ロレンツ夫妻の夜の秘密

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20.すれ違う思い

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 その日、ステファンの帰りは少し遅かった。

「おかえりなさいませ!」

 ディアナは焦れた気分を抑えて、彼の鞄を受け取る。

「ただいま。すみません、ベルク先生と話し込んでしまいました」
「いいんですわ。まだ夜は冷えますわね。お食事より、お湯を先に使われますか?」
「……うん、そうさせてもらいます」

 ディアナは、彼をそのまま浴室に通して、鞄を書斎に入れた。夕食を温めなおした。
 彼は疲労気味に見えた。
 今日はやめておこうかと思ったが、ダイニングテーブルに飾った春告草に励まされた。
 湯から上がれば、夫の顔もいくぶん血の気が戻ったようだった。

「お昼、ベルタの家を訪ねたんですの。お嬢さんと赤ちゃんに、会わせてもらいましたわ」
「そうですか。お加減はどうでしたか」
「起きて、赤ちゃんのお世話ができるくらいでしたわ。初めてでしたけど、安産でしたって」
「なによりです」
「ええ! 私、抱っこさせてもらったんです。ちいさくて、柔らかくて、とってもかわいくて……」

 ステファンは黙ってパンを割る。ディアナは、はっと言葉を切る。
 彼の表情が読めない。
 私もやっぱり赤ちゃんが欲しくなった、という言葉は、ギリギリで飲み込んだ。

「……ねえ、おめでたいことですわよね。ベルタはもう、お婆ちゃまなんですわ」
「そうですね」
「ベルタの家は、賑やかなんですの。両方のお爺様お婆様がご健在で、みんなで初めての曾孫の取り合いですって。孫よりかわいいですって」
「お幸せなことですね」

 当たり障りない、けれど淡々とした、他人事の言い方だ。

「ええ……」

 彼は察しが悪いわけではないのだ。それがこの反応に留まるのは、駄目なのだろう。ディアナは、熱していた気持ちに冷水を浴びせられたようで、語り止めた。
 食卓に沈黙が落ちた。
 ディアナは春告草に目をやる。黄色い花粉が、白い花弁に微かについている。
 実家の両親だって、兄弟だって、それに、ステファンの両親の知己だというロベールだって、ステファンとディアナに子ができれば、祝福してくれるはずだ。
 なのに、なぜ、彼はこんなにも頑なだ。危険があるからと、ディアナの気持ちを無視して、それが愛だというのだろうか。
 知らず険しい顔になっていた。
 ステファンはそんな妻を見ていた。食卓を挟んだ向かいで口を開いた。

「ディアナ、食後に話したいことがあります」




 ディアナが林檎を剥き、紅茶を淹れるうちに、ステファンは書斎に戻り、一通の封書をとってきた。
「辞令がありました。北方共和国の首都に駐留する、帝国軍付きの軍医です。着任は一月後」

 ステファンが示したそれは、翼を広げた帝王鷲の意匠が枠を飾る。国の厚生省の長と、帝国軍の筆頭将軍、そして王立衛生研究所の所長の三者の署名が入っている。
 今日付で、発効していた。

 書面には、ステファンが軍籍になる旨も明記されている。そして、期限の定めがない。
 父と兄が軍人であるディアナは理解する。
 軍は徹底した縦割り組織で、行けと命じられれば拒否権などない。任期も無期限だ。

「異動はないなんて、嘘になってしまいましたね。すみません」
「……こんなの、おかしいですわ!貴方は、たくさん成果も出されているのに……!」

 ステファンは若い頃は地方赴任が多かったというし、今でも実地の診療を担っているが、研究の適性の方が高い。
 大陸一の隆盛を誇る中央帝国、その中でも最先端の知と技術が集う、王都の主要機関にいてこそ、彼は新しい治療法や薬剤の開発に、遺憾なく能力を発揮できるはずだ。それが軍に転籍の上、辺境国駐在など、まるで懲罰だ。

 ステファンはゆるく首を横に振る。

「僕が奨学生なのは、以前お話ししたでしょう。厚生省長令を拒否すると、免状返納になるんです」

 人の身体に手術刀を入れるのも、益にも害にもなる強い薬物を扱うのも、医師免状を持つから、許されている。
 そして、彼に、人生を懸ける職を捨てる選択肢などない。

「……父に」

 その言葉は、ディアナの口を、ほとんど無意識のままについた。
 実家の父テオドール・リヒターは、今、四十半ばにして、陸軍少将まで登っている。ディアナは、この赴任令に署名している将軍に会ったこともある。リヒターの屋敷に訪ねてきて父と談笑していた。関係が悪い相手ではないはずだ。
 親の権力を笠に着るなど、自身の無能を宣伝するに等しいと、ディアナは嫌ってきた。でも、なりふり構っていられるものか。

「父に頼めば、撤回してもらえますわ」
「絶対にやめてください」

 ステファンはきっぱりと言った。

「子爵様は潔癖です。そういった真似がお嫌いなのは、娘の貴女が一番よく知っているでしょう」
「父はあれで、狡い手だって使います。貴方のことは買っていますもの。守ってくれるはず」
「身贔屓で娘婿の辞令を取り消させたなんて、今後に障ります。僕は恩ある貴女のご実家に泥を塗りたくありません」
「だって、私は嫌っ……!」

 父はどこまで把握しているのだろう。承知の上なら打つ手がない。
 ディアナの実家は、彼の枷になったのかもしれない。まさか、彼が、軍人一家であるリヒターに連なるものと見なされたからの人事なのか。そうなら、堪らない。

「軍なんて嫌! 出て行けばいつ帰ってくるかわからないし、それどころか死んでしまうかもしれないもの……! リヒターはそういう家ですけど、貴方は違うでしょう? 何も義理立てすることないんですわ!」
「少し、落ち着いて」

 居間で斜め向かいの椅子にかけたステファンは、湯気の消えた紅茶のカップをとる。
 静かな動作だ。彼はディアナに伝える前に、腹を括ってしまったらしい。

「そう、貴女のお父様は、ご職業柄、随分色んなところへ赴任されましたね。貴女は気丈ですけど、本当は不安だったでしょうし、お寂しかったことでしょう」

 宥められて、子供のように感情に流されてはいけないと気付いた。熱してしまえば、対話の相手になれなくなる。
 ディアナも紅茶に口をつけた。冷えて渋くて、ソーサーに置きなおそうとしても指先が震えて、さざ波がたった。

「でも、僕は軍籍になるといっても、戦闘訓練すら受けませんよ。僕が兵士としてなんて、役に立つはずないでしょう?」

 冗談めかされても、ディアナは全く笑えなかった。

「帝国が北方共和国と戦争をしたのは、三十年近く前の話です。今は非戦闘地域です。僕は二年ほどあちらに勤めたことがありますが、駐留軍基地を中心に、帝国人が集まって住んでいる街区もあるんですよ。交易のために民間の方も多く滞在しているんです」

 野戦病院とは訳が違うのだと、彼は説明した。
 ディアナは、北国の情勢にそう明るくない。
 歴史地理で習った限りでは、大陸の北部に背骨のように伸びる山脈一体と、流氷の海に突き出す半島部分を国土とする、狼の顎のような形をした、東西に細長い国だ。
 豊富な鉱山資源が原因となって、過去、帝国と六年に渡り争っている。

「……危ないところでは、ありませんの?」
「ええ」

 彼は一応、そう答えた。




「日があまりないもので。ご実家へも、近々、ご報告に伺おうと思います」
「わかりましたわ」

 ディアナは覚悟を決めようとする。ここでの生活にやっと馴染んできたつもりだったが、仕方ない。どんな場所でも、ステファンと一緒なら、やっていける。

「準備が要りますわね。引越しの手配ですとか……」
「気にしなくていいですよ。荷物と言っても、たかが知れていますから、小分けにして送ります」
「だって、家具は」
「あちらでは全部揃った宿舎に入れるそうで、身一つで来いと言われていますよ。でも、そうですね……この家に一人も不用心ですから、貴女はご実家にお帰りいただいて、ここは貸家にでもしましょうか」
「え……」
「うん、その方がいいですね。ベルタさんにもお世話になりましたけど、契約解除をお話ししましょう」
「貴方、待ってください。私も参ります。戦場ではないのでしょう? 帝国人街があるような場所なのでしょう?」
「まさか」

 ディアナは、それはこちらの台詞だと思う。まさか、置いていくつもりなのか。
 しかし、ステファンは続けた。

「貴女を伴うつもりはありません」




 言葉も文化も違う、短い夏以外は雪が降る、気候の厳しい国だという。

「首都とはいっても、生活水準がこことは比べものになりませんよ。貴女にそんな不便を強いられません」
「構いませんわ!」
「ダメです。聞き分けて」

 強くごねても、ステファンは譲らなかった。手を変えて、訴えかけてみた。

「……貴方、平気なんですの……?」
「ご心配なく。僕は一人で大概のことはできます」

 そう言い放った夫が、憎らしかった。これまで、彼に寄り添おうと努力してきたのを、全て要らないことと片付けられたように感じた。

「貴方は、勝手ですわ。優しいふりして、大事なことは全部、一人で思い決めてしまって、私の気持ち、聞いてくれなくて……!」
「僕はいつでも、貴女のことを一番に考えていますよ」

 ディアナは悔しくなってきた。
 いつまでも、世間知らずのお嬢様扱いだ。
 彼はディアナを大切だと、かわいいと慈しんでくれるが、パートナーとして認めていない。

「でも、それは私の望みじゃないんです! 貴方のそういうところ、大っ嫌い!」

 ステファンの表情が、揺らいだ。

「……そう」

 お互いに、しばし言葉をなくした。
 先に、表向きだけでも平静を取り戻したのは夫の方だった。

「急な話で、驚かせましたね。……冷めないうちにお湯を使っていらっしゃい」
「……はい」

 ディアナは、紅茶のセットと、手付かずになってしまった林檎の皿を盆に乗せて下げた。




 湯上りに居間を見ても、ステファンはいなかった。寝室で掛布をかぶって丸くなっていた。
 ディアナは無言のまま、燭を消して、寝台の端に横になった。
 彼だって、あんな辞令を受けて動揺していないはずがない。支えてあげなくてはいけないのに、上手く話せなかった。

「……貴方」

 小声で呼ぶと、彼はまだ眠りに落ちていなかったらしい。腕が伸びてきた。ぎゅっと頭を胸に抱かれた。胸板というほど、頼り甲斐のある感触ではない。

「……あのね、僕、貴女が好きだから……嫌いって、言われると、辛いです」

 顔も見ずに、弱々しい声音で訴えてくる彼はずるい。さっきは変に強がって、突き放そうとしたくせに。
 ディアナは彼の身体を押して、抜け出す。彼の頭を捕まえ直した。長毛の猫のように柔らかな髪に指を潜らせ、丸い頭蓋を感じる。
 今度は逆に、彼の顔を、自身の胸に押し付けさせた。

「口が過ぎましたわ」

 彼は横を向いて息を継ごうとしている。でも、離さない。もぞもぞ動くのが、甘えられているように感じた。

「……ねえ、わかってくれるでしょう……?」
「話の続きは明日ですわ。今日は、おやすみなさいませ」
「うん……」

 腕の中の存在が、昼間の赤子に重なった。彼を責めてはいけない。
 守りたい。絶対に離れたくないし、できれば彼が今の職場にいられるように計らいたい。




 実家を頼れなくても、誰か力になってくれるものはないか。
 ディアナは、夜の闇の中で考えを巡らせはじめた。
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