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14.夫の誕生日
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身を切るような風が、郊外の茫漠とした墓地を渡っていく。
正午すぎだが、一面に薄く張った雲が、弱い冬陽をさらに和らげている。
黒のワンピースに短いベールの帽子のディアナは、同じく黒服にタイを締めた夫ステファンについていく。
二人とも、白百合の花束を抱いていた。ステファンはふた束、ディアナはひと束。真珠を練りこんでいるかのようにしっとりとした光を含んだ花弁が、風に震えている。
彼は何の変化もないような墓碑群の間を迷いなく進み、足を止めた。
質素なプレート型の同じ墓碑が、二つ並んでいる。
左の碑銘は「リシャルド・ロレンツ」。没は十五年前の夏。
右の碑銘は「アメリア・ロレンツ」。没は三十七年前の冬の終わり、今日と同じ日付だった。
静かだった。
花束を一つずつ置き、黙祷した。
言葉のない夫に習って、ディアナは心の中でだけ、呟いた。
――はじめまして、お義父様、お義母様。
別区画の彼の祖母の墓にも立ち寄り、残り一つの花束を供えた。
短い墓参の帰り道、彼がぽつりと言った。
「こんなところまで付き合わせて、すみません」
「何をおっしゃるんですの。私にとっても、大切な方々ですわ」
「……ありがとうございます」
故人を悼む今日ならばと、ディアナは尋ねる。
「どんな方でしたの?」
「さあ……」
彼はしばし、言い淀んだ。
「父は市街の福祉課の役人でしたよ。仕事熱心で忙しくて、口数も多くありませんでしたから、母の思い出話も聞いたことがなくて」
「……そうですの」
「ああ、でも、母を愛していたとは思います。後添えの方は迎えませんでしたし、墓地も、隣を空けておいてほしいと頼んでいたそうです。僕は王都を離れていた時期で、父を看取りもしなかったですけど、願い通り母の横で休ませてあげられたことだけは良かったと思っています」
振り向きもせず、淡々と語る。
「……僕は薄情でね、父を弔って、ほっとしたんです。ようやく母に会えたはずだと思って。僕も、やっと赦されるような気がして」
まるで懺悔だった。
ディアナは後ろから、彼の左腕と身体の間に、自身の右腕を通した。手指を絡めた。
彼は、父親を送ってから、ずっと一人でここに通ったのだろうと思うと哀しかった。
彼が並んだディアナを見る。薄く戸惑いが浮かんでいる。
「暗いことを言ってしまいましたね。でも、全部、昔……終わった話ですから、気にしないでください」
そんなふうには思えなかった。彼の心中は未だに陰が差して、冷え冷えとしているようだ。
今は自分がいると、伝えたかった。彼を理解したいと願って共にいると。
言葉にするかわりに、彼の腕に身体を押し付けた。今、二人、確かに生きて寄り添っているのだと、感じてほしかった。
ディアナは、普段通りの夕餉を用意した。
書斎に呼びに行くと、ステファンは書棚の中段の引き出しから、小判の姿絵を取り出して見せてくれた。
「父と母です」
婚礼の記念の絵だった。
花婿は糸目に下がり眉で、地味だが優しい顔立ちだ。口をひき結んで、いくぶん、緊張している。片手に手袋をもって、もう片手を椅子の背に添えている。
椅子にかける花嫁は、ふわふわと溶けだしそうにけぶる金髪に、目は深い藍色だ。丸顔に、黒目がちのつぶらな瞳が幼く愛らしい。白いブーケを膝に置いて、微笑んでいる。
「素敵ですわ。貴方、お顔はお義父様で、お髪と瞳の色はお義母様譲りですのね」
「父に似ているとはよく言われましたけど……そうですね」
彼は傍の妻の存在に励まされて、改めてつくづくと両親の姿を確かめた。
父の遺品の中から出てきたとき、一瞥して動悸がした。絵の中の若い夫妻が幸せそうなほどに、苦しかった。
父の棺を再び開けてもらって、収めようかとまで考えたが、できずに手元に持っていた。まだ少女らしさの残るその姿が、彼が知る唯一の母だった。
ステファンは、今日で三十七だ。しかし、子供の頃からそういった習慣はないから、何も特別なことはしないでほしいとディアナは言われていた。
それでも、彼女は食後の紅茶を嗜むときに、金色のリボンをかけた細長い包みを差し出した。
「貴方のお気持ちを逆撫でしたいのではありませんの。ただ、私は、貴方がこの世にいてくださって嬉しいんです。どうか、受け取ってくださいませ」
贈り物は万年筆だ。軸は飴色で、キャップに金で彼のイニシャルが入っている。
「……ありがとうございます。悩ませてしまって、すみません。とても、嬉しいです」
ステファンの顔が綻んだのを見て、ディアナは安堵した。
彼は手に取った万年筆を見つめて言った。
「あのね、僕は、誕生日に、教科書以外をもらったのは初めてです」
「貴方……来年も、再来年も、そのさきもずーっと、そばにいさせてくださいね。お祝いさせてください」
「うん……」
その夜は交わらなかった。ディアナはいつもとは逆に、彼を包むように抱いた。
「ディアナ、ありがとう。僕は自分の誕生日が嫌いでした。子供の頃、お祝いされたいなんて、わがままだと思って、言えなかったくせに。毎年、父に会うたびに期待して……夜は、胸がきりきりしました。でも、今日はすごく気持ちが穏やかです」
ポロポロと溢れてくる彼の言葉を、ディアナは受け止める。柔らかで細い金の髪をゆっくりと梳く。
彼は泣き疲れた子供のようだった。できることなら、過去に舞い戻って、幼い一人ぼっちの彼にそうしてやりたかった。
――晩御飯には何が食べたい?
――ケーキはどんなのがいい?
――どんな遊びが好き? どんな玩具が欲しい?
全部聞いて、叶えてあげたい。貴方が生まれた特別な日だからと、たくさん甘やかしてあげたい。貴方は未来に出会う私の、大切な人なのだと伝えたい。
「愛していますわ、貴方……」
彼が眠りに落ちても、ディアナはしばらく、手を止めなかった。
彼は普段、あまり語らない。
しかし、ディアナは知っている。
彼はひどく憔悴し、休日をとって一日、眠り続けることがある。枕元には眠剤がある。いくら腕のいい医師でも、神ならぬ身で、全てを救えるはずがないのだ。
彼はディアナに避妊薬を飲ませ続ける。錠剤の減り具合を、数えて確認までする。ディアナが服薬を拒否しようものなら、彼はきっと、ディアナに触れなくなるだろう。
今の彼は、僅かでも妻を喪う可能性のある行為を厭う。
ディアナは、彼の嗜虐が、あくまでディアナの望みを汲んでいるのに、気づきはじめている。周到に責め立ててくるが、ディアナを真に傷つけることはしない。
終わった後は身繕いをしてくれ、高揚した身体を落ち着かせるように、抱いていてくれる。
彼が本当に望むのは、静かに愛し合うことなのかもしれないと思う。何の技巧も趣向もなくとも、互いの存在があるだけで、満たされるような行為。
「優しくて、臆病な方」
一人で生きてきた彼は、ディアナを過剰なまでに気遣うくせに、自分は痛みも望みも隠そうとする。けれど今日、ほんの一端、垣間見せてくれた。
最後に彼の下がり眉をひと撫でした。
「おやすみなさいませ。お誕生日、おめでとうございます」
彼の温かな額に頬を乗せて、ディアナも目を閉じた。
正午すぎだが、一面に薄く張った雲が、弱い冬陽をさらに和らげている。
黒のワンピースに短いベールの帽子のディアナは、同じく黒服にタイを締めた夫ステファンについていく。
二人とも、白百合の花束を抱いていた。ステファンはふた束、ディアナはひと束。真珠を練りこんでいるかのようにしっとりとした光を含んだ花弁が、風に震えている。
彼は何の変化もないような墓碑群の間を迷いなく進み、足を止めた。
質素なプレート型の同じ墓碑が、二つ並んでいる。
左の碑銘は「リシャルド・ロレンツ」。没は十五年前の夏。
右の碑銘は「アメリア・ロレンツ」。没は三十七年前の冬の終わり、今日と同じ日付だった。
静かだった。
花束を一つずつ置き、黙祷した。
言葉のない夫に習って、ディアナは心の中でだけ、呟いた。
――はじめまして、お義父様、お義母様。
別区画の彼の祖母の墓にも立ち寄り、残り一つの花束を供えた。
短い墓参の帰り道、彼がぽつりと言った。
「こんなところまで付き合わせて、すみません」
「何をおっしゃるんですの。私にとっても、大切な方々ですわ」
「……ありがとうございます」
故人を悼む今日ならばと、ディアナは尋ねる。
「どんな方でしたの?」
「さあ……」
彼はしばし、言い淀んだ。
「父は市街の福祉課の役人でしたよ。仕事熱心で忙しくて、口数も多くありませんでしたから、母の思い出話も聞いたことがなくて」
「……そうですの」
「ああ、でも、母を愛していたとは思います。後添えの方は迎えませんでしたし、墓地も、隣を空けておいてほしいと頼んでいたそうです。僕は王都を離れていた時期で、父を看取りもしなかったですけど、願い通り母の横で休ませてあげられたことだけは良かったと思っています」
振り向きもせず、淡々と語る。
「……僕は薄情でね、父を弔って、ほっとしたんです。ようやく母に会えたはずだと思って。僕も、やっと赦されるような気がして」
まるで懺悔だった。
ディアナは後ろから、彼の左腕と身体の間に、自身の右腕を通した。手指を絡めた。
彼は、父親を送ってから、ずっと一人でここに通ったのだろうと思うと哀しかった。
彼が並んだディアナを見る。薄く戸惑いが浮かんでいる。
「暗いことを言ってしまいましたね。でも、全部、昔……終わった話ですから、気にしないでください」
そんなふうには思えなかった。彼の心中は未だに陰が差して、冷え冷えとしているようだ。
今は自分がいると、伝えたかった。彼を理解したいと願って共にいると。
言葉にするかわりに、彼の腕に身体を押し付けた。今、二人、確かに生きて寄り添っているのだと、感じてほしかった。
ディアナは、普段通りの夕餉を用意した。
書斎に呼びに行くと、ステファンは書棚の中段の引き出しから、小判の姿絵を取り出して見せてくれた。
「父と母です」
婚礼の記念の絵だった。
花婿は糸目に下がり眉で、地味だが優しい顔立ちだ。口をひき結んで、いくぶん、緊張している。片手に手袋をもって、もう片手を椅子の背に添えている。
椅子にかける花嫁は、ふわふわと溶けだしそうにけぶる金髪に、目は深い藍色だ。丸顔に、黒目がちのつぶらな瞳が幼く愛らしい。白いブーケを膝に置いて、微笑んでいる。
「素敵ですわ。貴方、お顔はお義父様で、お髪と瞳の色はお義母様譲りですのね」
「父に似ているとはよく言われましたけど……そうですね」
彼は傍の妻の存在に励まされて、改めてつくづくと両親の姿を確かめた。
父の遺品の中から出てきたとき、一瞥して動悸がした。絵の中の若い夫妻が幸せそうなほどに、苦しかった。
父の棺を再び開けてもらって、収めようかとまで考えたが、できずに手元に持っていた。まだ少女らしさの残るその姿が、彼が知る唯一の母だった。
ステファンは、今日で三十七だ。しかし、子供の頃からそういった習慣はないから、何も特別なことはしないでほしいとディアナは言われていた。
それでも、彼女は食後の紅茶を嗜むときに、金色のリボンをかけた細長い包みを差し出した。
「貴方のお気持ちを逆撫でしたいのではありませんの。ただ、私は、貴方がこの世にいてくださって嬉しいんです。どうか、受け取ってくださいませ」
贈り物は万年筆だ。軸は飴色で、キャップに金で彼のイニシャルが入っている。
「……ありがとうございます。悩ませてしまって、すみません。とても、嬉しいです」
ステファンの顔が綻んだのを見て、ディアナは安堵した。
彼は手に取った万年筆を見つめて言った。
「あのね、僕は、誕生日に、教科書以外をもらったのは初めてです」
「貴方……来年も、再来年も、そのさきもずーっと、そばにいさせてくださいね。お祝いさせてください」
「うん……」
その夜は交わらなかった。ディアナはいつもとは逆に、彼を包むように抱いた。
「ディアナ、ありがとう。僕は自分の誕生日が嫌いでした。子供の頃、お祝いされたいなんて、わがままだと思って、言えなかったくせに。毎年、父に会うたびに期待して……夜は、胸がきりきりしました。でも、今日はすごく気持ちが穏やかです」
ポロポロと溢れてくる彼の言葉を、ディアナは受け止める。柔らかで細い金の髪をゆっくりと梳く。
彼は泣き疲れた子供のようだった。できることなら、過去に舞い戻って、幼い一人ぼっちの彼にそうしてやりたかった。
――晩御飯には何が食べたい?
――ケーキはどんなのがいい?
――どんな遊びが好き? どんな玩具が欲しい?
全部聞いて、叶えてあげたい。貴方が生まれた特別な日だからと、たくさん甘やかしてあげたい。貴方は未来に出会う私の、大切な人なのだと伝えたい。
「愛していますわ、貴方……」
彼が眠りに落ちても、ディアナはしばらく、手を止めなかった。
彼は普段、あまり語らない。
しかし、ディアナは知っている。
彼はひどく憔悴し、休日をとって一日、眠り続けることがある。枕元には眠剤がある。いくら腕のいい医師でも、神ならぬ身で、全てを救えるはずがないのだ。
彼はディアナに避妊薬を飲ませ続ける。錠剤の減り具合を、数えて確認までする。ディアナが服薬を拒否しようものなら、彼はきっと、ディアナに触れなくなるだろう。
今の彼は、僅かでも妻を喪う可能性のある行為を厭う。
ディアナは、彼の嗜虐が、あくまでディアナの望みを汲んでいるのに、気づきはじめている。周到に責め立ててくるが、ディアナを真に傷つけることはしない。
終わった後は身繕いをしてくれ、高揚した身体を落ち着かせるように、抱いていてくれる。
彼が本当に望むのは、静かに愛し合うことなのかもしれないと思う。何の技巧も趣向もなくとも、互いの存在があるだけで、満たされるような行為。
「優しくて、臆病な方」
一人で生きてきた彼は、ディアナを過剰なまでに気遣うくせに、自分は痛みも望みも隠そうとする。けれど今日、ほんの一端、垣間見せてくれた。
最後に彼の下がり眉をひと撫でした。
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