じ込めると、輝きを失う人だ。ステファンは、止めるかわりに、どういう仕事に携わっているのか、丁寧に聞き取るようにしている。

「……よく頑張っていますね」

 彼が言うと、ディアナはぱっと表情を明るくした。

「あのね、貴方……認めてくださるなら、ひとつ、お願いを聞いていただけませんか?」
「何ですか」
「私、もう、お薬を飲みたくありませんわ」

 貴方の子供が欲しいです、と、彼女は真剣な目をして願った。
 面と向かって口にされたのは初めてだったが、その思いには前々から気づいていた。
 ディアナは、ステファンが受け入れるための時が満ちるのを、待ってくれていた。

「私、たとえ何があっても、後悔しませんわ。……お願いします」

 もう、拒む気はなかった。




 避妊薬の服用をやめればすぐ授かるものとディアナは思っていたようだが、可能性のある日は限られていると説明すると、それではいつなのかと訊いた。
 彼女は間違えないようにと、暦に印までつけた。月のものが終わって七日を数える、今日だった。

 湯を使ったあと、速やかに寝室に引っ張っていかれた。

「あの、落ち着いて」
「できませんわ」

 ディアナは、ばっとワンピース型の夜着を脱ぐと、眩い体を惜しげもなく晒した。

「やっぱりダメなんて言われたくありませんの! 早く」
「……そんなこと言いませんよ」
「ね、貴方、どんなふうになさってもいいですから」

 あれこれ道具も並べて、一生懸命にねだってくる。

「今日は何も使わないって言ったら、つまらないですか?」
「いいえ!」
「……これだけ、飲んでください」

 ステファンはディアナの手に一粒、錠剤を乗せる。

「……なんですの?」
「排卵誘発剤といいます。貴女は月のものの周期が安定していますので、おそらく昨日今日あたりで済んでいるでしょうが、念のため。まだでも、これで明日には確実に排卵します。これから数日は毎晩精を注ぎますから、そのつもりでいてください。数月繰り返せば、お互い生殖機能に問題がない限り、妊娠します。よろしいですか」
「……はい!」

 ディアナは薬を含み、ステファンが渡したコップから水を飲んだ。
 甲斐甲斐しく夫の寝間着のボタンを外し、下に穿いているものにまで手をかける。

「ディアナ」
「だって、待ちきれないの」
「焦らなくても逃げたりしません。ちゃんとしてあげますから、横になってください」

 寝台で肌を重ねると、ディアナはやっと大人しくなった。




 黙って、確かめるように口付け、撫でた。ディアナが涙を流しているのに気づいて、しばし、止まった。

「怖いですか?」
「違うの……やめないで。嬉しいんです」
「ええ……やめません」

 彼女から滲んでくるものすべて、舐めとって取り込んだ。
 繋がって、抱き、抱かれて、波間に浮かぶように揺れた。
 息遣いが、漏れる声が、どちらのものかよくわからない。
 彼女と身体を隙間なく絡めあいながら、皮膚の表一枚残して、内側が溶けて形をなくしていくような感覚に陥っていった。
 完全に境を失くして、一つになってしまいたい。
 別の肉体をもつ二人が、それを叶える術は、一つだけあった。




 ディアナが、自身の平かな下腹を撫でている。ステファンがそこに手を重ねると、彼女は紅の唇を綻ばせた。

「男の子と女の子、どちらがいいですか?」

 彼との未来を心底から望む様子が、胸苦しいほど愛しかった。だから、答えた。

「どちらでも……貴女が宿してくれるなら、どんな子供でも、愛します」

 人は脆く儚く、幸せは失う悲しみと裏表だ。
 だからこそ温もりを感じられる今は、かけがえがない。
 ステファンは、重ねた手のひらの下に、新しい命が芽吹くように祈った。

 蜜を垂らしそうに甘やかな満月の光が、寄り添う夫妻を包む、夜だった。

「ロレンツ夫妻の閨事情」

 おしまい
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