ロレンツ夫妻の夜の秘密

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10.妻の誕生日

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 ディアナは浮き立つような心地で、居間の長椅子にかけている。
 真紅の薔薇のブーケに顔を寄せる。
 芳香の中で目を閉じれば、透き通る淡い金色のシャンパンが注がれたグラスの底から、一筋繊細な泡がのぼるのが、ありありと思い出された。

 そのブーケは、今日少し早めに帰ってきた夫のステファンが贈ってくれた。
 この寒い季節にと驚いたが、温暖な国から輸入された見事な大輪は、彼女の年の数の二十一本あった。
 手配された馬車でのエスコート先は、大型ホテルの上階のレストランだった。
 食前酒のグラスを合わせた彼が、「お誕生日おめでとうございます」と寿いで、二人だけの祝いの夕餐が始まった。

 前菜には、北国産の貝が生で供された。今が旬だという乳白色の身は、ふっくらと大粒だ。辛口の白ワインと含めば、官能的な滑らかさで喉を通った。
 ディアナの母の実家は、南方諸国と繋がりが深い商家のラインハルト家だ。彼女はその温暖な諸島国家に何度か旅行しており、帝国料理にはない鮮魚や貝、甲殻類といった食材にも馴染みがある。
 ステファンは覚えていて、コースを選んでくれたらしい。

「口に合うといいんですが」
「北国のものをいただくのは初めてですけど、とても美味しいですわ。国内で、こんなにきれいな海の幸をいただけるなんて思いませんでした」
「最近は物流がよくなりましたね。気温の低い季節だけですが、北からは冷やしたまま運べるそうですよ」
「よくご存知ですのね。こちらのお店には、前もいらっしゃったんですの?」
「いえ、僕も初めてです。ベルク先生を覚えていらっしゃいますか。彼が奥様と来て、とてもよかったと勧めてくれたものですから」

 熊のように大柄な、白衣の似合わない医官を思い出した。ステファンを職場に訪ねた時、期せずして嘘を暴いてしまった彼だ。

「わかりますわ。貴方、あの方と親しくされているんですのね」
「さあ、そういえば、もう二十年くらい前から知っていますね。医科学校の同窓なんです」
「……なんだか妬けますわ。私の年と同じくらいのお付き合いなんて」
「冗談でしょう。彼も聞いたら笑いますよ」
「だって、十代の貴方を知っているんですもの。貴方って、どんな子供だったんですの」
「今とそう変わりませんよ。なんということもない、目立たない子供だったと思います」

 ステファンはさらりと片付けて、窓の外を見やった。

「……暮れてきましたね」

 藍色の冬の街に散る灯火は、空の星より暖かな光を放っている。

「ええ」
「ディアナ、今夜は一段と綺麗ですね。そのドレス、よく似合います」

 ディアナは、シンプルなラインながら、光沢のある深藍の夜会服を纏っている。耳と胸元には真珠をつけていた。

「ありがとうございます」

 ドレスは彼の瞳の色に合わせ、装身具は彼が執着する涙になぞらえた。どこまで気づいてもらえたかはわからなかったが、褒められて嬉しかった。

 北国の海鮮は、南国とは趣が違った。仄暗く繊細な味がした。
 ディアナの見知らぬものも多かった。黒曜石のような輝きを持つ粒を、ウエイターが鮫の卵だと説明した。

「少し塩が強いですよ」

 ステファンが教えてくれた。彼は生の貝も躊躇うことなく口にしていた。ディアナは不思議になって、訊いてみた。

「貴方は北国料理に馴染んでいらっしゃいますのね」
「二年ほど、あちらにいたんですよ」

 初耳だった。

「いつ?  どうしてですの?」
「ちょうど今の貴女くらいの年に。学校を出てから、二十代も半ば頃まで、あちこちに赴任していたんです。国外は北方共和国だけですが、郊外の農村地域や、西域自治区との国境近くにいたときもありますね」
「西域なんて、あまり治安のいい場所ではないでしょう?」

 中央帝国と西域自治区は長年小競り合いが続いている。軍人であるディアナの父は、国境に駐屯していた時期もあった。

「……そう、だからこそ医師が要ります」
「これからも、遠くに赴任なさるかもしれませんの?」

 ステファンは妻を宥めるように答えた。

「若手の修行みたいなものですから、医官ではあまり聞きません。僕も三十近くなってからは王都に戻されました。心配しないでいいですよ。それより、今日は貴女のお誕生日でしょう。僕は貴女の話が聞きたいです」

 ステファンはいつも、ディアナや家族のほんの些細なエピソードを、退屈する様子もなく聞いてくれる。
 彼は身内の縁が薄い。もとから兄弟はおらず、両親も既に亡い。幼い頃から寄宿舎で育っていた。
 だから、義家族の睦まじい様子を知るのは楽しいのだそうだ。
 しかし、彼は身分差のせいもあるのか、ディアナを妻にした後も、リヒターの父母に面と向かっては子爵様、奥様と言う。リヒター家側でも、彼は未だに「先生」だ。本当は義理の息子や兄弟として名を呼ばれる方が、彼は喜ぶのだろうか。
 ディアナ自身、結婚したのち彼にどう呼んでいいか迷った。「ステファン様」と口にしたとき、様付けは許してくれと頼まれた。ならば「お嬢様」はいわずもがな、「ディアナ様」もやめてほしいと切り返して了承させた。「ディアナ」と躊躇いがちながらはじめて呼んでもらったとき、彼女は大いに満足した。
 とはいえ、ディアナの方は相当に年上の彼を呼び捨てられず、結局「貴方」に落ち着いていた。いくぶん甘えを含んでそう呼んでみたとき、彼は満更でもない顔をしたのだ。

 メインの白身魚のポワレに続いて、蟹の甲羅を容れ物に使ったグラタンが出てきた。
 店の奥にはグランドピアノが据えられ、ピア二ストが夜想曲を奏でている。
 食事に合わせてワインが進み、ディアナは少し酔い始める。
 会話に支障があるほどではないのだが、向かいの彼のふとした仕草が、一枚絵のように眼裏に焼きつく。
 茹で蟹の赤い爪を専用の金具で割る。
 グラスの細い脚を取る。
 彼の手指は長くて、関節がはっきりして、きれいだと思った。

 ディアナは、男性と二人きり、レストランで食事をとるのは初めてだった。実家での祝い事の宴とも、夜会とも違う。
 平民階級の男女はこういった逢引をすると本で読んでいたが、体験してみると、想像以上の親密な空気そのものに、酔いが深まっていった。
 コースの終わり頃には支配人が挨拶にやってきた。和やかに応対するステファンの横で、「ロレンツ夫人」として遇されるのが心地よかった。
 食後の柑橘のシャーベットを口にするころには、ディアナは、彼の手が深緑のタイを緩めるのを想像しはじめていた。

 ステファンは、帰宅して今にも長椅子に身体をのべてしまいそうな妻に、水を勧める。

「少し飲ませすぎてしまいましたか」
「大丈夫ですわ。とってもいい気持ち……」

 ディアナは、ブーケを膝に置き、グラスを受け取った。

「父はたくさん飲んでも、酔わないんですの。でも、母は弱くて、グラス半分で眠ってしまうくらい。私、ここだけ少し、母に似たんです」
「そうですね」

 頬に添えられたステファンの掌を冷たく感じるのは、ディアナが上気しているせいなのだろう。同じペースで飲んだのに、彼の顔色はあまり変わらない。
 ステファンは一般的に美男とは言い難いのだろうが、ディアナは彼の顔が嫌いではない。それどころか、日に日に好ましく思うようになってきている。下がり気味の眉と眠っているような目元は優しげで、小作りな鼻や口元、髭の薄いつるりとした顎は少年のようだ。
 それが、夜の帳の中で陰を帯び、深藍の瞳を情欲に光らせてディアナを責め立てる落差も、たまらない。

 物欲しげな視線に気づいたのか、彼は微かに笑んで、口付けをくれた。もっと深くと願ったが、彼はすぐ顔を離した。

「今日は先にお湯を使ってくださいね」
「……はい」

 続いて身体を流す彼を待つ間に、ディアナはブーケを解いて寝室の花瓶に活けた。
 一輪抜き出して、とうとう寝台に横になりながら、天鵞絨のような花弁の重なりに鼻を埋めていると、彼はやってきた。

「ご機嫌ですね。……もう、休みましょうか」

 わかっているくせに、とディアナは彼を軽く睨む。

「嫌ですわ」
「眠そうですよ」
「まだ誕生日、終わっていませんもの」

 ディアナは起き上がると、サイドテーブルの引き出しから、赤い首輪を持ち出した。

「だって、お祝いってくださったでしょう?」
「……ええ、そうですね」

 そして、ステファンの手で、ディアナの首に金の錠がかけられた。
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