ロレンツ夫妻の夜の秘密

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21.父と娘

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 ステファンは、いくぶん、酒量が過ぎたのだと思う。
 でなければ、こんなこと、止めさせている。
 淡く霞がかかる視界の中に、彼女がいる。
 赤い首輪から下がる同色のリードが揺れている。

 薄闇の中で、裸体が白く浮き上がっている。
 胸の両の膨らみは、暴力じみた色香を放つ。彼女は、男の骨ばった右足をそこに当てさせている。
 足裏に伝わる感触。その柔らかな組織は、どこまでも肉感的だ。

 彼のもう片足は、彼女の口元にある。
 紅色の唇と舌が、親指から順に、爪と肉の間、指と指の間まで、余さず丁寧に舐っていく。
 微かなリップ音と、彼女が息を継ぐ音が、深夜の静けさの中で増幅されて耳に届く。
 皮膚刺激としては、性感よりくすぐったさの方が強い。
 それでも昂ぶるのは、あまりに背徳的な光景のためだ。
 女神とまで思う、美しい大切な人が、彼の最も地に近い不浄を含んでいる。
 彼女は先をなぞりおえると、足首に手を添え、足裏のアーチに舌を這わせ始めた。
 顔の半分が隠れて、まるで踏んでいるようだ。実際、曲げた足を軽く伸ばすだけで、蹴り飛ばしてしまうだろう。
 切れ長の翠玉の双眸に、一筋額に落ちた前髪の波打ちに、夕方から面会していた人物が重なった。醒めるどころか、下腹の熱感がさらに強くなる。我ながら信じがたい浅ましさだった。

「ディアナ、もう、いいです……!」

 後悔しているはずなのに、声は悦びを隠さず上ずった。

「……はい、貴方」

 彼女は、そっと彼の足を寝台に下ろした。表情に嫌悪はひとかけらもない。
 それどころか、彼の両脚の間に屹立しているものを認めて、彼女は慈愛すら感じさせる笑みを浮かべた。

「私、上手にできまして?」
「ええ」

 元々は、彼が施した。今や、彼女の身体の外表で、彼が口付けていない部分はないのだ。踝の括れ、甲の曲線、爪先の一指に至るまで完璧な造形を堪能した。彼女は汚いと恥じらったが、はじめに蹴らないように躾けていたから、大人しくされるがままになっていた。




 実経験に乏しいうちは受け身だった彼女だが、この数月に夫にされたことを吸収し、嗜好をさらに発展させていた。
 飲酒して遅く帰宅し、身体を流すと寝台に潜り込んだ夫に、ねだってきた。

「……休ませてください」

 疲れていた。しかし、彼女は引き下がらなかった。
 ステファンは、辞令を受けてから、あれこれ理由をつけて妻に触れるのを避けていた。両の指を折るほどの日にちが経ち、彼女は痺れを切らしたらしかった。

「お楽になさって、貴方は何もしなくて、構いません。おやすみ前のご奉仕をさせてくださいませ」

 赤い首輪を巻いた喉と、金の鍵を差し出された。愛妻に跪かれ、そこまで頼まれれば、否と言えなかった。




「こちらにいらっしゃい」

 腕を引き、身体に乗せた。腿に触れた隠部は湿り気を帯びていた。潜らせた手のひらに、ピアスを押し上げて、膨れた蕾が触れた。人差し指と中指を揃えて曲げれば、容易く内側に埋もれた。
 乳房の片方と、中を同時に愛撫する。鼻にかかる甘え声を漏らし、彼女は身体を揺らしはじめた。彼が指の動きを止めても、腰を擦り付けている。
 引き抜くと切なげに眉が寄った。
 粘液が纏わりつく二指を、彼女の濡れた唇に押し当てる。彼女は舌を出して舐め始めた。

「今日は貴女がしてくれるんでしたね?」
「はい」

 跨り、腰を落とすように促した。
 彼女に包まれながら、快感と共に、自分は何をしているのだろうと苛立ちも感じる。
 いくらもたたない内に、離れるつもりなのだ。未だ納得してくれない彼女の愛惜を掻き立ててはいけないと、自ずから禁じたのに。
 性の衝動とは、こんなにも、ままならないものだったのか。




 ディアナは大きく膝を開いて、彼の欲望を引き受けている。ゆったりと腰をグラインドさせながら、上下動も加える。
 彼女は乗馬の名手だ。体幹がしっかりしているから、こんな動きまで安定している。規則的に乳房が弾む。

「貴方、どうですか?」
「……悪くないですけど……」

 ステファンは彼女の腰骨に手をかける。
 深く引きおろした。

「ん、ぁっ!」

 重心がずれて、彼女は手を後ろについた。

「ここでしょう?」

 軽く突き上げる。自分でさせると、掴みきっていないのか、加減するのか、まだ彼女は芯を捉えないのだ。
 手を添えて、最も弱い部分をピン留めする。

「やっ、あ……!」
「続けてください」
「はい……」

 他愛ない。明らかに反応が変わって、ふぅふぅと息を荒くし、自身の快楽を求めて腰を振り立てはじめるのに、そう時間はかからなかった。
 ステファンは上半身を起こして、彼女の背を支えた。ディアナは首に手を回し、しがみついてくる。
 対面して抱き合う形になった。

「上手……気持ちいいです」
「嬉しい……」

 ふくよかな胸の先を含み、芽を吸い出した。髪と同じくらい色濃く、新鮮な葡萄の粒のように瑞々しい。
 きめ細かい肌はうっすら汗ばんで吸い付くようだ。

「貴方、好き、好きっ……!」

 悲鳴のように訴えてくるのを、ゆっくりと揺すり上げる。
 かわいそうなことをしてしまったと思う。
 初めて諍ったあの日、彼女から、実家に帰ると、結婚などしなければよかったと言われて、消えて無くなりたいほど辛かった。
 みすみす失うくらいならと踏み切った。好奇心程度だったであろう彼女につけこんで、性愛の泥沼に引きずり込んだ。
 ここまで淫らに花開かせてしまったものを、一人寝は辛いだろう。
 何度こうして交わったのだろう。彼女の身体は柔らかく馴染んで、繋がっていると境が分からない。

「ディアナ、いいですか」
「はい、くださいませ……!」

 顔を上げて、唇を重ねた。ふと口走ってしまいそうな思いを塞いだ。
 愛おしい。離れたくない。
 こんなことをしては、言葉より雄弁に身体が語ってしまうのに、止まれなかった。




 身繕いの後、ぼんやり天井を見ていると、ディアナが肩に頭を乗せてきた。

「……父は、なんて?」
「いえ……特に」

 北国赴任の報告に、ステファンは今日、ディアナの父、リヒター子爵を訪ねていた。
 まだどこだろうがステファンについていくと言い張るディアナを連れては、話がややこしくなるばかりだと、一人で行った。結果的には正解だった。
 時刻は遅く、酒を勧められるのを受けた。
 子爵は、齢は四十半ばに差し掛かるが、引き締まった長身に衰えは見えない。額にかかる波打つ茶髪、鋭い翠玉の双眸。
 陸軍少将の職にある義父は、辞令も把握していた。

「個人的に言えば惜しいですよ。王都でも貴方ほどの医師は少ない」
「恐れ入ります」
「確かに欠員の補充は頼みましたが、厚生省も何を考えての人選だか。あんな場所での切った張ったなぞ、いくらでも他に人があるものを、死なれでもしては割に合わない。……貴方、あちらの状況は聞いていますか」
「はい」

 帝国内では箝口令が敷かれているが、北方共和国では民間の主権回復運動が活発になり、統治は難しい局面にある。
 先月、とうとう駐留軍を標的とした襲撃事件が起こった。兵士の治療に当たった軍医まで巻き込まれ、退役していた。
 北国の現政権は帝国寄りのため、そう簡単に開戦には至らないが、緊張は高まっている。

「ふうん。取り消してくれと泣きつきにきたわけでは?」
「違います。ご相談したいのは、お嬢様のことです」

 子爵は蒸留酒のグラスを片手に、深緑の目を細めた。

「僕は親族がありませんから、あの家にお嬢様お一人はお寂しいことと思います。赴任中はどうか、こちらにお帰りになることをお許しください」
「それは、娘が願ったことですか」
「……いえ。ご本人は……でも、ご実家からも勧めていただければ、聞き分けてくださると思います」
「僕は嫌」
「……嫌?」

 短く言い渡され、意味が取れずに鸚鵡返しになった。

「もう嫁がせたので。離縁もしないのに返そうなんて感心しない。留守居を哀れと思うなら、伴えば宜しい。あれは男勝りなので、下手な兵士より弾除けになりますよ」

 北国の情勢を知っているくせに、何を言うのかと思った。
 あっさりと平民と結婚させたことといい、この義父は、ディアナに情が薄いのではないかと疑う。

「ご冗談を……」

 子爵は肩を竦め、ボトルをとる。ステファンは、たいして減っていないグラスを持つ。
 子爵は娘婿のグラスになみなみと濃い酒を注ぎ足した。

「飲める口でしょう。どうぞ」

 ボトルを見るからに上等な酒だ。餞別のつもりかもしれないが、ステファンは別に強いわけではない。失礼にならない程度にと口をつけたが、緊張のせいか、常より回りが早かった。
 医師として相対するのであれば、肩書きの前に一人の患者だ。貴族だろうが軍人だろうが物怖じしたことはない。
 しかし、目の前の貴人は妻の父だった。

「貴方、何を望んで娘を娶った?」

 問われて、返事に詰まった。
 彼こそ何を考えて結婚を許したのかと、問い返したいのを抑え、辛うじて答えた。

「……お幸せにして差し上げたいと……」
「十以上も年上で、たいした身分も財産もない、今や身の振り方一つ、ままならない貴方が、何をしてやれるっていうんでしょうね。 それとも、巷で言われるように、支援の継続を願いましたか?」
「そんなつもりでは……!」
「では、なぜ」

 今度こそ、言葉を失った。

「まあ、気のきつい娘だ。意に添わぬなら、どうぞお返しください」
「お嬢様に不満などありません」
「そうか。……意地悪のつもりではないのですよ。よくお考えください、




「あの方、時々、偏屈ですもの。何か意地悪を言われませんでしたか」

 父と揃いの瞳で、ディアナに心配げに尋ねられれば、苦笑いするしかない。

「大丈夫ですよ」
「……私、貴方とずっと一緒にいますから」
「気持ちだけで嬉しいです」

 ディアナは意趣返しのようにステファンの頭を強く抱く。幸せな感触だが窒息してしまいそうになる。

「本気ですのよ。私が、守ってさしあげます」

 そんなに頼りなく思われているのだろうか。無理もない。子爵にまともに言い返しもできなかった、情けない夫だった。
 幸運に舞い上がったが、落ち着いて考えれば、彼女を託される資格などなかったのだ。
 子供を欲しがっているのにも気づいていたのに、向き合ってやらなかった。




 ディアナを説得できないまま、日は過ぎた。
 しかし、ステファンも譲らなかった。
 本音を言えば寂しい。離れている間に夫婦関係が破綻してしまうかもしれないとの恐れもあった。
 それでも、大切なを、安定した実家や、便利で衛生的な生活、華やかな交友関係から引き離し、情勢不安の異国へなど連れて行けるものか。
 ステファンは、それが彼女へ示せる愛情だと思っていた。
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