20 / 30
20.すれ違う思い
しおりを挟む
その日、ステファンの帰りは少し遅かった。
「おかえりなさいませ!」
ディアナは焦れた気分を抑えて、彼の鞄を受け取る。
「ただいま。すみません、ベルク先生と話し込んでしまいました」
「いいんですわ。まだ夜は冷えますわね。お食事より、お湯を先に使われますか?」
「……うん、そうさせてもらいます」
ディアナは、彼をそのまま浴室に通して、鞄を書斎に入れた。夕食を温めなおした。
彼は疲労気味に見えた。
今日はやめておこうかと思ったが、ダイニングテーブルに飾った春告草に励まされた。
湯から上がれば、夫の顔もいくぶん血の気が戻ったようだった。
「お昼、ベルタの家を訪ねたんですの。お嬢さんと赤ちゃんに、会わせてもらいましたわ」
「そうですか。お加減はどうでしたか」
「起きて、赤ちゃんのお世話ができるくらいでしたわ。初めてでしたけど、安産でしたって」
「なによりです」
「ええ! 私、抱っこさせてもらったんです。ちいさくて、柔らかくて、とってもかわいくて……」
ステファンは黙ってパンを割る。ディアナは、はっと言葉を切る。
彼の表情が読めない。
私もやっぱり赤ちゃんが欲しくなった、という言葉は、ギリギリで飲み込んだ。
「……ねえ、おめでたいことですわよね。ベルタはもう、お婆ちゃまなんですわ」
「そうですね」
「ベルタの家は、賑やかなんですの。両方のお爺様お婆様がご健在で、みんなで初めての曾孫の取り合いですって。孫よりかわいいですって」
「お幸せなことですね」
当たり障りない、けれど淡々とした、他人事の言い方だ。
「ええ……」
彼は察しが悪いわけではないのだ。それがこの反応に留まるのは、駄目なのだろう。ディアナは、熱していた気持ちに冷水を浴びせられたようで、語り止めた。
食卓に沈黙が落ちた。
ディアナは春告草に目をやる。黄色い花粉が、白い花弁に微かについている。
実家の両親だって、兄弟だって、それに、ステファンの両親の知己だというロベールだって、ステファンとディアナに子ができれば、祝福してくれるはずだ。
なのに、なぜ、彼はこんなにも頑なだ。危険があるからと、ディアナの気持ちを無視して、それが愛だというのだろうか。
知らず険しい顔になっていた。
ステファンはそんな妻を見ていた。食卓を挟んだ向かいで口を開いた。
「ディアナ、食後に話したいことがあります」
ディアナが林檎を剥き、紅茶を淹れるうちに、ステファンは書斎に戻り、一通の封書をとってきた。
「辞令がありました。北方共和国の首都に駐留する、帝国軍付きの軍医です。着任は一月後」
ステファンが示したそれは、翼を広げた帝王鷲の意匠が枠を飾る。国の厚生省の長と、帝国軍の筆頭将軍、そして王立衛生研究所の所長の三者の署名が入っている。
今日付で、発効していた。
書面には、ステファンが軍籍になる旨も明記されている。そして、期限の定めがない。
父と兄が軍人であるディアナは理解する。
軍は徹底した縦割り組織で、行けと命じられれば拒否権などない。任期も無期限だ。
「異動はないなんて、嘘になってしまいましたね。すみません」
「……こんなの、おかしいですわ!貴方は、たくさん成果も出されているのに……!」
ステファンは若い頃は地方赴任が多かったというし、今でも実地の診療を担っているが、研究の適性の方が高い。
大陸一の隆盛を誇る中央帝国、その中でも最先端の知と技術が集う、王都の主要機関にいてこそ、彼は新しい治療法や薬剤の開発に、遺憾なく能力を発揮できるはずだ。それが軍に転籍の上、辺境国駐在など、まるで懲罰だ。
ステファンはゆるく首を横に振る。
「僕が奨学生なのは、以前お話ししたでしょう。厚生省長令を拒否すると、免状返納になるんです」
人の身体に手術刀を入れるのも、益にも害にもなる強い薬物を扱うのも、医師免状を持つから、許されている。
そして、彼に、人生を懸ける職を捨てる選択肢などない。
「……父に」
その言葉は、ディアナの口を、ほとんど無意識のままについた。
実家の父テオドール・リヒターは、今、四十半ばにして、陸軍少将まで登っている。ディアナは、この赴任令に署名している将軍に会ったこともある。リヒターの屋敷に訪ねてきて父と談笑していた。関係が悪い相手ではないはずだ。
親の権力を笠に着るなど、自身の無能を宣伝するに等しいと、ディアナは嫌ってきた。でも、なりふり構っていられるものか。
「父に頼めば、撤回してもらえますわ」
「絶対にやめてください」
ステファンはきっぱりと言った。
「子爵様は潔癖です。そういった真似がお嫌いなのは、娘の貴女が一番よく知っているでしょう」
「父はあれで、狡い手だって使います。貴方のことは買っていますもの。守ってくれるはず」
「身贔屓で娘婿の辞令を取り消させたなんて、今後に障ります。僕は恩ある貴女のご実家に泥を塗りたくありません」
「だって、私は嫌っ……!」
父はどこまで把握しているのだろう。承知の上なら打つ手がない。
ディアナの実家は、彼の枷になったのかもしれない。まさか、彼が、軍人一家であるリヒターに連なるものと見なされたからの人事なのか。そうなら、堪らない。
「軍なんて嫌! 出て行けばいつ帰ってくるかわからないし、それどころか死んでしまうかもしれないもの……! リヒターはそういう家ですけど、貴方は違うでしょう? 何も義理立てすることないんですわ!」
「少し、落ち着いて」
居間で斜め向かいの椅子にかけたステファンは、湯気の消えた紅茶のカップをとる。
静かな動作だ。彼はディアナに伝える前に、腹を括ってしまったらしい。
「そう、貴女のお父様は、ご職業柄、随分色んなところへ赴任されましたね。貴女は気丈ですけど、本当は不安だったでしょうし、お寂しかったことでしょう」
宥められて、子供のように感情に流されてはいけないと気付いた。熱してしまえば、対話の相手になれなくなる。
ディアナも紅茶に口をつけた。冷えて渋くて、ソーサーに置きなおそうとしても指先が震えて、さざ波がたった。
「でも、僕は軍籍になるといっても、戦闘訓練すら受けませんよ。僕が兵士としてなんて、役に立つはずないでしょう?」
冗談めかされても、ディアナは全く笑えなかった。
「帝国が北方共和国と戦争をしたのは、三十年近く前の話です。今は非戦闘地域です。僕は二年ほどあちらに勤めたことがありますが、駐留軍基地を中心に、帝国人が集まって住んでいる街区もあるんですよ。交易のために民間の方も多く滞在しているんです」
野戦病院とは訳が違うのだと、彼は説明した。
ディアナは、北国の情勢にそう明るくない。
歴史地理で習った限りでは、大陸の北部に背骨のように伸びる山脈一体と、流氷の海に突き出す半島部分を国土とする、狼の顎のような形をした、東西に細長い国だ。
豊富な鉱山資源が原因となって、過去、帝国と六年に渡り争っている。
「……危ないところでは、ありませんの?」
「ええ」
彼は一応、そう答えた。
「日があまりないもので。ご実家へも、近々、ご報告に伺おうと思います」
「わかりましたわ」
ディアナは覚悟を決めようとする。ここでの生活にやっと馴染んできたつもりだったが、仕方ない。どんな場所でも、ステファンと一緒なら、やっていける。
「準備が要りますわね。引越しの手配ですとか……」
「気にしなくていいですよ。荷物と言っても、たかが知れていますから、小分けにして送ります」
「だって、家具は」
「あちらでは全部揃った宿舎に入れるそうで、身一つで来いと言われていますよ。でも、そうですね……この家に一人も不用心ですから、貴女はご実家にお帰りいただいて、ここは貸家にでもしましょうか」
「え……」
「うん、その方がいいですね。ベルタさんにもお世話になりましたけど、契約解除をお話ししましょう」
「貴方、待ってください。私も参ります。戦場ではないのでしょう? 帝国人街があるような場所なのでしょう?」
「まさか」
ディアナは、それはこちらの台詞だと思う。まさか、置いていくつもりなのか。
しかし、ステファンは続けた。
「貴女を伴うつもりはありません」
言葉も文化も違う、短い夏以外は雪が降る、気候の厳しい国だという。
「首都とはいっても、生活水準がこことは比べものになりませんよ。貴女にそんな不便を強いられません」
「構いませんわ!」
「ダメです。聞き分けて」
強くごねても、ステファンは譲らなかった。手を変えて、訴えかけてみた。
「……貴方、平気なんですの……?」
「ご心配なく。僕は一人で大概のことはできます」
そう言い放った夫が、憎らしかった。これまで、彼に寄り添おうと努力してきたのを、全て要らないことと片付けられたように感じた。
「貴方は、勝手ですわ。優しいふりして、大事なことは全部、一人で思い決めてしまって、私の気持ち、聞いてくれなくて……!」
「僕はいつでも、貴女のことを一番に考えていますよ」
ディアナは悔しくなってきた。
いつまでも、世間知らずのお嬢様扱いだ。
彼はディアナを大切だと、かわいいと慈しんでくれるが、パートナーとして認めていない。
「でも、それは私の望みじゃないんです! 貴方のそういうところ、大っ嫌い!」
ステファンの表情が、揺らいだ。
「……そう」
お互いに、しばし言葉をなくした。
先に、表向きだけでも平静を取り戻したのは夫の方だった。
「急な話で、驚かせましたね。……冷めないうちにお湯を使っていらっしゃい」
「……はい」
ディアナは、紅茶のセットと、手付かずになってしまった林檎の皿を盆に乗せて下げた。
湯上りに居間を見ても、ステファンはいなかった。寝室で掛布をかぶって丸くなっていた。
ディアナは無言のまま、燭を消して、寝台の端に横になった。
彼だって、あんな辞令を受けて動揺していないはずがない。支えてあげなくてはいけないのに、上手く話せなかった。
「……貴方」
小声で呼ぶと、彼はまだ眠りに落ちていなかったらしい。腕が伸びてきた。ぎゅっと頭を胸に抱かれた。胸板というほど、頼り甲斐のある感触ではない。
「……あのね、僕、貴女が好きだから……嫌いって、言われると、辛いです」
顔も見ずに、弱々しい声音で訴えてくる彼はずるい。さっきは変に強がって、突き放そうとしたくせに。
ディアナは彼の身体を押して、抜け出す。彼の頭を捕まえ直した。長毛の猫のように柔らかな髪に指を潜らせ、丸い頭蓋を感じる。
今度は逆に、彼の顔を、自身の胸に押し付けさせた。
「口が過ぎましたわ」
彼は横を向いて息を継ごうとしている。でも、離さない。もぞもぞ動くのが、甘えられているように感じた。
「……ねえ、わかってくれるでしょう……?」
「話の続きは明日ですわ。今日は、おやすみなさいませ」
「うん……」
腕の中の存在が、昼間の赤子に重なった。彼を責めてはいけない。
守りたい。絶対に離れたくないし、できれば彼が今の職場にいられるように計らいたい。
実家を頼れなくても、誰か力になってくれるものはないか。
ディアナは、夜の闇の中で考えを巡らせはじめた。
「おかえりなさいませ!」
ディアナは焦れた気分を抑えて、彼の鞄を受け取る。
「ただいま。すみません、ベルク先生と話し込んでしまいました」
「いいんですわ。まだ夜は冷えますわね。お食事より、お湯を先に使われますか?」
「……うん、そうさせてもらいます」
ディアナは、彼をそのまま浴室に通して、鞄を書斎に入れた。夕食を温めなおした。
彼は疲労気味に見えた。
今日はやめておこうかと思ったが、ダイニングテーブルに飾った春告草に励まされた。
湯から上がれば、夫の顔もいくぶん血の気が戻ったようだった。
「お昼、ベルタの家を訪ねたんですの。お嬢さんと赤ちゃんに、会わせてもらいましたわ」
「そうですか。お加減はどうでしたか」
「起きて、赤ちゃんのお世話ができるくらいでしたわ。初めてでしたけど、安産でしたって」
「なによりです」
「ええ! 私、抱っこさせてもらったんです。ちいさくて、柔らかくて、とってもかわいくて……」
ステファンは黙ってパンを割る。ディアナは、はっと言葉を切る。
彼の表情が読めない。
私もやっぱり赤ちゃんが欲しくなった、という言葉は、ギリギリで飲み込んだ。
「……ねえ、おめでたいことですわよね。ベルタはもう、お婆ちゃまなんですわ」
「そうですね」
「ベルタの家は、賑やかなんですの。両方のお爺様お婆様がご健在で、みんなで初めての曾孫の取り合いですって。孫よりかわいいですって」
「お幸せなことですね」
当たり障りない、けれど淡々とした、他人事の言い方だ。
「ええ……」
彼は察しが悪いわけではないのだ。それがこの反応に留まるのは、駄目なのだろう。ディアナは、熱していた気持ちに冷水を浴びせられたようで、語り止めた。
食卓に沈黙が落ちた。
ディアナは春告草に目をやる。黄色い花粉が、白い花弁に微かについている。
実家の両親だって、兄弟だって、それに、ステファンの両親の知己だというロベールだって、ステファンとディアナに子ができれば、祝福してくれるはずだ。
なのに、なぜ、彼はこんなにも頑なだ。危険があるからと、ディアナの気持ちを無視して、それが愛だというのだろうか。
知らず険しい顔になっていた。
ステファンはそんな妻を見ていた。食卓を挟んだ向かいで口を開いた。
「ディアナ、食後に話したいことがあります」
ディアナが林檎を剥き、紅茶を淹れるうちに、ステファンは書斎に戻り、一通の封書をとってきた。
「辞令がありました。北方共和国の首都に駐留する、帝国軍付きの軍医です。着任は一月後」
ステファンが示したそれは、翼を広げた帝王鷲の意匠が枠を飾る。国の厚生省の長と、帝国軍の筆頭将軍、そして王立衛生研究所の所長の三者の署名が入っている。
今日付で、発効していた。
書面には、ステファンが軍籍になる旨も明記されている。そして、期限の定めがない。
父と兄が軍人であるディアナは理解する。
軍は徹底した縦割り組織で、行けと命じられれば拒否権などない。任期も無期限だ。
「異動はないなんて、嘘になってしまいましたね。すみません」
「……こんなの、おかしいですわ!貴方は、たくさん成果も出されているのに……!」
ステファンは若い頃は地方赴任が多かったというし、今でも実地の診療を担っているが、研究の適性の方が高い。
大陸一の隆盛を誇る中央帝国、その中でも最先端の知と技術が集う、王都の主要機関にいてこそ、彼は新しい治療法や薬剤の開発に、遺憾なく能力を発揮できるはずだ。それが軍に転籍の上、辺境国駐在など、まるで懲罰だ。
ステファンはゆるく首を横に振る。
「僕が奨学生なのは、以前お話ししたでしょう。厚生省長令を拒否すると、免状返納になるんです」
人の身体に手術刀を入れるのも、益にも害にもなる強い薬物を扱うのも、医師免状を持つから、許されている。
そして、彼に、人生を懸ける職を捨てる選択肢などない。
「……父に」
その言葉は、ディアナの口を、ほとんど無意識のままについた。
実家の父テオドール・リヒターは、今、四十半ばにして、陸軍少将まで登っている。ディアナは、この赴任令に署名している将軍に会ったこともある。リヒターの屋敷に訪ねてきて父と談笑していた。関係が悪い相手ではないはずだ。
親の権力を笠に着るなど、自身の無能を宣伝するに等しいと、ディアナは嫌ってきた。でも、なりふり構っていられるものか。
「父に頼めば、撤回してもらえますわ」
「絶対にやめてください」
ステファンはきっぱりと言った。
「子爵様は潔癖です。そういった真似がお嫌いなのは、娘の貴女が一番よく知っているでしょう」
「父はあれで、狡い手だって使います。貴方のことは買っていますもの。守ってくれるはず」
「身贔屓で娘婿の辞令を取り消させたなんて、今後に障ります。僕は恩ある貴女のご実家に泥を塗りたくありません」
「だって、私は嫌っ……!」
父はどこまで把握しているのだろう。承知の上なら打つ手がない。
ディアナの実家は、彼の枷になったのかもしれない。まさか、彼が、軍人一家であるリヒターに連なるものと見なされたからの人事なのか。そうなら、堪らない。
「軍なんて嫌! 出て行けばいつ帰ってくるかわからないし、それどころか死んでしまうかもしれないもの……! リヒターはそういう家ですけど、貴方は違うでしょう? 何も義理立てすることないんですわ!」
「少し、落ち着いて」
居間で斜め向かいの椅子にかけたステファンは、湯気の消えた紅茶のカップをとる。
静かな動作だ。彼はディアナに伝える前に、腹を括ってしまったらしい。
「そう、貴女のお父様は、ご職業柄、随分色んなところへ赴任されましたね。貴女は気丈ですけど、本当は不安だったでしょうし、お寂しかったことでしょう」
宥められて、子供のように感情に流されてはいけないと気付いた。熱してしまえば、対話の相手になれなくなる。
ディアナも紅茶に口をつけた。冷えて渋くて、ソーサーに置きなおそうとしても指先が震えて、さざ波がたった。
「でも、僕は軍籍になるといっても、戦闘訓練すら受けませんよ。僕が兵士としてなんて、役に立つはずないでしょう?」
冗談めかされても、ディアナは全く笑えなかった。
「帝国が北方共和国と戦争をしたのは、三十年近く前の話です。今は非戦闘地域です。僕は二年ほどあちらに勤めたことがありますが、駐留軍基地を中心に、帝国人が集まって住んでいる街区もあるんですよ。交易のために民間の方も多く滞在しているんです」
野戦病院とは訳が違うのだと、彼は説明した。
ディアナは、北国の情勢にそう明るくない。
歴史地理で習った限りでは、大陸の北部に背骨のように伸びる山脈一体と、流氷の海に突き出す半島部分を国土とする、狼の顎のような形をした、東西に細長い国だ。
豊富な鉱山資源が原因となって、過去、帝国と六年に渡り争っている。
「……危ないところでは、ありませんの?」
「ええ」
彼は一応、そう答えた。
「日があまりないもので。ご実家へも、近々、ご報告に伺おうと思います」
「わかりましたわ」
ディアナは覚悟を決めようとする。ここでの生活にやっと馴染んできたつもりだったが、仕方ない。どんな場所でも、ステファンと一緒なら、やっていける。
「準備が要りますわね。引越しの手配ですとか……」
「気にしなくていいですよ。荷物と言っても、たかが知れていますから、小分けにして送ります」
「だって、家具は」
「あちらでは全部揃った宿舎に入れるそうで、身一つで来いと言われていますよ。でも、そうですね……この家に一人も不用心ですから、貴女はご実家にお帰りいただいて、ここは貸家にでもしましょうか」
「え……」
「うん、その方がいいですね。ベルタさんにもお世話になりましたけど、契約解除をお話ししましょう」
「貴方、待ってください。私も参ります。戦場ではないのでしょう? 帝国人街があるような場所なのでしょう?」
「まさか」
ディアナは、それはこちらの台詞だと思う。まさか、置いていくつもりなのか。
しかし、ステファンは続けた。
「貴女を伴うつもりはありません」
言葉も文化も違う、短い夏以外は雪が降る、気候の厳しい国だという。
「首都とはいっても、生活水準がこことは比べものになりませんよ。貴女にそんな不便を強いられません」
「構いませんわ!」
「ダメです。聞き分けて」
強くごねても、ステファンは譲らなかった。手を変えて、訴えかけてみた。
「……貴方、平気なんですの……?」
「ご心配なく。僕は一人で大概のことはできます」
そう言い放った夫が、憎らしかった。これまで、彼に寄り添おうと努力してきたのを、全て要らないことと片付けられたように感じた。
「貴方は、勝手ですわ。優しいふりして、大事なことは全部、一人で思い決めてしまって、私の気持ち、聞いてくれなくて……!」
「僕はいつでも、貴女のことを一番に考えていますよ」
ディアナは悔しくなってきた。
いつまでも、世間知らずのお嬢様扱いだ。
彼はディアナを大切だと、かわいいと慈しんでくれるが、パートナーとして認めていない。
「でも、それは私の望みじゃないんです! 貴方のそういうところ、大っ嫌い!」
ステファンの表情が、揺らいだ。
「……そう」
お互いに、しばし言葉をなくした。
先に、表向きだけでも平静を取り戻したのは夫の方だった。
「急な話で、驚かせましたね。……冷めないうちにお湯を使っていらっしゃい」
「……はい」
ディアナは、紅茶のセットと、手付かずになってしまった林檎の皿を盆に乗せて下げた。
湯上りに居間を見ても、ステファンはいなかった。寝室で掛布をかぶって丸くなっていた。
ディアナは無言のまま、燭を消して、寝台の端に横になった。
彼だって、あんな辞令を受けて動揺していないはずがない。支えてあげなくてはいけないのに、上手く話せなかった。
「……貴方」
小声で呼ぶと、彼はまだ眠りに落ちていなかったらしい。腕が伸びてきた。ぎゅっと頭を胸に抱かれた。胸板というほど、頼り甲斐のある感触ではない。
「……あのね、僕、貴女が好きだから……嫌いって、言われると、辛いです」
顔も見ずに、弱々しい声音で訴えてくる彼はずるい。さっきは変に強がって、突き放そうとしたくせに。
ディアナは彼の身体を押して、抜け出す。彼の頭を捕まえ直した。長毛の猫のように柔らかな髪に指を潜らせ、丸い頭蓋を感じる。
今度は逆に、彼の顔を、自身の胸に押し付けさせた。
「口が過ぎましたわ」
彼は横を向いて息を継ごうとしている。でも、離さない。もぞもぞ動くのが、甘えられているように感じた。
「……ねえ、わかってくれるでしょう……?」
「話の続きは明日ですわ。今日は、おやすみなさいませ」
「うん……」
腕の中の存在が、昼間の赤子に重なった。彼を責めてはいけない。
守りたい。絶対に離れたくないし、できれば彼が今の職場にいられるように計らいたい。
実家を頼れなくても、誰か力になってくれるものはないか。
ディアナは、夜の闇の中で考えを巡らせはじめた。
0
お気に入りに追加
131
あなたにおすすめの小説


明智さんちの旦那さんたちR
明智 颯茄
恋愛
あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。
奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。
ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。
*BL描写あり
毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる